第二話 放課後の静かな理科室
耳に聞こえるのは、森の木々が風に撫でられる微かな音と、小学生特有のやや高い話声。
「―――え」
僕がゆっくり目を開くと、そこは山の山麓にあるキャンプ施設だった。管理施設も兼ねたログハウスが一軒に、炊事場や仮設トイレなどのよくあるキャンプ場設備が一式。ちょうど今、昼食の用意をしているところで、炊事場では児童が班ごとに分かれてカレー作りに取り掛かっていた。
「おい、どうしたんだよ」
立ち尽くす僕に、同じ班の男子が声をかけてくる。彼が殺され肉塊となり、地面に転がるのを僕は確かに見たはずなのに。目の前の彼は至って健康的で、片手に泥の付いたニンジンを握りしめていた。
いや、彼だけではない。まな板で豚肉を切っているあの子も、向こうで鍋をかき混ぜているあの子も。全員担任に殺され、バラバラにぶちまけられたはずなのに。
あの子も、その子も、みんな―――そう、この僕を含めて、みんな間違いなく死んだはずなのに。
「いったい、何が起こったんだ?」
「ねえ、ぼーっとしてないで、あなたも手伝ってよ」
じゃ買い物皮をむいていた同じ班の女子が、不満げな視線を僕に向ける。
「あ、ごめん……」
怪しまれるのは良くない。そう思い、僕は慌てて近くにあった玉ねぎを手に取り、皮を一枚一枚剥き始める。
「大丈夫か?なんかすごく顔色悪いけど」
バケツに入った真水で、ニンジンの泥を洗い流しながら、さっきの男子が心配そうに聞いてきた。
「いや……大丈夫だ、問題ない」
「そうか?もし本当に辛いなら、先生呼んでくるから無理せずに言えよ」
ぴたり。玉ねぎの皮を剥く手が止まり、指先が震え始める。先生。僕たちを殺した男、あの惨劇を引き起こした元凶。
周囲に先生の姿は見えないが、きっとすぐ近くにいるのだろう。近くにいて、僕たちに対する殺意を腹の中で燻らせている。そう思うと、恐怖と怒りで体の震えが止まらなくなる。
「なあ、本当に大丈夫かよ。顔真っ青だぞ」
「大丈夫……大丈夫だから」
「本当に無理するなよ。初日から倒れたら、せっかくの林間学校なのにもったいねえからな」
「……初日?」
あの惨劇が起こったのは、林間学校最終日のことだった。それなのに今、彼は初日といった。
そういえば林間学校初日に、こうしてみんなでカレーを作って食べた。僕たちの班は何事もなく出来たが、隣の班が調理中の鍋をひっくり返してしまい、僕の班で作ったものを半分分けたのだ。
「きゃあっ」
回る僕の思考は、隣から聞こえてきた女子の悲鳴と、大きな音で断ち切られた。音のした方に顔を向けると、調理中の鍋がひっくり返り、地面に煮込み途中のカレーがぶちまけられていた。
「どうしよう……どうしよう」
鍋を混ぜていた隣の班の女子が、顔面蒼白でおろおろしている。見覚えのある展開に、見覚えのある光景。だとすれば、次は。
「大丈夫かい、佐藤さん」
ざわめく児童たちの向こうから、一人の男性が駆け寄ってくるのが見えた。忘れもしない顔、僕たちを殺した男。
「せ、先生」
「火傷はしなかったかい、佐藤さん」
「う、うん。大丈夫。でもカレーが……」
先生は地面に零れたカレーを数秒見つめてから、僕たちの方に顔を向けた。黒色のスクエア型フレームの眼鏡越しに、先生は僕のことを真っ直ぐ見つめる。
優しい瞳。優しい表情。この裏側にどうしようもないぐらいの狂気が隠されているなんて、誰が想像できるだろうか。
「ええと、申し訳ないんだけど、B班のカレーをC班にも分けてあげてくれないかな。お代わり分も含めて作る予定だったから、量は十分あるはずだし」
「分かりました、先生!」
同じ班の女子が、真っ先に答えると。先生は頷き、カレーをこぼした佐藤に向き直る。
「C班のみんなは、こぼしたカレーの片づけをすること。他の班は、そのまま調理を続けること。大丈夫だね」
「はーい!」
児童たちが一斉に返事を返したが、僕の口から言葉は出てこなかった。少しでも落ち着くため深呼吸をするものの、体の震えと早まった心臓の鼓動が落ち着く様子はない。
「それじゃあ僕は、向こうの様子を見てくるから。また何かあったらすぐ呼んでね」
先生が立ち去ると、ようやく鼓動が落ち着いてきて、僕は長々と息を吐いて目を閉じた。
