エピローグ

 汗ばむほどに晴れ渡った初夏の夕暮れ。俺たちは、陽が沈み切るまで海を眺めていた。

 あれから有里沙は何度かまた泣いて、俺はその度肩を貸したり、涙を拭ってやったりしていた。静かな潮騒が夜の気配に溶けるように、彼女の中で疼き続けていた傷跡が、薄い膜でゆっくりと覆われていくのを傍で感じていた。

 それは、今すぐに消える傷跡ではない。触れれば電流が走るように疼くだろうし、その膜は、些細なきっかけであっけなく剥がれてしまうかもしれない。

 でも、俺はその度、彼女の隣で傷跡にそっと息を吹きかけるだろう。何度でも向き合おうとするだろう。それが有里沙にとって癒しになるかは分からないが、隣から離れることだけはしたくないと思った。

 あの日から、俺と有里沙の関係性は、ゆっくりと前へと動き出した。

 あの日から、有里沙は雨の夜に外出することはしなくなり、代わりに俺は雨が降る度、彼女に電話をかけていた。最初は、雨の中彼女が外出していないか確かめるためだったが、そんなことは二の次三の次になり、他愛もない会話を純粋に楽しむようになっていた。

 休日は必ずと言っていいほど会い、今までよりもたくさん話をした。有里沙は前より少し口数が増え、多くを語らずにいた自分のことをいろいろ話してくれた。ずっと封印していた箱の中身を紐解くように、彼女がゆっくりとではあるが、確実に心を開いてくれているのを感じた。

 彼女と同じように、俺も自分のことを詳しく話した。生い立ちや家族の話、学校や勉強の話、友達や進路の話など、至極パーソナルな話題ではあったが、思えば互いにそういった話を深くする機会もなかった気がする。有里沙は俺のどんな話にも、真摯な瞳で耳を傾けてくれた。年齢差を感じさせない対等さで受け止めてくれることが嬉しかった。

 互いを恋人と呼べるようになったのは、それからもう少し後のことだった。

 言葉を多く交わすようになってからは、手を繋いだり、寄り添ったりすることは自然にできた。

 キスを自然に交わせるようになったきっかけは、有里沙のほうからくれた。前に無理やり唇を奪った身としては、こちらからキスをするのは思いの外勇気がいって、したいと思っても躊躇していたのだ。

 しかし、彼女はそれを全く感じさせない自然さで、別れ際に俺の首に手を回して口づけた。それは、俺がまだ身に着けていない大人のキスで、彼女が開けてくれた未知なる扉でもあった。

 それからはずっと、キスは俺からすることが多くなった。互いを名前で呼ぶようになった頃には、前よりも穏やかで柔らかな空気が二人の間にあった。

 そして、夏休みの課外講習が終わった八月、俺は初めて有里沙の部屋に泊まった。

 いつもの休日デートの帰り、有里沙を部屋の前まで送っていった時、自然とそういう流れが訪れた。

 俺は突如、降って湧くように生まれた初めての感情に激しく掻き乱された。静かに焦がれるような予感を覚えていたのは、有里沙も同じだったと思う。

 玄関の中で別れを惜しむように抱き締めた時、有里沙はそっと扉に鍵を掛けて、「帰らないで」と囁いた。その甘く密やかな言葉が、すんでのところで躊躇していた俺を駆り立てた。俺にとって、有里沙は初めての女性だった。

 俺たちは我を忘れたように何度も唇を重ね、服を脱いで抱き合ったままベッドに倒れ込んだ。そして肌と肌を合わせ、貪るように互いを求めた。烈しい恍惚の末に訪れた絶頂に、俺は夢と見紛うほど魅せられた。俺たちは裸のまま寄り添って、互いを抱くようにして眠った。

 熱を帯びた肌と肌が触れ合い、直に伝わる互いの鼓動がやけにリアルに鼓膜に響いた。夜更けに目を覚ました時、ベッドライトの薄い橙の光の中で、身を起こした有里沙は一筋の涙を流していた。

 彼女は薄い微笑を浮かべるだけで、涙の理由を語らなかった。俺もあえて問うことはせず、言葉を口にする代わりにその瞼にキスをした。そして、俺たちは朝方になって、もう一度烈しく求め合った。

