第六話 暑さが残る校庭の片隅
相変わらず周囲には田んぼしかなく。電話ボックスの内部は虫の死骸やたばこの吸い殻で汚れ放題だったが。
前回と違って、自分の体から流れ落ちる血で、赤く染まらないだけ。随分ましだと思えるものだ。
電話ボックスの中に入ると、僕は天井の蜘蛛の巣に引っ掛かった蛾の死骸を一瞥して、受話器を手に取る。
ポケットから硬貨を取り出し、投入口に入れると。一切迷うことなく、「110」をプッシュした。
今回は繰り返した直後から常にこの電話ボックスに来ることを意識して、若干強引でも構わずに集団から離れ、ここへやって来た。後で少し面倒なことになるかもしれないが、先生にみんな殺されるよりはましだろう。
『はい、こちら110番。事件ですか、事故ですか』
呼び出し音が一回鳴っただけで、通話は繋がった。有難いことだが、ここからが重要だ。
短く息を吸って、吐き。胸の中を仮初めの焦燥と動揺で満たしてから、僕は受話器に向かって叫ぶ。
「た、助けて、助けてください……」
『どうしたんですか?』
対応したオペレーターの声色がさっと変わった。どうやら効果はあったらしい。
あとは前回、叔父さんに調べてもらった情報を交えつつ、言いくるめていくだけ。
「先生が……先生がいきなり、僕たちに襲い掛かってきて……」
話しながら、泣きそうになる。半分は演技で、半分は本気で。
「な、なんか、「運命だ」とか「あの時と同じだ」とか、そんなことを言って……助けてください、助けて……」
『落ち着いてください。今どこにいるか分かりますか?』
「お、折干山、です。林間学校で、来ていて……」
少し間があった。恐らく折干山について調べているのだろう。さすがに位置や交通機関だけだと思うが、もう少し時間をかけて調べれば、必ず過去の女児行方不明事件が出てくるはずだ。
『……分かりました。すぐにパトカーを数台向かわせますので、その場で動かずじっとしていてください』
やや緊張感を帯びた様子でそう言われて、通話は切れた。通話をつないでおいてください、と言わなかったのは、逆探知か何かで電話ボックスからかけていることが分かったからだろう。
受話器を置いて、僕は額に浮かんだ汗を拭うと、息を吐き出す。
これで、ひと段落。四回目にして、やっと先生の起こす惨劇を阻止することが出来たのだ。
たとえ先生が、やってきた警察にいたずらだと弁明しても。こちらには女児行方不明事件の情報という切り札があるのだ。刑事たちを言いくるめ、先生を連行させられる自信はある。
万が一刑事を説得できなくても、これだけの騒動が起きれば、先生が凶行を中止する可能性、もしくは林間学校自体が中断される可能性が十分にある。どちらにしろ、分の悪い賭けではないのだ。
電話ボックスの外に出て、僕は晴れ渡った青空を見上げると、胸いっぱいに熱気を含んだ空気を吸い込む。
「終わった、のか……」
久しぶりに、清々しい気分だった。遅かれ早かれみんなの元に戻らなければならないが、もう少しこうして、この爽やかな気分を堪能していたいと思った。
なんて。僕が考えながら、歩き出した時。
いきなり視界が歪んで、体がふらつくのが分かった。頭が、頭が割れるように痛い。
「な、なにが、何が起こったんだ……?」
歪み変色していく異常な視界の中、痛む頭を押さえ涎を垂らしながら、僕は現状を何とか認識しようと試みるが。
何が起こったのか、まるで分らなかった。一体どうして、こんなことになってしまったのだろう。
ただ一つ確かなのは、死の直前に訪れるあの感覚が、僕の中で湧き上がってきていること。でもここには先生もいないし、熱中症にしても明らかに症状がおかしい。
僕は何故、死ぬのだろうか。このタイミングで急病、なんてあまりにも都合が悪すぎる。
都合が悪い。その言葉に、僕は痛みで涙が零れるのを感じながらも、はっと顔を上げる。
