6

 七月に突入してから、不安定な天気に蒸し暑さがプラスされた。すっきりとした晴れ間はここのところご無沙汰で、曇りと雨が捉えどころのない間隔で繰り返される日々が続いている。

 制服が完全に夏服に変わり、体育の授業は女子男子とも、水泳がメインになった。期末テストが近付き、授業中の小テストや宿題の量が増え、クーラーのない教室では、下敷きや扇子で扇ぐ生徒が目立ち始めている。時間をかけてじりじりと炙るような暑さに、俺は早くもうんざりしていた。

 有里沙と会わなくなって十日が過ぎた。あれから連絡も取っていないし、教会の裏庭にも行っていない。

 身を焦がすような恋しさに煽られて、彼女に会いに行きたい衝動に駆られたことは幾度となくある。だが、いつもあと一歩のところで足を引いてしまっては、この状況を打破する何かしらのきっかけが起きてくれないだろうかと、神頼みのような期待を抱いたまま今に至るのだ。そんな自分のずるさや嫌らしさにも、梅雨空と同じくうんざりしている。

 有里沙を避けているのではない。会いたい想いは依然強く、可能性を諦めたわけでもない。ただ、実際に会うとして、どんな顔で相対すればいいのか、最初に何と言えばいいのか分からないのだ。そして同時に、彼女の第一声を恐れている自分もいた。

 立花医師の死を悼んで泣いている有里沙を、俺は素直に慰められなかった。それどころか、自分の本音を優先させ、無理やり抱き締めて想いを告げ、その唇を強引に奪った。あの時の彼女の目が忘れられない。ガラス玉にひびが入ったようで、俺の姿など欠片も映っていなかった。それが、立花医師への想いを見せつけられた以上にショックだった。

 有里沙を泣かせてしまった。有里沙に拒絶されてしまった。もう、どうしたらいいのか分からない。

 そう途方に暮れる一方で、己の行動に不思議と後悔は浮かんでこない。見るに耐えない思いが臨界点を超え、どうにも気持ちが抑えられなかったのだ。悔いはないが、やり方がよくなかったとは痛感している。しかし、あれ以外に方法があるのなら、俺のほうが教えてほしいくらいだった。

 七時間目終わりの気怠さの中、俺はノートの上に顎を置いて、悶々と自己問答を繰り返しては落ち込んでいた。

「亮輔。帰りにマック寄っていかないか?」

 頭上から声が下りてきて、俺は視線だけ上に向ける。サブバッグを肩から提げた甲斐がいた。

「……ああ、いいけど。西岡は?」

「放課後デート」

「デート?」

「一年三組の女子と。最近付き合い始めたんだって」

「へえ」

 俺は体を起こし、ノートと教科書を適当にサブバッグに放り込んで席を立つ。そして、甲斐とともに学校を後にした。

 Lサイズのポテトとコーラを注文し、二階のいつものカウンター席に並んで座る。平日夕方のマクドナルドは主に学生でごった返していて、どこもかしこも明るく陽気な賑やかさだ。

