第2章 大学生 ③ハッピーバースデーの夜

午前中で講義を終えた樹と4時限目まで授業があった楓は夕方5時に水道橋駅で待ち合わせた。4時50分だったけど、樹はすでに改札を出たところに立っていた。


白のオープンカラーのシャツにネイビーのチノパンというシンプルな服装が、背が高くすらりとした樹にとても似合っている。といっても楓から見る樹は何を着てもお洒落で似合っているのだけど。


樹に会うたび、楓はいまだにドキドキする。高校生の時から樹への想いに慣れることがない。樹を見たとたん、心臓が頬を染めてときめくのがわかる。


「ごめん、待った?」


樹は軽く首を振り「急がなくてもいいのに」と、笑って楓の手をとって歩き出した。どこに連れていかれるのかと思えば、駅を出てすぐ視界に入る東京ドームシティアトラクションだった。チケットカウンターで樹がナイト割引パスポートを買って渡してくれる。楓は最後に遊園地に行ったのはいつだろうと考える。確か小学3年生の時に両親に連れて行ってもらって以来だ。


バイキングやパラシュート。そして何といっても空で輪を描く大きな観覧車を見上げ、楓は子どもみたいに「うわあ」と声をあげた。


付き合い始めて間もないころ、楓は『樹と行きたいところ』『樹とやりたいこと』『樹と食べてみたいもの』など、ウイズ樹リストを勝手に作って樹に押し付けたことがある。その『樹と乗りたいものリスト』に夜の観覧車が入っていた。


「もしかして覚えていてくれた?」

「正確には夜の観覧車だったけどどうする?」


7月の夜の訪れは遅く、空はまだ十分な日差しを保っていた。パスポートチケットなのでアトラクションは乗り放題だ。2人は先に他の乗り物に乗ることにした。


空中で大きく揺れるバイキングにとんでもない角度で急降下するジェットコースター、高いところから水の中に飛び込むボートに可愛らしいメリーゴーランド。キャーキャー騒ぎながらお化け屋敷を出た頃には空は濃い紫へと移り、夕闇が近づいていた。


夏の金曜日。仕事終わりらしきカップルも増え、観覧車の入場口には15人ほどの列ができていた。前に並ぶカップルはまだ付き合い始めなのか言葉も少なく、これからゴンドラの小さな空間に2人だけになることに緊張しているようだった。ふわりとした花柄の白いワンピースに、このデートにかける彼女の期待までも舞っているようだった。そういう楓もウエストがギャザーになった藍色のノースリーブのワンピースで、いつもよりは気合が入っている。樹は列の後ろに並ぶと楓のワンピースを見て「同じ色。似合っているね」と空を指した。


藍色の空が墨をまとい始め、いよいよ夜になろうとしていた。2人が乗った観覧車が高い位置まで上がったときには白く小さく瞬く星がいくつも見えて、眼下にはキラキラした夜景が広がっていた。


きれい。観覧車の小さな窓から広がる風景に引き込まれ、楓の心も広がっていく。きれい。楓はもう一度小さく声をもらす。


樹と楓を乗せた箱が100mの高さに上がり、2人は宙に浮いている。楓は樹に顔を戻し「観覧車に乗るの、初めてなの」と告白する。子どもの頃に両親と行った遊園地に観覧車はなかった。観覧車を楽しみにしていたのは私だけではなくお母さんもお父さんも、特にお父さんががっかりしていたのを覚えている。


「じゃあ僕は初めての観覧車の男ってことだね」


樹にしてはめずらしく古臭くて面白くない冗談を言い、そしてそんな古臭くて面白くない冗談にも楓は照れてしまい、上手に言葉を返せない。本当はそれこそ古臭くてよくあるパターンの観覧車の中でのキスとかあるかも、とか思っていたくせに。


楓は3回目の「きれいだね」を口にして、また外に視線を逸らした。それから景色に魅入っているうちに、小さな空間の中で樹と向き合っていることが恥ずかしくて外ばかり見ているうちに、あっという間に15分の乗車時間は過ぎて、観覧車は地上に戻った。


