長瀞町の一角、宝登山神社ほどさんじんじゃを更にロープウェイで登った先に、奥の院がある。

 滑瓢のメモ書きに示された奥の院には、滑瓢の古くからの知り合いがいるという。


『神武天皇の眷属だった奴なんだがな、正史で神武天皇の存在自体が疑わしくなった時点でそいつも力を失っちまった。今はただ、そこに縛られる霊獣になっちまったって聞いてる』


 信仰心の減少と歴史の照査は、時として霊獣や神獣といった生物のポテンシャルにも干渉する。

 畏れ、敬い、だからこそ奉るものだったのに、今となっては「ご利益お願いします!……真面目に信じてないけど」といった曖昧な信仰心ばかりが募る。それではエネルギーとして集まりやしない。


 狐白の上司である宇迦之御魂神も日本全体の信仰心の低下の影響は受けているものの、眷属である狐の「嫉妬深く多神教に対して厳格」という性質が支柱となって未だに力を発揮し続けている。眷属の性質もまた、元である神の力へと関連してくるものである。


 死んでないといいが​───


 滑瓢がポツリと漏らしたその一言に物寂しい感情を抱きながら、私は遥か上空を飛んでいた。


 さしたる距離ではないが、なんだか今日は人混みに紛れる気分でもなかった。

 かといって羽根を使って飛ぶほどでもないため、羽根は仕舞ったままにして神通力でふわふわと飛んでいるだけだ。


 参拝客が空を拝めば「カラスか?」と思う程度の高度で飛んでいるので、降りるタイミングさえ誤らなければ目撃されることもあるまい。

 それよりも滑瓢の一言がただ引っかかって仕方なかった。


 〇


 数ヶ月前の話である。


「絶巓の親分よ、俺の頼みを聞いてくれやせんか」


 池袋の雑踏の中、ようやく空いていたファミレスに駆け込むなり、彼は私に頭を下げた。

 角が見えぬようにしている帽子はどうしても取る事ができないため、それだけ申し訳なさそうに私を見る。


「私みたいな若造に頭を下げなさんな、羅刹らせつ殿。私は成り行きで頭領になっただけだ」


 私が却って申し訳なさそうに返すと、羅刹と呼ばれた彼はようやく表情が和らいだ。


「確かに……とはいえ、立場は大事ですからね。悪鬼四天王と天狗の総領主じゃ、総理大臣と農林水産大臣くらいの差でさァ」

「それ、大差ないんじゃないか……?」


 悪鬼四天王 羅刹


 かつて京を荒らし回った茨木童子が従えた四天王は、時代の流れと共に面子までもが変わっていた。

 色鬼が主体であった旧四天王から新たな四天王が生まれ、今残っている旧四天王は星熊童子だけである。他は世代交代なのか、それとも死んだのか定かではない。


 目の前の羅刹もまた、一度仮死を経由して蘇った身である。ただしそのポテンシャルは、生前のものとは遥かに違っていた。


「俺なんか、足が速いだけでさァ。昔は茨木様と都を荒らして回ったもんだが、それも人間の目くらましくらいしかしてねェ」


 語る羅刹の瞳は爛々としていた。


 茨木童子がみちのくを追われた同時期に、羅刹もまた討ち取られたと聞いた。

 実際には心臓に刃が一突きあったのみで、それが仮死に繋がったという。


 一時の昏睡状態に陥った時、彼は地獄で猛省し鍛錬を積んだと言っていた。

 眉唾のような話であるが、私の二世代ほど前の総領主が証人であるため間違いない。


「人様にもう迷惑はかけねぇ。慎ましく暮らすって誓わされたんでさ。そうしたら毘沙門天の旦那が俺を依代にするって言い出したんだ……」


 羅刹と毘沙門天の逸話は今も耳にすることがある。

 ある時は地獄の師であったり、ある時は化身であるとも言う。実際、この時羅刹は毘沙門天の眷属になったそうだ。

 それを本人が述べているのだから間違いないのだろうし、例の先々代も語っていた。「敏捷性が遥かに上がっている」と。


