第4話 灯り守
長谷川メンテナンスサービスでの悪夢のような1日目の仕事の後、私は時計店を併設した金物屋で懐中時計を仕入れ、冒険者の宿へと帰宅した。食事ついでに、ビリーに1日の仕事について軽く報告をした後、早々に就寝することにした。寝床と言っても、個室がある訳ではない。この施設に収容されたラベラーたちには各人、一枚のござが支給され、大部屋の好きな場所にそれを置く。いわば、これが自由に使える生活スペースというわけだ。大部屋には、常時30人ほどのラベラーたちが寝泊まりしていて、プライバシーはおろかイビキや歯軋りの合奏の中、男も女も関係なく寝るのだ。
問題を起こせば、すぐに独房に送られるためか、むしろ女であっても女扱いされる事は少ない。男は平気で裸になるし、女も大股びらきでイビキをかいている。義体ゆえの性的意欲の欠如なのだろうか、うさぎの身体の私にはそれすら縁遠きことだ。どこかの芸人の養成所も、こんな感じだったとTVで見た気はするが、こんなところにいつまでも居ては、人生下るばかりな気がしてならない。芸人の養成所には、いずれBIGになる夢があるだろうが、ここにはそんなものはハナから無いのだから。
寝る前に、そんなネガティブな思考をするから、その日は悪い夢を見た。
カラオケ店での深夜のバイトから帰宅すると、母が嘔吐していた。
身体の自由が年々失われてゆく病にかかった母は、私が中学に上がった直後から、ほぼ寝たきりになってしまった。父が家に帰らなくなったのは、小学3年生の頃だ。その頃から、学校から真っ直ぐ帰宅し、家の手伝いをして来たが、ついには中学校に行く時間すら無くなってしまったのだ。昼間は母の知人が社長夫人である縁故を利用し、とある印刷会社の軽作業のバイトをした。そして、夕方になると買い物をしてから帰宅。デイサービスの人からの伝言メモをチェックしてから、夕飯を作り、下の世話をしてから再び深夜のバイトに出かけるという日々だった。
母の嘔吐は、このところ回数が増えているように思えた。今はまだ、身体を自分でよじれるから良いものの、このまま病気が進行すれば命に関わると、デイサービスの女性から注意を受けていた。私はタオルと桶を持ってきて、汚れた部分を拭いて、口の中の吐瀉物を掻き出した。シーツの一部が汚れていたが、これを交換する作業は一大事だ。タオルを敷いて、誤魔化しておく。後で、メモに書いておかねば。
はっと、気づく。
私が唯一、父からもらった大切な本に、吐瀉物が飛び散っていた。
服の袖で急いで拭き取るが、水分を吸った部分が、丸くふやけていた。
ページの部分が手垢で黒ずんでいるルイス・キャロルの代表作は、たった一つの私の大切な宝物だった。
「ごめんね・・・」
呂律が回らない母は、同じ言葉をたどたどしく繰り返すばかりだった。
デイサービスに頼ったのは1年ほど前から。その前はもっと大変だった。母は他の大人に頼ることを頑なに拒み続け、私の方も、どうせ誰に相談しても無駄だと割り切っていた。1日中の介護が必要な母に、母子家庭で収入も無いこの家の家計に、力になってくれるような他人が居ようはずもない。どうせ、誰も口だけで哀れみ、私の心の声など受け止めてはくれやしない。哀れみの言葉を実行に移す人はいない。経験上、誰も彼もみんなそうだと、そう思い込んでいた。
今は、バイトができるだけマシになった。縁故のためか、印刷会社の人たちは皆、優しいし、カラオケ屋のバイト仲間も訳ありっぽい人が多く、踏み込んできたり、絡んでくる人種は少ない。客室から片付けたビールのグラスを落とし、飲み残しのビールを絨毯の上に撒いた時も、言われた言葉は『ちゃんとやれ』それだけだった。
この球体の巨大な世界には、母と私、これが中心。
地球が丸いなんて事は自覚した事は一度も無いけれど、どうせその他の大部分、99.999%は他人たちの場所なのだからどうであっても関係がない。