 長く停滞していた梅雨前線はこの街を離れ、気象庁は梅雨明けを発表した。例年よりも長い梅雨で、雨量も何年ぶりかに平均を大きく超えたという。

 まるで梅雨の流れに呼応するような恋だ。そんなことを思うようになったのは、夏休みの終わり頃だった。俺はそろそろ宿題に本気になり、進学先の大学も真剣に選び始めていた。勿論、有里沙との恋も疎かにはせず、むしろそちらのほうに比重をかけていたと言っても否定はできない。だが、受験でも学校の成績でも、それに劣らない結果を出すつもりではいた。

 残暑の熱気に嫌気が差していた頃、有里沙は俺に、お願いがあると言ってきた。

「来週にあるコンサート、亮輔君に観てもらいたいの。できれば、絶対」

 それは、夏休み終了日である日曜日に、有里沙の部屋を訪れている時だった。借りてきた映画のDVDを観終わり、俺の肩に凭れかかるようにしていた有里沙が唐突に切り出してきた。

「文化センターでやるコンサートだっけ? 確か、シューベルトがテーマの音楽祭」

「そう。シューベルトの歌曲や協奏曲を、いろんな人が演奏するコンサート。あたしも歌い手として出演するの」

 その舞台を観に来てほしい。有里沙は静かながらも、懇願の響きをたたえて告げた。

「今までずっと歌えなかった曲を歌うの。立花先生が亡くなってから、ずっと歌えなかった曲。あたし、頑張って歌うから、亮輔君に見届けてほしい」

 そう語る有里沙の顔は、いつもより少し強張っていた。俺がどんな反応をするか、恐れていたのだろう。その緊張は、たとえ肩を抱いていなくとも、手に取るように分かった。

「勿論。行くよ、絶対に。俺でよければ」

 おどけた明るさでそう言うと、有里沙は目に見えてほっとした顔になる。そして、すぐ泣き笑いのような顔になり、俺は俯く彼女の唇にキスをして約束した。それでも有里沙は、やっぱり涙ぐんでいた。

 翌週、俺は普段より少しかっちりとした服装で、コンサート会場へと出掛けた。

 コンサートは午後二時からで、席はあらかじめ有里沙が取っていてくれた。市内で一番大きなホールは、老若男女たくさんの客で溢れ返っていた。俺は受付に花束を預けて席に座った。招待というだけあって、とても観やすい上等な席だった。

 俺は携帯電話をオフにしてから、物販で買ったパンフレットに目を通す。

 有里沙が出演するのは中盤のセクションで、ソロで五曲披露することになっていた。その一曲である『アヴェ・マリア』が、有里沙が立花医師の死後、歌えなくなっていた曲だという。理由は、立花医師が彼女の歌う曲の中で、一番好んでいたかららしい。

「元々、先生が好きな曲だったの。リクエストされて歌ったら、先生はとても喜んでくれて、すごく褒めてくれたの。それで、あたしが歌う『アヴェ・マリア』が一番好きだって言ってくれた。あたしはすごく嬉しくて、何度も先生の前で歌ったわ。先生はその度喜んでくれて、すごく嬉しそうに聴いてくれるの。……だから先生が亡くなった後、この曲を聴くだけで涙が止まらなくなって。歌おうとすると、悲しさとか寂しさとか、つらさとかが一気に溢れて、胸が痛くて痛くてたまらなくなって、どうしても歌えなかったの」

 その思いとは裏腹に、立花医師の死後、失語症を経て歌手に復帰すると、コンサートで『アヴェ・マリア』を歌ってほしいという依頼が何件か来たという。コンサートの趣旨やプログラムから考えても絶対外せない選曲で、プロとして歌うことを求められても、有里沙は歌うことができなかったらしい。歌おうとすると喉が閉まり、みるみるうちに涙が溢れてくるのだと有里沙は語った。『アヴェ・マリア』には、立花医師を亡くした打撃と同じぐらい、深い思い入れがあったのだ。

