5
駅に入った俺は、時間潰しをせずに有里沙を待つことにした。
改札のすぐ前に立つ柱に凭れかかり、帰宅ラッシュに差し掛かった駅の風景をぼうっと眺める。電光掲示板の時計は午後五時十五分を指しており、有里沙が乗るという普通電車は、今ホームにいる普通電車の一本後のものらしい。
俺は増えゆく人混みを眺めながら、亜希子の言葉を脳裏で反芻していた。そして、有里沙に出会った時、挨拶の次に何を言おうか深く考え込んでいた。
降りてきたところで俺が待っていて、有里沙はきっととても驚くだろう。ストーカーだと思われないだろうか。そんな不安が脳裏をよぎる。
そして出会った後、どうすればいいのだろう。晩御飯に誘うには時間が早すぎるし、お茶をする時間帯でもない気がする。それに今月は懐具合も些か危うく、二人分の食事代を払えるだけの余裕がない。かといって奢られたり、割り勘にしたりするのはプライドに障る。高校生で未成年とはいえ、俺だって男なのだ。
そんなことを悶々と考えていた時、改札から人がどっと溢れるように出てきた。電車が到着したらしい。腕時計を見ると、五時半を廻っていた。
俺は慌てて周囲に視線を走らせる。ラッシュの人波に揉まれるように改札に並ぶ有里沙と視線がぶつかった。有里沙は驚いたように目を丸くする。俺は軽く手を振った。
改札から出てきた有里沙が、ぱたぱたと駆け寄ってくる。
「佐川君」
「こんにちは。あ、いや、こんばんは?」
「どうしたの」
「えっと、待ってたんです、有里沙さんを」
「あたしを?」
状況を呑み込めていないらしい有里沙が、混乱したように眉をひそめる。その時、通りすがりの男が彼女にぶつかり、その体が大きく傾いだ。俺は慌てて手を伸ばして支える。
「とりあえず、こんなところじゃ何だから、出ましょうか」
俺は目を丸くしている有里沙の手を取って、人混みから庇うようにしながら外に出た。タクシーやバスがひしめき合う広場を抜けて、比較的人の流れが空いた道を歩く。
「佐川君、あの……」
「え? あ、すいません」
人混みから抜け出すことに夢中になっていた俺は、有里沙の手をずっと握ったままだったことに気付いて慌てた。
真っ赤になって手を離した俺を、有里沙は不思議そうな眼差しで見つめる。俺たちは街路樹の下で足を止め、改めて向かい合った。
「突然すいません。びっくりさせちゃいましたよね」
「ええ……。でも、どうして?」
「えーっと、亜希子さんから聞いたんです。今日こっちに帰ってくるってこと。ちょっと会う機会があって、その時に」
「お姉ちゃんが?」
有里沙が意外そうに呟く。
「しばらく会ってなかったし、俺も気になってたっていうか……その、心配だったっていうか。いきなりで悪いなとは思ったんですけど。……迷惑でしたか?」
有里沙があまりに驚いているので、俺は申し訳ない気持ちに駆られた。内心引かれているのではと思って、額に若干の冷汗が浮かぶ。
「ううん。大丈夫。少し驚いただけ。お姉ちゃん、あたしには何も言ってなかったから」
そう言って有里沙は穏やかに笑う。俺は思わずときめいて、脳裏で渦巻いていたあれこれが一瞬で全て吹き飛んだ。
会話がなくなり、沈黙が下りてくる。俺は次に言うべき言葉を必死で探した。
「あー、えっと、その」
「どうしたの?」
漆黒の瞳が俺を映す。その眼差しを真正面から受け止められなくて、俺はひどく赤面して目を逸らした。頭の中が見事なまでに真っ白になり、言葉が何一つ浮かんでこない。俺はひどく途方に暮れた。有里沙を前にすると、普段の俺はどうもどこかに飛んでいってしまうらしい。
有里沙は、もごもごと口ごもって忙しなく目を泳がせる俺を不思議そうに見ていたが、やがてふっと柔らかな微笑を浮かべ、
「よかったら、少し歩かない?」
「え?」
「この町に来るのは二週間ぶりなの。陽も暮れてくる頃だし、一緒に歩きましょう。この通りは表に比べて静かだから、きっと風も気持ちいいわ」
「でも……」
雨が降るかもしれません、と言いかけて、俺はぐっと言葉を呑みこんだ。
歩き出そうとしていた有里沙が、つられるように振り返る。俺はゆるりと頭を振った。
「いえ……その、アパートまで送りますよ」
そう言って、俺は有里沙の隣に並んだ。
大通りに比べて行き交う車が少ないこの道は、確か十分ほど歩けば静かな児童公園に通じているはずだ。買物袋を提げた主婦や、自転車で通り過ぎる中高生の姿が視界の隅に映っては消える。
