第三話 雨の降り注ぐ帰り道
一体どうしてこんなことになってしまったのだろう。なんて、思ったときにはもう手遅れで。
木々のそよぐ心地よい音と、目の前の光景のギャップにめまいがしそうだった。これが単なる悪夢に過ぎないのなら、どんなに良かったことだろう。
「……はぁ、あ……」
目の前に立つのは、同じ班の「彼」と「彼女」。顔いっぱいに憎悪と殺意を漲らせた彼女は、手に包丁を持っていて。包丁の刃は、彼の腹に深々と突き刺さっていた。
滲む血から漂う、生臭く残酷な臭い。目を背けたくなるような光景だが、彼が僕を庇った以上、目を逸らすわけにはいかない。
「なんで、そいつのこと……」
包丁から手を離し、彼女は一歩後ずさって。彼の血で染まった指で、己の頬を掻きむしる。
「なんでそいつのこと、庇うのよ!そいつは先生にあだなす悪魔なのに、そいつを殺せば、私は、私は、先生に愛してもらえるのにッ!」
「……それは」
荒い呼吸を繰り返しながら、彼は自分の腹に刺さった包丁の柄を掴む。彼がしようとしていることに、気が付いた僕が止めようと手を伸ばす間もなく。
彼は自分の腹に刺さっている包丁を、勢いよく引き抜いた。
「ぐあううぅぅ……」
呻き声と共に、傷口から血液が勢いよく吹き出し、損傷した内臓の一部が外に飛び出す。先生が起こしたあの惨劇を経験していなければ、僕はきっと嘔吐して卒倒指定だろう。
「待て、やめろ、そんなことしたら君は―――」
「うるさい!」
引き抜いた包丁を、震える手で握りしめて。彼は真っ直ぐ彼女に向かって突っ込んでゆく。
「ヒッ」
絶対にやり返すという気迫に押されたのか、単に油断していたのかは分からない。特に抵抗されることもなく、包丁の刃は彼女の腹に深々と突き刺さった。
滲みだす血、よろめく彼女。傷口を押さえようと、包丁に手を伸ばしたことにより、刃は逆に深々と、腹の中に食い込み内臓を細切れにしていく。
「ぁひゃ……嫌、し、死にたくない、先生、先生……」
「……お前も、道連れだ」
荒い呼吸を繰り返し、血と臓物の零れる腹を押さえながら、彼は最期にそう言って。糸が切れた人形のように、その場に倒れ込んで気を失った。
「あ……」
ぐにゃりと、周囲の光景が歪んで見えた。頭が真っ白だった。僕は、僕はどこで間違えてしまったのだろう。
途中までは順調だった。同じ班の彼らから始まり、クラスメイトを一人一人口説き伏せて行って、林間学校の最終日に全員一丸となって先生に反抗するつもりだった。
それが決行の三時間前、「話がある」と彼女に呼び出され。キャンプ地から少し離れた森の中に来た時、隠し持っていた包丁を彼女に向けられた。
『先生の為にも……死んでくれない?』
身構える僕に対して、包丁を持って突っ込んできた彼女。刺される、と思ったその時、陰から様子を見ていたらしい、彼が僕の前に飛び出したのだ。
あとは見ての通りである。彼は刺され、彼女も返り討ちに遭い苦しみ悶えている。僕は、僕は、僕は。
僕はこれから、どうすればいいのだろうか?