学校で出会った友だちにも、それぞれの家族があって、それぞれの関係性があるのだ。だから、自分だけ輪の外にいるなんて、感じた事はない。ここが、このアパートの1階の角部屋が、私と母の輪の中の中心なのだから。
その母が動かなくなった後、警察や農協の人たちが来て、葬儀を済ませてくれた。
私は母の骨壷の包みを眺めながら、部屋の隅で座り込む日々が続いた。
ルイス・キャロルの本を抱きながら、半身を失ったような消失感だけが、心を占め、バイトも学校も、食事すら、その意義を見失っていた。
・・・。
・・・。
・・・。
驚くほど、時間は膨大だった。
今まで、友だちと公園で遊ぶ時間を夢みた事は数え切れない。だがしかし、いざ何もしないという時間が、これほどまでに空虚であった事を、私は生まれて初めて知った。
何もする事がない、という虚無感が、これほど絶望的であることも、私は初めて知った。
空虚だった。
虚無しかなかった。
一人だけ、生き残ってしまった。
年齢的に、それは仕方がないのだけれど、それでも罪悪感が、胸の奥に刻まれた。
どれくらい、同じ場所にいたのだろうか、夢現の中、突如として私の視界が変化したのを記憶している。
掃除機で天まで吸い上げられるような、浮遊感。
その時は、私は天国に向かっているのだと錯覚した。
しかし、再び目が開いた時、天国の風景は私の想像を裏切った。
翠色の光に照らされたコンテナ倉庫のような室内。巨大な、そして無数の試験管の列が、端が見えない程に整然と並んでいる。試験管の中には、人とも化け物とも判断できない奇怪な生き物たちが眠っていた。
そして、自分もその中の一体であるとこに気づき、私はパニックを起こした。
肺の中まで水が満ち、空気はどこにも無かった。
同時に、私は悟った。
私は、まだ、生き続けたいのだ、と。
予想外の出来事に、当直だった二人のホムンクルス技士たちは狼狽していた。
培養槽から取り出した動物型の義体は、ライム色の液体を滴らせながら、寝台の上でまだ眠っている。しかし、その胸は、ゆっくりと、しかし確実に上下運動を繰り返していた。
寝台を挟んだ二人は、うさぎと人間を足して2で割ったような、不可思議な義体を見下ろしていた。
「おぃ。確か・・・前回の会議では、動物型は廃棄して新しく人型を増やす決議だったよな」
技士の一人が腕組みして、うめくようにつぶやいた。
翠色の明かりの中、立ち並ぶ巨大な培養槽の中には、今にも動き出そうな人間たちが液体に漬かったまま眠っていた。それぞれの培養槽一つにつき一体、まず人型が手前に複数並び、奥に行くと竜人間、亀人間、狼人間と異様な生き物たちが2体ずつ収容されている。
「空想上の存在だったと、そういう結論だった」
「ああ」
「向こうの世界も、我々のような背格好をした者が生態系の頂点であり、動物型は例え獰猛であっても知能が低く、戦争の道具としては利用価値が低いと」
「ああ、そうだよ。俺だって出席していた」
「でも、サルベージしたのは、確実に人型レベルの大容量の精神体だ。このレベルは人型以外に前例がない」
「サルベージャーに不具合があると分かれば、この計画は数年は後退するぞ」
「原因は、マッチングエラーかも知れない」
「それこそ、基幹システムに問題がある根拠に成り得る」
「なら・・・もう一度、試すか?」
「同じ対象をか?倫理規定を忘れたのか?異世界人を廃人にしかねない」
二人はしばらく沈黙した。
「いずれにせよ・・・原因は追求しなければ、ならない」
「まずは、そうだな・・・結果によっては、記録に残さなければ」
深夜の大広間は、大勢の人間たちの発する熱と、湿気と臭気に重ね、イビキや歯軋り、寝言の三重奏による演奏会場と化していた。
外からは虫の声と、馬車の音。
今のを悪夢と言うのは、誤りだ。
ただの私の過去の記憶、なのだから。