「風邪、治ったの? 先週、珍しく欠席してたじゃん」

「ああ、あれ……。大したことないよ。ちょっと雨に降られただけ。熱も咳も治まった」

 俺はポテトを適当につまむ。その動作にはいつにも増して力がなく、我ながら笑いたくなった。

「それで、どう? 最近、有里沙さんと」

 甲斐のストレートな切り出し方にはもう慣れた。俺は深く沈むようにため息を吐く。

「……もう、だめかも」

「何で?」

「嫌われたかも」

「どして」

 俺は黙り込む。説明することで、自らの傷を抉るのが嫌だった。甲斐は窺うように俺を見やり、

「西岡の勧めに従って、無理やり押し倒してキスでもした?」

 俺は飲んでいたコーラを吹き出しかける。

「ばっ……そこまでやってねえよ!」

「そこまでって、どこまでさ」

 率直に問い返され、俺は口をもごもごさせた後、結局は黙り込んでしまう。

 甲斐はハンバーガーをくわえながら俺を見て、ふむふむといった顔つきで何度か頷いた。

「ま、いいんじゃない? それぐらい強引な駆け引きも、時には必要だろうし」

 何もかも察したような口調に、異を唱える気力すらなかった。俺はポテトを指で玩ぶ。

「でもさ、ぶっちゃけ悔いはないけど、反省はしてるんだ。いきなりで、無理やりすぎたかなって」

「状況にもよるけど、多少無理やりなほうが、彼女も目が覚めるさ」

「覚めるどころか、嫌われた気がするんだけど」

「恋愛の駆け引きなんて嫌われて何ぼ。彼女の反応がつれなかったからって、まだ見込みがないって決まったわけじゃないだろ?」

 甲斐はさらりと励ましてくれるが、それでも俺の気持ちは晴れない。俺は肘を突いて口端でポテトをくわえ、

「俺……無理かもしんない」

「何が?」

「何か……いろいろと」

 甲斐はストローをくわえる。一瞬だけ向けられた眼差しが、その先を無言で促していた。俺はしばし黙考した末に、

「何か俺、勝ち目ないや」

「誰に?」

「死んだ立花医師」

「どういうこと?」

「何か、あまりにも大きすぎて。大袈裟かもしれないけど、彼女の頭だけじゃなく、体から心の隅々まで全部に立花医師がいて、それが幸せだっていう風に有里沙さんは笑うんだ。そういうのを言葉の節々で見せつけられると、圧倒されるというか、何というか……出る幕ないみたいに打ちのめされるんだ」

 甲斐は静かに頷きながら、ポテトをさくさくと頬張る。

「一時期は思ってたんだ。立花医師を越えられたら。有里沙さんにとって俺が、立花医師よりも大きな存在になれたらって。……でも無理だ。できない。つーか、敵わない」

「というと?」

「俺なんかじゃ、立花医師の代わりにはなれない。多分っていうか、きっと越えられない。だってさ、有里沙さんはずっと、立花医師のことばかり考えているんだ。それはもう空よりも遠く、海よりも果てしなくって言っても大袈裟じゃないくらい。そんな彼女の中に、俺の入り込む余地なんてないよ」

 甲斐が驚いた顔で目を瞬かせる。普段の俺は滅多に弱音を吐かないし、自分から進んで悩み事を打ち明けるのも珍しい。そんな俺がしおしおとうなだれる姿が、甲斐には意外に映ったのだろう。

 甲斐はストローをくわえたまましばらく黙り込んだ後、

「当たり前だろ。お前は生きてるんだから」

 憂いに沈んでいた俺は、彼の言葉の意味がすぐには分からなかった。

「勝ち負けとは違うな。比べられるもんじゃないと思う。でも、決定的な違いはそこだよ」

「生きてるか、死んでるか?」

「そう。誰だって一人なんだから、誰かの代わりになんかなれないよ。越えるとか勝つとか、そういう次元を乗り越えても、個人の存在って大きいと思う。比べるだけしんどい」

「意味がないってこと?」

「意味も何も、違う人間なんだからさ、比べたってどうにもならないよ」

「ごめん、言ってることがよく分からない」

 あまりに思慮深い甲斐の言葉に、俺は混乱してしまう。時々、同い年という事実に首を傾げたくなるくらい、彼は冷静で理知的で思慮深い。相談事に適した相手ではあるが、あまりにも悟りを開いたような言葉には、思考が追いつかなくなる時がある。

 甲斐はハンバーガーを食べながら、言葉そのものを噛み砕くように、

「人ってさ、大事な誰かを亡くすと、失った悲しみが深ければ深い分、その人の記憶が美化されると思うんだ。思い出とか言葉とか、些細な事柄でさえも尊く思えたりして。彼女もそうなんじゃないかな。立花医師はそれだけ、有里沙さんにとって大きな人だったんだよ。でも、だからといって、お前が太刀打ちする必要はないんだ。亮輔は亮輔、立花医師は立花医師。お前がもし立花医師を越えようとして、ああだこうだ必死に努力を重ねるとする。彼女もそれに心が動くとしよう。でもいつか絶対、どこかでがたが来る。そもそも人の存在なんて、越えるとか勝つとか、そういうレベルの話じゃないんだ。大事なのは、一緒に生きていくこと」

 一緒に生きていく。俺は小さく反芻した。

「それができるかどうかじゃねえの? 結局は。ポテトもらっていい?」

 俺はポテトの箱を少し動かして、甲斐が取りやすいように中身を広げた。甲斐は一番長いポテトをつまむと一瞬で食べ切る。俺はコーラのカップを玩びながら、

「俺、ずっと思ってたんだ。立花医師ってすげえなって」

「たとえば?」

 俺は少し言葉を止めて考えてから、

「有里沙さん……まあ、家庭的にいろいろ複雑な事情があるらしいけど」

「うん。そこには俺も、あえて触れない」

「孤独っていうのかな、そういうもやもやしたものをずっと抱えたまま大きくなって、だけど誰にも言えなかった気持ちを、立花医師は一瞬で見抜いて受け止めたんだって。そういう優しさとか寛大さ、俺には想像もできないなって。生憎、俺はそういうのを持ち合わせていなくて、自分の気持ちだけを押しつけて、彼女を泣かせて」