固まった思考、動かない身体。口から吐き出される呼吸の音が、まるではるか遠くで聞こえているようだった。
動かなくては。何か行動に移さなくては。頭では思うのだが、体が動いてくれない。恐怖、絶望、諦観。そのすべてが僕を縛り付けていた。
「はぁ……うぅ……せ、せんせい……」
何かが生物が落ちる音がして、顔を上げると、彼女が自分の腹から包丁を引き抜いていた。抜くのに時間がかかってしまった為に、傷口は彼のものよりも深く広くなっており、溢れた内臓が繋がったまま地面に落ちていた。
「こここ、殺す、殺す、裏切り者は、わ、私が殺す……」
口でそう繰り返しながらも、もう立っていることもできずに、彼女は地面に膝をつく。もはや息絶えるのも、時間の問題だろう。
そう思ったとき、やっと硬直が解け、立ち尽くしていた僕はよろめく。動かなければ、動かなければ。
やるべきこと、まずは。僕はそのまましゃがみ込むと、倒れ込んだ彼の傷口に触れる。彼はまだ生きている、何とかして、何とかして助けられないだろうか―――
「無理だよ」
必死に応急処置を、試みようとした僕の体は。前方から聞こえてきたその声によって、再び硬直する。
ゆっくり、顔を上げると。そこには先生が立っていた。手にはあの時と同じく鉈が握られており、鉈の刃には既にべっとりと赤黒いものが付着していた。
「君じゃ彼を救うことが出来ない、絶対にね」
「せ、先生」
誇張なく今にも死にそうな声で、顔を上げた彼女に。先生はいつも通り、優しく笑いかけた。
「よくやったね、背川さん。本来の標的は殺せなかったみたいだけど、それでも十分すぎるぐらい君は働いてくれた」
「あぁ……先生、先生」
「だからゆっくりお休み」
恍惚とした表情で、先生を見上げる彼女に対し。先生は頷き、彼女の首めがけて鉈を振り下ろした。
骨が砕け、肉が切断される音。飛び散る大量の血液、地面に落ちる彼女の首。一仕事を終えたというように、先生は満足げに息を吐き出すと、僕の方に改めて顔を向けた。
「やあ」
僕は口を開いたものの、出てきたのは窒息寸前の魚のような呼吸ばかりだった。あの時と同じ、あの時の繰り返し。
「運命だよね、きっと」
頬に手を当て嬉しそうに言って、先生は鉈を振り付着した血を落とす。
「林間学校の行き先にこの山が選ばれたのも、よりによって君が僕を裏切ったのも、僕が衝動を抑えられなくなったのも。きっと全部、運命なんだ。そう思わないか?」
問いかけたものの、答えを待つ間もなく、先生は鉈を持つ手に力を込める。
「だから君は、僕の手で殺さなくちゃ。それもすべて、運命なんだろうから」
繰り返し、繰り返し、繰り返し。いや、仲間だと思っていた彼女に裏切られたという点では、以前よりもっと悲惨かもしれない。
クラスメイトが殺されることにも、先生の狂気にも、まだ慣れることは出来なかったが。自分の死だけは、殺されるということだけは、あの時と違って心なしか、受け入れることが出来る気がした。
ごめんなさい、さようなら。でも、だから、次はきっと。
頭の中で断片的に浮かぶ言葉も、激痛と絶望の中で次第に薄れ消えて行った。
今朝のニュースで、馴染みのお天気アナウンサーが、「本日から梅雨入りします」と言っていた気がしたが。
その日の朝は気持ちの良いぐらいの晴天だったため、傘なんかいらないとそのまま家を出てきてしまった。
結果、昼過ぎから空が曇り始め、帰りのホームルームが終わる頃には振り出して、現在は見ての通り土砂降りとなっている。
昇降口に立ち尽くし、雨粒の降り注ぐ空を見上げながら。弓也は長々とため息を吐きだした。
「今度、折り畳み買いに行こう……絶対に」
これだけ降っている中を、強行突破するのはさすがに気が滅入る。風邪をひきそう、というのもそうだが、今日に限って学校にスマートフォンを持ってきてしまったのだ。