「いつまでも歌わないままではいられないことは分かってた。このコンサートの依頼が来た時も、本当はすごく迷ったし悩んだの。……でも、亮輔君を好きになって、ゆっくりとだけど前を向けるようになったから、もう一度歌いたいと思えたの。できれば舞台で、プロとして歌う姿を、亮輔君に見届けてほしいと思ったから」

 そう語った有里沙は、泣いてはいなかった。照れくさそうにはにかみ、それでも俺の手を握って目を逸らさずに、勇気を振り絞るように言った。

 俺は嬉しかった。有里沙が前を向こうと思ってくれたこと。恐れや痛みを抱えながらも、今を生きようとしてくれていることが伝わってきて、下手をすれば俺のほうが泣きそうで焦った。

 パンフレットには、シューベルトに関する記述は勿論、演奏曲の紹介や、出演者のプロフィールが一人一人詳しく載っていた。メインの出演者は、プロフィールや写真とともに挨拶文も載っており、有里沙もその一人として、一ページの半分を占めていた。

 【ご来場くださった皆様、本当にありがとうございます。まだまだ未熟な私に、このような素敵な場を与えてくださった関係者、出演者の皆様には、何度御礼を言っても足りません。今日はこのステージに関わってくださった皆様、貴重な時間を割いておいでくださった皆様、そして私の心を支えてくれた大切な方々に、心をこめて歌います。シューベルトの音楽の美しさ、素晴らしさが、少しでも皆様の心の潤いとなりますよう、祈っております】

 挨拶文を読みながら、俺は一つ一つの言葉に秘められた思いを噛み締めていた。有里沙はどんな気持ちでこの文を書いたのだろう。そう思うとたまらなくなった。

 パンフレットを何度も読み返していると、不意に劇場内の照明が落ちて拍手が沸き起こった。俺は慌ててパンフレットを膝に置いて拍手する。

 不慣れなクラシックコンサートは、思ったほど眠気に襲われなかった。集中して観ていたからかもしれない。曲名を見ただけでは分からなくても、いざ演奏されると、聴いたことがあると思う曲はいくつもあった。ゆったりとした中で浸る音楽の世界というのは、想像以上に豊かで心地よかった。

 ピアノがメインの第一幕の次が、歌曲を中心にした第二幕だった。淡い水色のドレスを纏った有里沙が舞台に現れると、劇場内に拍手が満ち満ちた。この中に、有里沙を知っている人がどれだけいるかは分からない。それでも、その拍手はどれも温もりに溢れていて、俺は拍手しながら何だか嬉しくなっていた。

 有里沙は中央で足を止め、すっと前を向く。微笑をたたえてお辞儀をすると、一瞬だけ瞑目してから歌い始めた。

 それは、俺の知らない言語の歌だった。有里沙はマイクを使っていないが、劇場内にその歌声はよく響き渡っていた。俺はその声量に驚き、改めて感嘆した。

 周囲の誰もが、息を詰めるようにして有里沙の歌に耳を傾けている。静寂の中に響き渡る歌声は、どこまでも美しく柔らかで、豊かさに満ちた静寂が瑞々しく、清らかに洗われていくようだった。

 二曲目が終わった後、ほんの少しの間が生まれる。それが、一曲目と二曲目に比べて僅かに長かったことに、気付いた人はどれくらいいただろう。

 有里沙は逡巡するように息を詰めると、祈りにも似た表情で目を瞑り、ゆっくりと旋律を紡ぎ出した。

 『アヴェ・マリア』だ。俺は呼吸すら忘れて有里沙に魅入った。

 どこまでも高らかに響き渡る歌声は、透き通った中にどこか哀切を帯びて聴こえる。まるで魂を根本から震わせているようだと俺は思った。痛みと悼みを痛烈なまでに孕みながらも、とめどない祈りがこめられた響きが劇場を大きく包み込む。

 俺には、他言語であるこの曲の歌詞の意味は分からない。だが、有里沙がこの歌に託した思いは痛いほど伝わってきた。彼女にとってこの歌は、神に捧げるものであると同時に、失った人を偲ぶ鎮魂歌でもあるのだ。その清らかな気迫を凄絶に感じて、俺はただただ圧倒されていた。