「思ったわけだ。こんな時、立花医師ならきっと、もっとうまいことを言うんだろうな。泣かせたり、傷つけたりはしないんだろうなって」

「……甲斐、お前ひょっとしてエスパー?」

「まさか。話の流れで大体分かるよ」

 甲斐はさらりと流して、ふと目元を和ませた。

「でも、それでも結局はそこに行き着くわけさ。亮輔は亮輔、立花医師は立花医師。お前はお前のやり方で、彼女の気持ちを救ってやればいいんだよ」

「救う……。亜希子さんにも言われた、似たようなこと」

「亜希子さん?」

「有里沙さんの姉貴」

 甲斐は興味津々の目になるが、俺はあえて触れないことにした。聡い甲斐はそれをきちんと読み取ってくれて、それ以上の追及はしなかった。

「多分、有里沙さんは今、道が見えなくなってるんだ」

「道?」

「そう、生きる道」

「……それは思う。立花医師のこと、生きる理由だったって言ってたし」

「生きる理由を失くしたら、誰だって足を止めるし、嘆くし傷つく。でもさ、それで終わりじゃないんだ。道を見失っていた有里沙さんの前に、お前が現れた。亮輔はいわば、有里沙さんがもう一度歩き出すきっかけになるかもしれないわけだ」

「……そんないいもんかな」

「いいもんだよ。変わる時っていうのは、いつかは来るんだ。いつまでも同じ場所にはいられない。生きるってのはそういうことだよ。だから、お前が彼女の手を引いてやればいいさ」

 ポテトをつまみながら、俺は甲斐の言葉を脳裏で静かに反芻する。その意味を丁寧に砕いて噛み締めた時、今まで俺の心をがんじがらめにしていた何かが、ゆっくりと解けていくのが分かった。

「でもさ、忘れちまえなんて言うのはだめだぞ」

 俺はすぐには頷かず、視線だけでその先を促す。

「死んだ人間は、生きてる人間の思い出の中でしか生きられないんだ。積み重ねてきたものは、一生消えることはない。それを忘れちまえってのは酷な話だ」

「うん……確かに」

「いつまでも面影を引きずられたり、思い出話ばっかされるのもしんどいと思うけど、ある程度は受け止めてやれ。そのうち彼女にとって、お前が生きる理由になる時が来るさ。そうなることを祈ってるよ」