きっと、レーアさんとクラーラの二人と出会って、彼女らに無意識的にでも幼少期の自分の姿を投影してしまったのだろう。そう、私にも母と、そして父との楽しい記憶も確かに存在するのだ。人生は楽しい時期もあれば、辛い時期もある。人それぞれに違うそれこそが、きっと人生というものなんだ。それを悪夢と断じるのは、自分そのものを否定することだ。
そして、自己憐憫に過ぎる。
私だけが、不憫な想いをしたのではないからだ。母も、そして父だって、きっと。
私は、この異世界での暮らしでそれに気付く猶予を与えられた。ゼロからリスタートしたこの暮らしは、私にとっては恩恵とも言える第二の人生。二度目のステージ、二度目の本番。
私は深呼吸を一つすると、懐中時計を胸に抱えて再び眠りについた。
長谷川メンテナンスサービスに務め初めてから2日目、私は事務所の中で、魔封結晶について社長からレクチャーを受けていた。テーマは『街路灯交換作業における魔封結晶の取り扱い方』だ。
社長の手には、菱形の宝石がある。それは、子どもの頃に大好きだった、大きな飴玉を連想させるものだった。中心には、うっすら蒼色に光るものがあり、それは時折、小さな雷のような光の線を放つ。これも何処かで見た覚えがある。たしか幼少の頃、父に連れられた港のタワーのお土産品売り場で、私を夢中にさせたものだ。大きな球体の中で、紫色のプラズマ放電を続ける神秘的なアレだ。
「この世界の住民は、一様に魔法を使えるよね。その不思議なエネルギーの源を“マナ“と呼んでいるらしい。実は、マナとは何か、本人たちも解明できていないらしいんだけれど、生まれた時から持っている力ならば、それほど疑問視しないのも仕方ないのかも知れないね。あやふやな定義だけれど聞いたところによると、マナは大気中に充満していて、この世界の生物たちの魂とも同調しているらしい。体内に取り込まれたマナは、言葉や思念に乗って再び体外に放出されると、すぐに大気のマナに溶け込み、霧散してしまう。それを何らかの事象に姿を変えさせるには、訓練が必要なのだと言う。だから、赤ちゃんが大泣きして、家が大爆発を起こすような事は無いのだそうだよ。一安心だね」
考えたこともなかったが、そんな事になったら、子育てはまさに命懸けだ。
「マナは一度に放出できる量に個人差があり、放出しきってしまうと、一定時間の休息が必要らしい。逆に言えば、休むだけで自然に回復するという意味だから、サステナブルだよね。だけれども、そんなサステナブルなエネルギーにも難点があった。それは、人が制御しなければ、事象に影響できない、というところだ。」
「それはつまり、街路灯一本ごとに、常時人が張り付いていないと光らない、ということですか?」
「ははは、正解。その通りだね。だから、人件費を鑑みれば、油の方がよっぽど安上がりになる。従来までは、そうだった」
社長はランタンを取り出し、その中に蒼い石をはめ、何か呟いた。
すると、うっすらとした蒼い光は、直視が難しいほどに明るく輝く翠色に変わった。
「今では、こんな風に誰でも必要な時に作動させる事ができるようになったんだ」
社長がまた何か呟くと、光は弱まり、元の蒼色に戻った。
「その言葉は何なんです?」
「これは、この世界の古い言葉さ。表現力に乏しいので、今では古典的な言語みたいだ。彼らは、これを“力ある言葉“として、魔封結晶の発動キーに使っている。別に何だって良かったんだろうけれど、誰もがある程度は知っていて、それでいて普段は使わない言葉が選ばれたんだと思う。すぐ近くで呟かないと反応しないけれど、それでも誤動作の可能性は少なくしたい、という訳さ」
「一体、どういう原理なんです?」
社長は眉をハの字に歪め、困った顔をした。
「ははは、これが何度聞いても解らないんだよね。彼らに言わせれば、そう念じるから出来る、または出来るように念じるから起こる、らしい」
「念じれば通ず、ですか・・・イミフですね。電池みたいなものと考えればいいんですか?」
