第21話:狂気との対峙
背後から聞こえた女の声に、心臓を鷲づかみにされたような、締め付けられる感覚。
先ほどまで遠くにいたはずのローブの女が、瞬きするほどの時間でマトとクリストフの背後にいる。
フードの奥で見開かれた目が、射殺す勢いで2人に向いていた。
理屈ではない。本能が、背後にいる存在が人ではない、と警鐘を鳴らしている。
化け物だ……
考えるよりも早く、マトは振り返りざまに鉈を振っていた。
声から判断して、完全に女の首に刃が届く距離だと思ったが、勢い余った鉈は空を切る。
女は予想よりも離れた位置にいた。
「誰?」
再度、女は言った。それはおしとやかな、綺麗な声だ。それが逆に怖い。
言葉を投げかけられる度に、息が苦しくなる。
「て……テメーがポワカかぁ!」
若干、震えてはいたが、クリストフは恐怖をかき消すように怒鳴りながら、持っている銃が火を噴く。
怒声と鳴り響く銃声に驚いた作業者たちは、蜘蛛の子を散らすように下水の通路へ逃げていく。
そして放たれた弾丸は、女の額に直撃。
女の頭が後ろに大きく震える。
「ポワカ……?」
「おい……今、俺の弾当たったよな……」
驚愕するクリストフを余所に、女は何ともないように、フードを抑えながら後ろに反らした頭を戻すとマトを改めて見る。
「あぁ~。血族の末裔か……」
ニヤリと笑ったようにも見えたが、次の瞬間には女は大口を開き絶叫する。
耳を塞いでも頭が割れるような声だ。壁に掛けられたランプのカバーにはヒビが入り、地下全体が振動する。気が付けば、フードの中の目が青く光り、呼応するように先ほどまでは普通の色だった火が、全て青色に変色し勢いを増した。
耳を塞ぐクリストフだが、頭の中で声が聞こえてくる。
コロセコロセコロセ・・・・・・
彼の中から沸き起こる衝動。
誰かを殺してやりたいという感情に、意識が遠のく。隣のマトは不快そうに顔をしかめるが、クリストフのようにはなっていないようだ。
クリストフは耐えきれず、ボウイナイフを隣のマトに向かって振り下ろした。寸での所でマトが身を捻って躱す。刃は彼の服の身を切り裂いていく。
避けられた? 殺さなくては……
そんな感情が次々と溢れ出てくる。
クリストフは続けざまにボウイナイフを振り回す。完全にその目は我を失っている。向けられる銃を弾き落とし、襲い来るナイフを躱したマトは、仕方がなくクリストフの側頭部を鉈の柄で殴りつける。ショックで目を覚ますことを期待してだが、甘かった。
クリストフはその攻撃をものともせずに肩ごとマトにタックルをかまして、壁に叩きつける。巨体による体当たりでさすがにマトも苦しそうに呻いていると、クリストフは彼を掴み固定しながらボウイナイフを振り上げていた。
マトは精霊への祈りを口の中で転がす。
ナイフはマトの首筋で止まった。
マトの祈りが聞こえた瞬間、クリストフは自我を取り戻していた。だが頭の中で声が聞こえている。彼は鬱陶しそうに唸りながら、自身の頭を壁に何度も打ち付ける。
痛みで頭の中の声が吹き飛び、意識が完全に戻った。
「クソッタレが! 何だったんだ今のは?」
クリストフは頭から血を流しながら立ちはだかる女を睨む。
銃は効かないが、魔除けが有効だ。
マトはそう分析する。
聖なる祈りは女の「狂気の叫び」とも呼べる声を退けられた。そして、マトに影響がないのは、体に刻んだ魔除けのタトゥーや装飾品による効果で弾いたからだろう。
間違いなく目前の存在は邪悪な存在だ。
マトはクリストフの背後に回り込むと、彼の背中に指で印を描き、祈りを口にする。どれほどの効果があるかは分からないが、狂気の叫びを受けることはなくなるはずだ。