 そう言って、甲斐は軽い笑みを浮かべた。俺も思わず頬が緩む。

「なあ、甲斐って何でそんな大人なわけ?」

「大人? 俺が?」

「何か、いつも達観したような、悟りを開いたような大人なアドバイスするだろ」

 俺の言葉に、甲斐は照れるような眼差しで苦笑した。

「俺は、自分が大人だとは思わないけど……。そうだな、しいて言うなら、同じだからかな」

「同じ?」

「そう。俺もお前と同じ。年上の女に惚れたことがあるんだ。もう終わったことだけど」

 俺は度肝を抜かれた。

「マジで?」

「マジ」

「誰? 俺の知ってる人?」

 甲斐は瞬きをして少し黙り込む。

「敷島夏海って覚えてる?」

「ああ、確か一年の時にいた若い先生だよな、古典担当の」

「そう。それが俺のかつての恋人」

「ええっ。おまっ、教師と付き合ってたのかよ」

「亮輔、声でかい」

 苦笑気味に咎められ、俺は慌てて声のトーンを落とす。

「マジで?」

「そう、マジ。このこと話したの、お前が初めて」

「そうなの?」

「だって、知られるわけにいかないだろ。生徒と教師が実はできてたなんて」

 俺は口をぱくぱくさせた。普段から甲斐は抜きん出て落ち着いていると思っていたが、そこまで大人びたことをしていたとは思わなかった。

「……そういえば一年の時、何度かアリバイ頼まれたことあったっけ。俺んちに泊まってることにしてくれって。あれってもしかして、敷島先生の家に泊まってたからとか?」

「ビンゴ」

「マジかよ。うっわー、驚愕の事実。今の今まで想像もしてなかった」

 甲斐は俺の驚きようが面白いらしく、にやにや笑いながらこちらを見ている。俺は衝撃が冷めやらない中、つい好奇心が勝って気付けば追及していた。

「きっかけは何だったの?」

 先程の消沈ぶりとは打って変わって積極的になった俺を、甲斐は物言いたげに見返す。しかし興味津々の眼差しに負けたのか、

「俺の一目惚れ」

「嘘つけ! お前、全然そんなそぶりなかったじゃんか」

「必死に隠してたんだよ。見せるわけないだろ、校内の噂の対象になるような隙なんて」

 そう言って、甲斐はふっと笑い飛ばす。

「まあでも、もう終わったことだ。去年の三学期にはもう別れてた」

「……何で?」

 甲斐はほんの一瞬痛むように眉を動かすが、すぐに何でもない顔に戻って、

「あっちに親同士が決めた婚約者ができたんだ。それで」

「それは何とも、世知辛い……」

「たかが高校生のガキが、立派な肩書き背負った大人に敵うわけがない。どうあったって勝ち目がないのは見えてた。悔しかったけど、俺の力ではどうしようもなかった」

「そういえば敷島先生って、確か結婚退職したんだっけ」

 知的美人と名高かった二十代の女性教師の結婚退職は、生徒の間で結構話題になったが、俺はそこまで深く気にしていなかった。それに友人が絡んでいたなど寝耳に水だ。

「彼女は俺と違う男と結婚した。今思うと、本気で好きだと思ってたのは俺だけだったのかもしれない。年上の女に惚れたってのはお前と一緒だけど、俺のほうが確実に不毛だったな。その分、亮輔はまだ未来があるよ。俺にはなかった未来がさ」

 そう言って、甲斐は悪戯っぽく笑う。俺は言葉が浮かばず、ただコーラを飲むしかなかった。

「でも、後悔はしてないよ。彼女に惚れたこと。お前だってそうだろ?」

 俺は少し考えた後、無言で頷いた。

「ならいいじゃん。頑張れ」

 甲斐は俺の肩を軽く叩く。ずっと抱えていた憑き物が落ちた気がして、俺は久しぶりに笑っていた。話を聞いてくれた礼にポテトを全部やると言うと、甲斐は嬉しそうにしながらぱくぱくと平らげていく。

 窓の外は相変わらず陰鬱な空模様をしていたが、俺の中からはいつの間にか憂鬱が消えて、からりとした心持ちが戻ってきていた。



 その週の日曜日、空は澄み渡るように青かった。こんなに晴れた休日は久しぶりかもしれない。そんなことを思いながら、俺は有里沙のアパートを訪ねた。

 彼女に会に行くことに迷いはあった。迷いというより、怖い気持ちのほうが大きかった。拒まれるかもしれない。二度と会いたくないと言われるかもしれない。そう思うと情けなくも足が竦んだが、俺から動かないと、現状はいつまでも変わらないことも分かっていた。しかし、いざ動くとなると、清水の舞台から飛び下りる飛び降りる以上の勇気がいって、ひたすらぐるぐる悩んでは、あと一歩がなかなか踏み出せずにいた。

 自分から動く決意を固めたのは、やはり甲斐の後押しが大きかっただろう。彼の言葉がなければ今頃、可能性を全部捨ててしまっていた気がする。

 あの後、何度も悩み抜いた末に俺は、有里沙への想いを諦めたくない自分をやっと認めた。そして、彼女に会いに行こうと思った。何かが始まるかもしれないし、このまま終わってしまうかもしれない。でもそれは、自分から動いた後に分かることだと思った。

 強い決心を抱いて来たつもりでも、有里沙の部屋の前に立つとやはり足が震えた。俺は深呼吸を二回してから呼び鈴を押す。

 しばしの沈黙の後に玄関が開き、僅かな隙間から有里沙の顔が覗いた。俺はぺこりと頭を下げる。

「佐川君……」

 有里沙は驚いたように呟く。そこに嫌悪感がなかったことに、俺は心底ほっとした。

「こんにちは。いきなりすいません」

「どうしたの?」

「えっと、その……。あの、今調子どうですか? 大丈夫ですか?」

 有里沙は僅かに眉をひそめる。怪しむというより、不思議がっているようだ。

「ちょっと海まで行きませんか? 今日天気いいし、風も気持ちいいですよ。体調が優れるようなら、よかったら行きませんか?」

 俺は努めて明るい響きで言った。内心では、断られたらどうしようとびくびくしていた。

 有里沙はしばし沈黙した後、

「少し待って。着替えてくるから」

 そう言って静かに扉を閉める。俺は強張っていた肩から力を抜き、肺が空になるまで息を吐いた。緊張が一気に緩み、思わずその場にへたり込んでしまう。

 気持ちを持ち直して、俺は玄関の横の壁に凭れて有里沙を待った。十五分を少し過ぎた頃、玄関がゆるりと開いて有里沙が姿を見せた。

 彼女は淡い水色のワンピースに、白のノースリーブのパーカーを羽織っている。その長く艶やかな黒髪は、乾かしたてのようにふわりと揺らいだ。見惚れた俺は一瞬言葉を忘れたが、

