第3話:なぜ、人は間違った判断をするのか? ①

 最近、子供が虐待される事件や人が殺害される事件が多く発生している。これらの要因として、自己承認欲求の不足と自己顕示欲の欠落など加害者側に非がある場合が多い。では、なぜ?このようなことが起きてしまうのか?理由は簡単だ。まず、加害者本人の誤解という部分は少なからずあるだろう。人間には勘違いとフラッシュバックから来る突発的衝動による誤認識に分けられる。前者は表現の齟齬(そご)自己認識との格差など相互関係がある程度成り立っている場合にはなんとかなる場合が多い。しかし、後者は突発的な衝動と過去の記憶が混ざるため、周囲が見えなくなることが多い。その結果、ストレス過多や価値観の相違など社会的な面で影響が出る場合があるのだ。


 これらは間違った判断という訳ではなく、1度経験していることからの回避行動であり、これらの問題における社会的影響力は強くない。しかしながら、これらの問題において同時に正しい判断が出来なくなることもその人が経験してきた事柄を十分に加味できていないからだろう。


 今は経験と言っても良い経験と悪い経験があり、良い経験が少ないと悪い経験が先行することになるため、あまり良い結果を生むことはない。


 例えば、子供が生まれて子育てをするときにも良い経験と悪い経験が混じることがある。それは、小さいときに両親からどのような愛情を注がれたか?ということだ。今は虐待や育児放棄による産み捨て行為が多く見受けられている。そのため、これらの問題に対してどのような見解を求めているのか分かっていない。これは、社会的思想がこれらの行為を助長している事も少なくないため、どのような状況にあってもきちんと生命を守らなくてはいけないという考えをすることが難しいのではないだろうか?特に未成年の場合は出産等に関しても親の同意などを必要とするため、親の理解が得られていないと公衆トイレやコンビニ等のトイレで産んで、そのまま置き去りにしてしまう場合も少なくない。また、未成年で子供を産むとなると社会からの目がきつくなるため、子供を抱いて歩くことも辛くなってしまう。その結果、生きた状態で子供の父親と母親が分からない子供が助かる確率は少ないのだ。


 今の日本には厄介事には関わりたくないという人が多い。しかし、子供の命に対しては厄介事ではなく未来を作る貴重な命であるという認識が必要になるのではないだろうか?


 しかし、子供が生まれて両親と暮らし始めても虐待などをされて命を落とす子供も少なくない。だからこそ、子供を育てるという責任などのきちんとした認識が必要になるのだろう。そして、これまでの既存の価値観を壊して、どの年齢であっても子供を自由に産んで育てるという事が出来る社会を目指さなくてはいけないのだろう。もちろん、出産出来る体の出来る年齢からにはなるが、その人の社会観を大切にしながら善悪の判断を出来るような環境を整備することが大事だと思う。

私は間違いの定義は個人差があり、基準値は設定されているが、さじ加減は個人に委ねられている。しかし、個人に委ねて良い基準と悪い基準があり、その辺りの判断が難しい場合がある。

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