校則では禁止されているものの、実際に守っている生徒は少なく。昨日ソーシャルゲームのガチャでSSRを引いたため、それを友広と恭二に自慢しようと持ってきたのだ。
休み時間に目的は達成されたものの。この雨の中を突っ切って行けば、間違いなくスマホは水没し、引いたSSRも文字通り水の泡と化すだろう。
止むのを待ちたいところだが、先程調べたところによると、降雨は夜まで続くようで。リアルタイム視聴したい、ゲーム実況の生配信のためにも、出来るだけ早く帰りたいところである。
「……しょうがない」
こうして雨を見つめていても、何にもならない。何かしらの行動を起こさなければ、事態は好転しないのだ。
策はないわけでもない。ただ若干外道というか、他人に被害を及ぼす可能性があるというだけだ。
下駄箱の近くに置かれた傘立てに近づくと、弓也は刺さっている傘を物色し始める。出来るだけ、使われていなさそうな傘を探して。
自分の傘がないのなら、他人の傘を使えばいいじゃない。どこかのお姫様の迷言を模した台詞を思い浮かべながらも、弓也は傘をより分けていく。
そうは言いつつもできればトラブルを避けたいため、長いこと使われていない汚れ切ったビニール傘のような、都合のいい傘をこうして探しているわけだが。
「……何してるんだ」
背後から。聞き覚えのある声がして、弓也はぴたりと手を止めた。同時に心臓の鼓動が、早くなっていくのが分かる。
「琴峰、千早」
ぎこちなく、弓也が振り向くと。そこには自分の傘を手に持った、琴峰千早が立っていた。
「傘を探しているのか」
「あ、いや……まあ、そんなところだ」
自分の傘を忘れたから、他人の傘を借用しようと物色していたなんて、口が裂けても言えない。誤魔化すように乾いた笑いを浮かべる弓也を、千早はしばらく見つめていたが。
おもむろに、肩にかけていたスクールバックを開くと、中を漁って一本の折り畳み傘を取り出した。どうやら千早は、折り畳み傘を常に持ち歩くタイプの人間だったらしい。
取り出した、ターコイズブルーの折り畳み傘を、千早は弓也に対して差し出す。
「よかったら、これを使うといい。どうせ傘を忘れて、誰かの傘を借りようとでも思ってたんだろう」
「……」
どうやら聡明な彼女には、お見通しだったようだ。ちょっと恥ずかしくなりながらも、弓也は素直に折り畳み傘を受け取る。
傘を貸してくれたことは素直にうれしいものの、出来れば相合傘で帰りたかった、なんて思ってしまう、自分がちょっぴり悔しかった。
傘を手渡した千早は頷いて、スクールバックのチャックを閉じる。
そしていたずらっぽく笑うと、一歩、弓也へと顔を近づけた。
「相合傘じゃなくて、残念だったか?」
「ツッ……」
「……なんてな」
くすりと笑って、千早は図星を突かれ動揺する弓也に背を向けると、昇降口から出て軒下で傘を開く。
コバルトブルーの傘を差した彼女は、そのまま歩いていくと思いきや、立ち尽くしていた弓也へと振り向いた。
「良かったら、途中まで一緒に行かないか?雨の中一人で歩いて行くのも、何となく寂しい気がするから」
「え……あ、ああ!」
誘われていると気が付くのに、数秒間の時間がかかったが。ほぼ無意識に、反射的に返答した弓也は、昇降口を出て折り畳み傘を開く。
二色の違った青色の傘が並ぶと、千早は自分の傘をくるりと回した。
「それじゃあ、行こうか」
並んで歩き、雨粒が容赦なく打ち付ける校庭を横切って、校門に向かう。何か話そうとも思ったが、緊張のせいか、ろくに言葉が出てこない。傘に当たる雨音と、胸の中の鼓動、そして隣の千早だけが、世界の全てに思えてしまって。
「この前は、ありがとう」
石造りの柱に、「樽見第二中学校」という文字が刻まれた校門を通り抜けた時、千早が小さくそう言った。
「片づけを手伝ってくれて。一人でやっていたら、最終下校時刻までかかっていたと思う」