「行きましょうか」

 有里沙はこくりと頷くと、俺の後をついて歩き出した。

 緩やかで長い下り坂を、俺は有里沙の歩幅に合わせながら進んでいく。

「気持ちいい快晴ですね。海もきっと綺麗ですよ」

「佐川君……」

 俺は立ち止まって有里沙を振り返る。その目を見て、彼女が何を言いたいのかを悟った。

 俺が歩き出すと、数秒遅れて有里沙も歩を進めた。

「前はすいませんでした。有里沙さんの気持ちを無視して、無理やり」

 俺は前を向いたまま、有里沙に話しかける。顔を見ていなくても、彼女が今どんな表情をしているのか、手に取るように分かった。

「いきなりあんなこと言ったら驚きますよね」

「いえ、あの……」

「怒りましたか?」

 肩が触れそうで届かないぐらいの背後で、有里沙が首を横に振る気配が伝わる。

「よかった。実を言うと、内心びくびくしてたんです。嫌われてたらどうしようって」

「そんな、嫌うなんて……」

 その言葉で、俺は心底ほっとした。有里沙に嫌われていないことが、ただただ嬉しくて仕方がなかった。

「本当は、もっと先に言うつもりだったんです。有里沙さんが俺を見てくれてから、ちゃんと伝えようと思ってました。……でも何ていうか、計算が狂ったというか。何かもう、見ていられなくなって、思わず先走っちゃいました」

「佐川君……」

「あれから俺、いろいろ考えたんです。悩んだし迷ったし、どうしたらいいか分からなくなって、結構ぐるぐるしてました。正直、自信も全部失くしたし、やっちまったなってかなり落ち込みました。でも、時間かけて考えたら、俺の中でやっと答えらしきものが見つかって、それから後は迷わなくなりました。だから、言い方悪く聞こえちゃうかもしれないけど、後悔はしてません。あの夜はいろいろ、いきなりで悪かったとは思ってます。でも、言ったのは全部本当のことだから。だから、キスしたことも、謝りません」

 きっぱりとした響きで告げた言葉に、有里沙は何も言わなかった。

 彼女が困惑しているのは、見ていなくても気配で分かる。次に何と言おうか考えていると、すれ違う自転車が有里沙のほうによろけた。

 俺は咄嗟に有里沙の手を引き、己が身を盾にして庇った。自転車はそのまま、よろよろと坂を登っていく。見たところ、有里沙とぶつかったわけではないらしい。

 有里沙もほっとした顔をしていたが、俺が握った手を見て瞬きをする。俺は少し迷ったが、その手を離さないことに決めた。

 俺は有里沙の手を引いて再び歩き出す。有里沙は何も言わず、繋がれた手を振りほどくこともしなかった。彼女の手はとても小さく、すべすべとしていて、俺の熱が伝わって次第に温かくなっていく感じがした。きっと元々、そこまで体温が高くないのだろう。

 車の多い舗道を歩き、踏切を越えてさらに坂を下り続けると、十五分ほどで海浜公園に着いた。そこは港に近い場所で、海を臨むフェンスが東西にどこまでも伸びている。白の自然石が敷き詰められた地面が眩しく、フェンスに寄りかかってカップルや、ベンチで弁当を食べる家族連れなどが点在していた。

 俺は有里沙の手を引いて、フェンスの前で足を止めた。

 海は青かった。空も同じように青いが、海はそれより少し緑色を帯びているように見える。規則的に響くさざ波の音は静かで、心のドアが全部開放されたような感覚がした。

「ね? すごい綺麗でしょ。久しぶりだなあ、こんな青い海見たの」

「ええ……」

「最近ずっと雨が降っていたから。梅雨の間の快晴って、何だか夏本番みたいですよね」

「そうね」

 有里沙は消え入りそうな声で相槌を打つ。二人で眺める海はどこまでも広く、鼻腔をくすぐる潮の香りはいつになく爽やかだった。

「ここにはよく来ますか?」

「いいえ……」

「初めて?」

「ええ」

「気持ちいいでしょ? 港が近いから、船もよく見えるんですよ。フェリーとか、ヨットとか」

 俺が笑いかけると、有里沙は目を瞬かせた後、ぎこちなく視線をずらす。長い沈黙が、潮風の色と香りに染め上げられた。

「どうして、あたしをここへ?」

 俺はわざとらしさを努めて抑えつつ、少し考えるそぶりをしてみせる。

「別に大した理由はないんです。まあそうですね……。しいて言うなら、青空の下で有里沙さんと話してみたかったから、かな」

 俺の言葉の意味を、有里沙はすぐには量りかねたらしい。当惑の消えない目で、青く輝く海を見つめる。

「思えば俺と有里沙さんが会う時って、いつも雨だった気がするんです。土砂降りの夜か、もしくは空の暗い夕方。しかも、いつも同じ場所。だから、たまには雲一つない青空の下で、あの教会とは違う場所で、有里沙さんと話してみたかったんです。迷惑でしたか?」

