第27話【アイル】
「こーら!アイル!アンタまた飯を抜いたわね!ちゃんと食べなさいって言ってるでしょ!大きくなれないわよ!」
こいつは頭が悪い女だ。
名前はアローニャとか言う。
俺が1食でも飯を抜いたことを知ると、すぐに大きな声を出して騒ぐ。
飯は3日に1回でも余裕で生きていけるのに、それをこのアローニャはどうも知らないらしい。
最低でも1日に2食と菓子を食わないと目を釣り上げて怒って追いかけてくる。
──この女がやっている宿に俺は今住んでいる。
ベッドのシーツを毎日変えるだとか、部屋をきれいに掃除するだとか、そんなわけのわからない貴族みたいなことを平民のくせにいつもしたがる。
人間は床でも寝れるということを知らない頭の悪い女だ。
息子のエルヴァは、アローニャが騒いでいることに慣れていて、リリアンという女が作った菓子をうまそうに食べている。
「お、落ち着いて、アローニャさん。はい、これ、次の新作なの。みんなで食べて。アイルも食べてね」
このリリアンというのは、貴族のドレスみたいな食べ物をいつも紙に描いている変な女だ。俺より子どもだが、絵がうまい。
菓子を作って売ってると言っていた。俺の食べる菓子もリリアンが作っている。子どもなのに菓子も作るのがうまい。
こいつも頭が悪くて、俺から金をとらない。
持ってないことを知ってるのかもしれない。
だが、払えと言われたことがないので、やっぱり頭が悪くて、金を貰うことを忘れているのかもしれない。
「俺は、毎日食わなくても、死なない」
「そういうことじゃないわよ」
アローニャが呆れた顔をして、俺を睨む。
食堂の扉の方が開いて、女が一人出てきた。
「アローニャ、声がこっちまで響いているのよ、少し控え目にね」
「マリリン」
「アイル、昨日の夜は浴場に寄らなかったのね。今日は寄りなさいな。それにしても、もう随分と話せるようになったんじゃない?サイトー様の講習もこの間ので終わりでしょう?」
こいつはマリリン。
リリアンの母親をしている女で、風呂とかいう、貴族でもあまり入らない場所の入り口にいつもいる。
浴場と言うそうだ。銭湯と呼ぶやつもいる。
この女も頭が悪いほうで、俺から金を取るのを忘れている。
しかも、アローニャと同じで、風呂に入れと口うるさい。風呂なんて入らなくても死なないってことを、誰か教えてやったほうがいい。
「お前らは、ゆっくり喋るから。ミアと、スティーナはたまに分からない、聞けない」
言葉は通じるようになったが、なんと言っているか聞き取れない奴もこの村には住んでいる。
ミアという女は二番目に早口で、捲し立てるように話す。
この村の村長という皺の多い男、一番えらいやつの孫だ。
貴族みたいな服を俺に着せようとしてくる。
あいつも頭が悪くて、高そうな布を使ってたくさんの服を作る。
それなのにこれは売り物じゃないといって、金もとらずに配っている。
だれか教えてやったほうがいい。
スティーナがこいつらに色々教えてやるべきだ。
あの女は金をとる。
金をとって、物を売る。
村に住んでいないが、よく村にきて色んなものを売って回っている。
一番早口なのはこの女で、リクドールという旦那の男がいないと会話するのも嫌になる。
リクドールは、もしも性奴隷になったら、主人から大事にされそうな、きれいな顔をしている男だ。
「アイルさんにお迎えがきてます」
ドアを開けで小さい女が入ってくる。
この女はハリサと言って、果物の皮や、野菜や草で布を洗う。
色を付けたら干して、それを使って何かを作っている。
俺が話したくないミアと一緒にいることが多いから、そこまで話したことはない。
俺のことをさん付けで呼ぶから、ハリサは少し苦手だ。
外にサイラスとクレイが立って待っていた。
後ろから村長も歩いてきている。
今日は訓練をすると言っていた。
戦う方法を身に着けて、敵から身を守るために必要な事だと言っている。
……サイラスは、好きだ。
俺が、ぶたれるのが怖くて木の剣を前に固まったとき、サイラスは泣いていた。
アローニャが作った飯の全部を吐き出しても、サイラスは全く怒らなかった。
