第37話

「なんか聞こえます」

扉から耳を離し、ゆゆねは言った。


ここは広間から先。

通路を、小部屋を、雑兵を越えて、辿り着いた。


道の終わりに、一枚の扉。

空気は淀み、湿度は壁を濡らす。

ダンジョンの深く来た。

直感で、ゆゆねは最奥だと思った。


「どれ」ガジュマルが代わり、扉に張り付く。


目を細め、どこか鋭くしてから、ガジュマルは振り返った。


「聞こえる。独り言だろう」

「はい。ぶつぶつって。アンデッドは喋らないですよね」

「滅多にはな。これはヤシャ……ミティアの言葉だろう」

「ミティア」


ミティア。どこかで聞いたような。ゆゆねは二人を交互に見る。


ヤシャが唸った。

「そう。悲しいわね。逃げて落ち延び、果ては死人の王さまごっことは」

「あの、ミティアって確か」

「ええ。そうよ」


返答には明確な怒気があった。

ゆゆねはヤシャが初めて、怒っているのを感じた。


「私たちの言葉よ」


扉が弾かれる。

ヤシャが蹴り開けたのだ。

彼女はそのままつかつかと、中に入っていく。


「なな」


ゆゆねは驚く。

この黒いお姫さまはいつだって冷静だったのに。


「いくぞ」


戸惑うゆゆねを、ガジュマルが引っ張る。

三人は部屋に入った。


――――――――――――


「リューエーネースールー」

朗誦のような、低いうなり。


その声の主は部屋の中央にいた。

テーブルの後ろで、その上にある物体に手を突っ込んでいる。


「うっ」


最後尾のゆゆねは足を止める。

声の主が手を刺していたのは死体だった。

死体は仰向けで、腹を開かれ、臓腑を外に晒していた。

健在なのは顔だけだった。それでゆゆねは死体が猫人のものなのだと判別できた。


「やめなさい」ヤシャが言った。それは冷たく怖く、しかし気品があった。「エーデリー」


ゆゆねが聞き取れなった二言目に反応し、声の主は顔をあげた。


「……あっ」


黒い肌。金に近い白の髪。

間違いない、声の主はダークエルフだった。

ダークエルフの老人。


ぎょろりと、老人の目玉がそれぞれ意思を持つかのように動く。

ヤシャに驚き、ガジュマルを睨む。


「これは。なんだ」老人がうめく。「なぜ、ミティアが。なぜ、野良猫が。共にいる」


腑分けをする老人の手があらわになる。手には黒い、なにかの臓器が握られていた。


「青の目。赤土のなまり。しかし銀髪。モモゴルの貴族の出ね」ヤシャは言った。


老人はたっぷりと黙り、口を潤すためか、握った臓器をかじった。

ゆゆねは目を反らしたが、ヤシャはまばたきもしなかった。


「そう。人喰いに手を出すとは。意味のある交霊なら、見逃すつもりだったんだけど」

「人喰い?」老人がやっと応じた。「野良猫が人なものか。恩義を忘れ、忠義を忘れ。主に刃向かった」

そうだそうだ、と彼はうなる。「獣よ、家畜よ、奴隷にさえ劣る」


老人の腕が魔力を帯びる。

するとテーブルの上の死体が震えはじめた。


「苦しめ、もがけ、思い知れ。このこのこの!」


痙攣。

悲鳴はないが、猫人の死体は痛みに暴れているかのようだった。


「い、生きてるの」ゆゆねは口を抑える。

「落ち着いて、死んでるわ」ヤシャがそっと言った。


彼女は一歩出る。

「楽しい? 人形をいじめて。死体を集めて。それで、なにかか満たされるの?」


ああ、と老人は吐いた。

「兵をつくる。軍をつくる。取り戻すのだ。栄光を、国家を」

つばが散る。涙さえまじっていた。

「殺し殺す。あの猫どもを地上から。ミティアの大地から」


老人は血で濡れた手を、ヤシャに差し出す。

「お主もわかるはずだ。高貴の出とみる。なら共に、悲願を成そう」


「悪いけれど」

ヤシャは杖を真っすぐと老人に向けた。

「お姫さまはもうやめたの」


黒い閃光。

ヤシャの杖から影の槍が伸び、老人の胴を貫いた。

太い槍だ。

心臓が、肺が、胃が、あるべき場所を破壊した。


