第七話 静寂が心地よい図書室

 顔を上げると、そこはすっかり見慣れた炊事場で。

 彼や彼女が、カレーライスを作っていて。良い匂いが鼻を突き、具材の煮える心地の良い音が耳に聞こえてくる。

 だが全くと言っていいほど、空腹は感じない。むしろたどり着いた結論により、胃にずっしりと重いものがあり、食欲どころか吐き気を感じるぐらいだ。

 とりあえず、彼女に何か言われないように、僕は近くの玉ねぎを手に取って剥き始める。玉ねぎの薄皮を剥き、刺激のある臭いを鼻孔で受け止めながら。

 僕はこのループを引き起こしている、元凶の「望み」について考えることにした。

 先生の凶行を阻止することが、「望み」ではないことは前回の繰り返しで明らかになった。

 しかしこの繰り返しは、先生が僕たちを惨殺した時から始まっている。このループに先生が関係しない、ということはないだろう。

 だとしたら。元凶が望むことは。

 ぱりっと最後の皮を剥いて、僕は裸になった玉ねぎを、まな板の上に置いた。

 僕が。

(僕が先生のことを、殺すことだ……)

 初めから先生の殺害は、凶行阻止の手段として考えていないわけではなかった。

 しかしさすがに倫理観が許さなかったし、ただの子供である僕が先生に叶うわけがなく、結局は僕の方が殺されるのがオチだと思っていた。

 だから「殺す」以外の手段で、なんとしてでも先生の凶行を阻止し、みんなを助けようと思っていたのだが。

 どうやらそれは不可能らしく。結局は僕の手で先生の命を奪わなければ、永遠にこの悪夢の中に閉じ込められることになるのだろう。

 僕が、僕がやらなければならないのだ。たとえどんなに抵抗があったとしても、進む道は最初から一つしかない。

 二個目の玉ねぎを手に取って、僕は目をつぶると短く息を吐き出す。

 なんて、グダグダ考えたところで、やるべきことは変わらないのだ。

 だったらとっとと覚悟を決めて、実行のための計画を練った方が、ずっと有意義じゃないだろうか。

 ゆっくりと、僕は目を開く。僕自身からは見えないが、己の瞳に今、明確な殺意という者が宿っていたらいいと切に願う。

 僕は、先生を殺す。どんな手段を使っても、なんとしてでも。

 今まで先生が僕にしてきたように、先生の命を奪って。この繰り返しに終止符を打つ。

 何度も繰り返し、僕は自分に言い聞かせながら。僕は玉ねぎの皮をばりばりと剥いてゆく。

 置いてあった玉ねぎは、瞬く間に剥き終えて。煮込みやすいよう刻むために、僕が包丁に手を伸ばした時だった。

「……なあ」

 近くで声がして、僕は弾かれたように体を震わせてから、声の下法に顔を向ける。

 すぐ近くに、彼が立っていた。彼は僕のすぐ近くで、顔をまじまじと覗き込んできている。

「な、なに」

 あまりにも近い距離に若干気おされながらも、僕が彼に問いかけると、彼はさっと身を離した。

「ちょっと水が足りなくなってきたから、一緒に汲みに行ってくれないか」

 なんだ、そんなことか。緊張して損をしたと思いながら、僕は首肯して見せる。

「分かった。行こう」

 ニンジンを切る彼女に一言告げて、近くにあったバケツを手に取ると、彼と共に炊事場の片隅にある井戸に向かう。

 井戸は炊事場から少し離れたところにあって、僕たち以外の児童の姿はない。僕は飛び交う羽虫を手で払うと、バケツを地面に置いた。

「君の方が先に汲むか―――」

 言いながら、振り向いて。僕は再び近づいた彼の存在に、硬直してしまった。

 彼は改めて僕の顔を見つめながら、とても真剣な表情で言ったのだ。

「なあ、大丈夫か」

「大丈夫、って」

 心臓の鼓動が早くなるのが分かった。汗が出るのは、夏の暑さのせいだけではないだろう。

 彼の視線と僕の視線が重なったとき。彼はゆっくりと唇を開いて言ったのだ。

 それはきっと、繰り返すたびに僕の味方であり続けてくれた、彼だからこそ気が付いたことであり。

 もし問いかけたのが彼以外なら、僕は容易く笑い飛ばすことが出来ていただろう。

「なあ、お前何か隠してることないか?」


 学生である以上、避けては通れないものがある。

 それはずばり、定期テストであり。樽見第二中学校も例にもれず、毎学期中間と期末の二回のテストが必ずやってくる。

 元々頭の出来がいい生徒や、普段から勉強を習慣としている生徒、そうでなくても、テスト前にしっかりと勉強をする生徒なら、ある程度の点は取れるだろう。

 弓也もテスト勉強はしっかりするタイプで、一学期の中間と期末もそこそこいい点数を叩き出すことに成功したのだが。

 毎年十月に行われる、中間テスト開始まで残り三日。ホームルームが終わった直後の、夕日差し込む教室の中。

 目の前の机に広げられた、気持ちのいいぐらいまっさらなノート。弓也はそのノートに突っ伏して、さっきから頭を抱えていた。

「終わった……」

 あれから母の手術が成功し、無事退院したものの。その後も事後処理やなんやかんやに追われていて、気が付いたら取り返しのつかない状態まで来ていたのだ。

 せめてある程度はやっておこうと思うのだが。目の前の真っ白なノートを見れば見るほど、もはや手遅れなのではないかという絶望感が湧き上がってくる。

「諦めろ、弓也。どうしようもないことは、受け入れるしかないんだ」

 隣に座る友広が、光のない目で弓也の肩を叩く。こちらは勉強のことをほったらかして、遊び惚けていたという完全なる自業自得だが、友広も弓也と同じく一切のテスト勉強をしていない。

