第2章 大学生 ①美幸さん

楓はどうしても樹と同じ大学に通いたくて、これまでの志望校よりランクをあげて、樹と同じ大学を受験することにした。担当の先生も両親も、実は楓自身も無理だろうと思っていたのに、樹だけは大丈夫、きっと受かるよと根拠なく応援してくれた。


この適当な言葉に楓は俄然やる気を出して、早朝から深夜まで受験勉強に打ち込んだ。大学のキャンパスを一緒に歩き、図書館で一緒に勉強し、カフェで一緒にお茶を飲む――樹との大学生活を妄想しながら猛烈に受験勉強に励んだ。


その結果、樹と学部は違うが、同じ大学の一番入りやすそうだった学部になんとかギリで合格できた。愛の力は強い。楓は自分のことながら感心した。


高校生の頃、何となくかっこよかった樹は、大学生になるとはっきり「イイ男」になっていた。少しシャープになった大人びた頬、無邪気さに色気が加わった瞳、高3の時、楓より少し高かっただけの身長はグイグイ伸びて185センチになっていた。


高校生のときでさえ、あれほどモテていたのだ。ここではどれだけの女子を引き寄せるのだろうかと楓は不安になった。だから楓は樹になるべくくっついていたかった。なのに、樹は学部が違う上にいつもゼミだったりバイトだったり、同じ学部の友人との付き合いだったりと、楓が思い描いていたほど樹と一緒に過ごす時間はなかった。


映画でも美術館でも、空いた時間にふらりと1人で行ってしまう。

「なんで誘ってくれないの?」と楓が聞けば「だって急に見たくなったから」と言い、「でも声かけてくれてもいいじゃない」と文句を言うと「わかった、今度は誘うよ」と、むくれる楓の頭をなでて笑う。だけど、たいていは一人で行ってしまうのだ。それが、大学の講義が終わってラインをチェックすると、めずらしく樹から「これから映画を見に行くけど行く?」と入っていた。すぐに「行く!」と返信したのにレスがなかった。もう1時間も前のことなので、多分すでに映画を見ているのだろう。講義中はラインの着信音を止めていたので気づかなかったが、途中でラインをチェックすればよかったと楓は後悔した。


何の映画をどこで何時から見るのか、何も情報が書かれていなかったので、楓は追いかけようもなかった。それでも誘ってくれたことに満足していた。なのに映画を見終わった樹から、「映画終わって美幸さんとご飯を食べに行こうって誘われたけど来る?」というラインが入って、気分が急降下する。


美幸は樹と同じゼミにいる1年上の先輩で、最近ちょくちょく樹の会話に登場する。少し前に彼氏と別れたというどうでもいい話も聞いた。頭が良くて、はっきりした顔立ちの美人でスタイルもいい。見た目、美幸と樹はお似合いで、2人を恋人同士だと勘違いしている人も多いのがまた癪に障る。そして寂しいことに、樹には楓という彼女がいるということはあまり認知されていない。


楓は美幸と一緒の食事に気乗りしなかったが、樹を彼女と2人だけにするのはもっと気乗りがしなかった。そこで同じ学部で親しい村井健夫も誘って合流することにした。指定されたダイナーに行くと、先に店に到着していた樹と美幸は4人掛けの席に向かい合わせに座っていて、楓は樹の隣に、健夫は美幸の隣に座った。樹と美幸に面識のない健夫が軽く自己紹介した後で「なんの映画を見てきたんですか」と2人に尋ねると、それがねと、美幸がおかしそうに目を細める。


「わんにゃんレスキュー隊」

「え!」


驚いた楓に美幸が顔を向けた。


「樹君がどんな映画が好きなのか興味があったけど、あまりにイメージが違って私も驚いちゃった」


それはアメリカのファミリー映画で、ブルドックのボブやペルシャ猫のファニーが周囲の動物たちの困りごとを解決していくというシンプルなものだけど、強面だけど優しいボブと頭がよくてクールなファニーは予告を見ただけでもとても魅力的だ。楓が驚いたのは別に樹のイメージと違っていたからではなくて、春に封切されてから楓もずっと見たいと思っていた映画だったからだ。


「面白かった?」


目を輝かせて訊ねる楓に、それまでリアクションもなくメニューをのぞいていた樹が顔を上げ、「めちゃ面白かった」と口角をあげた。「やっぱり」と楓が同意する前に美幸が「え~そうかなあ」と甘ったるい声で反論し、そこで映画の話は終わった。