そして、即座に腰の鞄から煙り玉を取り出し、火を点け投げる。
煙が一気に吹き出すと、女が明らかに顔をしかめた。
退魔で使われる草を練り込んだ代物だ。
「あぁー。忌々しいな。忌々しい忌々しい忌々しい!」
マトの様子に女は叫ぶ。不快な声は、空気を震わせ、神聖な煙を霧散させる。
動きが止まったそのすきに、マトはトマホークを掴むと前へ。
真っ向からではなく、身軽に壁を蹴って惑わせながら距離を詰め、トマホークを振り下ろす。
霧散した煙の奥から飛んできたマトに驚いた女はろくに反応もできず肩口に刃は受けた。
深く突き立ったトマホークに一瞬を見開く女の目は、次第に爛々と怒りの色を増していった。
「気軽に私に触れるなー!」
口を大きく開くと、叫び声と共に口内から覗く目がマトを睨んでいる。
ネズミだ。口の中からおびただしいネズミが顔を覗かせている。ただ異様なのは。
それらの目だけが人間のそれだった。
そんなネズミの睨みに、身を固くしたマトに対して、大量のネズミが吐き出され、飛び出てくる。襲いかかるネズミを下がりながら振り払うと、肩にトマホークを突き刺さった女が目前まで迫っていた。即座にもう片方の鉈で、後ろに倒れ込みながらも突き出される腕を切り捨てる。
女は何かを呟いた。
意味は分からなかったが、聞いているだけで不吉な言葉だと分かる。その瞬間、マトは強い力で引っ張られるように、吹き飛ばされ、通路の先の手すりを突き破って広間へと落ちた。
「マト!」
クリストフも彼の元へと駆け降りる。
酷く背中を打ち付けたことで息が苦しいが、悠長にはできない。すぐに態勢を整えて、通路の端に立つ女へ視線を向けると、彼女はすでに再生した手で優雅に手を叩くだけ。すると冷たい空気がさらに下がり、燃え上がる炎が一層激しさを増した。
それが合図だったかのように、蜘蛛の子を散らして逃げたと思った作業員らが、奇声や訳の分からないことを叫びながら一斉に襲いかかってくる。
それぞれに武器を持つ作業者の目が異常に血走っており、とても正気とは思えない。むしろ、もはや同じ人とも思えない。
完全に殺しに来ている。マトは、身を翻しながら攻撃を躱し、鉈で足を薙ぎ、隙のできた者から頭を割る。
すると肩に痛みが走った。作業者の一人が、白目を剝きながら噛みついていた。肉を抉り、噛み千切ろうとしている。さらに別の者に何発か殴打され、意識が飛びかける。気付いた時には目前にハサミを振り上げる女性がいた。
間に合わない。
そう背中に冷たい物を感じた時、女性の腹部から刃物が突き出る。広間に降りたクリストフだった。乱暴に女性を投げ捨てるとマトに噛みつく男の頭を掴んで、ナイフの柄で潰す。
休んでいる暇はない。次々と襲ってくる者たちを切りつけ、殴りつけ、叩き付ける。
どす黒い腐ったような臭いのする血を浴びながら道を拓くと、女もいつの間にか広間に立っていた。そしてその様子を見ながら、ケタケタ笑う。
「クソッタレが!」
吐き捨てるように叫ぶクリストフが女へ詰め寄ると、その首を掴み、強引に壁に押しつける。小さく細い体は特に抵抗する様子もない。
そして、逆手に持ったナイフを渾身の力で振り下ろす。刃は頭に深く突き刺さった。
「ぐぁ・・・・・・」
小さく悲鳴を漏らしたのはクリストフの方だった。頭に突き刺した刃が、首を掴むクリストフの左手の甲を突き破ってきたのだ。ナイフを抜くと、手の甲の刃も消える。
何が起きたのか理解できず後ずさるクリストフに変わって、マトが前に出た。再び叫びを上げようと大きく開けた口に鉈を突き刺し、力の限り押し込んだ。
女は一瞬、目を見開き驚いたようにググッと喉を鳴らしたが、それだけ。
鉈はピクリとも動かない。
