日が傾き、夜に差し掛かる頃合いになると、足下が覚束なくなるからと参拝客も激減する。

 夏の日長とはいえ、十九時を回った今しがたの宝登山神社は草木に囲まれてほぼ真っ暗である。


 なおも滑瓢の「死んでないと云々」の台詞が頭をぐるぐると回る。

 眷属が死ぬなど聞いた事が無いが、しかし死なぬとも限らないだろう。

 死んでいたらどうしよう。困るな、うん、それは困る。しかし死んでいなくとも、困る要素はあると言えばある……。


 無駄な思案を繰り返すのち、石段の伸びた参道が足下へ見えた。


 私は草木の影に降り、参道である石段の左へ出た。

 かつ、かつ


 ゆっくりと石段を踏み、鳥居が目の前に差し掛かったところで静かに一礼をする。

 そうして左足を踏み出し、ゆったりと奥の院へ向かう。

 左右に建ち並んだ狛犬の像へ目をやり、ふと見た目が普通の神社と違う理由をぼんやりと思い出した。


 かつて日本一有名な戦士と謳われた日本武尊ヤマトタケルが訪れた折、巨犬が彼を案内しに現れたという。

 宝登山神社に向かう最中で様々な困難に襲われる日本武尊の身を守り、道を開いた巨犬がこの神社の祭神、神武天皇らの神犬であったと伝えられた。


 だが、それも夢の跡である。

 神武天皇の存在をまともに信じない人間のまともでない、半端な信仰心がこの地の脈を静かに落とした。

 今や残るのは、寂れた風景の中、ただ遠くの空を見つめる狛犬二体と本殿だけだ。


 横に並んだ狛犬の像に静かに会釈をし、私は本殿の前へ立った。

 そして静かに言う。「……火狗ほぐ様。いらっしゃいますか」


 返ってきたのは消え入りそうな「……はい」という返事だけであった。

 構わず私は続けた。

「私は七代目 日乃本天狗総領主でありまして、名を絶巓と申します。此度は大妖怪頭領 滑瓢殿のご紹介に預かり、こうして火狗様へご挨拶に伺った次第でございます。差し支えなければ、私のもとへ姿を見せてはいただけないでしょうか」


 慇懃に挨拶をし、火狗様の出方を窺う。

 力が失われつつあるといっても、相手は神の遣い、更に言えば神の映した姿そのものである。

 私が丁寧になるのも無理はないというものだ。


「……は。今の時代に我をその名で呼ぶとは……。知るのはもう、滑瓢くらいなものだろうな……」


 ゆったりと、しおれた口調で火狗様が私の前に姿を現した。

 私よりもふた周りほど大きな火狗様は、毛並みは崩れ、赤毛の中に白が混じった老犬の姿であった。

 あまりに痛々しい姿に、私は思わず「く……」と声を漏らす。


 ふふ、と笑いながら火狗様は私を見た。

「天狗の総領主……絶巓……。そちの用事は、我をいたずらに呼び出す事ではなかろうて」


 衰えながらもその堂々とした物言いは健在なようで、私の心に余裕を与えてくれた。

 言い出す余裕も生まれたところで、私は火狗様に向き直って伝える。


「私の友人が、同胞の復活を望んでおります。かの悪鬼、酒呑童子です。ただ、何も準備なく復活をさせてしまえば、京の都が忽ち火の渦になってしまいます。……つきましては、火狗様の御加護を戴きたく​───」


「なぜ?」


 私の訴えを遮って、火狗様は言った。火狗様の目には一点の曇りもなく、私を困らせるためではない。ただ、私の本音を知りたいという、そういった類の輝きがあった。


 しかし、ひとたび「興味本位です」なんて言ってしまえば、それこそこっぴどく叱られたっておかしくない。

 狐白ならまだしも、今度は神様相手であるから、下手をすれば高天原強制送還も無いとは言えない。


 だが、嘘をつけば嘘をついたで見抜かれる恐れもある。

 どっちにしろ待ち受けるのは絶望でしかない。


 死んだら怨むからな、滑瓢。


 ひっそりと紹介者の滑瓢に呪いを込めつつ、改めて私は火狗様に向き直った。

 変わらず煌々と瞳を照らす火狗様に、私は言った。


「……まず私が彼を復活させるのは、興味本位です。……また、私に頼み込んだ友人は、上司の依頼でした。……そして、その上司が頼んだ理由は……」


 〇


 羅刹の話では、交通整理のバイト中に鬼特有のテレパシーが流れ込んできたそうである。


「お前、バイトやっているのか」

「今時の鬼は大概バイトやってますよ。絶巓の親分みたいな天狗と違って祀られるのはごく一部の鬼だけですし、妖怪みたいにちょっとした恐怖心を食い物にできるほど繊細じゃないんでさァ」


 バイトの群れに石を投げれば鬼に当たるらしい。もはや人間の方が多いのか鬼の方が多いのか分かったもんじゃない。


「で、バイト中に来たのか。茨木童子から」

「そうなんです!……『今夏、酒呑様を復活させる』と!」

「……酒呑童子が実在したのか、お前も知らないんだろう?」

「へぇ!知りません!」

「……」


 さて、ここで酒呑童子の伝説も振り返っておこう。


 日本全土の様々な鬼の伝説を話す上で、彼の伝説は放っておけない。


 悪鬼最強、最悪にして最後の善。


 京の街をぐちゃぐちゃにし、非道の限りを尽くし、遂に人の手に落ち、首だけ斬り落とされてもなお人を食い散らかし、死の間際に懺悔し人々の首から上の病を治したと云われる。


