第2話 DNA鑑定

 京介からの手紙を破り捨ててから、季節は二つほど過ぎ去ろうとしていた。

 ある日の午後、絵里は日課の買い物でスーパーマーケットを訪れていた。特売の赤札が貼られた野菜をカゴに入れていると、突然、背後から華やいだ声が掛かった。


「あれ? もしかして、絵里さん?」


 振り返ると、そこにはボディコンシャスなスーツに身を包み、ブランド物のバッグを提げた女性が立っていた。濃いメイクと派手なアクセサリー。記憶の中にある高校時代の面影を探すのに数秒かかった。

「やだー、久しぶり! え? 今何してるの? あら、かわいい双子ちゃん!」

 旧友は、矢継ぎ早に質問を浴びせてきた。

「へー、結婚してたんだ。ご主人は何をしている方? てか、この辺に住んでるの?」

 絵里は愛想笑いを浮かべながら、当たり障りのない返答をするのが精一杯だった。早くこの場を立ち去りたい。生活感の滲み出た自分の姿と、バブルの恩恵を全身で謳歌している彼女との対比が、どうしようもなく惨めに思えたからだ。

「あらそー。大変ねー」

 旧友は同情するふりをしながら、自慢話を始めた。

「私はね、夫のゴルフ場経営がうまくいってて、先週もハワイへ旅行してきちゃったわ。今はどんな事業を立ち上げてもうまくいく時代だから、美術品やらを買い漁っているのよ。あなたも買っておいたほうがいいわよ。何ならうちのゴルフ会員権、安く譲ってあげるわよ。まだまだ高値が付くからさー」


 絵里は用事があるふりをして、逃げるようにその場を後にした。

 しかし、スーパーの出口でふと振り返り、優雅に去っていく彼女の背中を見つめたとき、胸の奥で黒い羨望が渦巻くのを止められなかった。


 帰り道、両手には特売品が詰め込まれた重い買い物袋。前には双子を乗せた大型ベビーカー。

 その重みが、今の生活の閉塞感を象徴しているようだった。

 歩を進めるたびに、捨てたはずの京介の手紙の内容が、呪文のように頭の中でリフレインする。


(もし仮に……もし仮に、京介にそっくりな空があの人の子供だったら、彼はきっと喜ぶだろう)

 車輪がアスファルトを噛む音が、思考のリズムを刻む。

(でも、証明する手立てなんてない。今の医学じゃ無理だって先生も言っていた)

(でも、この子の顔を見れば、京介だってきっと自分の血を感じるはず)

(でも、たとえ片方だけでも養子に出すなんて、耕太が許すはずがない)

(でも……この子を養子に出せば、たいそうな謝礼がもらえるかもしれない。あんな惨めな思いをしなくて済むかもしれない)

(でも、ついこの前、貧しくても心豊かに暮らすって誓ったばかりじゃないの)


 思考は堂々巡りを繰り返し、答えの出ないまま、古びた我が家へとたどり着いた。

 

「ただいま……」

 玄関を開けると、そこには異様な空気が漂っていた。

 夫の耕太が、膝を抱えるようにしてうずくまっている。いつもの明るい笑顔はない。その背中はあまりにも小さく、震えていた。

 絵里は直感した。また、絵画展に落ちたのだろうか。

「どうしたの? またダメだった?」

 励まそうと声をかけた絵里に対し、耕太は顔を上げ、涙で濡れた瞳を向けた。


「ごめん、ごめん、ごめん……」


 壊れたレコードのように謝罪を繰り返す夫。その異様な雰囲気に当てられたのか、ベビーカーの双子が火がついたように泣き出した。

 赤子の泣き声と、夫の嗚咽が交錯する狭い玄関で、耕太の口から語られたのは、想像を絶する現実だった。


 親友が新規事業を始めるにあたり、開業資金の連帯保証人になったこと。

 その直後に親友が金を持ち逃げして蒸発したこと。

 そして、その借金二千万円が、保証人である耕太に回ってきたこと。


「二千万……」

 絵里は立ち尽くした。

 日々の食費を十円単位で切り詰めている生活の中で、それは天文学的な数字だった。

 貧しい暮らしの中でも、夫の夢を支えているという誇り、ささやかながらも温かい家庭を守っているという自負。それらが音を立てて崩れ去っていく音が聞こえた気がした。

 だが不思議と、取り乱すことはなかった。どこかで予感していたのだ。人が好すぎて、疑うことを知らない耕太には、いつかこんな日が来るのではないかと。

 絶望という名の冷たい水が、絵里の心を静かに満たしていった。


 翌日、絵里は決断した。

 プライドも、罪悪感も、すべてかなぐり捨てるしかなかった。子供を養子に出すつもりはない。ただ、ほんの少しでも支援をしてもらえないか。かつて愛した男、そして今も自分に想いを寄せているであろう男、京介に縋るほかに道はなかった。


 震える手でダイヤルを回す。

「……京介さん? お久しぶりです。山下絵里です」

 受話器の向こうから、懐かしい声が聞こえた。

「やあ絵里さん、お久しぶり。手紙読んでくれたんだね」

「ええ。返事もせずにすみません。事故で大変な目にあわれたそうで……お加減はいかがですか?」

 当たり障りのない挨拶の後、絵里は本題を切り出した。

「あのお手紙の内容について、一度お会いしてお話できないかしら」

 心臓が早鐘を打つ。しかし、京介から返ってきたのは予想外の言葉だった。

「ああ、その件なんだけどね。実は、妻が妊娠したんだ」

「えっ?」

「といっても、僕の子供じゃないんだけどね。第三者から精子提供を受けて、人工授精という形で子供を授かることになったんだ。科学の力はすごいよ。……ということで、養子の件は忘れてください。それじゃあ、お元気で」