夕食の時間にはまだ早く、みんなそれほど空腹ではなかったので、サラダ、フレンチフライ、チキンナゲットと、あとはビールを頼んだ。


初めての顔ぶれなのでお互いの馴染み加減を確かめながら、話は浅くとりとめなく流れていった。2杯目のビールを飲みながら健夫が斜め前の樹をじっとり眺めながら言う。


「それにしても日向さんの彼氏ってどんな人かと思ったらイケメンで驚いちゃった。どっちかといえば美幸さんの彼氏に見えるよね」

「どういう意味よ」


楓はテーブルの下で健夫の脛を蹴った。


本当のことだけど。本当のことだから腹が立つ。美幸も否定はせずに「そう?」と、右頬にかかった髪をかき上げた。小さなダイヤのピアスがきらりと光る。多分「そう?」ではなく「そうよね」と断言したかったに違いない。


樹は興味なさそうに、実際興味がないのだろう、オニオンリングを口に運ぶ。


「こんなモテる彼氏だと楓ちゃん心配でしょう。樹君、誰にでも優しい女たらしだし」

美幸がねっとりした視線で楓を見る。


「女、たらしてるの?」

楓は隣でオニオンリングをもぐもぐさせている樹の頬を指でつついた。樹は「たらしてないよ」と言って、オニオンリングの油でてらてらした指を楓の手の甲にすりつけた。


「あ、やだ!」

なんでこういう子供みたいなことするかな。楓はナプキンで手の甲の油を拭きとり、それを樹の掌に押し付けると、そのナプキンで樹も自分の指をぬぐった。


「そう? 私、いろいろうわさを聞くけど」

笑っているようで笑ってない目で言う美幸に「普通そーいうこと彼女の前で話します? 興味あるけど」と健夫が釘を刺すと、美幸は「あ、ごめんなさい。つい……」と楓に謝った。つい、ではなく、わざと、だろうけど。


健夫のせっかくの気づかいだがここで話を中断されても気にかかるので「どんな噂ですか?」と楓が聞くと、美幸は「いいのかしら」と今さらうかがうように樹を見た。楓のことはどうでもいいが、樹の機嫌は損ねたくないのだろう。


「別にいいよ。僕も知りたい」

「ゼミの女子に片っ端から手を付けるとか、飲みに誘って必ずものにするとか――」


それを聞いて楓は思った。嘘だ。それはない。樹は自分から女をひっかけないし、誘うこともない。ただ誘われたらそのときの気分で行くかもしれない。成り行きで寝るかもしれない。それだけだ。


たとえばすごくきれいで目立つ子がいて樹がその彼女を見たとしても、「きれいな子だね」と、客観的な感想で終わる。一方、樹に見られればほとんどの女子は心を持っていかれるが、それだって当の樹はまったく気付いていない。そこらへん、樹はとても鈍い。楓は樹が本当に心惹かれる女性とはどんな人なのだろうといつも考えているし、そしてそんな女性が現れることを恐れてもいる。だから楓は驚かなかったし、樹は少し面倒くさそうな顔をしただけだったし、健夫だけが “やばくね?”みたいに目をあちこちに動かしていた。


一瞬その場がシンとすると、樹がふっと笑った。


「それはない。僕には楓がいるし」

ね、と樹が楓を見て笑いかけ、楓は樹の口からのぞく犬歯までカッコいいなと思った。


健夫がとろりとした目で胸に手を当てた。


「いいね、なんかキュンとする」

「なんで健夫君がキュンとするのよ」

「だって今のシーン、正面から見てみなよ。いいなあ、日向さん」


不満げにビールグラスを持ち上げる美幸にも樹は笑いかける。


「美幸さんのことも僕から誘ったことはないよね。いつだって誘ってくるのはそっちだもん」


美幸はムッとした目で「あ、そうか。誘われたら行くんだっけ」と返して、グラスに残っていたビールを空けた。


店を出ると外はすっかり暗く景色は夜になっていて、空に星が2つ大きく輝いていた。会社帰りの人だろう。スーツ姿の人たちが慌ただしく駅に向かって歩いていく。美幸が腕時計を見て「まだ早いけど、どうする?」と、みんなに尋ねる。