「そこいらの鬼より結構速い、ってだけだったのに、目が覚めたら誰も追い付けなくなっていたんですわ」


 悪鬼最速にして史上初の半神悪鬼がここに成ったわけである。


 以降あらゆる時代と土地を生きた羅刹は、その経験とポテンシャルが見込まれ、こうして新四天王という立ち位置に落ち着いた。

 立場上は私の方が上だが、実際は羅刹の方が遥かに上なのだ。色々と。

 だが、一度構築されたヒエラルキーに従順な羅刹の性格が相俟って、私が謙譲する事を酷く嫌がるために仕方なく目上として接している。最速の悪鬼という事もあり、機嫌を損ねるのは酷く恐ろしい。


 尤も、現在は悪鬼というよりただの気のいい鬼である。

 人を食ったり殺したりして回った風貌はどこにも無い。


「……お願い、というのは別にお前さんの身の上話を聞く事とは別にあるんじゃないか……?」


 過去にも羅刹本人から聞かされた話をここでも繰り返された。これが羅刹と私との会話の始まりというか、そもそもこの話自体が大掛かりな枕詞みたいなものである。


 もっしゃもっしゃとハンバーグを食らいながら話していた羅刹の表情がハッとした。


「いけね!すいやせん親分。ついうっかり話し込んじまった……」

「いや、いいんだが……別にいつもの事だし……」


 口の端に付いたデミグラスソースを拭いながら、羅刹はへへへ、とはにかんだ。


 グラスのワインを流し込んだところで、ようやく本題に入る。


「茨木様から我々四天王にお触れがありまして」


 茨木童子の伝説は羅生門での源頼光との対峙、あるいは頼光率いる四天王が一人、渡辺綱わたなべのつなとの戦いが有名であり、また彼に右腕を切り落とされた話もそれに付随するようにある。


 羅生門を追われた茨木童子は、現在の東北地方へと移動するが、そこは百戦錬磨の武士である。頼光の執着心からか、人間四天王を引き連れて宮城まで駆け付けた。


 ところが思わぬ障壁が人間四天王の一人、渡辺綱を襲った。


 茨木童子、よりにもよって彼の叔母に化けていたのである。

 一行の長旅の労を労うように装い、彼らが持参していた茨木童子の右腕を奪取し、まんまと逃げ仰せたのであった。


 以降、茨木童子にまつわる伝承は途絶えた。

 伝承が残らぬという事は、そこで伝える人間が何かしらの形で息絶えたか、あるいは未だ存在が秘匿されているかのいずれかであるが、茨木童子の場合は後者にあたる。


 茨木童子の所在は、全ての鬼が知らない。羅刹を含めた四天王ですら、今どこで隠れ、人の目を避けているのか分からないという。

 ただ、四天王には定期的に書簡が届くとの話で、生きていることだけははっきりしていた。


 さて、鬼という脅威が薄れた昨今、未だに茨木童子の所在が秘匿されるのにはワケがあった。


 自らの手で茨木童子に致命傷を追わせ、また自らの失態​───というには余りにも可哀想ではあるが​───が原因となって茨木童子を逃がした渡辺綱の執念は、頼光の四天王らが時と共に朽ちた後も続いた。


 渡辺綱の子孫、未だに茨木童子を追い続けているという。


 恐るべき話だ。

 科学が崇拝され、神が軽視されつつあるこの時代に、まだ鬼の存在を確信し追い続ける一族がいるというのは、我々としては若干の嬉しささえ覚えるほどである。


 渡辺家の子孫は、今も京都に残り毎夜市街を練り歩き探索しているという。

 羅生門は惨めな石碑のみが残り、跡地は小さな公園になった。

 そこを中心として巡り、探し、やがて夜明けと共に日常へ戻る。

 そんな暮らしをしている人間が、まだ存在するのだから驚きである。


 そんな人間から目を盗み、仲間にすら所在を知らせない茨木童子からお触れがあったのは、つい先日の事であった。

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