俺はちらりと有里沙の横顔を盗み見る。薄化粧が施された色白の肌に、静かだが憂いを帯びた眼差しが、彼女の持つ魅力を強調している。その艶やかな黒髪は風が吹き抜ける度にさらりと流れ、細い指で髪を耳にかける仕草に、俺の胸はどきりと跳ねた。
言葉がまるで浮かばない。何を言えばいいのか、何を言うべきなのか、全く分からない。鼓動の音がただただうるさく、胸の奥が焦げるように熱かった。
「あ、あの」
有里沙がゆるりと俺に目を向けた。
「そこの公園で、座りませんか?」
「え?」
「疲れたでしょう。ちょっと休んでいきませんか? 俺、飲み物買いますから」
誰もいない児童公園に入り、深緑のベンチに有里沙が座る。俺は近くの自販機で紅茶とコーヒーを買い、有里沙の隣に腰掛けた。
有里沙は紅茶を受け取ると、
「ありがとう。ちょうど喉が渇いていたの」
そう言って少しずつ口をつける。俺はその仕草を横目で見ながら、コーヒーを一口飲んだ。微糖入りを選んだつもりが、押し間違えてブラックを買ってしまったため、慣れない苦さに思わず顔をしかめる。
長方形の狭い公園には、俺たち以外誰もいなかった。薄黒い雲間から覗く夕陽が次第に消え入り、夜の気配が迫ってきていることを無言で教えてくれる。
「あの……体のほうは、もう大丈夫なんですか?」
俺は遠慮がちに訊いてみる。二週間前のあの夜から、ずっと気になっていたことだった。
「ええ。あの時は本当にごめんなさい。迷惑をかけてしまって」
「いや、そんな」
「姉にも叱られたわ。両親にも、また心配をかけてしまった」
「病院とかには行ったんですか?」
「ええ。久しぶりの発作だったから、少し療養していなさいと言われてしまって。お仕事もお休みしたの。驚いたでしょう?」
「まあ、そりゃあ……心配しました。でも、治ってよかったです」
俺の言葉に、有里沙はふっと淡く笑う。
「でも俺は、正直なこと言うと、少し怖かったです」
「え?」
「あの晩、もし俺があそこに行かなかったら、もしかしたら有里沙さんは一人で倒れていて、下手したら誰にも見つからなかったんじゃないかと思って。後々よく考えてみたら、肝が冷えました。……もうあんなこと、しないほうがいいと思います」
有里沙の表情がさあっと曇る。俺は罪悪感に駆られて、さりげなく視線をずらした。
「ありがとう、心配してくれて。本当にごめんなさい」
「亜希子さんも心配していました、有里沙さんのこと」
「快活な人でしょう。勢いがあって、屈託がなくて」
「ええ。びっくりしました」
「あたしとは正反対なの」
「とてもさばけた方ですよね。姐御肌というか」
「頼りがいがあるでしょう? バイオリンもね、素晴らしいのよ。世界でも評価が高くて」
姉のことを語る有里沙は嬉しそうで、どこか誇らしげだ。きっと純粋に慕っているのだろう。俺はそれを微笑ましく思いながら、亜希子から聞いた話をどう切り出すか思案していた。そして悩んだ末に、一番シンプルな切り出し方をしてみる。
「あの、その……亜希子さんから聞きました、有里沙さんのこと。その、平仮名のありささんのことも」
平仮名のありさという言葉に、有里沙が瞠目して息を呑む。核心を突いたという生々しい感触に、俺は内心ひどく狼狽していた。
「そう……」
俺は一瞬の逡巡の後、恐る恐る訊いてみる。
「……怒ってますか?」
「いいえ。ただ、少し驚いただけ」
有里沙はゆるゆると首を横に振って空を仰ぐ。先程まで夕陽が射していたのに、今はそれが嘘だと思えるくらい、周囲は薄暗かった。
「姉は、佐川君を信頼しているのね」
「え?」
「とても褒めていたもの。今どきの若い子ってあんなに素直なのかって。失礼よね。若い子がみんな生意気だとは限らないのに」
俺はひたすら苦笑いを浮かべた。
「佐川君がそういう人柄だから、姉もきっと話したんでしょうね。素直で、優しいから」
あまりにも静かに告げられたので、俺は照れるよりも戸惑ってしまった。そのまま、どちらからともなく黙り込んだ。
長い沈黙の後、有里沙はぽつりと呟く。
「あたしは、ありさになりたかったの」
俺はその眼差しに一瞬だけ目をやる。まるで波紋のない水面のような瞳だった。