「ん〜。それよりも、危険かな。見てご覧、内部に光があるだろ?事象に作用できる準備段階のマナは、光として認識できるらしい。体外に放出した直後にこのクリスタルに封じ込める。すると、光は内部で反射を続け、外に出られなくなる。今、見えている蒼い光は、いわば漏電なんだ。時間が経つと、やがて光は消えて使えなくなってしまう。そこは、電池と同じだね」
「どれくらいの時間ですか?」
「この大きさだと、大体3年といったところかな?」
「街路灯で使用すると?」
「1週間くらいだよ」
質問を繰り返す私に、社長は腰に手を当てながら、丁寧に答えてくれる。
「では、危険、というのはどういう?」
「衝撃に弱いんだ。クリスタルにヒビが入ると、ヒビの間にマナの反射が集中して、その高周波の振動でクリスタルが弾けて割れる。すると、不思議な現象が起こるんだ。爆発と同時に、周囲の物質を呑み込んで消える」
「呑み込む、とは?」
ちょっとイメージがつかない。
「うーん。対消滅なのか、あるいはブラックホールのように目に見えないほど小さく縮退するのか、ラベラーたちの中でも、仮説の域は出ていないんだけれど、とにかく爆発と消滅が起こるのは、覚えておいて欲しい」
「え・・・ちょっと、危なすぎませんか?」
社長はフラフラと手を振って答えた。
「この程度の大きさならば、爆竹程度さ。消えるのも、パチンコ玉2〜3個程度。でも、殺傷力としては十分だから、扱いには気をつけないといけない。ここまでが、今日の作業の重要ポイントね。足の上には落とさない!繰り返して」
「足の上には落とさない」
エネルギーとは不思議なものだ。便利になればなるほど、危険度が増すように思えるのは何故だろう。
「じゃぁ、交換方法は現地で教えるから、準備しよっか。今日は、3つの街区、116本の街路灯を交換するよ」
工具の入ったベルトポーチを身につけると、社長は「はい、これ運んで」と、木箱を持たせた。
驚くほど軽いその中には、カンナ屑が詰め込まれていた。
「この中に、結晶が入っているんですか?」
「ん?いやいや、まだカラだよ。まずはこれから、その中身を受け取りに行くんだ」
向かった先は、ソーサラーたちの詰所の中でもその総本山たる魔法省ヴェリーヌ支部。
よくは知らないが悪い言い方をすれば、反抗的なラベラーたちを、いつも容赦ない仕打ちで鎮圧する治安警察の心臓部とでも言ったところか。すれ違う人たちからは、私の容姿を見て、奇異の眼差しを向けられ続け、どうにも気まずい。
それでもローズたちは個人的な好奇心や猜疑心よりも、法と秩序を重んじる気質でもある。身分証よろしく、ラベルをチェックした後は、特別な誰何もないまま、施設の奥に入らせてくれた。
大理石で化粧をされた堅牢な造りの建物の中へと足を踏み入れる。
中の様子を例えるならば、張り紙の少ない市役所という感じ。たくさんのローズたちとラベラーたちが仕事をしながら行き交っている。窓口案内の文字は大半が判別できない現地の文字だったが、珍しく英語で表記されたものがあった。そこに書かれている文字は、「Rose」「Alien」の二つ。日本語ではなく、英語で書かれている事からして、恐らく昔からある掲示板だ。今ではラベラーたちの多くが日本人だが、昔はランダムだったと聞いたことがあるからだ。この案内板は、その頃の名残なのだろう。
私は、ちょっとした社会見学気分を味わっていた。
ソーサラーたち全てがフードで顔を隠した暴徒鎮圧部隊ではなく、たくさんの部署に別れ、各部署ごとに、あるいは担当係ごとに役割分担をして働いているようだ。ここでは皆、顔を出して普通に事務仕事をしている。本名を明かさないハンドラーと、常に顔を隠して勤務するソーサラーは、ラベラーたちから逆恨みされる事を避けているのだと、これで証明できた。
社長は、財務部財務管理課魔封結晶管理係の窓口で書類を書き、私から木箱を受け取るとそのまま窓口の女性に手渡した。
