第6話 車中で乗る口車
それは、山下耕太が火災事故で命を落としたとされる日の、前日の出来事だった。
街中のカフェに残された一口食べただけのティラミス。
その甘くほろ苦い残骸の前で、耕太は魂が抜け落ちたかのように座り込んでいた。
妻の絵里が浮気をしていたこと。
愛してやまない双子の片方が、その浮気相手の子であること。
そして、自分には背負いきれない二千万円もの借金があること。
咲弥によって突きつけられた残酷な事実は、耕太の世界を粉々に破壊するには十分すぎた。
一方、耕太を奈落の底に突き落として店を後にした咲弥は、その足で産婦人科の定期検診へと向かっていた。
診察台に横たわり、ひんやりとしたジェルを腹部に塗られる。モニターに映し出される新しい命の鼓動。
「順調ですよ、奥さん」
医師はにこやかに告げた。
「性別もわかりましたよ。元気な女の子です」
その夜、帰宅した咲弥から報告を受けた権厳寺京介の表情は、複雑に歪んだ。
「……女、か」
権厳寺家を継ぐための男児を渇望していた京介にとって、それは計算外の報告だった。
京介の脳裏に、かつての愛人・絵里が産んだ双子の姿が鮮烈に蘇る。特に、自分に瓜二つの兄、空の姿が。
(やはり、あの子を手に入れるしかない)
京介の中で、あるどす黒い計画が形を成した瞬間だった。それは倫理も情も排除した、経営者としての冷徹な計算に基づく「買収工作」だった。
*
翌朝。空が白み始めた頃。
山あいの静かな農村に、不釣り合いな高級車のエンジン音が響いていた。
京介は、耕太の家の近くに車を停め、獲物が現れるのをじっと待っていた。
やがて、朝霧の向こうから、よろめくような足取りで歩いてくる人影が現れた。
山下耕太だった。
一晩中街を彷徨い歩いたのだろう。衣服は汚れ、髪は乱れ、その瞳からは生気が失われている。まさに生ける屍と呼ぶにふさわしい姿だった。
京介は車を降りるよう運転手に指示し、自ら電動車椅子を操作して耕太の前に立ちはだかった。
「山下耕太さんですね」
耕太が虚ろな目を向ける。
「……突然押しかけてすみません。私は権厳寺京介と申します」
その名を聞いた瞬間、耕太の目に微かな光が戻った。それは憎悪の炎だった。
「……お前か」
掠れた声が喉から絞り出される。
「お前が、僕の家庭を壊した奴か……! よくもぬけぬけと僕の前に!」
耕太は京介に掴みかかろうとしたが、徹夜の疲労と空腹で足がもつれ、その場に膝をついた。
「絵里さんとの件は、本当に申し訳ないと思っている。私とて、こんなことになるとは夢にも思っていなかったんです」
京介は冷静な口調を崩さず、跪く耕太を見下ろした。
「今日は謝罪の意味も込めて、あなたにある提案を持ってきました。車の中でお話ししましょう」
拒絶しようとする耕太を、京介は巧みな言葉で誘導し、革張りのシートが匂い立つ車内へと招き入れた。
閉ざされた空間。外界と遮断された静寂の中で、悪魔の取引が幕を開けた。
「僕の妻と不倫をして、子供まで産ませておいて、今更提案だと? ふざけるな!」
耕太は最後の気力を振り絞って叫んだ。
「どうか、落ち着いて聞いてください」
京介は諭すように言った。
「あなたのことは調べさせてもらいました。画家として大成することを夢見ているが、芽が出ず、生活は困窮している。さらに不運なことに、友人の保証人となり、多額の借金を背負わされたとか」
図星を突かれ、耕太は言葉を詰まらせた。
「このままでは、あなたは売れない画家のまま、愛するご家族を路頭に迷わせることになる。違いますか?」
「くっ……」
「そこでです。私がお力になりましょう。借金を完済し、さらに奥様と双子のお子様が一生遊んで暮らせるだけの資産を残す。そんな方法があるとしたら、興味はありませんか?」
耕太は疑念の眼差しを向けた。
「……そんな魔法みたいなことができるわけがない」
「できますよ。その方法は――『偽装死』です」
「な……?」
耕太は耳を疑った。
「耕太さんが出展されている『グッド絵画展』。実は今年から、私がスポンサーを務めているんです」
京介は淡々と、恐ろしい計画を語り始めた。
「審査員たちは、私の意を汲む者で固めてあります。つまり、あなたの絵を『大賞』にすることは造作もない。まず、あなたの絵を大賞にします。そしてその直後、受賞者であるあなたが不慮の事故で亡くなったことにするのです」
京介は不敵な笑みを浮かべた。