そうだ、都合が悪いのだ。だから僕は殺される。僕にとっては都合が良いことも、元凶にとっては都合が悪いから。
元凶。つまり僕をこのループの渦の中に閉じ込めている存在。そいつにとって、警察への通報は都合が悪かった。だから僕を殺して、もう一度繰り返させるのだ。
どうやら先生の凶行を止めることは、元凶の望むことではなかったらしい。だとしたら、僕をループさせてまで叶えたい望みは一体。
……いや。もうとっくに分かっているはずだ。先生の凶行を止めることが望み出ないのなら、残るは一つしかないことは。
ずっと前から、最初から。気づいていたはずなのに、目を背けていただけなのだ。
僕は、僕が、先生を―――
母の体に癌が見つかったのは、ちょうど夏休みが終わる頃だった。
幸いなことに検診による早期発見で、しっかりと摘出すれば命に別状はないとのことだが、手術と経過観察のために半月ほど入院することになった。
「ごめんね、しばらくお家空けることになっちゃって」
着替えなどの入った鞄を持って、病院で別れるとき、母は申し訳なさそうに言った。
「自炊しろ、とまではさすがに言わないから、ご飯はちゃんと食べるのよ」
心配そうな母に、弓也は力強く胸を叩いて見せた。
「俺は大丈夫だから。母さんの方こそ、ゆっくり休んで、しっかり治して帰ってきくれよ」
息子の頼もしい様子に、母は少しだけ安心したのだろう。頷いて、ちょうどやってきた看護師に案内されて、病室へと歩いて行った。
そんなわけで、しばらく父と息子の二人暮らしになったわけだが。
母に見得を切った手前、しっかり分担して家事をこなそうということになり。協議の結果洗濯は弓也が、掃除は父がやることになったのだが。
ここで男二人とも、料理がまるでできないという問題が浮上し、頭を抱えることになった。
母は外食で構わないと言ったが、さすがにある程度は自炊しようということになり、父と交互に料理をすることになったのだが。
初日に野菜炒めを作ろうとして、炭と呼称するのが相応しい代物を生み出して以来。父も弓也も連敗続きなのだ。
今朝も例外ではなく、フレンチトーストを作ろうとして、生焼けの名状しがたい何かを錬成し。仕方なくそれを腹に詰め込んできたせいで、午前中の半ばから繰り返しトイレにいくことになってしまった。
昼頃には何とか腹具合も落ち着いてきて。給食のありがたみを感じながら食べ終えた後、弓也は千早との待ち合わせ場所へと向かった。
残暑はあるものの、8月よりは幾分マシな気温になった外の空気を感じながら。校庭の片隅に設置された、二人掛けのベンチを目指す。
部活を行う生徒の為に設置されたベンチだが、昼休みはもっぱらカップルの待ち合わせ場所になっていて。
弓也がたどり着くと、既に千早が座って待っていて、カバーのかかった文庫本を読んでいた。
「千早」
弓也が声をかけると、千早は本から顔を上げる。
「やあ、遅かったじゃないか」
「ごめんごめん……実はちょっと腹を下しちゃって」
腹部をさする弓也に、千早は呆れたようにため息を吐きだした。
「また、料理失敗したのか」
「ま、まあな」
千早には母が入院していることも、自炊が上手くいっていないことも話してある。あれからメッセージアプリのIDを交換して、やり取りを重ねているのだ。
「まったく。君と君の父が料理を出来ないということを見越したうえで、君の母は買ったものでいいと言ったのではないか?」
「う……そうかも、しれないけど」
ベンチに並んで座りながら、千早の正論に言葉も出ず、弓也は頭を抱えて項垂れる。
「でも外食や弁当ばっかりじゃ、体に悪いだろ。だから朝食ぐらいは作ろうと……思ったんだけどな……」
自分の料理スキルでは、自炊した方が体に悪いのではないか。あまりにも情けない事実に気づいて、弓也は項垂れたままため息を吐きだす。
そんな弓也に対して、千早は本を閉じながらやれやれといった顔をすると、おもむろに自身の隣に置いてあった、巾着を手に取り弓也に差し出した。
