第八話 楽しい学園祭の人混みの中

「なあ、お前何か隠してることないか?」

 投げかけられたその一言に、いくらでも返すべきリアクションはあったはずだ。

 いきなりどうしてそんなことを聞くのかと、不機嫌になって突っぱねても良かったし。そんなことない、それよりもさっさと水を汲もうと、誤魔化して有耶無耶にすることもできたはずだ。

 だけど。そうするには、彼の存在はあまりにも。僕自身気づかないうちに、僕の中で大きくなりすぎていて。

 全てを見透かしたような彼の問いに、僕は結局何も言うことが出来ず、言葉に詰まったまま俯いた。

 そんな僕を見て、彼は目を閉じると、静かに息を吐き出した。

「やっぱりな。お前、明らかに様子がおかしかったもん」

「……」

 僕が何とか顔を上げて、口を開こうとするのを。彼は片手で静かに制した。

「別に、どうしても言いたくないっていうなら、言わなくてもいい。ただ」

 一度、足元のバケツに視線を戻してから、何かを決めたように僕のことを真っ直ぐ見据える。

「俺は、お前の味方だ。いつだって、どこだって、絶対に」

「ツッ……」

「だから、たった一人で犠牲になろうとすることだけは、やめろよな」

 彼は手を伸ばすと、僕の肩を優しく叩いて笑った。ああ、こんなことされたら、泣きそうになってしまうじゃあないか。

 彼の言葉が嘘ではないことは、今までの繰り返しでの行動がはっきり証明していて。否定するには、僕はあまりにも彼に信頼を寄せ過ぎていて。

 迷ったのは、結局数秒だけ。込み上げてくる熱いものを、僕は何とか飲み込んで。心に冷静さを保ちながら、彼の顔を真っ直ぐ見つめ返す。

「……やっぱり」

 嬉しさで泣きそうになるのをこらえて、僕は彼に告げる。

「君はいつだって、僕の味方であってくれるんだね」

 だから。僕は耐えきれずにじんだ一粒の涙をそっと拭ってから。自分一人だけでやろうと思い、胸の内に秘め隠していた意志を、彼に打ち明けることにした。

「僕はね、先生を殺そうと思ってるんだ」

「……え」

 目を見開いた彼に、僕は笑いかけて見せる。嘘じゃない、冗談じゃない、本当のことだと証明するかのように。

 それから。僕は今までのことを全て、彼に打ち明けた。先生の本性も、繰り返してきたことも、過去の彼も彼女のことも、一切包み隠すことなく。

 彼は僕の話を、黙って聞いていてくれた。笑うこともなければ、怒ることもなく、ただ静かに、真面目な顔で。

「―――だから」

 一通り話を終えると、僕は改めて彼の顔を真っ直ぐ見つめる。

「だから、僕は先生を殺さなくちゃならないんだ」

 何も言わない彼に僕は背を向け、井戸の淵に手をかける。

「信じても信じなくても、どっちでもいい。僕はやるよ、たとえ失敗しようとも、何度だって繰り返して、必ずやり遂げる」

「……」

「これが、僕の隠し事だ。満足したかい」

 話してしまったものの、彼は果たして信じてくれるだろうか。微かな期待と不安を胸に、僕がゆっくり振り向くと。

 いきなり彼の両手が伸びてきて、僕の体をしっかりと抱きしめたのだ。

「な―――」

「……俺が、何を言っても理解することは出来ないだろうけど」

 耳元で、感情の籠った彼の声が聞こえた。彼も泣きそうだった。

「今までよく頑張って来た、な」

 あれだけ頑張って抑えてきた涙が、溢れ出すのが分かった。

 慰めなんて最初から、これっぽっちも望んでいなかったはずなのに。理解される必要なんて、微塵も存在しないはずなのに。なんでこんなにも、涙が止まらないのだろう。

 僕が泣き止むまでしばらくの間、彼も半泣きになりながら、何も言わずに優しく抱きしめてくれていた。

 目から湧き出す涙がやっと止まると、僕は鼻をすすって、彼からそっと体を離す。彼もごしごしと目を擦ってから、僕に向かって拳を突き出した。

「俺が囮になってチャンスを作る。たとえ失敗してまた繰り返すことになっても、何度だって必ず、チャンスを作ってやる」