 有里沙は慌てて首を横に振る。その仕草が何だか微笑ましくて、俺は自然に口元を綻ばせていた。

「よかった。……でも、ぶっちゃけ言うと、迷惑だって言われても、連れ出すつもりでいたんです。それくらいの覚悟で今日、来ましたから」

 白い太陽の光を受けて、紺碧の水面は強く透明な輝きを放つ。ガラスを散りばめたようなその様は、どこまでも晴れやかで純粋に綺麗だった。

「この青もたまにはいいでしょ?」

「え?」

「海の青です。前に言ってましたよね、雨にも色があるって。雨は蒼に一番近い気がするって話」

 有里沙は頷きながらも、俺の言葉の意味を量りかねたのか、僅かに首を傾げていた。

「青は同じ青かもしれないけど、海の青も綺麗だと思いませんか? 有里沙さんの言う蒼じゃないけれど、こういう色も世の中にはあるから。言うなれば、晴れの日にしか見れない青。雨の日にしか見れない蒼もいいけど、こっちの青もたまには見てほしいと思って。俺の勝手なエゴかもしれませんけど」

 有里沙はフェンスに両方の指先を置いて、眩しそうに目を細める。そして、風になびく黒髪をそっと押さえた。

 俺は海を眺めながら、有里沙が口を開くのを待つことにした。長い沈黙の中で、涼やかな潮風が頬を撫でる。俺は遠くに見える船の軌跡に目を凝らした。

「佐川君が言ってくれたこと」

 俺は海からほんの少し視線をずらして有里沙を見つめる。

「嬉しかった……」

 恥らうでも躊躇うでもなく、とても静かに有里沙は呟く。その肌は太陽の下で一層白く輝き、憂色の眼差しはどこまでも澄んで見えた。

「でも、ごめんなさい。あたし、どう返したらいいのか分からないの」

 有里沙はか細い声音で俯く。

「本当に、分からないの……」

 規則正しく空気に溶ける波音に、かもめの鳴き声が高らかに混ざった。見上げると、一筋の軌跡を描いて空を翔る鳥の翼が視界に入る。それは、鳴き声とともに遥か向こうへ遠ざかり、点よりも小さくなって空の青の深くに消えた。

「有里沙さんは……怖いんですよね、生きることが」

 視界の端で、有里沙の瞼がぴくりと震える。

「立花医師のいない日常が進んでいくことが。彼が生きていた頃と今の違いが、どんどん鮮明になっていくことが。有里沙さんは、その変化を恐れてるんじゃないですか?」

 潮騒に満ちた沈黙が下りる。俺はそれ以上言葉を紡ぐことはせず、海を眺めながら有里沙の答えを待った。

 有里沙は激しく瞳を泳がせた後、やがて小さく首を縦に振る。

「そ……う」

 俺はちらりと有里沙を見る。フェンスを握る二つの小さな手が、見紛うような細かさで震えているのに気付いた。

「怖い……」

 有里沙の瞳が、太陽の光にきらめいて僅かに揺れる。

「生きることが、怖い。変わっていくのが……耐えられない。立花先生……」

 彼女の細い肩が揺れるのを見て、俺は僅かな躊躇いの後にその手を握った。そうしないと、今にも有里沙が消えてしまいそうで怖かった。

「死んだなんて、思いたくないの。信じたくないの。……だって、あんなに一緒にいたのに。誰よりも好きで、誰よりも傍にいてほしくて。……ずっと一緒だと信じてた。いつか離れる日が来るなんて……死んでしまうなんて、思ったことなかった。ずっと続くんだって信じてた。疑ったこともなかったの。だってそんなの、悲しい。……悲しすぎる」

 俺は何も言わずに、ただじっと彼女の言葉を受け止める。有里沙の瞼が震え、涙が一筋頬を滑り落ちた。

「先生が死んでしまって、目の前が真っ暗になったの。つらくて悲しくて、どうしたらいいのか分からなくなって。……信じたくなかった。死んだなんて、思いたくない。そんなわけないって、信じていたくて。……でも、先生は本当にいなくなって、あたしは独りになって」