原因は分からない。何故僕なのかもわからない。分からないが、どうやら僕は林間学校の一日目に、戻って来てしまったようだ。僕だけが、あの惨劇の記憶を有して。
奇跡なのか何なのかは知らないが。戻った僕がやるべきことは一つだろう。
もう一度深呼吸をして、心を落ち着かせると。僕はゆっくりと目を開いた。
三日後に発生する、あの惨劇を何とかして阻止する。みんなが先生に殺されるのを、なんとしてでも防ぐのだ。
携帯もネットもない、この山の中で。それを成し遂げるには、みんなの力が必要だ。クラスメイト全員で立ち向かえば、最悪の事態は回避できる可能性が高い。
だったら、まずやるべきことは。僕はもう一度周囲を確認してから、新しい玉ねぎを手に取りつつ、調理を続ける同じ班の女子と男子に声をかけることにした。
「……ねえ、少し、話があるんだけど」
まずは身近なところから始めて。この三日間の間にクラスメイト全員を団結させ、最終日に先生に立ち向かう。
心の中でひっそりと計画をしながら、僕は最初の二人に話し始めた。
出された宿題を片付けて。オンラインゲームの周回と、友広たちとTRPGをやって。あとは漫画を読んだり、惰眠を貪ったりしていたら。あっという間にゴールデンウィークが終わってしまった。
開けた初日の平日は、授業がいつもよりだるく感じられて。それでもなんとかノートをとって、やっと放課後が訪れたのだが。
さあ帰ろうと、弓也が数か月前に比べて明るくなった、夕方の廊下を歩いていた時。
「森くん」
背後から声を掛けられて、弓也は立ち止まった。なんだかとても、嫌な予感がする。
振り向くとそこには、弓也のクラスの担任教師である、
「いいところにいたわね、ちょっと頼まれてくれないかしら」
榎田はそう言って、手に持った段ボールを持ち上げる。中から響く微かな音から、ガラス製の器具が入っているのが分かった。
「ちょっとこれ、理科室に届けてくれないかしら。いいわよね」
弓也の返答を待たずに、榎田は段ボールを弓也に押し付けてくる。中身がガラスであるため、手を離すわけにもいかず、弓也は仕方なく段ボールを受け取った。
「それじゃ、お願いね」
段ボールを押し付けた榎田は、それだけ言ってさっさと立ち去ってしまった。教師としてやるべきことはやるものの、押し付けられることは積極的に他人に押し付ける。それが榎田という女なのだ。
「……クソババア」
小さく悪態をついたものの、放り出して帰ればきっちりと文句を言われるため、弓也はため息を吐きだして、理科室へと歩き出した。
ガラスを割らないように最低限の注意はしつつも、階段を下りて理科室へ向かう間、頭の中では最近絶賛視聴中の、ファンタジーアニメのことを考えていた。ポップな見た目とは裏腹の、ダークなストーリーがたまらないのだ。
理科室が見えてきたことで、アニメに関する思考は断ち切って。弓也は段ボールをそっと床の上に置くと、理科室の扉を引き開けた。
「……やあ」
完全に油断していた。彼女が科学研究部だということを、すっかり忘却していた。
夕方の理科室の中に、琴峰千早は立っていた。実験器具を洗っていたようで、蛇口を手早く締めてから、千早は弓也へと顔を向ける。
「ようこそ、理科室へ」
「……ようこそって、お前の部屋じゃないだろ」
何とか言い返しつつ、弓也はぎこちない仕草で段ボールを持ち上げ、理科室の中に入った。
段ボールを置いたら、とっとと帰る。そうすれば余計なことを考えなくて済む。
はずだったのだが。部屋の中に千早一人だけなのが、どうしても気になってしまった。そういえば、今日は科学研究部の活動日ではなかったはずだ。
「どうして、一人でここにいるんだ」
つい口に出してから後悔しつつも、ちらりと千早を見やって返答を待つ弓也に、千早は他人を虜にする微笑を浮かべて答えてくれた。
「榎田先生から、課外授業の片づけを頼まれてしまってね。その段ボールも備品なんだろう。片付けておくから、君はもう帰るといい」
なるほど、彼女も榎田の被害者だったわけか。あの女は絶対に、料理をした後の後片付けを、自分の夫に任せているタイプだと思う。
別に千早の言葉に甘えて、帰っても良かったのだが。何となく同情的な気持ちを感じた気がして、気が付くと弓也は千早の横に立ち、段ボールを開いていた。