「お腹空いてる?」


観覧車の小さな個室から出て緊張がほどけたとたん、樹に聞かれ、楓は「聞かれたとたん空いてきた」と答えた。時刻は夜の7時半になるところだった。


樹はスマホでどこかに電話をいれて、それからまた行き先を言わずに楓の手を引いた。連れていかれたのは地上50階建ての高層マンションで、入り口でとまどう楓を気にせず樹はエントランスのインタフォンを押した。ガラス張りの扉が開く。中に入るとまるでホテルのような広いホールがあり、樹は受付にいるスーツ姿のコンシェルジュに軽く頭を下げて挨拶すると、慣れた様子でエレベーターに乗り込んだ。


話の流れからレストランにいくのだと思っていた楓は先が読めず不安になる。ここが樹の家ではないことはわかる。


「誰かの家に行くの?」

「そうともいえるし、そうじゃないともいえる」と樹はあいまいな答えかたをして、32階でエレベーターを降りた。


「え、なに? もしかして秘密クラブとか? まさか危ないパーティとかじゃないよね」という言葉は無視された。


樹が鍵のかかっていない3205室のドアを開けると、途端においしそうな匂いが漂ってきた。玄関から廊下を進んで広いリビングダイニングに入ると、6人掛けの白いテーブルがあり、すでにランチョンマット、グラス、食器が整えられていた。


「おかえり」


カウンターキッチンの奥から突然、胸からエプロンをかけた大柄で彫りの深い顔の男性が現れて、楓はあっと声を上げて1歩退いた。


「そんなに驚かなくても」


目元を緩め、とたんに親しみのある顔になったその男性を樹が「僕の従弟」と紹介する。


「初めまして。ユーゴです」

「日向楓です」


挨拶は交わしたもののまだ事情がわからない楓に、樹とユーゴが種を明かした。


「ここ、ユーゴ君が住んでいるマンションのゲストルームなんだ」

「樹がいきなりおいしい料理を教えろって言うから何かと思ったら、彼女のために作るなんていじらしいこと言うわけよ。でも一から教えるの時間かかるし、面倒だろ。だからこの場所を提供して、ついでに従弟のよしみで手伝ってやったわけ」


「あっ」楓は樹とのあるシーンを思い出した。それは昨年、大学のカフェテリアで樹とランチを食べていたときのことだ。樹の従弟は料理が上手で、樹も簡単なものなら自分で作って食べるという話を聞いて、楓は樹の料理が食べてみたいと口にしたのだ。


昼間、樹はユーゴに教わりながらここで料理の下準備をしていたらしい。樹からローリエかローズマリーか、ハーブの香りがするような気がしたのはそのせいだったのだ。


「すぐできるから座って待ってて」


樹がカウンターの中に入ってまず手を洗い、ユーゴの隣で一緒に盛り付けを始めた。


「でも手料理よりフランに誘った方がよかったんじゃないの? 席とってやったのに」

「フラン?」


まさに今頃、健夫と美幸がフランでワインを傾けているはずだ。


「ユーゴ君のお父さん、フランのオーナーシェフなんだよ」

「ええ!」

「でも高いし大学生が行く店じゃないよな。肩が凝るだけだ」


生ハムとルッコラのサラダと真鯛のカルパッチョ、小エビのフリッター、バゲットが次々とテーブルに並べられ、慣れた手つきで冷えた白ワインのコルクをユーゴが開ける。しゅこっとコルクが抜ける控えめな音が響く。


樹が楓の隣の椅子に座るとユーゴが3つのグラスにワインを注ぎ、樹と楓の前に置く。そして「それじゃ楓ちゃんの誕生日に乾杯!」とグラスを掲げた。


「なんでユーゴ君が音頭とるんだよ」


あ、そうか、と笑ってそのまま席につこうとするユーゴを樹がじっと目で追う。


「いいじゃん、ちょっとくらい一緒に祝っても。メインの肉を焼き終えたら帰るからさ。いい男は1人より2人いた方が楽しいだろ」


ね、とにっこり笑いかけられ、楓はつられて笑い頷いた。ユーゴは27歳で料理は好きだがシェフになるつもりはなく、企業であと数年働いたらフランの経営を手伝うという。今日は有休までとって樹に協力してくれたらしい。