 有里沙は引き攣るような吐息を漏らす。俺は一瞬、喘息の発作かと思って身構えたが、嗚咽しているのだとすぐに気付いた。ひび割れのような吐息と声音が、爽やかな海風に痛みを与える。

「先生がいなくなっても、あたしは生きてる。先生がいないのに毎日は訪れて、時間は何の変わりもなく流れて……。その中で、先生と一緒だった時間が、だんだん経つごとに、思い出に変わっていくの。あたしの中では、昨日のことのように鮮やかなのに。それが、だんだん褪せるように遠ざかるの。……怖かった。つらくて悲しくて、認めたくなくて。だって、先生はまだあたしの中にいるのよ。……でも、だんだん褪せていくの。遠ざかっていくの。思い出になってしまうの」

 閉じられた両の瞼から、涙がぽろぽろと溢れて流れる。それは、あっという間に有里沙の頬をびしょびしょに濡らし、紅潮した頬は嗚咽に呼応してひくひくと震えた。

「そんなのは嫌。信じたくない。認めるのは、怖い。そんなことするくらいなら、生きていたくなんかない。あの時先生と一緒に、時間が止まったってよかったの。先生が死んで、あたしだけ生きてるなんて……そんなの、意味ない。怖い。悲しい。悲しい……」

 崩れ落ちかけた有里沙を、俺は両肩を掻き抱くようにして支えた。有里沙は身をよじるが、俺は手に力をこめて離さなかった。そうしないと、かろうじて彼女を支えている箍が全部壊れてしまう。それに離してしまうと、有里沙はもう二度と立ち直れないような気もした。それは絶対に嫌だった。

「死んでしまうのは、悲しい。会えないのはつらい。そんなの、認めたくない。嫌なの。生きたくないの。あたしも逝きたい。先生のところに、先生の元に逝きたい」

 身をよじりながら、胸に抱える痛みを全て吐き出すように、有里沙は喘いだ。

「独りは嫌なの。そんなものに意味はないの。失ったまま生きるなんて、つらくて痛くて悲しくて、それに耐えるくらいならいっそ」

「それでも俺は、有里沙さんが生きていてくれて嬉しいです」

 俺は有里沙の顔をぐいと胸に引き寄せた。

「もし有里沙さんが死んでしまったら、俺は悲しい。多分、一生忘れられない。もし有里沙さんが立花医師を追って死のうとしたら、俺は全力であなたを止めます。死んでほしくないと思うから。たとえ有里沙さんが嫌がって責めたって、俺は何度でも止めてみせます。嫌われたって構わない。俺は、有里沙さんに生きていてほしい。有里沙さんが生きていること、嬉しいです。だから」

 身動ぎし続けていた有里沙の体から、不意にがくんと力が抜ける。崩れ落ちないよう、俺はもう一度強く抱き締めた。

 有里沙は身動ぎをやめ、震える手で俺の服の裾を掴む。そして胸に顔を押しつけ、堰を切ったように泣き出した。

 それは、何かが粉々に砕けるような慟哭だった。その声があまりに痛々しくて、俺は何も言えなくなった。張り裂けるように号泣する有里沙を、ただ強く抱いて支えることしかできない自分が歯痒くて、唇の端を強く噛み締めていた。

 どれだけの時間、そうしていたか分からない。気付けば空の青に赤みが差して、海風が少し冷たさを纏う頃になっていた。周囲の人気もいつしかまばらになり、閑散とした海浜公園は真昼よりも広々として見えた。

 俺たちは植え込みの前にあるベンチに腰掛け、長いこと言葉を交わさずにいた。俺は移り変わる空の色と遠くの水平線を眺めながら、泣き腫らした顔で俯く有里沙が話し出すのを待つ。

 西の空に浮かぶ太陽が深い橙になった頃、有里沙はようやく口を開いた。

「本当は、分かっていたの」

 震えのない静かな言葉に、俺はほんの少し視線を動かして彼女を見やる。

「立花先生は死んでしまったこと。どれだけ願っても、もう二度と会えないこと。悲しくても、いつまでもそのままじゃいられないこと。本当は全部、分かってた。ずっと前から……多分、先生を亡くしたあの時から、ちゃんと気付いてた」