「……君も、巻き込まれて殺されることになるかもしれない、なんて」

「今更野暮だろ、そんなこと」

 彼の言葉に頷いて、僕は自分の拳を握りしめると、彼の拳にそっとぶつけた。

 彼がしてくれたように、僕も彼のことを信じよう。たとえ何度繰り返すことになっても、絶対に彼のことだけは信じよう。

 彼はいつだって、僕の味方であってくれるのだから。


 スポットライトが、舞台の上に立つ千早の姿を劇的に照らし出す。

「……いいだろう。その決闘、受けて立つ!」

 力強い台詞を、相対する主役の騎士に向かって放つ千早は、金髪のウィッグに中世風の衣装と、まさに「王子」といった姿をしていた。

「だが、私も彼女の為に負けるつもりはない、絶対に」

 少し離れたところに立つ、ヒロインの姫に軽く目配せしてから、千早は腰の模造レイピアに手をかける。

「さあ、やろうじゃないか、リヒト!」

 主役との問答を終え、雰囲気が最高に盛り上がったところで、始まる二人の剣戟。さすがにプロ並みとはいかないものの、動きとSEでそれっぽい雰囲気が出ていてなかなか迫力がある。

 樽見第二中学校第32回学園祭。各クラスが様々な出し物を行う中、二年A組はこの、舞台「純潔の花」をやることになったのだ。

 なんでもクラスに演劇コンクールのシナリオ部門で賞を取った生徒がいるらしく。脚本はその生徒の完全オリジナル、演出や監督も演劇部所属の生徒が務め、小道具も美術部員による手作りと、素人舞台にしてはかなり気合が入ったものになっている。

 で、物語は万人受けしやすく、主人公とライバルが姫を巡って争うというシンプルなものになっているが。そのうちのライバルの役に抜擢されたのが、他ならぬ千早だったのだ。

 十月のテスト後に行われたオーディションで決まったらしく、監督の生徒いわく「女だということを隠しながらヒロインの姫に接するうちに、いつしか友情を越えた感情を抱き始める男装女子の役を演じられるのは、君しかいなかった」らしい。

 練習のせいで一緒にいる時間が減ってしまったのは少し寂しかったものの。役が決まってから今日この日まで、弓也は愛する恋人の晴れ舞台をずっと楽しみに待ってきた。

 そして今体育館の片隅でこうして鑑賞しているわけだが、男装姿の千早はいつもと違った魅力を湛えていて、相対している主役の男子生徒がとても羨ましかった。

「くっ……」

 舞台の上では決着がつき、千早が膝をつく。主役の騎士に駆け寄る姫に、顔を上げた千早は悲し気な眼差しを投げかける。

「負けた、よ。最初からルナの心は君の、君だけのものだったんだね」

 台詞を言いながら、千早はレイピアの刃を自分の首へと向ける。慌てて止めようとする、騎士と姫の二人。

「だったら敗者は潔く、身を引くことにしよう」

 フリとはいえ、レイピアを首に突き刺すシーンに、弓也は思わず目を閉じてしまった。生々しいSEが耳に残っている。

 倒れ込んだ千早を隠すように、一度幕が下がってゆく。場面転換を終えた後、物語が更なる動きを見せるのだろうが。

 深呼吸を一度してから、弓也は再び上がる幕に背を向ける。そろそろ、持ち場に戻らなければ、さすがに友広たちに悪い。

 実を言うと、舞台の上演時間と弓也たちのクラスで行われる喫茶店の店員シフトが、もろに被ってしまっていたのだが。友広と恭二にフライドチキンと肉まんで穴埋めを頼み、抜け出して見に来たのだ。

 中学の学園祭であるため、飲食系の売店はカフェや駄菓子屋など調理の必要がないものに限定されているが。差し入れも兼ねて駄菓子の一つや二つ買っていってやってもいいかもしれない。

 体育館を出て廊下の階段付近に貼られた、手作りの案内板で出店の位置を確認して。ポケットの引換券を指先で軽く弄ってから、弓也は駄菓子屋を目指して歩き出した。一年生のクラスがやっている駄菓子屋は、自分の教室に戻る直前に立ち寄れて一石二鳥だ。