「でも、さすがに赤点はまずいだろ……いくら授業の範囲から出るとはいえ、予習も復習も一切してないのはまずい」

「だよな……ウチのテスト普通にレベル高いからな」

「ヤマを張って勉強するにも、範囲が地味に広いからな……はぁ、素直に受け入れるしかないのか」

 二人して頭を抱えて、ため息を吐きだしていると。帰り支度を終えた恭二が、たむろしている机に近づいてきた。

「よう。二人とも大丈夫か」

「……抜け駆け野郎は余裕でいいよな、余裕で」

 一人だけしっかりテスト勉強をしているからって、別に抜け駆けしたわけではないだろうが。正直弓也も友広と同じく、余裕をもってテスト勉強を済ませた恭二が妬ましかった。

 だから友広と二人で、恨みがましい視線を投げかけてやると。恭二は呆れたように笑ってから、人差し指を立てた。

「友広はともかく、弓也はまだ何とかなるんじゃないか」

「……え」

「ともかくってなんだ、ともかくって」

 噛みつく友広は無視して、恭二は弓也にさも当然のように告げる。

「お前、琴峰千早と付き合ってるんだろ。だったら勉強、教えてもらえばいいじゃないか」

「あ……」

 言われてみればそうだ。交際を始めてから色々な意味で千早との距離が近くなって、彼女が学年トップの成績を誇る才女であることをすっかり忘れてしまっていた。

 たとえ残り三日とはいえ、何も手を付けていないとはいえ。頭のいい千早に教えてもらえば、いい点とはいかなくてもある程度の点数は取れるかもしれない。

「実を言うとだな、俺も彼女に勉強を見てもらって……」

 始まった恭二の惚気自慢は無視して、弓也はスマートフォンを取り出すと、千早とのチャット画面を開く。

『千早。いきなりで悪いけど、今日の放課後テスト勉強しないか』

 元々今日は途中まで一緒に帰る予定だったのだが、果たして千早は了承してくれるだろうか。

 緊張しながらチャット画面を見ていると、すぐに既読マークがついて、千早から「OK」のスタンプが来た。

『私もちょうど仕上げをしたいと思っていたところだ。じゃ、図書室で待っている』

 添えられたメッセージに、喜ぶアニメキャラクターのスタンプで返信し。弓也はスマートフォンを仕舞うと、恭二に対してグーサインを見せた。

「はあぁー……このリア充どもがよぉ」

 一人だけ彼女ナシの友広の、嫉妬たっぷりな視線なんて一切気にせず。弓也はまっさらなノートを閉じると、足元に置いていたスクールバックの中に突っ込む。

「ありがとう、恭二」

「……いいってことよ」

「それじゃ、また明日」

 片手を上げて、友広の肩を叩いて。弓也は教室を後にした。

 テスト前で部活が休みなせいか、放課後の廊下はいつもより賑わっていたが。図書室前は何故か、誰もおらず静まり返っていた。

 扉を軽くノックして、弓也が図書室の中に入ると。中には「彼女」を除いて誰もいなかった。

 彼女、琴峰千早は弓也が入ってきたことに気が付くと、読んでいた本を閉じて立ち上がり、嬉しそうな笑みを浮かべた。

「案外早かったじゃないか」

「返信見てから、すぐ教室出てきたからな―――それより、テスト前なのにどうして二人きりなんだ」

 スクールバックをテーブルの上に置きながら、弓也は静寂の支配する図書室を見回す。生徒はもちろん、司書教諭の姿すら見えない。

「ああ。実は司書教諭がぎっくり腰になって、急遽休むことになったんだ。だから今日は閉鎖されるはずだったらしいが、私が先生に頼み込んで使わせてもらうことになった」

「そ、そうか」

 勉強しないか、とは言ったが。わざわざ閉まっている図書室を使わせてもらうなんて、少し大袈裟なのでは、と思った。

 だが教えを乞うのは自分の方なのだ、文句を言える筋合いはない。スクールバックを開き、教科書と筆記用具、例のノートを取り出すと。

 相も変わらずまっさらなページを開いて、弓也は目の前の千早に勢いよく頭を下げた。

「千早、頼みがある」

「どうしたんだ、一体」

「一緒に勉強しないか、とは言ったが。実は母さんのこともあって、全然テスト勉強が出来ていなくてな……その、だから」

「だから?」

「俺に、勉強を教えてくれないか……」

 ゆっくりと、弓也が顔を上げると。自分の教科書とノートを取り出していた千早は、呆れたように短く息を吐いてから、首を傾けた。

「別にそんなに必死に頼まなくても。僕と君の関係なんだから、もっと気軽に言えばいい」

「千早……」

「じゃ、さっそくやっていこうか。たとえ一切やっていなくても、要点だけ絞って復讐していけばすぐに終わる」