「頑張るのは良いが、ただ頑張るだけでは意味がない。ほら、これ」
「これは?」
顔を上げて、弓也は差し出された巾着を覗き込む。
巾着はどうやら手作りらしく、すぼめられた口に触れて広げ、中を覗き込んでみると、タッパーとメモ帳が入っていた。
「君でも作れそうな簡単なレシピと、見本サンプルだ。基本レシピ通りに作れば、問題ないだろう」
「……なんか良い匂いがするんだけど」
「サンプルの方は、今日の夕食にでもしてくれ。あまり量はないが、味がしっかりしているから問題ないはずだ」
千早は弓也の広げた巾着をきっちりとすぼめると、弓也の膝井上に置いた。
正直、感謝の気持ちと嬉しさが混じって、ちょっと泣きそうなのだが。まずは言うべきことを、ちゃんと言っておくことにした。
「ありがとう、千早」
心からの感謝の言葉に、千早は照れたように、人差し指で頬を掻いた。
「……なんたって私は、君の彼女だからな。手料理ぐらい、作ってやりたくなるだろう」
可愛い。こんなにも可愛くて、料理も上手くて、優しい女の子が彼女なんて、自分はなんて幸せ者なのだろう。
言い過ぎかもしれないが、今の弓也には千早が女神のように思えた。いや、弓也の中で千早は、紛うことなき女神だった。
だから弓也は片手を伸ばし、千早の手を握って笑うと、もう一度、今度は愛情もしっかり込めて言うことにした。
「ありがとう、千早」
「……」
完全に照れた様子の千早は、誤魔化すように俯いてから。握られた手にそっと力を込めてくる。
「残さず、食べてくれ」
やっと口から出てきた言葉に、弓也は当然とばかりに頷く。
「ああ、もちろんだ。千早が作ってくれた料理を、残すなんてとんでもないからな」
恥ずかしさが限界に達したのか、千早に軽く小突かれてしまったものの。
昼休みの終了を告げるチャイムが鳴るまでずっと、二人で他愛もないことを話して過ごした。そのひと時が、弓也にとってなによりも幸福な時間に思えた。
夜。帰宅した弓也は手洗いうがいと着替えを済ませると、千早から貰った巾着をもってキッチンに向かった。
仕事で遅くなる父の分を、半分取り分けてから。タッパーを電子レンジに入れて、レトルトのご飯と一緒に温める。
レンジが稼働している間、食器とインスタントのコーンスープを用意し、電気ケトルにミスを入れてスイッチを押しておく。
やがて加熱が終わった小気味よいメロディが電子レンジから響くと、中のタッパーとご飯を取り出して皿に盛り付ける。盛り付けが終わった後、沸いたお湯でコーンスープとほうじ茶を入れて、食卓に座って手を合わせる。
「いただきます」
千早が作ってくれたのは、キーマカレーだった。一口食べてみると、カレーと豚ひき肉の風味が口いっぱいに広がる。
「……うめぇ」
一緒に入っていたメモの中に作り方が書かれているだろうから、食べたいのならまた作ることが出来るが。上手くできるとは限らないし、何より「千早が作ってくれた」ということに意味があるのだ。
しばらくの間空腹に身を任せてキーマカレーを味わってから。コーンスープを一口飲み、弓也は息をつく。
「……そうだ」
一息ついた時、不意に思い出したことがあった。千早が作ってくれたのが、キーマカレーだということもあるかもしれない。
そういえば小学生の頃、林間学校で千早と同じ班になり、一緒にカレーを作ったのだ。あの頃は千早のことを、これっぽっちも意識していなかったから、さっぱり忘れてしまっていた。
あの林間学校では本当に色々なことがあったが。今はもう懐かしい思い出である。
今度千早に、思い出したことを話してみてもいいかもしれない。ぼんやりと考えながら、弓也は置いていたスプーンを手に取って、食事を再開することにした。
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