 一年C組の教室は、絵の上手い生徒が書いたと思われるお洒落な看板が掲げられていて、中に入るとたくさんの駄菓子が並べられていた。

 棒状をしたスナック菓子の、チーズ味とたこ焼き味を二本ずつ購入して、弓也は駄菓子屋の出口に向かう。味は色々用意されているものの、弓也はこの二つが頭一つ抜けて美味しいと思うのだ。

 あとは自分の教室に戻るだけだったが。スナック菓子の入った袋を持って、弓也が駄菓子屋を出た時だった。

「……あれ」

 ちょうど、目の前を一人の女子が通り過ぎて。変わっているところはあるものの、確かに見覚えのある彼女を、弓也はつい呼び止めてしまった。

「背川じゃん」

 名前を呼ばれて、彼女は振り向く。微かに染めた長髪に、スタジャンとジーンズの私服姿。学区の関係により違う中学に進学したため、今日は普通に客として来ていたのだろう。

 背川美利せがわみり。小学生時代に弓也と千早と同じクラスにいた少女であり、林間学校で同じ班になったこともあった。

「よ、久しぶり」

 振り向いた美利に対して、弓也が片手を上げて見せると。美利は一瞬驚いたように目を見張ってから、すぐに視線を伏せる。

「森、くん」

「元気だったか。小学校の時以来だよな」

「……別に」

 なんだか様子がおかしいような気もするが、急に話しかけたのがまずかったのだろうか。だが一度話しかけてしまった以上、下手に引き返すこともできない。

 駄菓子の入った袋を揺らしながら、弓也は俯く美利に対して言葉を続ける。

「そうだ。さっき千早の舞台を見てきたんだけど。覚えてるよな、千早のこと」

「……」

「琴峰千早。ほら、林間学校で同じ班だった……」

 林間学校。その一言を聞いた瞬間、美利は勢いよく顔を上げた。彼女の顔一面に、悲しみと苦痛の入り混じった表情が浮かんでいる。

「その話は、やめて」

「え……」

「あの林間学校で何があったか、あなたも覚えてるでしょ」

「でも、それはもう過ぎたことで―――」

「あなたの中では過ぎたことかもしれないけれど、私の中ではまだ残り続けているの。永遠にっ」

 最後の方は半ば叫ぶように言って、美利は弓也に背を向けた。

「背川……」

「お、いたいた。どこいってたんだよ」

 言葉に詰まった弓也が立ち尽くしていると。廊下の向こうから、一人の男子がやってくる。美利以上に派手な色に髪を染めた、いかにも遊んでいると言った風貌の少年。

 美利は彼と二言三言言葉を交わすと、一緒に歩き去ってしまった。

 弓也はしばらく無言で彼女が立ち去った場所を見つめていたが、やがて静かにため息を吐きだすと、自分の教室に戻ることにした。

 あの林間学校で起こったことは、確かに忘れられないかもしれないが。忘れられないのと、割り切れないのはまた別のことだ。

 美利は未だに割り切れず、前に進めていないのだろう。人それぞれだと思うが、なんというか、少しだけ哀れに思えた。

 もっとも。自分がどうにかできるものではなく、過去と折り合いを付けられるかは、本人次第なものだから。

 一緒に去っていったあの男子に微かな不安を覚えながらも、弓也は今あったことは頭の片隅に追いやって、サボっていた分の埋め合わせに励むことにした。

「遅かったじゃないか、この野郎」

 弓也が「ストラックアウト」の看板が掛かった教室に入ると、カウンターに立っていた友広が駆け寄ってくる。

「ごめん。それよりほら、これやるよ」

 駄菓子の入った袋を友広に押し付けると、友広は中を覗き込んでからため息をついた。

「まったく、俺はめんたい味至上主義だって何度言ったら……」

「いらないなら、後で千早と二人で食べるけど」

「は?誰がいらないなんて言ったし」

 袋をしっかりと握りしめる友広に対して、弓也はにやりと笑うと、教室の片隅にまとめておいてある荷物の中から、自分のエプロンとバンダナを取り出して身に着ける。

 午後には千早と一緒に、学園祭を回る約束をしているのだ。気兼ねなく楽しむためにも、サボった分はしっかり頑張らなくては。

