第2章 大学生 ②邪魔をしないで

最初の4人での食事はとても雰囲気がよいとは思えなかったのに、なぜかその後も繰り返された。健夫は一目ぼれした美幸と会う機会を増やしたくて、美幸は樹と一緒に過ごしたくて、4人での食事会を計画するのだ。つまり楓だけはただのダシというわけだ。断ればいいのだが樹は「楓がいいならいいよ」と言うし、健夫からはおごるからお願いだから参加してよとしつこく拝まれて、渋りながらも「樹がいいなら」とつい承諾してしまうのだ。


健夫は美幸さんに会った最初のときに抜け目なくラインの交換をしたようで、それから精力的にくどいている。美幸は樹に熱を上げながらも、家が裕福で車もお金もあってなんでも言いなりになる健夫をアッシー、メッシー、貢君にして、自分の都合に合わせて使っているようだ。


「ねえ、健夫君と美幸さんはどういう関係なの? 一応付き合っているの?」


楓と健夫は大学のカフェにいた。大きな窓からは50mくらいありそうな大きなヒマラヤスギが見える。空に向かってそびえる緑の円錐形は7月の強い日差しを受けながら悠々とキャンパスを見下ろしている。神々しいその姿からこの大学では御神木のような存在である。その御神木に目をやっていた健夫が楓に視線を戻し「どうなんだろう」と首を傾げる。


「どうなんだろうって、どうなの?」

「デートはするけど、彼女まだ樹君に執着してるし。楓ちゃんがいるのにファイターだよね」


氷が溶けて麦茶色になったアイスコーヒーを、健夫はストローですすった。


「美幸さんは樹を振り向かせる自信があるのね。そんな美幸さんを追いかける村井君もかなりのファイターだと思うけど。ねえ、美幸さんと樹って最後までいってると思う?」

「それ僕に聞く?」

「ごめん、だってほかに聞く人いないし」

「いいよ、僕の最大の関心事でもあるからね。美幸さんはいろいろ理由をつけて樹君を誘ってはいると思うけど、それに樹君がのっかてるかどうか。どうかなあ、普通は誘われたらいっちゃうけど。楓ちゃんはどう思う?」

「わからないから聞いてるんだって」


2人が抱き合っている姿は容易に想像できる。楓と健夫は一緒に顔を曇らせ、同時にため息をついた。


「健夫君はそれでも美幸さんが好きなんだ」

「好きだし絶対に彼女を落として見せるという信念をもって追いかけている」

「すごいね」

「楓ちゃんこそ。樹君に文句言わないの? 他の女と浮気するなって」

「だって本当に浮気しているかわからないし、わからないのに突き詰めるのやだし。だいたい浮気ってなんだろうね。気持ち? 身体? もし樹が他の人と会ったり寝ちゃったりしていたとしても、本人が浮気だと思っていなかったらそれは大したことじゃなくて、大したことじゃないと思っていることに文句を言っても意味がない気がするんだよね」


健夫が楓をまじまじと見る。楓の回りくどい説明に「ばかじゃないの」とあきれているのか「へえー」と納得しているのかその視線から察することはできず、楓はエアコンで冷えてきた腕をさすりながら、健夫のものと同じように麦茶色になったアイスコーヒーのストローを口に含んだ。


同じ学部の生徒が数人連れだって入ってきて、健夫と楓に気づいて手を振ってきたので、楓も小さく振り返した。視線を健夫に戻すと健夫はまだじっと楓を見ていて、「なによ」と楓が怪訝な顔をすると「いやさ、そうなんだよ、男にとってセックスって特別な人とは特別なんだけど、でも体だけっていうのもありありなんだよ。特に若いうちなんて、体が年中ムラムラしているわけよ。喉が渇いて水を欲するように、愛はなくても体が求めるわけよ。機会があればやっちゃうわけよ。のど乾いた、水がある、いただきます、みたいな。だからといって文句を言う意味がないと思える楓ちゃんてすごいなと思って」と、わけわからない自分勝手な解釈を述べて頷いている。


楓は、私はまだ樹とセックスしていないんだよ、とはさすがに言えなかった。一応、彼女である楓とはまだなのに、他の女性とは――美幸とはしているかもしれないと想像すると、楓は深い穴を掘って夏だけど冬眠したい気分になった。


喉が渇いても楓という水は欲しないのか。そういうことなのか。自分は欲されない女なのか。彼女なのに。一応は――。


今日は特別な日なのに、朝から浮き立っていた楓の気持ちはがくんと急降下していく。どうして美幸のことなんて聞いてしまったのだろう。楓は後悔した。そんな気配を察したのか、「ところで楓ちゃん、今日誕生日でしょ」と健夫が明るい声で聞いてくる。