クレイはずっと俺の身体を後ろから抱きしめていて、掃除に来たサイラスの嫁のセレナも、吐いたことを怒ったりしなかった。
ただ、何も言わずに片付けて、セレナだけがどこかに行った。
そして、産まれてまだ間もないという子供を連れてきて、抱っこするかと聞いた。
小さくて潰しそうだったから、俺は嫌だと言った。だが、サイラスは今日の訓練がこれだといって、俺が動くまでずっと待った。
俺は、そんなに小さくて柔らかそうな子どもを、落とさずに抱えられるとは思えなくて、言葉を尽くしてそう伝えたら、クレイが椅子を持ってきた。
座るようにサイラスは言って、この子は俺の娘だって笑った。
信じられないくらい柔らかくて、思ったより重い。
反対側からクレイが支えてくれていなければ、危なかったかもしれない。
この子どもの頬のことを、サイトーはむちむちと言うらしい。セレナがそう言った。
これが、むちむち。
サイラスは俺の頭をよく撫でるようになった。
うまくできたとき、訓練が終わったとき、様々な場面で俺の頭をくしゃくしゃにする。
最初は殴られると思って身体が動かなくなって、何度もサイラスは俺にいった。
おまえを殴るのは、おまえが誰かを殴ったり、いじめたり、そういうことをしたときだけだと、本当に、何回も、俺が覚えるようになるまで言った。
俺は帝国貴族に産まれた、らしい。
本当かどうかはしらない。
俺を買った女がそう言っていたから。
どこかの田舎の、どこかの家で、俺は男女の夫婦に育てられた。
自分の親だと思っていたそいつらは、俺が指示に従えるくらいの年齢になると、自分たちは親ではないとしつこく何度も言い聞かせた。
ここがどこで、俺が誰か、は教えられないと言って、家から出ることを禁じた。
食事は床にパンが置かれた。
少しずつ食って、それで3日は持たせるように指示された。
水は小さい樽に入れて、部屋の隅に置かれた。
1日で全部は飲むなと言われて、それも3日掛けて少しずつ飲んだ。
目を盗んで家を出ようとすると、殴られたり怒鳴られたりした。
だが、おとなしく家にいるあいだは、声を荒らげることも手を上げることも無かった。
小屋の中で、親ではない男女に育てられ、俺は恐らく10年ほど、そこで過ごしていた。
余計なことを知ろうとすると、酷く扱われるから、気になっても聞くことはせず、色んなことを見て覚えた。
ある日、見たことのない立派な乗り物が迎えに来て、俺は最初の主人の女の元で暮らすことになった。
その女は、俺のことを知っていた。
自分が憎む男の子供だと、お前は本当は貴族なんだと、笑いながら俺にいった。
俺は何を言われているのかよく分からなくて、うまく反応出来ずにいた。
女はそれが気に食わなかったみたいで、俺を蹴り飛ばして、俺の衣服をはぎ取るように従者に命令した。
裸にされた俺は長い何かで何度も痛めつけられて、後にそれが鞭だと知った。
女は蹲る俺の上で「初めに貴族として育てるべきだったわね」と吐き捨てるように言った。
この女は俺が絶望するところを見たかったのだと、奴隷生活の途中で知った。
女は俺を言いなりにして動かすことが好きだった。
寝所に毎日来るように言われて、その為に必要な色んなことを覚えさせられる。
女がいない間に、従者が詳しく俺に技術を叩き込み、うまくできないときは、身体中にありとあらゆる傷がつけられた。
女は俺の顔を気に入っていて、顔だけは傷付けない。
憎んでいると言った男に、俺は瓜ふたつなんだと言っていた。
俺は女の言ってることが全く分からなかった。
憎んだ男と同じ顔の俺をなぜ毎日寝所に呼ぶのか。
早く、殺せばいいのに。
女は貴族で、俺は女がいない間は地下に監禁された。
毎日同じことの繰り返しの中で、食事を持ってくる人間だけが定期的に変わっていった。
そいつらは様々な話を俺にした。
俺は少しずつ普通の生活がどんなものかをそこで知っていった。
だけど、貴族だと言われても、貴族の生活をして来なかったから、どれほど今が惨めで酷いかを語られても、そう思うことはできなかった。
女の失敗はそこなんだろう。