 気合を入れ直した弓也が、やって来た客を案内し始めるころには。忙しさと楽しさによって、美利のことは綺麗さっぱり、頭の中から消えてしまっていた。


 約束の時間は午後一時半だったが。出店が思ったより繁盛してしまったため、十分程度遅刻してしまった。

 待ち合せ場所に指定していた、空き教室の休憩スペースに向かうと。千早は片隅の席に座って、ぼんやりとパックの緑茶を飲んでいた。

「ごめん、遅れた」

 弓也が片手を上げて近づくと、千早はストローから口を離す。

「お疲れ様、弓也くん」

「そっちこそ。劇、見させてもらったぜ」

 弓也が隣に座ると、千早は若干照れたように、手元のパックへ視線を戻す。

「どうだったか。その、変じゃなかったか」

「変じゃないどころか、とてもカッコよかった。男装も新鮮でいいな」

 返事はなく、代わりに千早は弓也を軽く握りしめる。何も言わないが、喜んでくれていることがはっきり伝わってきて、とてもかわいい。

「それじゃ、行こうぜ」

「……うん」

 席を立って空のパックを捨てて、休憩スペースを出ると。色鮮やかな看板が掛かった教室の並ぶ、廊下を二人で歩きだす。

「どのお店から行こうか」

 弓也の問いに、千早はポケットから店舗案内が印刷されたコピー用紙を取り出す。

「そうだな……三年C組の出している、小物の店に行きたいかな」

 一通り目を通した後、紙を仕舞う千早に、弓也は無言で手を差し出す。千早は差し出された手を握ると、一切躊躇うことなく指を絡める。

 学園祭も後半戦に突入したことがあり、どの店も客を取り込もうとより一層の盛り上がりを見せていた。

「そうだ、千早」

 階段を上がりながら、弓也は思い出したように、隣の千早に顔を向ける。

「さっき背川に会ったんだ。覚えてるか、六年のとき同じクラスだった、背川美利のこと」

 弓也としては、ただの雑談のつもりだったが。

 ぴたりと、千早は足を止めて。驚きに、微かな仄暗い感情の混じった表情を浮かべ、握っていた手を静かに離した。

「どうしたんだ、千早?」

「……いや、何でもない」

 もしかして、千早と美利は仲が悪かったのだろうか。だが思い出す限りでは、そんな話は聞いたことが無い。

 だったら一体どうして、美利の名前を出しただけで、千早はここまで不快感を露わにするのだろう。それも嫉妬とはまた違った、もっと純粋で重い感情を―――

「……実は背川美利について、良くない噂を聞いているんだ」

 戸惑う弓也の前で、千早は短く息を吐くと、いつもの彼女に戻る。

「中学に上がって以降グレて、悪い仲間とつるんで遊びまくっているらしい」

 千早の言葉に、弓也は美利と一緒に去っていった、茶髪の少年のことを思い出す。悪い仲間。真面目なところのある千早が、そんな話を聞けば、不快感を抱いてもおかしくない、かもしれない。

「だから、背川美利には関わらない方が良い。僕も、君も」

 はっきりと、強めの語気で言ってから。千早は数歩階段を上がると、弓也に対して離した片手を差し出す。

「それよりほら、早く行こう。もたもたしていると、時間がなくなってしまうから」

「ああ、そうだな」

 差し出された手を改めて握ると、千早は柔らかく微笑んだ。そこにもう、あの不穏な雰囲気はない。

 時々、千早が見せるあの雰囲気は何なのだろうか。林間学校、背川美利。一体何があったというのだ。

 確かに、あの林間学校ではとんでもないことが起こったが。それが何か、関係しているのだろうか。


 山の中で、先生の遺体が見つかったことが。


 だがどれだけ考えても、分からない。分からないなら、これ以上触れることにより、千早との関係に歪が生じるのは避けたかった。

 疑問ともどかしさを飲み下して、弓也はちょうど辿り着いた三年C組の教室を見上げる。

 今はとにかく純粋に、学園祭を楽しもう。己にそう、言い聞かせて。

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