「……でも、認めてしまうのは怖かった?」

 俺の言葉に、有里沙は小さく首肯する。

「認めたくないと思った。認めてしまうと、先生が死んでしまったこと、先生がいないまま進んでいく日常を……それに馴染んで生きていくことを、全部受け入れることになるから。あたしと先生を繋ぎ止める最後の何かを、自分から断ち切ってしまうようで」

 有里沙の目は赤く腫れていたが、もう潤んではいなかった。長いこと心に溜め込んでいたものを、全て吐き出した後の脱力感と気怠さが、その華奢な体を支配しているように見えた。

「だから雨の夜、あの教会の裏庭に出掛けた。いつかに交わした些細な約束を信じ続けることで、先生と過ごした日々の記憶を、鮮やかなまま、ここに繋ぎ止めていたかった。……でないと、何かもかもが壊れてしまいそうで。何もかもが、なかったことになってしまう気がして。そんなのは耐えられなかった」

 憔悴しきった表情で、有里沙は自嘲的な微笑を作る。

「ばかだと思う? ……愚かで、みっともないと」

 俺は首を横に振る。

「いいえ」

「思われてもいいの。ばかでも愚かでも……狂っているけれど、あたしにはそれが全てだったの。もうそれしか、残されていなかった」

「それしかないなんて言わないでください。それに、有里沙さんは狂ってなんかいません」

 有里沙は曖昧な表情で、俺の言葉を受け流そうとする。俺はもう一度言葉に力をこめて、

「俺は一度だって、そんなこと思ったことはないです。嘘なんか言いません」

 それが彼女の心にどれだけ響いたかは分からない。だが、有里沙は静かに目を閉じると、やがて一度だけ小さく頷いた。その横顔は憂いや悲しみを通り越して、それさえ一つの美に見えた。

 微かな潮騒とともに流れる沈黙に、夕暮れの気配を含んだ海風が吹き抜ける。

「忘れなくたって、いいじゃないですか」

 俺の言葉に、有里沙は僅かに顔を上げた。

「忘れなくたっていいと思います。だって、有里沙さんが忘れてしまったらきっと、本当の意味で立花医師は死んでしまう」

 虚を衝かれた顔をする有里沙に、俺は自然に笑いかけた。

「忘れる必要なんか、ないですよ。立花医師は有里沙さんにとって、とても大切な人なんでしょう?」

 有里沙は瞬きを繰り返す。

「確かに、いつまでも同じままじゃいられないと思う。時間が経つごとに記憶が薄らいで、思い出に変わっていくのはつらいことかもしれない。でもそれは、忘れるとか色褪せていくとか、そういうことじゃなくて、言葉じゃ言えない心のどこかに、ずっと在り続けていくことに変わっていくんだと思います」

「言葉じゃ言えない、心のどこか……?」

「そう、心のどこか。それは有里沙さんだけのもので、誰にも触れられない大切な場所にある。たとえ思い出になってしまっても、立花医師が生きていたことや、一緒に過ごした日々は、有里沙さんの中で決して消えることはない。それは悲しいことじゃないです。残酷でも、薄情でもない。時の流れがくれる癒しは、忘却や退廃とは違うから」

 俺は、有里沙の目をまっすぐに見つめて語りかける。

「俺は有里沙さんに、今を生きてほしいです。それは、亡くなった立花医師を裏切ることじゃない。今を生きることと、忘れることは違います。……それにきっと、立花医師も同じこと言う気がします。もしかしたら、空の向こうで誰よりも、そう思っているかもしれません」

 努めて丁寧に紡いだ言葉に、有里沙が息を詰めて目を瞠る。

「だって、有里沙さんが愛した人でしょう?」

 有里沙の瞼が震える。何度も何度も頷いて、そして今度は静かな表情で幾粒もの涙を流した。

 俺はどうするか迷ったが、笑いかけることにした。今、彼女の手を握るのは、俺の役目ではない。俺の目には見えないけれど、有里沙の心の中にいる立花医師がきっと、そっと手を重ねているような気がした。二人の最後の心の交流を邪魔したくなかった。

 有里沙は声もなく泣いた後、僅かに震えた響きで小さく呟く。

「ありがとう」

 そう言って、有里沙は泣き笑いのような顔で俺を見た。

「ありがとう、佐川君」

 有里沙は俺の肩に顔を押しつける。服に彼女の涙が染み渡り、触れた唇が震えているのを感じた。

 俺は何も言わずに、されるままになっていた。そして、空が抜けるような青から濃い橙の色に変わった頃、有里沙はゆっくりと顔を上げた。

 俺は指を伸ばして、その瞼から涙を掬い取る。その感触に目を細める有里沙の頬に、やがて小さくぎこちない微笑がほのかに宿った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る