 やがて都の外れに首塚を建てられ、その地の下に首を埋められるわけだが、さて問題になるのは「実在したか、否か」である。


 私は「存在したものを非科学的として葬り去る」行為が嫌いなため、日本に伝わる一通りの伝承、逸話は存在していたと思っている。

 しかし、この酒呑童子伝説だけはどうにも信じられなかった。


 まず、規格外のサイズであること。

 5メートルをゆうに超える背丈であったというが、そもそも高天原でそんなサイズの鬼は目撃されたことが無い。牛鬼のような半妖の鬼であればあったかもしれないが、伝説にあるような人型の鬼で5メートルは無かった。


 次に、彼の存在をはっきりと確信しているのが茨木童子だけであること。

 これはかつて、羅刹と酒を飲み明かしていた時に言われた話で、

「俺らみたいな四天王ですら酒呑様の存在を知らねぇ。最古参の星熊の兄貴ですら見た事ねぇって言ってた」


 旧四天王唯一の生き残りである星熊童子が知らないとなると、いよいよ存在自体が怪しい。

 何か別の鬼が茨木童子とつるんで都を荒らし回っていた時に、噂に尾ひれが付いた結果、そんなとんでもない鬼が生まれたのではないか。


 過去の総領主に聞いた時に「なんだかそんな奴がいた気がするなぁ」といった程度の返答しか返って来なかったために、今ひとつ信用出来なかった。

 対抗勢力に最強の権化がいるとなっても、我々にそのような印象しか与えられなかったのであれば、眉唾の具合も増す。


 そんな酒呑童子復活を目論んだ茨木童子の伝令は、羅刹ら四天王に流れたそうで、


「誰も信用してないんです。いくら俺たちのカシラだって言っても、星熊の兄貴ですら知らないってんだから」


 まあ、当然そうなる。

「橋姫ちゃんは「リスクを冒してまでやりたくない」、星熊の兄貴も「多少は動いてみるが正直信じられない」と、天邪鬼に至っては「いる!絶対いる!待ってろ探してくる!」と叫んで、今日も競馬場でダフ屋やってました」


 名前の挙がった三名が、羅刹の他の四天王である。

 それにしても……

「待て、今時ダフ屋ってまだいるのかよ……」

 あまりにも時代錯誤なバイト内容の方に気を取られてしまった。


「どうなんですかね?アイツも奔放だし虚言癖があるから、本当に働いているのかすら怪しいですよ」

 ダフ屋を働いているというカテゴリに入れていいのだろうか。


「それで……こうして真面目に他人のツテを使って走り回ってるのがお前だけ、と」


 良くも悪くも真っ直ぐな奴だ。羅刹は「そうなります」と首を縦に振る。

「まあ、茨木様が酒呑様を復活させる動機も気乗りしない一因になってはいるんですが……」

「確かに……、現世で復活させたところで伝説通りならパニックになること請け合いだぞ。どうして今、復活させようと思ったんだ?」


 私がそう訊くと、今までよく喋っていた羅刹の口が急に重くなる。……余程くだらないと見える。


「言ってみろ。内容は置いておいて、とりあえずこちらも動くから」

 それを聞いて、再び羅刹の口が開いた。

「いや……本当に言いづらいんですが……」




「……一緒に酒を飲みたいそうなんです」


 〇


「これが、火産霊ほむすびの霊印……」

 火狗様から差し出された御守り袋は暖かく、表面には奇妙な印が刻まれていた。


「かつて酒呑童子は火を吹いて都を炎の渦に包んだと言う話もある。守護印よりも、そちの身体を護る力は弱いが、多少は役に立つだろう」

 火狗様はそれだけ言って本殿に向き直る。再び消えようとするところで、私は呼び止めた。


「お待ちください。……本当によろしかったのですか?こんな……莫迦げた理由で」


 お願いに来た手前こんな事を言うのもなんであるが、元々の動機があまりにもくだらない。

 ただ一献の酒を酌み交わす、そんな私利私欲そのもののような理由で納得されるとは思わなかった。


 困惑する私を尻目に、火狗様は変わらず穏やかな雰囲気で言った。

「……何を成す時も、根底にある理由は大体他人にとってどうでもいい事かもしれない。だが、当人にとっては命に替えても叶えたい事かもしれない……そういう事もあると覚えておきなさい」


 重ねて火狗様は言う。

「今回は別に都を荒らそう、などといった邪な動機ではなさそうなんでな。まあ我も興味が湧いた。……復活した暁に、彼と一緒にまたここへ来なさい」


 言うだけ言って、火狗様は本殿へ飛び込んだかと思うと消えてしまった。

 その後はどれだけ待っても現れない。飄々と自分のペースで話を進めるあたり、神様らしい。


「……ありがたく頂戴致します」


 本殿に一礼し、左右の狛犬に一礼し、鳥居を出たところで一礼をする。

 そうして今日、やらねばならぬ事が全て済み、ようやく私は肩から息をついた。

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