第35話:狂乱の魔宴
その夜はどんよりとしており、強く冷たい雨が降っていた。
ルーヴィックとニックは、終末の羊が拠点とする廃工場の前に立つ。
どのような道筋を辿ったのか、覚えていない。
鉛でできているかのように重たい足を引き摺りながら、2人は並んで歩いた。隣のニックの背には、黒く焦げた塊が担がれている。キャシーだったものだ。それがニックの背中に揺られながら、雨に打たれ不気味に光を反射する。
狂気の沙汰だが、虚ろな目でニックの様子を見るルーヴィックもそれがおかしいことだと思いに至る思考力に欠けていた。もはや何も考えられない。
雨は昼間の熱気と共に、街の暴動による残った悪意や汚れを流すように降りしきる。
ハットの鍔に当たる雨粒の音がやけに大きく聞こえ、濡れた服は容赦なく2人の体温を奪う。
死体を背負った無気力な2人に、終末の羊の信徒は一瞬、驚いた様子だったが、すぐに笑みをたたえて中へと招き入れてくれた。
電気はすでに通っていない工場内だが、いくつもの壁掛け灯の明かりのおかげで暗くはない。昼間にミサが開かれていたそこには、夜というのに大勢の人間が集まり、祈りを捧げている。
中に入ると、その人々がルーヴィックらに近づき、慰めや同情の言葉を口にして優しく接した。
「可愛そうに」
「辛かったろう」
「ここならもう大丈夫だからね」
「外は寒かっただろ。温まりなさい」
信徒らに囲まれた2人は、成す術もなく奥へ奥へと連れていかれる。
焚かれるお香の甘ったるい香りが、思考できない頭に一層靄をかける。意識が朦朧とし、自分がどこにいるのか、何を見ているのかなどが考えられない。
祭壇の前には教団を仕切るベイク・パーカーが立っていた。
「私たちはあなた方を迎え入れましょう」
何を言っているのだろう……
虚ろな目でルーヴィックがベイクを見ていると、隣にいたニックが跪き、祈る様な恰好をしていた。一瞬、その光景に嫌悪感を抱いたが、すぐに頭の靄がそんな感情をかき消し、彼もニックと同じようにした。
「さぁ、付いてきなさい」
ベイクに導かれるように、2人は後に続く。信徒に囲まれながらもさらに奥へと。
自分の意思とは関係なく動く体は、自分の体ではないようだった。
長く暗い通路の先には大きく重たそうな鉄の扉。
まるで外界との境界のように立ちはだかるそれは、ゆっくりと音を立てながら開く。
その隙間から、鼻を覆いたくなるような甘い香りと異臭が混ざり合って押し寄せた。
目の前に広がる光景は、頭の働かないルーヴィックですら、異様であることは理解できた。体の芯から湧き上がる悪寒に身を固め、鳥肌が出る。
人々が乱れ踊っていた。
中央に鎮座する巨大な釜はもうもうと湯気を上げながら煮え滾っており、その周囲に一糸まとわぬ多くの者が狂ったように踊り、絡み、奇声や嬌声を上げる。釜で煮込まれる物と肉欲の臭い、熱気で部屋は充満し、吐き気を催す。
ここは魔宴(サバト)だ。人の世界ではない。
ルーヴィックの中に残ったわずかな理性が警鐘を鳴らす。しかし、体が動かない。信徒らに導かれ、抵抗できない。
ハットを取られた。
腰からガンベルトも外されている。
上着もない……。
止めろ。触るな。抵抗しろ!
懸命に頭の中で叫ぶが、それは靄によって搔き消されてしまう。隣のニックも同じような状況だ。背負っているキャシーの姿はもうない。
異常に目を輝かせながら踊る信徒らの間を通り抜けた先に、エスターが座っていた。裸ではないが、以前見た時よりも薄手の黒のローブは、体の細い線を艶めかしく強調する。
乱れる信徒らを楽し気に眺めながら、頭蓋を啜っていた。
小さな人の頭蓋を……。
「エスター様。迷える羊が参りました」
ベイクがエスターの前に跪くと、ルーヴィックらの周りにいた信徒も同じように跪く。そしてニックは自ら、ルーヴィックは信徒に押さえ付けられるように膝を付いた。
思考できなくとも、度を越した恐れで体が震える。経験したことがないほど全身が震え、歯の根が合わない。
「迷える羊たちよ。救済を求めに来たのか?」
この状況下で、相変わらず美しく優し気な声が、逆に怖かった。
息が詰まるルーヴィックの隣から声がする。
「私たちの苦痛をお救いください……」
呟くような小さな声だったが、間違いなくニックだ。
耳を疑った。正気の沙汰ではない。こんな連中の仲間になったら、人の道を逸れてしまう。
ルーヴィックは頭を下げ、黙ったままだったが、エスターはニンマリと口角を吊り上げる。
「いいでしょう。では、誓いを」
そう宣言すると、信徒が器を持ってくる。
エスターは器を受け取り一口飲むと、ニックへ渡した。
彼は何の躊躇もなく中身を飲む。
そして、その器はルーヴィックにも回ってきた。
嫌だ。とは思いながらも、体が言うことを効かない。
震える手で器を手に取ると、ゆっくりと口に近づける。
湯気が立つ器の中身は、粘性の液体で得体の知れない固形物も入っている。おそらくは中央の釜で煮詰まれていた物だろう。内容が何であれ、気持ちが悪い。
だが、そんな本心とは裏腹に、体はその液体を欲するように動いた。
器の端が口に触れた瞬間……。
「アチッ!」
まるで焼いた鉄を胸に押し付けられたかのような痛みに、思わずルーヴィックは器を落とした。
瞬間、先ほどまで靄のかかっていた頭が晴れ渡り、感情と共に思考が戻ってくる。
胸を確認するが火傷などは見られない。
「あぁー。この子はダメだな」
ルーヴィックの胸にかかった十字架を見ながら、エスターは言った。先ほどとはまるで別人のように、冷たく感情のない声で。
信徒の狂気に満ちた目の中に、明らかな敵意が宿るのが分かる。
思考が戻ったことで、体の自由も利くようになっている。
瞬時に身を翻し、先ほどの扉まで素早く逃げようとするが、人の壁が立ちはだかった。思わず腰に手を伸ばしたが、ガンベルトは奪われている。
舌打ちしながら周囲を観察。
ニックは膝を付き祈るような姿勢のまま動く気配がない。
助けたいが今は無理だ。
ルーヴィックは迫る信徒を避け、戻ることを諦めてさらに奥へと逃げた。
「逃がしちゃダメよ。遊び甲斐がありそうな子なんだから」
引きつったような笑い方をしながら、エスターが楽しそうに言う。
追いかける信徒の圧を背中に感じながらも、ルーヴィックは闇の奥へと逃げるしかなかった。
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