女は下品な笑みを浮かべると、口に入った刃が飴細工のように噛み砕く。
マトは咄嗟に鉈の柄を放すと、女の肩口に刺さったままになっているトマホークの柄を掴んで引き、振りかぶって首を薙いだ。
弧を描いた首は床に落ちると砕け、灰に変わる。
残った体は力なく膝から落ち、先ほどまで燃え盛っていた炎は消える。
「やった……か?」
クリストフは、血の流れる左手に布を巻きながら様子を見る。
マトは首のない体をしばらく見てから、踵を返して砕けた鉈を拾う。もう使い物にはなりそうにない。
「しっかし……こいつらはここで何をしてたんだろな? ……マトっ!」
解体された死体を気味悪そうに観察していたクリストフが、マトへ視線を向けた途端に叫んだ。それは、警告の意味を込められていた。
大声に驚きクリストフを見るが、彼の視線はマトではなくその背後。
振り返れば、首のない体が起き上がっていた。
差し出される手を避けることはできない。
マトの胸に置かれた手が爪を立てる。皮膚を裂き、肉に突き刺さった爪はなおも奥へと押し込まれる。
痛みで口から小さな声が漏れる。必死で手をどけようとするもビクともしない。より力を込められ、胸からは血が流れ落ちる。
心臓を抉り取られる。
直感で分かった。
女の手は明らかに彼の心臓を狙っている。体に刻まれた魔除けのタトゥーによって抗っているが、その力すら突き破らんばかりに手が捩じりこまれる。
その間に割り込むようにクリストフが滑り込んできた。驚いて目を見開くマトからトマホークを勝手に引き抜くと、雄叫びを上げ、勢いを付けて女の股下から切り上げる。そのまま縦に裂いた。
真っ二つに切られた女の体は一瞬、膨張したかと思うと、風船が破裂するように爆ぜた。中から噴き出したのは、血ではなく無数の錆びた釘。それをクリストフはまともに受けて後ろに倒れる。
マトは彼を受け止め、女へ視線を向けると、体はよろよろとしながら手を1度叩いて、大量のネズミとなって姿を消した。
残された2人もゆっくりとはしていられない。
女が手を叩いてから、広間の揺れが激しくなっている。大釜は砕け、壁には亀裂、天井が崩落し始めた。証拠を残さないために、崩すつもりなのだろう。逃げなければ……
「く、クソが……こんな所で……」
全身に釘の刺さったクリストフが血の泡を吐きながら苦しそうに呟く。立派なあご髭も今では真っ赤に染まっている。マトは、そんなクリストフに肩を貸しながら立ち上がらせると、来た道を引き返す。通路まで来た時には、揺れは一層激しさを増し、まっすぐ歩いていられない。
「あぶねぇ……!」
よろけたマトをクリストフが鋭く言って突き飛ばす。
次の瞬間、それまでいた所の天井が崩落。前に転がる様に倒れたマトは難を逃れるも、クリストフの姿はない。
「……俺もヤキが回った……か」
粉塵が巻き上がる中、天井からの瓦礫を支える形でクリストフが血反吐を吐きながらぼやく。
「インディアンを助ける……日が来るとは……な……」
「クリストフ! おマエ……」
思わずマトの口から言葉が出ていた。自分に課した誓いも忘れて。ただこれまで旅をした友を思い、感情が溢れ出た。しかし、それ以上、言葉に詰まる。
その様子にクリストは一瞬、目を丸くする。
「お前……、英語、しゃべるんじゃねぇか……だったら、もっと、話せばよかった」
小さく自虐的に笑ったクリストフの上に、さらに瓦礫がなだれ落ち、彼を圧し潰す……。
「……クリストフ」
瓦礫の前でしばらく呆けていたマトの足元に、ボウイナイフが転がっている。もういない主人を悼むように。
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