樹が彼女を連れてきたのが嬉しいのか、ワインを注いだり替え皿を出したりと、ユーゴはかいがいしく動き回り、よくしゃべり、笑い、ラムステーキを焼き終わると本当に自分の部屋に帰っていった。


「ユーゴさんて面白くて素敵な人だね」

「日本人離れした陽気さだろ。実際、母親がフランス人のハーフなんだけどね。伯父さんがフランスに料理の修行に行った時にフランス人の叔母さんと出会って結婚したんだ。でもユーゴ君はフランス人というよりラテンぽいけどね」


食事を終えると2人で食器を片付け、コーヒーを入れてソファに座った。樹が小さな箱を渡してきて、中を開けると小鳥の形をした木のバードアラームウォッチが入っていた。小学生の時から使っていた目覚まし時計の調子が悪くなり、いい加減新しいものに買い替えようかと思っていたところだった。


試しに目覚ましを鳴らしてみるとピピピ、チュンチュンと、かわいらしい小鳥の声が響く。これで起きられるのか若干不安があるものの、とても心地よい鳴き声だ。朝、小鳥の声を聴くたびに樹を思い出して幸せな気分になるだろう。


「有難う」


楓は時計を抱きしめた。


「朝ちゃんと起きられないの、目覚ましのせいにしてたから」


それから樹が楓のためにレンタルしてきた『わんにゃんレスキュー隊』のDVDをソファで寄り添いながら見た。ラブシーンも驚愕シーンもない映画だったけど、想像以上にハラハラしたりほろりとしたり、一度見ていた樹もまた真剣に見入っていた。


DVDを見終わって、楓は樹の手をそっと握った。


「樹」

「なに?」

「有難う」


樹はにっこり笑って、楓の体を同じようにそっと抱きしめた。


「楓、今日はずっと一緒にいようよ」


ドクドク、ドクドク、ドクドク、ドクドク、ドクドク。楓の胸の鼓動は跳ね上がり、楓を抱きしめている樹の胸にも聞こえているのではないかと思うほどだった。ドクドクしながら楓は「うん」と樹の腕の中で頷いた。



「へえー、それはよかったね」


心のこもっていない相槌を打ち、健夫はアイスコーヒーをズズッとすすった。2人はまた大学のカフェテリアにいた。また、というのは、ここのところ楓はしょっちゅう健夫と大学のカフェでだべっているからだ。健夫は「誕生日はどうだった?」と自分から聞いておきながら、楓ののろけ話におもむろにつまらなそうな顔をした。樹の従弟のユーゴがフランのオーナーの息子だということは話さなかったが、健夫の渋い反応から話さなくて正解だったと思った。


「あのさ、そっちから聞いておいてそのリアクションはなによ」

「だって僕の方はさんざんだったからさ」


健夫とフランに行ったものの樹に振られたことでむしゃくしゃしていた美幸は、まず白ワインを頼み、それもソムリエに勧められるまま1本6万円のボトルを注文し、その後も5万円のワインを追加してぐいぐい飲み続け、目の前の健夫よりもどこかで楓の誕生日を祝っている樹のことばかり気にかけていた。そんな話が楽しいはずもなく、さすがに健夫がたしなめると酔いが回っていた美幸はキレて立ち上がり、その拍子に手がワイングラスをはじいて床に落とした。


品のいい穏やかなにぎやかさの中に、グラスの砕ける異質な音が周囲の視線を集め、客の何人かは食事を中断して眉をひそめた。ウエイターが早足にやってくると美幸はふらつきながら逃げるように店を出ていき、慌てて健夫がチェックを済ませて後を追ったときには、もうタクシーに乗り込んで去った後だった。あとで美幸から詫びのラインが入ったが、彼女の記憶はまだらボケで、グラスを割ったところなどはすっぽり抜けていた――と、確かに散々なバースデーデートの成り行きを説明してくれた健夫はテーブルに頬杖をつき、はあーと大きく息を吐いた。


「樹君、むかつく」

「樹に罪はないでしょ」

「そうだけどさ」


フランでの食事代は25万円にもなってしまい、家族会員のカードで支払った健夫はバイトして返さなくてはならないとまた大きなため息をついた。

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