「……手伝うよ。一人でやるより、二人でやった方が早く終わるだろ」
てきぱきと段ボールからフラスコやビーカーを取り出す弓也に、千早はちょっと驚いたような顔をしてから、嬉しそうに頷いて見せた。
「ありがとう、弓也くん」
「……別に」
しばらく、無言で片づけ作業をしていたが。静かな理科室の中に、ガラスの触れ合う音だけが響き渡る音を聞いていると。なぜか無性に、緊張感が強まっていくような気がして。
「そ、そういえば」
つい、弓也は沈黙を破って、千早に話しかけることにしてしまった。
「お前が振った恭二だけど、あれからすぐに一年の女の子に告白されて、今はリア充真っ盛りだぜ」
「そうなのか」
「お前の言った通りにな。羨ましいかよ」
「いや、別に。羨ましさを感じるぐらいなら、彼のことを振ってはいないさ」
どきん。心臓が跳ねると同時に、あの時の千早の言葉が脳内にフラッシュバックする。
『私にも私の、想い人がいるから……なんてね』
もしあれが冗談じゃなかったとしたら。千早には密かに想いを寄せる相手がいるということになる。
一体それは誰なのだろうか。別に気になっているわけじゃないのだが、最近クラスでも話題になっていたようだし、聞いておいてもいいかもしれない。
「な、なあ」
「ん、どうしたんだい」
「お前ってもしかして、好きな人いるのか」
不意に、千早の手が止まった。やはりこういうことを聞くのは、良くなかっただろうか。
俯いた千早は、手に持っていたフラスコを流し台にそっと置く。おろおろとする弓也と対照的に、一見動揺している様子は見られないが。
「……ああ」
やがて。彼女は静かにそういうと、顔を上げて振り向き、弓也にぐっと近づく。
あの時と同じ、近い距離。今度は二人きりな分、より千早のことを近く感じられ、息が止まりそうになる。
「いるよ。私には好きな人がいる」
微かにする石鹸の香り。一重のくっきりとした瞳に、さらさらとしたショートヘアー。
何かを言おうとしたが、緊張と戸惑いによって唇が動いてくれなかった。今、自分はどんな顔をしているのだろう。
硬直する弓也を、千早はしばらくの間見つめていたが。やがてふっと、顔にいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「でも、君には教えない。君だけには、絶対に」
間近で見る琴峰千早の微笑は、飲んだことのないウイスキーのような強烈さがあって。頭がくらくらして、今にも気を失ってしまいそうだった。
「……なんてね」
また、ちょっと誤魔化すように付け加えて、千早は弓也から体を離した。弓也が無意識に胸に手を当てると、鼓動がいつになく早まっていたことが分かった。
「さあ、さっさと片付けて帰ろう」
「あ、ああ。そうだな……」
しばらくの間、千早と一緒に備品を片付けていた気がするが、いまいち記憶がはっきりしない。
片づけを終えて、取り留めのない会話を交わしながら廊下を歩き、昇降口で別れてやっと。
やっと弓也は我に返り、まるで激走した後のような疲労感を覚えながら、胸に手を当てて呟いた。
「死ぬかと、死ぬかと思った……」
琴峰千早に憧れる男たちが多いのは知っていたが、今なら彼らの気持ちもはっきりとわかる。魅力的な彼女に詰め寄られて、心を奪われない男はいないだろう。
ただ、千早が多くの男子生徒と、ああして距離を詰めてきたという話は聞いたことが無い。聴いたことが無いが、ならば何故、自分に対してだけあんなに近づいてくるのだろうか。
謎は多いが、自覚してしまったものは仕方がない。何とか呼吸を落ち着かせると、弓也は震える手で自分の下駄箱を開いた。
認めたくはないが、森弓也は琴峰千早に魅了されてしまっている。彼女に想い人がいる、と知ったうえでだ。
「修羅の道……だな」
呆れたように呟きながらも、弓也は胸の中の想いをどうすることもできなかった。ハードルの高さを踏まえて、恭二の恋が実らない方に賭けていたくせに、この様である。
千早に告白した、恭二の勇気が羨ましくて仕方がない。今の自分には到底、この気持ちを彼女に伝えることなんて、出来るはずがないのだから。
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