「芸術の世界とは皮肉なものです。無名の新人が描いた絵でも、『若くして死んだ天才の遺作』という付加価値がつけば、その価値は天文学的に跳ね上がる。そこで私が、あなたの絵を『二億円』で買い取らせていただきます」
「に、二億……」
想像もつかない金額に、耕太の思考が停止する。
「それだけあれば、二千万の借金など端金だ。残された絵里さんと子供たちは、将来にわたって金銭的な不安なく暮らしていけます。そしてあなた自身の身柄は、私が責任を持って海外へ逃がしましょう。新しい名前と、新しい人生をご用意します」
「ま、待ってくれ。僕が死ぬだって?」
耕太は震える手で頭を抱えた。
「そんな大掛かりなことをしなくても、あんたが普通に慰謝料を払うか、僕の絵を高値で買ってくれれば済む話じゃないか! なぜそうしないんだ!」
「それができないから、こうして提案しているんですよ」
京介は大げさに溜め息をついてみせた。
「まず慰謝料ですが、相場である数百万程度なら払えますが、それではあなたの借金は消えない。それにそれ以上の額となれば、私の妻が黙っていません。かといって、無名の画家の絵をいきなり二億で買えばどうなるか? 脱税やマネーロンダリングを疑われ、税務署や国税庁が動き出します。そうなれば、金は没収され、私たち全員が破滅です」
京介は身を乗り出し、耕太の目を見据えた。
「ですが、『悲劇の天才画家の遺作』となれば話は別だ。どれほどの高値がつこうとも、正当な取引として認められる。怪しまれることなく、大金を絵里さんの元へ渡せる唯一の方法なんですよ」
京介の言葉には、抗いがたい説得力があった。
「そこまでして……あんたに何のメリットがあるんだ? まさか、僕を排除して、そのまま家族を奪うつもりじゃ……」
「まさか! 滅相もない」
京介は心外だという顔をした。
「これは純粋に、あなたへの贖罪なんです。私が壊してしまったあなたの家庭に対する、せめてもの償いです。約束します。私は今後一切、奥様とお子様には接触しません。二億円は匿名で、遺産として渡るように手配します」
嘘だった。真っ赤な嘘だった。
だが、精神的に追い詰められ、判断能力を失っていた耕太には、その嘘を見抜く力は残されていなかった。
「耕太さん。あなたが本当ご家族を愛しているのなら、これが最良にして唯一の手段だとは思いませんか?」
京介は腕時計に目をやった。
「あと数時間で、大賞の発表が行われます。迷っている時間はありません。今ここでご決断ください」
沈黙が車内を支配した。
耕太の脳裏に、絵里の笑顔が、双子の無邪気な寝顔が浮かんだ。
今の自分に何ができる?
借金取りに怯え、狭いアパートで爪に火を灯すような生活をさせることか?
それとも、自分の命と引き換えに、彼らに何不自由ない豊かな未来を与えることか?
答えは、あまりにも残酷で、あまりにも明確だった。
「……ははっ」
耕太の口から、乾いた笑いが漏れた。
「それしか、手がないのか……」
涙が頬を伝う。
「今まで懸命に追いかけてきた夢を……画家の魂だけでなく、この命までも金のために捧げることになるなんて。笑うしかないよ」
彼は天井を仰いだ。
「僕が今まで、売れない絵にしがみついて、家族に苦労ばかりかけてきた報いなんだな、これは……」
耕太は深く息を吸い込み、京介を見た。その目に宿っていた憎悪は消え、深い諦観だけが残っていた。
「……分かりました。その提案、受けます」
契約は成立した。
耕太は身につけていた免許証や財布、身元が分かるものをすべて京介に渡した。もはや彼は「山下耕太」ではなくなったのだ。
車が動き出す直前、京介は少しだけ窓を開けることを許可した。
すぐそこに見える我が家。カーテンの隙間から、朝の支度をする絵里のシルエットが見えた。
もう二度と、触れることはできない。
もう二度と、その名を呼ぶことはできない。
耕太は左手の薬指にはまっていた結婚指輪を、ゆっくりと引き抜いた。
指に残った白い跡が、これまでの結婚生活の証だった。
彼はその指輪を京介に託すと、霞む視界で愛する家を見つめ、最期の言葉を呟いた。
「絵里、空、陸……愛しているよ。さようなら」
ウィンドウが閉まり、黒塗りの車が滑り出す。
山下耕太という男がこの世から消滅し、作られた名画が産まれた瞬間だった。
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