「い、いや別に……成り行き、そう成り行きだし」
「それでも、助かったことには変わりないさ」
こんなにもどかしい思いを自覚してしまうぐらいなら、あの時手伝わずに帰っていればよかった、なんて。ちょっとだけ浮かんだ愚痴っぽい考えも、傘越しに時折見える千早の横顔のせいで、儚い泡のように消え去ってしまった。
千早が好きだ。琴峰千早が好きだ。心の中では簡単に言えるのに、どうして口に出すことがこんなにも難しいのだろうか。
悶々とした恋心を誤魔化すかのように、弓也はぎゅっと傘の柄を握りしめて口を開いた。
「そ、そういえば千早って、小学校の時はこうもっと、男の子っぽかったよな」
「ん……そうだな。あの頃は制服を着る必要もなかったし、あまり自分の性別に関して興味が無かったからな」
「そうなのか……じゃあやっぱり、中学生になったから女の子らしくイメチェンしたのか」
ぴたりと。千早の足が止まった。数歩先に進んでから、弓也は慌てて振り向く。もしかしてついうっかり、地雷を踏んでしまったのだろうか。
「あ、いや。別に大した意味はないから、マジで」
もしかして、本当はあの頃と同じように、ボーイッシュを貫きたかったのではないか。だとしたら、今の一言は少々デリカシーに欠けていたかもしれない。
なんて。慌ててフォローしようとした弓也の前で。千早は傘を回して傾ける。覗き見えた彼女の顔には、楽しそうな表情が浮かんでいた。
「いや、残念ながら違う」
「じゃあやっぱり―――」
「女の子は、恋をすると変わるというものだろう」
どきん、と、心臓が跳ね上がるのが分かった。恋をする、恋をしている。琴峰千早には誰か、想い人がいる。
胸の中の恋心に、濁った不純物が混じった気がして。混沌としたそれは、気が付いたら弓也の口から外に飛び出していた。
「なあ、お前の好きな奴って、誰だよ」
どことなく糾弾するような弓也の言葉に、千早は驚いたように顔を上げる。
「誰にも言わない、絶対誰にも言わないから。頼む、教えて、教えてくれないか」
誰が好きかはっきり分かれば、散らかったこの気持ちも片付くかもしれない。
背中が雨に濡れるのも構わずに、弓也は千早に頭を下げる。あれだけ気にしていたのに、今の弓也には濡れることなんてどうでもよかった。
知りたい、千早の愛する人間を。千早に愛される男のことを。
「……」
千早はしばらく黙っていた。絶え間なく降り注ぐ激しい雨音だけが、二人の耳に聞こえてきていた。
「……言っただろ」
沈黙を破った千早の声は、先程までの彼女とは打って変わって、とても冷たく感情が籠っていなかった。
「君には、君だけには絶対に教えるつもりはないって」
「それでも―――」
「くどい。君に傘を、貸さなければよかった」
顔を上げ、懇願するような眼差しを向けた弓也を、千早はバッサリと切り捨て。大股で横を通り過ぎると、雨の降る歩道を一人で先に進んでいってしまう。
「ま、待ってくれ……」
「……」
手を伸ばすことは出来ても、追いかけることは出来なかった。声を出すことは出来ても、過ちを償うことは出来なかった。
最後に、一度だけ立ち止まって、雨に混じって聞こえないような小さな声で、彼女は言った。
「気づかないのか、まだ」
それっきり。彼女は振り向くことなく、雨の中を歩き去って行った。
残された弓也は、千早の去った道の先を見つめ、ただ茫然と立ち尽くしていた。
嘆くこともできずに、自責の念に駆られることもなく。頭と心が空っぽになって、これからどうすればいいか分からない。
どうすればいいのだろう。恋する少女に嫌われた自分は、これから一体どうすればいいのだろう。
考えても答えは出なかった。永遠に答えが出ないような気がした。きっとこの気持ちが、「絶望」というものなんだろうと思った。
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