 息を継ぐのも忘れて、食い入るように有里沙を見つめる。そして、彼女がこの歌にこめた思いを、しっかりと心に刻みつけようとした。有里沙が全身全霊で奏でた祈りと覚悟を忘れてはならない。そんな誓いにも似た思いを胸に秘めながら、俺は舞台に立つ有里沙から目を離さず、その歌声に耳を傾け続けた。

 間にMCを挟まない、五曲連続の披露が終わる。最後の一音が余韻とともに溶けた途端、劇場内に割れんばかりの拍手が溢れ返った。人々が次々に立ち上がって拍手する。俺も立ち上がり、精一杯の力をこめて拍手した。

 スタンディングオベーションは思いがけないことだったのか、舞台の有里沙はほんの少しぽかんとした顔を見せたが、やがてくしゃくしゃの笑みを浮かべて頭を下げた。

「倉本有里沙さんでした。どうぞ皆様、今一度、盛大な拍手をお願いいたします!」

 司会者の言葉と同時に、拍手の音がさらに大きく響き渡った。有里沙は笑顔でもう一度頭を下げると、颯爽と舞台袖へ消えていく。拍手は、彼女の姿が見えなくなってからもしばらく続いた。

 この気持ちを、何と言ったらいいのだろう。噛み締めても後からじわじわと湧き続ける感情が、心の隅から隅まで広がっていく。俺は初めて、亡くなった立花医師に感謝した。彼がいなかったらきっと、今の有里沙もいなかった。じんわりと染み渡る感動の傍らで、そう素直に思いを馳せる自分がいた。

 夕方五時を少し過ぎたぐらいに、コンサートは無事終了した。帰路に着こうとごった返す人波をロビーの片隅で眺めながら、俺は先程まで浸っていた感慨や音楽の余韻を噛み締めていた。

 三十分ほどして人混みが減ってきた頃、俺はホールを出てすぐの公園へと移動する。

 陽が沈み切る直前の空には雲がなく、昼間より少し涼しい風が吹いていた。公園を囲む舗道を行き交う人々は皆、忙しなく通り過ぎてはどこかへと消えていく。しかし、広すぎず狭すぎずの公園の中には、人っ子一人としていなかった。

 俺はベンチに腰掛けて、ただじっと空を仰いでいた。深い藍に染め上げられた空に、カスタード色の満月がくっきりと浮かんでいる。

 どれだけの時間、そうしていただろう。誰かが近付いてくる気配を感じて、俺はおもむろに腰を上げた。

 そこには、大きな花束をいくつも提げた有里沙がいた。その顔は泣き出す寸前で、今までずっと堪えていたのがすぐに分かった。

 俺は歩み寄ってきた有里沙を、何も言わずに抱き寄せる。有里沙は俺の胸に顔を埋めてひくりと嗚咽した。

「お疲れさま」

 俺の言葉に、有里沙は小さく頷いた。

「すごくよかったよ。綺麗な歌だった。心の奥の奥まで響いてきた」

「うん」

「頑張ったな」

「うん」

「すごかったよ。ありがとう」

 俺は赤くなった有里沙の瞳から、そっと涙を拭ってやる。有里沙は俺の指にそっと自分のそれを絡めて、泣き笑いの滲んだ顔で見上げてきた。

「亮輔君のおかげよ。亮輔君がいてくれたから、あたしは歌えた」

 涙が浮かんだ瞳にまっすぐ見つめられ、俺はすぐに言葉が出てこなかった。

「ありがとう、見届けてくれて。見ていてくれて……支えてくれて、ありがとう。ありがとう」

 俺はこみ上げてくるものを抑えられずに、花束ごと有里沙を強く抱き締めた。もうこれ以上、言葉はいらない。そう心から思ったのは、生まれて初めてのことだった。

 藍が深まる夜空の下、時間を忘れるほど抱き合った後、互いの瞳を覗き込むようにして唇を重ねる。その温もりを、愛おしさを、俺はきっと一生忘れないだろう。

 ほの明るい満月の光が、有里沙の輪郭を淡く描き出す。俺がその頬を両手で包んで笑いかけると、涙ぐむ彼女は嬉しげな笑みを深くした。

 ねえ、有里沙。雨はようやく上がったね。

 そう言葉にする代わりに、俺は有里沙にもう一度柔らかに口づけた。

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