第2章 大学生 ④離ればなれ
高3で告白して樹と付き合えることになったものの、楓と樹の交際は他のカップルと比べるとぼんやりしていた。樹は優しかったけれど楓に対して恋愛感情があるのかどうかわからない曖昧さで、線路の2本のレールの上をそれぞれ歩いているみたいな、樹との間には縮まらない距離がある。
楓はずっとそんな風に感じていた。それはつまり樹が楓を求める気持ちの薄さ、気持ちの隙間だと思っていた。けれどバースデーデートのおかげで、そんな楓の心を覆っていた不安の霧は晴れていった。
楓は浮き立っていたけれど、樹のマイペースなスタンスに変化はなかった。
翌週の土曜日、樹と楓は「大哺乳類展」を見に上野の科学博物館に行った。
「ヘラジカってこんなに大きいのね」
「これ、マンモスの毛だって。本当にいたんだな」
「アルガリってツタンカーメンみたい」
「フクロオオカミって狼っぽくないね」
館内にずらりと展示された動物のはく製に圧倒されながら、樹と楓は興奮気味にいちいち感想をつぶやき、1体ずつ時間をかけて見ていった。特別展の後は植物や昆虫の常設展まで大喜びして見ていったので、昼過ぎに入館したのに展示を満喫して科学博物館を出たときには午後3時半を過ぎていた。夏の日の太陽はまだ高く、冷房が効いていた博物館を出たとたんに熱気が肌を包んだ。それでも緑の風景に誘われて、久しぶりに上野恩賜公園を見て歩くことにした。
園内には歴史物件がいろいろある。三代将軍徳川家光が作った上野東照宮や京都の清水寺にならって寛永8年に造られた清水観音堂を回って、ご尊顔のみ祀られている上野大仏の前に来た時だった。
来週から大学は50日間の夏休みに入る。まだ何も計画は立てていなかったが、楓は当然、樹とできるだけ遊ぶつもりでいた。だから留学すると聞かされたときにはあまりに驚いて、樹ではなく大仏様の顔を見つめていた。ワクワクしながら両手いっぱいに抱えていた夏の予定が大仏様の頭上から青空に一気に散っていく様子が見えた。樹の中には楓と過ごす夏のことなどこれっぽちも気にかけていなかったのかと、楓はすかすかした気持ちになる。
「留学?」
「うん」
そう言えば、そもそも樹がこの大学を選んだ理由のひとつは留学プログラムが整っているからで、留学のための校内語学能力テストに合格したらアメリカの大学に1年間留学するつもりだという話は前に聞いていた。ということを思い出した。樹は帰国子女で英語は得意だから落ちないだろうとは思っていたけど、その後留学について何の話も聞いていなかったので忘れていた。どうしてもっと早く教えてくれなかったのかと責めれば前に話したよね、となるに違いなく、それにたとえもっと早く聞かされていたとしても樹の予定が変わるわけでもない。楓はそう分析してしょんぼりするだけだった。
「いつから?」
「8月」
「3日後には8月だけどいつ行くの?」
「今度の木曜日」
楓は大きくため息をつく。
「あのね、確かに樹が留学するつもりだっていうのは前から聞いていたけど、もう少し早く教えてくれてもよくない?」
結局なじる。
「ごめん」
樹は楓の予想外に少し困った顔をした。
「どこの大学?」
「コネチカットにあるイエール」
コネチカットがどこら辺にあるかは知らないが、イエール大学が相当な名門校であるのは楓でも知っている。確かクリントン&ヒラリー夫妻にブッシュ大統領もイエール大学出身だったはずだ。
「すごいね」
「すごくはないよ。提携校にたった1年行くだけだから」
たった、と樹は言うが、1年間は大学生活4分の1の期間だ。樹と大学生活を一緒に過ごしたくて頑張って同じ大学に入ったのに、25%の時間が摂取される。次の樹の誕生日も、楓の誕生日も、クリスマスもお正月もバレンタインデーも離ればなれだ。と、抗議したいところだが、樹は留学制度があるからこの大学を受けたというところに考えが戻り、今さらぶつくさ言っても仕方がないと気持ちを胸に収めた。
