閑話
或る日の京
頭部の擦り傷から滴る血が目に滲み、思わず拭う。
冷え切った一月の京都の街に、雪がちらりと姿を見せ始めた。自らの血と雪のグラデーションが、ちょっと素敵と思ってしまった。
大誤算だった。
よもや明治でくたばったと思っていた追手が、現代にも生きていようとは。
「逃げ切れると思うな
あの因縁の、渡辺の血筋が、いとも簡単に茨木の後ろにぴったりと付いてきていた。
大股に屋根を蹴り上げ、一気に距離を取ろうとする茨木に対し、渡辺の血筋は細かく、繊細に屋根を渡って、しかしスピードは決して落とさず付いてくる。
知っている。そのポテンシャルの理由を知っている。だが、鬼の膂力に食らいつく程とは思っていなかった。
茨木は歯の奥をぎりりと鳴らし、蹴飛ばす脚を止めて当代の渡辺に向き直る。顔を布で多い、目元だけを露わにしているため表情が見えない。
だが、その声で分かる。相手は───茨木と同じ、女だ。
渡辺の方も茨木との間に家屋を一つ挟み、脚を止めた。どうやらここで始末をつけるつもりらしい。
睨む茨木を尻目に、当代の渡辺は叫ぶ。
「お前との因縁は私の代で打ち切る!」
右手に携えた抜き身の短刀が、月明かりを吸ってぬらりと光る。
そこに籠るのは積年の怨嗟か、確執か。
しかし茨木は知っている。奴の持てる切り札は、まだ腰の鞘に仕舞われたままの刀であることを。
茨木の右腕を綺麗に切り落とした、憎き刀であることを!
冬だというのに茨木の首筋に汗が光った。
瞬間───
凄まじい速度で渡辺の身体が茨木を囲むように舞い、目まぐるしくその位置を変える。
その動きの隙間の中で、茨木の身体に短刀が差し込まれようとするが、茨木も歴戦の鬼である。その全てを見切り、必要最低限の回避で短刀を躱した。
だが、これで終わらないのは百も承知であった。
一瞬のタイミングで茨木が蹴りを挟み、渡辺の短刀を宙へと跳ね飛ばす。その機を見ていたようにして、渡辺は腰の長刀へ手を伸ばした。
ここまでは総じて
これは避け切れぬ。危うい。
僅かな瞬間に茨木に訪れた危険信号は、回避の前に足蹴を選択させる。
避け切れぬならば、せめて軽減させる!
渡辺の腰目掛けて払われた茨木の脚が、稲妻のように素早く襲う。
───だが、それよりも速い剣撃が茨木の脚を払った。
「ヤァァァァァァアアイ!!!!!!」
縦の電撃が一閃。
渡辺のけたたましい叫声と共に放たれた
渡辺綱から伝わる名刀は、尚もこぼれることなく切れ味を保っていた。
そして何より、その御業、その刀筋は茨木の奥深い記憶にあった。
───また、またこれか!
痛みよりも悔しさと怒りが勝った。
あの時もそうであった。
渡辺綱の横っ腹に仕掛けた右腕が跳ね飛ばされた時も、これと同じだった。
耳をつんざくほどの叫声と、火花が飛ぶように振り下ろされる刀。
やはり間違いなく、こいつは渡辺家の血筋だ。
嫌な記憶が奥底から蘇り、その一瞬の思考が茨木の活気へと繋がった。
少なからず、右足首から下が無い状態で戦える相手ではないと踏んだ。
尚も刀を振り抜かんとする渡辺を横目に、身体を逆さにして空を蹴り上げる。そのまま重力の理に従って地面へと着地しそうな足首を拾い上げ、左足のみで地面を思い切り踏み付けた。
意図しない茨木の行動に、渡辺の意識がフッと途切れる。そしてその真意を読み取る頃には、渡辺の行動圏内を外れようとしていた。
片足で踏み付けた地面を、茨木は全力で蹴飛ばす。瞬間、彗星のように茨木の身体は北東へと跳ねた。
「茨木!ふざけるな!」
完全に茨木の真意を理解した渡辺が、先程の茨木のように奥歯を噛む。
───やられた!
間に合わぬやも分からぬ。渡辺は茨木を追ってきた時と同じように、トップスピードで木々を渡り飛んだ。
それまで沈黙を貫いてきた茨木が、背後から迫る渡辺に放った。
「おあずけだ、渡辺の末裔!貴様とのお遊びはまた別の機会にするとしよう!」
「逃がさない!絶対逃がさない!どこまでも追ってやる!」
足首をちらつかせながら、茨木はなおも煽るようにして渡辺に言った。
「やめとけやめとけ!口調が戻ってるぞ!冷静でないと私には勝てない!何より、京の地を飛び出せば貴様はただの人間だ!」
「……!」
渡辺家を含め、かつて京の都を護り繋いだ家系は源氏の御加護が加わっている。
あらゆる身体能力の底上げをするその御加護が及ぶ範囲は、京都という街のみ。
知っていたのか、茨木童子。
渡辺が独り言ちる。
まもなく岐阜県に入ろうとするところで、渡辺の瞳が爛と光った。
「次
ほぉ、と茨木がにやりと笑う。かつて見た渡辺綱の瞳の光が、彼女にも宿った。
京都府と岐阜県の県境。そこで茨木は木々を蹴り、身体を宙へ舞わせた。
月光を背負い、彼女へ叫ぶ。
「約束だ、渡辺圭!私は死なぬ!たとえ殺されることがあろうとも、それは貴様の手だけだ!……まあ、無理かろうがな!」
圭もまた、県境近くまで寄る。
そこにある因縁は、過去の軋轢ではない。ただ真っ直ぐに募った、好敵手との約束であった。
「また逢おうぞ、渡辺圭!名は覚えたぞ!」
はははははは……!
茨木童子の高笑いが、奥へ奥へ消える。
かつて先祖を襲った、代を重ねた敵との約束。
切り伏せまいと意気込んでいた時の憎悪と怨嗟は、刀から消えた。
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