槍が霧散する。

支えを失った老人はテーブルの裏に崩れた。


「やった」


ゆゆねは安堵した。

不気味な男だったが、ともかく不意の一撃で倒した。


「これがネクロマンサーってやつですか」ゆゆねはヤシャに訊いた。「なら今回の依頼の原因は……」

「聖水」ガジュマルが吠えた。「半分は自分にかけろ、半分は得物に」

えっと、ゆゆねが停止する。

だって敵は。


ガジュマルが抜刀と同時に、空を斬る。

ただの空振りに思えたそれは、よく見ると湯気のようなものを両断していた。


「キィィィィィィィ!」


空間が鳴く。

脳に直接響くような悲鳴。

ゆゆねは混乱したが、ガジュマルに言われた指示を忘れなかった。


聖水だ。

初歩にして万能。

だから一番取り出しやすい場所にしまっておいた。

やっと出番だ。


口で栓を抜き、まず頭にかぶる。

十分濡れてから、残りをショートソードにかけた。


「幽鬼、5体。もっとくる」ガジュマルが言った。たぶん、ゆゆねのために。

「幽鬼?」

「ゴーストだ。お化け、幽霊。実態なきアンデッド」


気付けば寒い。

この寒さは気温だけではない。

怖気というものだ。

魂が、なにかに怯えている。


「ヒュウゥゥゥ!!!」


湯気が壁から現れ、ゆゆねに体当たりした。

もわん。ひんやり。

湯気は後ろにぬけ、また壁に消えた。


ダメージはない。そうゆゆねは思った。

だって湯気だ。斬ったり殴ったりなんか。


「うっ」吐き気。ダメだ、と思う間もなく、ゆゆねは嘔吐した。


下を向く、よだれと涙が顔からしたたった。

悲しい。怖い。寂しい。恥ずかしい。

負の感情が溢れてくる。


そうだ、死のう。

ゆゆねは聖水で濡れた剣を、ふるえながら自分の喉元に。


「しゃんとしろ!」ガジュマルがぐっと、その手を掴んだ。

半ば抱くように、顔を近づけた。


温かい。ふわふわだ。なんてキレイな猫の目。

ゆゆねは一層泣いてしまったが、正気に戻った。


「前を見ろ。聖水で濡れた剣なら、幽鬼も斬れる」

「き、斬れる」

「ああ。戦える。まどわされるな、お前はもう弱くない」


ぐっと、ゆゆねは剣を固く握り、その腕で涙をぬぐった。

そうだ、戦える。

私は冒険者だ。

さんざんもう、わけのわからないものと戦ってきたじゃないか。


ゆゆねは真っすぐ、剣を構えた。

五感を澄まし、辺りを把握する。


ヤシャは部屋の奥、テーブルの向こうで戦っていた。

相手は死んだはずの老人だった。

腹に大穴を開けたまま、ヤシャと呪文を交差させている。

でも驚かない。

なんたってここは、ファンタジーの世界。


ガジュマルはゆゆねとヤシャに気を配っているようだった。

二人の不意を打とうとするゴーストを、斬って止めている。


自分も含め、三人の背を守る。

壁から突然、飛び出してくる半透明の湯気から。

さすがのガジュマルも、手一杯といった感じだった。


状況は膠着している。

ヤシャと老人は五分だった。いつもヤシャなら、心配はなかった。

だが今の彼女は感情的で、短調な動きになっていた。

それが腹を穿たれてもなお死なない老人との差を埋められずにいた。


ゆゆねは考えた。

自分はまた足手まといなのか。

それとも、誰かの助力になれるのか。

もし、なれるなら、どう動くべきか。


ゆゆねはポケットの中の奥の手を握る。

双子から買った一番高い品。

ヤシャにはお金の使いすぎだと言われた。

でも。


ゴーストがゆゆねの正面から来る。

握ったアイテムを投げたくなる。

だが、理性で止めた。


得意の丸まりで回避する。

すぐ起き上がり、頭を振った。

まだだ。

使うなら適確に、最大の効果を。


双子は言った。「慎重に」「大胆に」

ええきっと、今の私はそれを見極められる。

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