「家族に愛されて、家族に守られて、家族に看取られて……。そんな風に愛される、ありさになりたかった。あたしは、家族がほしかったの。帰れる家。当たり前の安心に守られた場所。無償で愛をくれる人。ありきたりなものでも、あたしは持っていなかったから」
「実の親御さん、亡くなってしまったんですよね」
「ええ。名前しか知らないの」
有里沙は淡々と答える。
「施設にいた頃のあたしは、両親がいないことが寂しくて、家族っていうものにひどく憧れて、焦がれていた。だから養子縁組の話を聞かされた時、迷うことなくそれに縋りついたの。死んだ娘に瓜二つだからという理由も、その時は何の枷にもならなかった」
「その……嫌じゃなかったんですか?」
「あたしを選んだ理由を聞いて、驚かなかったと言ったら嘘になる。でも、迷いは不思議となかったの。たとえ身代わりでもいい。死んだ娘が同じ年で同じ名前だったからと、手を差し伸べてくれた今の両親が、あたしを望んでくれるなら構わないと思った。それであたしは、倉本の養女になったの」
有里沙の口調はとても静かで、自分のことであるはずなのに、まるで他人の身の上を語るような響きだった。それは感情のない淡白さではなく、感情を忘れ去ったような虚無感を帯びている気がして、自然と胸が締めつけられる。
「姉はあたしのこと、佐川君に何て話した?」
「大事な妹で、家族だと。……身代わりなんて思ってないって」
「そう。……嬉しいな」
そう言って有里沙は僅かに微笑む。しかしそれは一瞬で消え去り、残ったのは感情の見えない瞳だった。
「でもね……あたしは、ありさにはなれなかった。彼らの望みには応えられなかった」
有里沙は鈍色の空を仰いだまま、
「倉本の家で過ごしていると、ありさの存在がどれだけ大きなものか、言葉にしなくてもすごく感じられるの。ありさは死んでしまったのに、その魂の気配っていうのかな、生きていた証、存在感みたいなものがいつまでも色濃く残っている。あたしにはどうしたって太刀打ちできないの。それでも両親や姉に愛されたくて、家族として認めてもらいたくて、自分を殺して、身も心もありさになろうと必死だった」
湿り気を帯びた風が音もなく吹き、有里沙の前髪をふわりと揺らす。
「あたし自身が、死んだありさに憧れていたの。あたしもありさになりたかった。あたしが憧れる全てを手にして死んでいったありさが羨ましかった。だけど、結局はなれなかった。どれだけ心を砕いたって、あたしはあたし、漢字の有里沙。どうしたってそれは絶対変わらないし、変えられない。それ以上のもの、ましてや別のものになんて最初からなれない。なれるはずがないの。それに気付いた時、絶望したわ」
有里沙は紅茶を一口飲んで目を細める。
「残ったのは、空っぽになった自分。自己主張が恐ろしくできない、確かな自分すら分からない人間。あたしが好きなものは、ありさが好きだったもの。あたしが嫌いなものは、ありさが嫌いだったもの。あたしの気持ちは、あたし自身のものじゃない。死んだありさの影を映したもの。中高の頃は、そんな自分を両親や姉が愛してくれるなら、それだけで満足だった。……でも、高三のある時期、突然耐えられなくなったの」
俺は神妙に相槌を打つ。それは無理もないことだと思った。
「十八歳の誕生日に、父があたしに言ったの。もう無理をしなくていい。お前は自由に、お前の人生を生きなさいって。でもあたしには、その言葉の意味が分からなくてね」
「ですよね……」
それは、俺にはとても残酷な言葉に聞こえた。親身な優しさに見えるが、彼女にとっては諸刃の剣だったはずだ。
「父は悪くないの。あの言葉は父の優しさだった。それはよく分かるけど、あたしはものすごくつらかった。だから大学を機に家を出たの。一度自分でゆっくり考えてみたくて。……でも結局、分からないままだった」
紅茶の缶を両手で包むようにして、有里沙は自嘲のように口元を歪める。
「あたしが有里沙なのか、ありさがあたしなのか、どれだけ考えても境界線は曖昧なままで、分からない日々が続いていた。それでもあたしは、人前では笑い続けて、家族の前でも自然に振る舞って」
「……つらかったですか?」
「分からない。つらいという感覚さえ、麻痺してしまったような。……でも、歌があったから」
有里沙は口元に穏やかな笑みを宿す。