「いつも10分ほど待つから、そこの待合席で待とう。トイレは、あっちね。でも一人で出歩かないように。ここでフラフラしていると、捕まっちゃうからね」
そういって社長はウィンクしたが、おっさんのウィンクは気持ち悪いのでここはまずスルー。
尿意はなかったので、一緒に木製の椅子に座ることにした。
「さて、じゃぁ呼ばれたら起こしてね。38番だから」
銀行の待合室よろしく、早々に腕組みして仮眠を取る体勢の社長。
暇だから、寝ないで欲しい。
「この魔法省って、どんな組織なんですか?」
社長はいかにも渋々と片目だけを開くと、私を見た。顔を見上げる私と目が合うと、ちょっとだけ迷惑そうに咳ばいを一つしてから、話し始める。
「そうだったね。君はこの国に来たばかりなんだった。一体、どうやって入国したんだい?」
「亡命です」
「え、何?政治家だったの?」
私は短い人差し指をくの字に曲げて答えた。
「ちょっと、訳ありで・・・てへ」
「・・・そ、そぉ。あんまり過去の事は聞かないでおくよ。で、何だっけ?あぁ、ここの事か」
社長は頬をポリポリと指先で掻きながら続ける。
「ここの世界の人たちって、全員魔法を使えるよね。でも、それってやっぱり危険じゃない?だから、それはある程度、規制をしないといけない。例えば、魔法で作った炎で、相手を焼き尽くすほどの力は無くても、ナイフを素早く飛ばしたり、遠隔操作でゆっくり力を込めて突き刺す程度のことなら、誰にでもできる。まぁ、でもこれらは魔法が無くてもできる事だよね?じゃぁ、殺傷力の強い魔法はどうやって習得するかと言えば、人から教わり、訓練するんだけれど、自由にそんな事をされたら、治安を守る側の立場が無くなる。だから、必要な人間にだけ、魔法省が教えるんだ。禁止されているカテゴリの魔法を無許可で人に教えることは、違法とされている」
「魔法学校みたいなものですか?」
「あぁ、有名なやつあったね、何だっけ?ダンボールドア?」
そんな、何処にも行けなさそうなドアはいらない。
「学院って言っていたっけな?それも、魔法省の管轄らしい。でも、もっと上手く表現するならば、防衛省かな?」
「軍隊じゃないですか」
「そうだよ。強い魔法使いを養成して、治安維持や防衛力に役立てる。だから、ここの人たちは一様に軍属なのさ。肩に、色んな徽章があるだろ?あれは、所属部隊や階級を表している。部署によっては私服の人もいるけど、その場合でも、必ずバッジを付けて身分を示しているよ」
てことは、ここにいる皆、それなりの魔法の使い手という訳か。恐ろしい・・・。
「騎士団みたいのは、無いんですね。なんか、残念」
「時折、帯剣している人は見かけるけどね。甲冑姿の騎士なんてのは、少なくとも僕はまだ見たことがない」
「あれ、でもあの像は・・・」
私は中庭の植え込みの隣に鎮座する、一体の銅像を指差した。
「あれは、日本風の鎧武者ですよね?」
「ん?あぁ、富士野寿、コトブキと書いてヒサシね。科学者でありながら、部類の武将マニア。ラベラーの中でもとびきりの出世頭で、この帝国の男爵位と将軍職を授かった人だよ。そして、ラベラーたちの人権を真面目に唱えた挑戦者でもある。とても有名だから、流石に、君も知ってるだろ?」
魔法省の役人がそばを通り過ぎるを待って、話を続けた。
「一応は。それで鎧武者なんですね。いい歳して恥ずいなぁ、自分だったらやめて欲しいです」
「ははは。こっちでは、長射程の銃器や無線といったものが無いからね。何といっても剣と魔法の世界だ。迷彩服よりも、見方の兵たちが視認しやすい、派手な甲冑の方が役に立つのさ」
上弦の月を模した白い兜の下は、赤い般若の面あて。
「街路灯や湯沸かし器や、目覚まし時計を作れても、ですか?」
「何しろ、御法度だからね。電気や炭素燃料の開発と、軍事利用できるものは作れない。年がら年中、ラベラーたちの反抗が絶えないから、神経質になるのも当然だよね」
「じゃぁ、ガチャなんて止めればいいのに」