 プツン、ツーツーツー。

 無機質な電子音が、絵里の耳元で虚しく響いた。

 終わった。すべてが終わった。

 受話器を置いた絵里の手は震えていた。京介に実の子供がいる可能性を伝えることすらできなかった。いや、伝えたところで何になる? 彼はもう新しい未来へ歩き出しているのだ。

 しかし、絵里の背後には借金二千万円という逃れられない現実が、黒い口を開けて待っている。後悔している暇などなかった。

 諦めきれない。いや、諦めるわけにはいかない。


 絵里は双子を抱え、家を飛び出した。

 電車に駆け込み、吊革につかまる。ポツポツと空席はあったが、座る気にはなれなかった。ベビーカーの中で無邪気に眠る双子の顔を見つめながら、祈るように思う。

(もし……もし京介がこの子をひと目見て、自分の子供だと直感してくれたなら。きっと支援をしてくれるはず。養子になんて出さなくていい、今の苦境を乗り切るだけの金があればいい。どうか、どうか……)


 かつて自分が秘書として働いていた、都心の一等地にそびえ立つオフィスビル。

 正面受付を通ればアポなしの訪問は断られるだろう。絵里は勝手知ったる裏口から侵入し、人目を避けるようにしてエレベーターに乗った。

 最上階、社長室の前。

 ここを開ければ、もう後戻りはできない。

 絵里は緊張で汗ばんだ拳を扉の前へ持っていき、ノックをしようとした。だが、ノックをしてもしなくても結果は同じだ。礼儀を気にするような間柄でも、状況でもない。

 手をそのままドアノブへ滑らせ、勢いよく扉を開け放った。


「失礼します!」


 広々とした社長室の奥、重厚な机の向こうに、車椅子に座って書類に目を通している京介の姿があった。

 京介は不快げに眉をひそめ、無遠慮な侵入者に目をやった。

「ん? ……あれ? 絵里さん?」

 彼は眼鏡を外し、驚きの表情を浮かべた。

「ちょっと前に電話で話したよね? どうしたんだ、急に」

 状況を飲み込めない京介だったが、絵里が息を切らして押しているベビーカーに視線が止まると、その表情が凍りついた。

 絵里はベビーカーを押し出し、京介の目の前へ進み出た。

「一歳と二カ月よ」

 絵里の声が微かに震える。

「あなたと別れてから、九カ月後に産まれたの。……どう?」


 京介は言葉を失ったまま、亡霊でも見るような目でベビーカーの中を凝視した。そして、ゆっくりと車椅子のロックを外し、吸い寄せられるように子供たちの元へと近づいた。

 ベビーカーの中では、双子がキャッキャと無邪気な声を上げている。

 京介の視線が、兄の空の顔に釘付けになった。

 目元、鼻筋、そして笑った時の口の形。それは鏡の中の自分を見るように瓜二つだった。


「そ、そんな……ぼ、僕そっくりだ……」

 京介の声が上擦る。生唾を飲み込む音が聞こえた。

「こんなことが……双子で……」

「いいえ。おそらくは片方だけ」

 絵里は冷静に、残酷な事実を告げた。

「片方だけ? そんなことありえるのか? ……でも確かに、こちらの兄の方だけが異常なほど僕に似ている。どうして、もっと早く言ってくれなかったんだ!」

「悩んだわよ!」

 絵里は叫んだ。溜め込んでいた感情が堤防を決壊させたように溢れ出した。

「夫に言えるわけないじゃない! あなたにも家庭があった。私だけの秘密にして墓場まで持っていくつもりだった。でも、あなたが自分の子供を欲しがっていると聞いて……それと……」

「それと? 何だ?」

「……実は今、お金に困っているの。少しでいい、少しでいいから支援をしてもらえないかと思って、恥を忍んで会いに来たの」

 絵里はその場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。

 京介はしばらく絵里を見つめていたが、やがて深く息を吐き、冷静さを取り戻した経営者の顔になった。

「そうだったのか。事情は分かったよ」

 京介は双子の顔をもう一度見て、強い光を宿した目で言った。

「でもその前に、本当に僕の子供かどうかを科学的に調べさせてほしい」

「調べるって……この子たちは私と同じA型よ。血液型じゃ証明のしようがないわ」

「『DNA鑑定』って聞いたことはあるかい?」

「DNA……?」

「ここ数年、警察庁の科学警察研究所が捜査に取り入れ始めた最新技術だ。髪の毛一本、皮膚一片からでも、個人の特定ができる。その応用で、親子関係もほぼ一〇〇パーセントの確率で判別できるそうなんだ」

 京介は熱っぽく語った。

「今の日本にはまだ民間で鑑定できる機関はないが、海外の研究機関になら依頼できる。費用はかかるが、僕がすべて持つ」

 絵里は躊躇した。子供たちに痛い思いをさせるのではないか。

「……痛いことはしない?」

「ああ。髪の毛を少し切って渡すだけでいい」

 それなら、と絵里は頷いた。

 

 社長室のデスクの上で、儀式のようにハサミが使われた。

 絵里、空、陸、そして京介。

 それぞれの髪の毛が少しずつ切り取られ、小さなビニール袋に入れられる。

 それぞれの袋に名前が書かれ、封がされた時、絵里は感じていた。

 これはパンドラの箱だ。開けてしまえば、もう二度と元の平穏な生活には戻れない。

 それでも、借金という絶望から逃れるためには、この箱を開けるしかなかったのだ。

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