「僕は帰る」と樹が真っ先に答える。

「樹君の家、どこだっけ?」

「等々力」

違う。それは楓の家だ。


「嘘つき。等々力ではないよね」

また適当なことを言っていると美幸が笑う。


「嘘じゃない。今日は楓の家に帰るから」

美幸の笑顔が少し歪んだ。


樹がじゃあと言って楓の手をとりさっさと歩き出したので、楓も引っ張られながら慌てて健夫と美幸を振り返り「それじゃまた」と言って歩き出した。


樹は駅に行く手前で道を曲がり歩き続ける。なんとなく適当に歩いているだけなのだろう。楓は何も聞かず、樹に手を握られ歩く。握られた手のひらから幸せが体中に巡っていくようだ。


「ねえ、私もあの映画見たかったのにどうして美幸さんを誘ったのよ」

「だから誘ってないよ。ゼミが終わってこれからどうするのって聞かれたから映画に行くって答えたら、じゃあ私も行くって勝手についてきたんだよ。それに楓を誘っただろう」


楓が欲しかった答えが返ってくる。


「そっか」

「まあ楓には楓の都合があるからね」

「さっき説明したけど、単に講義中だったの」

「もう誘わない」

「なんでよ」


こんなちゃらちゃらしたやりとりが楓にとってはとても幸せだった。


環状八号線沿いの歩道を歩いていると、途中に歩道橋があった。排ガスや粉塵でくすんだモスグリーンの歩道橋。人は誰もわたっていない。少し行けば横断歩道があるのでわざわざ階段を上がるのを避けているのだろう。


樹が歩道橋を上がるので楓もついていく。少し高い場所にいるだけで随分と見晴らしがいい。2人並んで手すりに肘を乗せ、赤いテールランプや白のヘッドライトが連なり走り抜けていく様子を眺める。


空には半月より少しふくよかな月が白く輝いていた。


「楓っていい名前だよね」

樹が道路に目を向けたまま言う。


「唐突になに? 酔ってる?」

「まだ酔っていない。これから楓の家で酔う」

「親いるし、無理でしょ」


楓も樹もまだ家族と一緒に暮らしている。東京の大学に通うのに家を出る必要がないからだ。でもこんな時、一人暮らしだったらと楓は思う。途中のコンビニでビールやつまみを買って、2人で楓の部屋に帰って、飲みながらDVDを見たりして、それから――と想像してドキドキする。


楓はまだ樹とそういう関係ではいない。キスはした。そこで止まっている。


「そうか、残念」

大して残念そうな響きはない。


「で、どうして急に名前の話?」

「よく思うんだ。派手じゃないけどいつもいっぱい手を広げて頑張ってる感じのカエデの葉ってユニークで可愛くて、楓にぴったりだなって。もし楓が死んじゃっても、僕はカエデの葉を見るたびに楓を思い出すよ」

「勝手に先に殺さないでくれるかな」

「ねえ、車に乗って2人でどこかに行くとしたら楓はどこに行きたい?」


また唐突に話題が変わる。

楓は線のようにつながって流れていく白や黒やブルーの車を眺める。どこだっていいけど。


「2人とも免許持ってないよね」

大学に受かったら一緒に免許を取りに行こうと話していたのに、楓たちはまだどの教習所に行くかも決めていなかった。


「そういうことは横の方に置いておいてさ」

「うーん、奈良に行って鹿におせんべいあげたい」


楓は奈良に行ったことがなく、以前鹿せんべいを差し出せば鹿がわんさかよってくるという光景をテレビで見て以来、奈良というより奈良公園に憧れている。


「いいね、鹿せんべいを大盤振る舞いして鹿に囲まれたい」

考えることは楓と同じのようだ。


「樹は?」

「一番遠いところ。楓とだらだらドライブを続ける」


車で行ける一番遠いところってどこだろう。最南端の沖縄は車では行けないから、フェリーを使って北海道の最北端か、それとも鹿児島だろうか。でも場所なんてどこでもいい。樹と一緒ならどこだって楽しいと、楓は運転する樹と助手席に座る自分を想像する。


「いいね」

「いいだろ」

「じゃあさ、とりあえず免許取りに行こうよ」

「そうだね」と言って樹がふいに楓を抱き寄せ、唇を重ねる。


少しだけ空に近い場所で交わしたキスはとても甘くて、落下しそうなくらいしびれたけれど、でも頭の片隅で、樹はこんなキスを他の人ともしているのかな、楓はそんなことも考えていた。



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