貴族の生活を経験させておけば、奴隷になったときにもっと俺が苦しむと思って、そうしなかったことを初めてあった日に悔いたんだ。
女は病気に掛かっていて、年が3回開けた中頃にあっけなく死んだ。
女が死ぬと俺は売りに出されて、違う女にまた買われた。
そこでは俺は人間ではなくて、地を這う生き物だった。
立つことは許されず、言葉を喋ることも禁じられた。
人間の動きをすると飼い主の女が酷く暴れるので、俺は動物になって、食事も排泄も女の前ですることを命じられた。
俺を飼った女は男が嫌いで、そのくせ俺の身体に興味があって、寝所にほぼ毎日呼んだ。
あちこち遊んでは壊して、治すのが難しいとなると、いよいよ見た目が悪いと言って、年が2回開けた頃に俺を売った。
次に俺を買ったのは男で、この男も同じように俺を寝床に連れ込んで気まぐれに奉仕させた。
何人も、何人も違う男が俺の繋がれている部屋に来た。
その度に尽くすよう言われて、うまくできないと意識がなくなるまで殴られた。
だんだん耳があまり聞こえなくなって、目もあまり見えなくなって、身体も動かなくなって、もう死ぬんだろうと思っていた。
呼吸が出来なくなりそうなとき、男が俺に言った。
「貴族に産まれて来なきゃ楽だったろうにな」
俺は貴族として育っていないのに、貴族という肩書きあるから客が喜んで買うのだと。
お前の家は各方面から恨まれていて、お前はそのはけ口だと。
俺は気付いてしまった。
産まれてこなれば、こんなふうにされることはなかったんだな、と。
主人となる相手が変わるにつれて、色んなことを知った。
俺は普通の人間として扱われたことが一度もない。
俺の知ってる普通の人間は、服を着替えたり、机に座って飯を食ったり、何かをして金を貰って、その金で何かを買って、夜になったら寝るために作られた寝床で眠る。
俺はそんな生活をしたことが、産まれてから一度もなかった。
生まれてこなければよかったんだな。
言葉を覚える授業をするといって、俺は2日おきにメローナという皺の多い女のところへ通うことが決められていた。
メローナも頭が悪くて、俺に甘いパイとかいう菓子を食わせようとする。
金を取らないから、こいつも頭が悪い。
メローナの家に村長やサイラスも来て、サイトーやモモも来て、他にも色んなやつが来る。
俺は言葉を覚える授業の最後に、長い文章で一つの話を語るようにと言われた。
それが出来れば講習は終わりになり、言葉は問題ないと判断するらしい。
俺が何も思いつかなくて喋り出さなかったら、村長が自分の話でもなんでもいいと言った。
だから、俺は、俺が知ってる俺のことを、なんとか組み合わせて話した。
つっかえたり、長くなったり、うまい言葉が見つからなかったりしたが、ようやく最後まで話し終わると、サイラスが俺を抱き締めて、今まで聞いたことないような大きい声で泣いた。
「訓練中にごめんね!ちょっとアイル!」
出た。
俺はミアの早口を聞きたくなくて、聞こえなかったふりをした。
ミアはため息をついて俺の近くに寄ってくる。
「あー!また着替えてない!新しい服を渡したでしょ?ずっとそれ着てるじゃない、ちゃんと洗濯しなさいよ。おにいさんなんだから!ちゃんとして!」
「俺はおにいさんじゃない」
「なに言ってるの!セレナさんが言ってるもの、アイルお兄さんって」
セレナは俺のことを赤子の兄みたいに言う。
俺はセレナから産まれていないのに、そういうことを言うから、セレナもちょっと頭が悪い。
「近いうちにセレナさんの所に行くんでしょ」
「……行くけど、なに」
「服をちゃんとして行きなさいねってことよ。セレナさんちには赤ちゃんがいるの、おうちを汚しちゃ駄目だもの」
俺が言葉を覚える講習で、最後に自分の話をしたあと、村の手伝いをしていたら、サイラスが迎えに来て、荷物をまとめてからうちに来いと言った。
「黒のやつがいい、それが欲しい」
「着替えるならなんでもよかろう」
村長がそう言ったから、ミアは仕方なさそうに頷いた。
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