「んー。それは同意だけど。でも、この数年だけで、こっちの生活水準は右肩上がり。工業、農業、産業、商業に至るまで、ラベラーたちのもたらす叡智の恩恵は、各国の勢力争いに直結しているから、今更この国だけやめられないのが実情なんだよ。人権憲章を発布する国も現れて、反対派も一定数いるけれど、今は世界的にムーブメントの真っ最中。このタイミングで流れを止めることは難しいってもんさ。現にラベル持ちの彼だって、ガチャの精度向上と軍事指南の実績から、この国初のアルティメットレアクラスの召喚キャラとして祭り上げられているくらいだ」
「ガチャ精度の向上って、彼も魔法を使えるって事ですか?」
「噂だけれどね・・・。僕たちには逆立ちしたって、無理さ。献身的な人体実験に協力したそうだよ。彼としては、赤子までを対象とされるのを防ぎたかったんだって話だ。僕自身も、そう理解しているよ。例え、召喚されるのが、魂のコピーだけだったとしてもね」
このおやじは、一人で頑張りすぎなんじゃないか?
「それにしたって、銅像はやりすぎでしょ」
「誠意と寛容を示したいのだろうね。彼らとしても」
拉致っておいて、何が誠意か。
受付脇のサイネージ表示が更新され、38の文字が浮かんだ。
「お、準備ができたらしい。今日は早いね。受取り書にサインするから、代わりに受け取ってもらえるかな?」
窓口の制服姿の若者は、私の姿を見て一瞬躊躇するが、身を乗り出して箱を手渡ししてくれた。
「いいですか、くれぐれも、気をつけてください。決して転んだり、落としたりしないでね、いいかい?」
子どもと勘違いされとる。
渡された木箱には、魔封結晶が、びっしりと詰め込まれていた。
「うぐぁ・・・これ、マジですか?」
「ふふふ。生きた心地がしないよね?」
長谷川社長は、満面の笑みで答えた。
街路灯の交換作業は、あっけないほどの単純作業だった。
脚立を立てて、灯りの蓋を開けて、中身を交換する。私の仕事は移動中の荷物持ちと、作業が始まれば、脚立の上の社長が受け取りやすいように、木箱を高く掲げるだけ。だが、これが存外に重労働だった。腕を上げる、という行為は思ったほどには、長く続けられないのだ。しかも、私は手足が短いときている。
3時間もすると、木箱がプルプルと震え出し、結晶がカチカチと音を立てた。
「これ、木箱を置いて、ひとつだけ手渡ししてもいいですか?」
「うーん。規則でね。路地では地面に置いたままにできないんだ。アレだよね、イミフ?」
持ち逃げとかの対策だろうか?誰も見てなければ、別にいいんじゃないだろうか?
いや、しかし・・・誰かに見られているような気もしなくはない・・・。
くそ、ローズたちめ、なぜ私の腕をこんなにも短く造ったのだ!
「あはは、なんだか余裕ない感じだね。ここらで一旦、休憩しよう」
私が健気に頑張ったご褒美とばかりに、社長がパニーニのようなものをお昼にと、おごってくれた。
バリエーションの豊かさを好み、異国の食文化も貪欲に味わい尽くす日本人の口には、それはあまりにシンプルすぎる味付けだったが、小麦、肉、野菜とバランスの取れた食事は久しぶりだ。まぁ、温まったレタスは一枚、ペラっとあるだけなのだが、ハムの塩味が、私の食欲をそそった。何とも、旨い!シンプル イズ ベストとはよく言ったものだ!噛み締めるごとに、小麦の香りとハムの塩味が鼻腔と舌を刺激し、体温で溶けたハムの脂身が時間差攻撃で鼻腔をくすぐった。これを口内調理とは、よく言ったものだ。
「このハム、一人時間差攻撃」
この世界に来てつくづく痛感する、肉のありがたみかな。
「木箱から目を離さないでね、一つでも無くなると始末書と罰金だから」
・・・。
長椅子の横に置いた木箱に片脚を掛けながら、両手でパニーニを頬張った。
午後も同じ作業の繰り返しだ。
だが、作業の途中で、不意に長谷川社長は街路灯を一つ飛ばした。
「あれ、今ひとつ生き過ぎましたよ?」
単純作業でボケたのかな?