「何で知ってるの?」


嫌な予感が座らりと広がる。この大学で楓の誕生日を知っているのは樹だけのはずだ。わざわざ樹が健夫に伝える理由はない。だとすると樹から美幸に伝わったのか。楓の眉間には無意識に皺がよっていた。


「実は美幸さんも今日が誕生日なんだよ」

「え!」


本当はげっ! と声をあげそうになったのを、なんとか“え”に留めた。


「でさ、僕この日のために親父のコネまで使ってフランって店を予約したわけよ。フランって知ってる?」


その店はグルメに強いこだわりのない楓でも知っている。セレブがこぞって訪れる超人気のフレンチレストランだ。予約は2年先まで埋まっていると、少し前にテレビで紹介していた。


「さすがお坊ちゃま」

「なのに美幸さんたら、じゃあ樹君たちも誘いましょうよ、とか言うわけよ」

「げっ!」


今度は抑えきれなかった。でも健夫は気に留めずに話を進める。


「けどフランってコース料理が安いやつでも5万はするわけ。ドリンクいれたら1人7万くらいはかかる。そんな店、気軽に誘えないだろ? 美幸さんはまた僕が出せばいいと思っているんだろうけどさすがにさあ。そしたら美幸さんが自分と樹君の分は私が払うから、健夫君は楓ちゃんの分を払ってよっていうわけよ。それ、おかしくない? 僕が楓ちゃんの分を出して、彼女が樹君の分を出すって」


事の成り行きに不安を感じるのを通り越し、楓は美幸の勝手さに腹が立ってきた。

先月、7月22日の楓の誕生日をふたりで祝おうと樹が言ってくれたとき、楓がどれだけ嬉しくて、どれだけ今日を楽しみにしてきたことか。付き合い始めて最初の誕生日は受験を控えていたからファミレスで勉強しながらカフェオレを飲んだだけだし、昨年は生ガキに当たって食中毒になり、ちょうど誕生日をはさんで10日間も寝込んで誕生会どころではなかった。樹の誕生日には樹がインフルエンザにかかってやはり誕生日は祝わなかったのだ。


今日のふたりの時間だけは邪魔をされたくない。


「まさか承諾したわけじゃないよね」


とんがった視線を楓は健夫に放った。


「もちろん。でも美幸さんが勝手に樹君に話をしちゃった」

「ひどい。美幸さんてデリカシーなさすぎじゃない?」

「その上自己中だからさ、引かないわけよ。楓ちゃんも誕生日ならちょうどいいじゃない、一緒に祝いましょうよ、普通じゃ行けない素敵なレストランでこっちもちなんだから楓ちゃんも喜ぶわよとか言っちゃって」


上から目線、半端ない。


「それで?」


まさか結局、承諾したのか。健夫が悪いわけではないのだが、楓の口調はついきつくなる。健夫は崩れた氷だけになった楓のグラスに目をやり、まあまあ、コーヒー1杯おごってあげるから落ち着いてと、勿体つけて席を立った。


話の展開でもし樹が美幸に押されてしまった場合、樹とふたりで祝うはずの楓の誕生日は美幸のためのものになり、それならいっそ一人で過ごしたほうがましだ。もしそうなったら自分は参加しないと、楓は不貞腐れながら心に決めた。


両手にコーヒーを2つ持って戻ってきて、その一つを楓の前に置いてくれた健夫に礼を言いながらも楓は睨んだ。楓はいつもよりミルクと砂糖を多めに入れて乱暴にかき混ぜ、一口飲むと目をあげて健夫に続きを促した。


「楓ちゃん、泣かないでよ」


ああ、やっぱりそうなのかと、楓はコーヒーカップの中を覗き込んだ。力が抜けて、腹が立って、がっかりして本当に泣きそうだったから「もういいよ」と、結末を聞くことを放棄した。けれど健夫は話し続けた。


「楓が喜ぶことは僕が一番知っている、楓の誕生日は僕が祝うからいいよ、だって」

「え?」


楓は顔を上げた。


「樹君、楓ちゃんのこと大切に想ってるんだなって、僕またキュンとしちゃったよ。たとえもしも他の女とバンバン寝てたとしても」

「バンバンは余計だから」

「いいなあ。僕の今宵はきっと誕生会というよりくやしさと怒りで荒れる姫の接待だな」


あーあ、と健夫は椅子の背に体を預け、腕を伸ばした。ぼやきながらもどこかひょうひょうとしている。


「とりあえずお互い楽しい誕生祝いを。美幸さんにおめでとうって伝えておいて」


楓は乾杯と言ってコーヒーカップを掲げたが、健夫は口をへの字にしてわざとらしくずずずと音を立ててコーヒーをすすった。


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