 心なしか楽しそうな様子で、千早は自分の筆記用具を取り出すと、数学の教科書を開く。

「苦手科目からやっていこう。確か前に、数学が苦手だと言っていたな」

「覚えて、いたのか」

「もちろん。そして都合のいいことに、数学は私の得意科目の一つだからな。どこをやればいいか、大体予想できる」

 しばらくの間、千早の説明と、筆記用具の動く音だけが聞こえた。

 千早の教え方はとても上手く、解けなかった公式がすらすらと解けていくのは気持ちよかった。

 数学の復習をざっと終え、公式の解き方を頭の中に叩き込むと。千早は歴史の教科書に手を伸ばす。

「次は時間がかかるであろう、歴史にしよう。その次は国語だ」

 歴史はヤマを張って、決めた範囲の中を重点的に覚えることにした。国語は出題されるであろう範囲を読み込み、文章の要点を掴む方法を教えてもらった。

 短くまとまった回答の書き方をマスターしたところで、弓也は一度ペンを置いて息を吐き出す。

「ちょっと、休憩しないか」

 弓也の提案を受けた千早は、ちらりと時計に目をやる。勉強を始めてから、二時間が過ぎようとしていた。

「……そうだな」

 飲食禁止であるため、本当はいけないのだが。各自持参している水筒で一息ついた後、弓也は軽く伸びをしてから微笑む。

「さすが、琴峰千早だな」

「どういうことだ」

「俺にはもったいなさ過ぎるぐらいの、良い彼女だってことだ」

 我ながらクサいと思う台詞を投げかけられて、千早は照れたのか俯いてしまう。

 そんな千早に、弓也はふと、前に林間学校で同じ班だったことを思い出したのを、言っていなかったことに気が付いた。

 休憩の雑談にちょうどいいネタだろう。俯く千早に、弓也は頬杖をついて口を開く。

「そういえばさ。小学生の時に、林間学校あったじゃん。あの時俺たち、同じ班だったよな」

「ツッ……」

 あまりにも勢いよく、千早が顔を上げたせいで。弓也は危うく、机に思い切り顔をぶつけそうになった。

「ど、どうしたんだ」

「いや……そうだな、続けてくれ」

 促されたものの、千早の様子がどこかおかしい。おかしいが、なぜ彼女がこんなにも、些細な雑談に反応するのかが分からない。

 とりあえず弓也は、促されるままに話を続けることにした。

「この前カレー貰った時に思い題したんだよ。前にも千早の作ったカレーを食べたことがあるって……あ、でもあの時は、背川も一緒の班だったか」

「……忘れて、いたのか」

「ん、ああ、まあな」

 なるほど。千早は同じ班だったことを、忘れていたことにショックを受けたのか。こちらにとっては些細な思い出でも、千早にとっては大切な思い出だった。だから弓也が忘れていたことに、目に見えるほど動揺してしまったのだろう。

「あの頃は、千早の魅力に気が付いてなかったからな」

「……」

「だってあの頃の千早は、見た目完全に男の子だったし、一人称も『僕』だった。そんな女の子が、まさかこんなに可愛いなんて、夢にも思わなかった」

「……そうか」

「まったく、もったいないことしてたよな。あの頃の俺は」

 弓也としては千早を励ますつもりで言ったのだが、言えば言うほど千早が落ち込んでいく気がする。

 なんとなく、気まずい沈黙が流れて。弓也は気を取り直したように、目の前のノートを開いた。

「さ、さあそろそろ再開しようぜ。次は理科を教えてくれよ。千早、得意だろ」

「……ああ、そうだな」

 やっと、千早の顔に笑みが戻って来て。ペンを手に取り、理科のテキストを開く。

 それから。最終下校時刻までみっちりとテスト勉強をして。明日明後日も一緒に勉強をする約束をし、弓也は帰路についた。

 千早と別れ、自宅へと向かう間。林間学校の話を出した時に、千早が見せた謎の動揺を思い出す。

 確かにあの林間学校はとんでもないことになったが、別に自分たちが被害を被ったわけではないし、今では過ぎ去った過去の一つに過ぎないはずだ。

 それなのに何故、千早はあんなにも反応したのだろう。彼女にとって、林間学校の何が心の琴線に触れたというのだろう。

「……分からない」

 これが、女心というやつなのだろうか。もっと長く付き合っていったら分かるだろうか、それとも永遠に理解不可能だろうか。

 色々考えながら歩いていると、いつの間にか家に辿りついていた。軽く息を吸い込むと、ビーフシチューのいい香りがした。

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