「あぁ、あれはまだ、大丈夫」
妙なことに、顔は前を向いたまま、小声で返答された。
「まだ、使えるからですか?魔法省も意外にモノを大事にするんですね」
なんとなく調子を合わせて、私も社長を見ずに小声で返す。
「いや、帳簿上は交換したことにするよ」
思わず社長を見上げると、再びぎこちないウィンクを寄越した。
「意外ですね・・・」
「そんなに僕が善人に見えるかい?」
「いえ、ウィンクがくせなんですね・・・」
すぐに直した方がいいと思う。
その日の目標、116本の交換が終わるころには、空になった木箱を持ち上げることすら出来なくなった。
プルプルプル・・・腕が震えて力が入らない。
「ごめんね〜、交換作業は資格がないとできないから、変わってあげたいのは山々なんだけれど」
なんと、中世の風情に似つかわしくもない管理社会!それもどうせ、日本人が持ち込んだものだろうが・・・下手をすると村の鍛冶屋がISOとか抜かしかねない。
あぁ、何とも歯痒い!ゆるくない中世の労務管理なんて、生真面目なローマやヴェネチアだって、もっと余白があったに違いないものを!
しかし、この程度では、まだ最悪じゃない!
そうそう何度もバイトを首になっては、私の尊厳に傷がつくというもの!
全然、平気!頑張る、私!
この日は、街路灯が灯る前に仕事を終えることができた。
タイムカードは流石にないが、帰りの時間を大きな蝋板に記帳する。
今日着たツナギを洗濯機で洗い、井戸の側に干しておく。代わりに昨日、社長に洗ってもらった服を着て、今日はもう帰るだけだ。ポケットの中には、例の紙片が綺麗な状態で入っていた。洗う前に取り出し、乾いた頃に戻してくれたのだ。気が効くじゃないか。
長谷川メンテナンスサービスでの二日目の仕事は天候にも恵まれて、至って順調に終えることができた。
思えば、こんな普通の仕事ができたのは、この街に来て初めてかも知れない。
まだ時間が早いので、私は例の金物屋に立ち寄り、ゼンマイの巻き加減についてのレクチャーを受けることにした。実際、それは表向きの用事で、他にもみっちりレクチャーを受けたのだが、それについては後述することにしよう。
無難に過ぎるこの日常は、この後、一週間ばかり続くことになる。その間に、私たちは情報収集と分析を進めていた。だが、とある事件によってこの嵐の前の静けさとも言える平穏は、一変してしまうのことになるのだが、今はまだそんな事を私は知る由もない。
ヴェリーヌ城市から東に20キロにある避暑地、湖に面した風光明媚な街リーベンスブルク。貴族たちの別邸が点在する長閑なこの街に、夜な夜な予備の馬に荷物を満載した騎手や徒歩の人影が集まりつつあった。月明かりを頼りに、気配を消しつつも、マントの下からは甲冑の重なりあう音が漏れている。
そして、北に100キロの地点、帝国軍団の補給基地では、執政官エルベアト・アレスタ・ベアナードが軍団兵2万4千名を前に、帝国一千年の繁栄を復興させんと熱弁を振るっていた。
さらにもう一方、西に50キロ地点、国境警備にあたる軍団兵5千名を擁する要塞の一つ。カテゴリーSのラベラー、将軍フジノが執政官の視察を出迎えることになる配下の軍団兵に喝を入れ直していた。
平穏な日常の崩壊は『その日』の訪れに向けて、着実に一歩ずつその歩みを進められていく。
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