1年が過ぎ、来年樹が戻ってくる頃は就活で遊んでいる暇はないだろう。そう考えると樹と大学生活をのんびり楽しむ時期はもう終わってしまったともいえる。
「ねえ、私と1年間も離れるのって」
樹は寂しくはないのかと、まるで私と仕事のどっちが大事なの? みたいなばかばかしい質問をしようとしてやめた。それと留学とは別の話だ。楓は唇を突き出し、抗議の視線で樹を見つめるだけにとどめた。
「口、とんがってる」
樹が笑って楓の頭を抱きよせる。樹のTシャツから綿と太陽とかすかな洗剤の匂いが香った。そして楓が欲しい言葉を放つ。
「寂しいよ。楓が近くにいないのは僕だって寂しい」
うそだ。そんな甘い言葉をささやきながら、6日後、樹は「じゃあね」と講義に行く時と同じ軽さでアメリカへと旅立った。
樹の出立の日はユーゴがわざわざ会社を休み、車で樹と楓を成田まで送ってくれた。渋滞を予測し早めに出たのに道は空いていて、予定よりも随分早く成田に到着した。11時45分の搭乗時間まで1時間ほどあったので3人で空港内のカフェレストランに入った。店内はこれから出国するビジネスマンや旅行客、見送りらしき人で8割がた埋まっている。店内の奥の空いた席に座り、楓が何気なく大きな窓の方に顔を向けると、窓際の席で旅先のガイドブックを楽しそうに覗き込んでいるカップルが目に入った。自分もこれから樹と海外旅行に行く側だったらいいのにと、うらやましく思う。
「楓ちゃんも一緒に行けばよかったのに」
運転するのでビールが飲めないユーゴがソフトクリームてんこ盛りのフルーツパフェを頬張っていた。
「そうですね、と言いたいところですが英語の選考試験、私にはハードル高すぎて無理です。4人しか受からないんですよ」
「そうか。樹は帰国子女だしな。そもそも向こうの大学に入ればよかったのに」
「それも考えたけど4年はちょっと。日本とアメリカ、2年ずつ半々で行けたらベストだけど」
4年間留学することも考えたのか、2年間がベストだったのか、そこに楓の存在を考えたことはあるのか。楓は大仏様の前で樹から留学の話を聞いた時とまた同じ思考に陥る。楓が恨めし気な目で樹を見るとその気配を察したユーゴが「でも4年も離れ離れじゃ寂しいし、1年だって長いよね」と慌ててフォローした。
「それはもう」
瞳を伏せ、楓はしょんぼり度をアピールする。
「アメリカの大学は課題が多くて大変だからこいつ、きっとろくに連絡してこないよ。俺みたいにまめじゃないから」
「そんなことないよ」
樹はこれみよがしに美味しそうに生ビールをごくりと飲んだ。それに対抗するようにユーゴはアイスクリームの底に埋まっていたイチゴを頬張った。
「あるよ。おまえはマイペースというかクールっていうか、自分の世界で泳ぐ美しき熱帯魚みたいなやつだからな。すぐ周りを忘れちまう」
熱帯魚ってなんだよ、と樹が顔をしかめる。
「アメリカで楽しんでる樹のことなんて思っていても無駄だからさ、楓ちゃんも忙しくしていた方がいいと思う」
そう言われても何をすれば樹のいない時間を埋められるのか、楓にはわからなかった。車の免許でも取りに行こうか。いや、きっと教習所に行くたびに、樹と一緒に免許を取りに行くはずだったのにとか思って余計気が沈むに違いない。楓はそうですねと曖昧に返事をしてクリームソーダのアイスをすくった。
「じゃあうちの会社にバイトに来ない? それかフランのバイトっていうのもありだけど」
「あ、それはいいね。ユーゴ君の会社でバイトすれば就活にも役立つし」
樹が目を輝かせて賛同する。
「じゃあ、決まりだね」
なぜか樹の返事が楓の承諾ということになり、ユーゴは楓が何も言わないうちにその場で会社に連絡を入れ、勝手に話を進めていく。これを大人の行動力というのか早合点というのか、樹が一人気ままに泳ぐ熱帯魚なら、ユーゴは人を巻き込む波のようである。ザッパーンと飛沫をあげる音と共に、ウエーブにくるくる巻き込まれる自分が見えるようだった。
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