「歌があったから、今まで生きてこれた。……前に話したよね、中学の時のこと。自分の歌を初めて他人に褒めてもらった時、とても些細だけれど、すごく嬉しかったの。まるで自分を肯定してもらったようで。その時に気付いたの。歌っている時は、あたしはあたしなんだって。平仮名のありさじゃなく、他の誰でもなく、本来の自分として歌っているんだって。歌う時だけ、あたしはあたしになれた。それがすごく嬉しくて、初めて生きている気がした」
俺はコーヒーをゆっくりと飲みながら、有里沙の言葉を理解しようと努める。
「歌はあたしの救いで、生き甲斐で……。そう思っていても、消せない気持ちがずっとあった。それがつらくて、しんどくて……。先生に出会ったのは、そんな時」
先生という言葉を口にした時、色を失っていた有里沙の頬に、優しい薄紅色が灯った。
「前に話したよね。あたしが先生と出会った日のこと」
「ええ……」
「あの夜、先生は目覚めたあたしに訊いたの、『あなたの名前は何ですか?』って。当然の質問よね。『アリサといいます』って、あたしは答えた。そしたら先生は少し考えて、『漢字ですか? 平仮名ですか?』って訊いてきたの。あたしは絶句しちゃって、すぐには答えられなかった」
「……どうして」
「分からなかったの。長いこと、身代わりとして生きることにこだわり続けたせいで、あたしは本来の有里沙を忘れてしまった。そこにいた自分が、平仮名のありさなのか、漢字の有里沙なのか、それすら分からなくなっていたの。発作を起こした後で、頭が疲れていたのかもしれない。よく考えれば分かることなのに、あたしは答えられなかった」
俺は唐突に、初めて有里沙と出会った夜のことを思い出す。名前を訊いた時の、有里沙の虚を衝かれたような顔。あの沈黙には、そんな深い葛藤が隠されていたのだ。
自己の境界線を見失い、本来の姿を忘れてしまったその心境を、持てるだけの想像力を駆使して脳裏に描いてみる。息が詰まる気がした。もし俺が彼女の立場だったら、果たして何年も正気でいられただろうか。その葛藤や重圧に耐えられただろうか。
「あたしはね、『分かりません』って素直に言っちゃったの。『あたしには名前はありますけど、それが本当に自分のものなのかどうか、分かりません』って。びっくりするよね、見ず知らずの他人に、いきなりそんなことを言われたら。……でも先生は、困った顔はしたけれど、怒ったり不審がったりせずに、少し黙り込んだ後に、こう言ってくれたの。『だけど、あなたはあなたでしょう?』って。『あなたがどんな事情を抱えているのか、僕には分かりかねますが、僕はただ、あなたの名前が知りたいのです』……って」
有里沙は少し言葉を止めて、思い出し笑いをして顔を綻ばせる。
「優しい響きをした、すごく優しい言葉でね。それがものすごくじんと来て、涙が止まらなくなって。いきなり号泣したあたしを見て、先生はとても驚いた顔をしてたけど、それ以上何も言わなかった。怒るでも責めるでも、問い質すでもなく、ただじっと黙って、すぐ傍に佇んで、あたしが泣き止むまで、ずっと待っていてくれた」
明らかにあたしは不審人物なのにね、と言って有里沙は笑う。
「でもね、初めての言葉だったの。あたしが今までずっとほしがってた、だけど誰からももらったことがなかった優しい言葉。あの時の先生の言葉に、あたしは救われたんだ。それが嬉しくて悲しくて、どれだけ泣いても涙が止まらなかった」
有里沙はとても優しく柔らかな顔をする。それを見て俺は、立花医師が彼女にとってどれだけ大きな存在であるかを、痛いまでに思い知った。
俺に向けられていないその眼差しは、慈しみにも似た光をたたえている。愛する人を想う時、有里沙はこんな美しい顔を見せるのだ。俺はただただ言葉を失くした。
「その……付き合うきっかけは、何だったんですか?」
訊いても虚しさに襲われるだけなのに、心を揺さぶる衝動に負けて訊いてしまう。有里沙はうーんと小さく唸った後、
「何だったかなあ。そんなに大したきっかけはなかった気がする。でも、いつの間にかあたしの中で、先生はとても大きな存在になっていたの。先生もそうだと言ってくれた。会えることが嬉しくて、話せることが幸せで、一緒にいられるだけで、もう何もいらないと思ってた」
俺たちは飲み終えた缶をごみ箱に捨てて、公園を後にして再び歩き出す。有里沙のアパートへと繋がる道は、恐ろしく人気がなかった。
住宅街の灯りが目立ち始める。薄暗い闇が次第に濃くなり、俺たちを取り巻く空気も、徐々に湿り気を帯びてくる。空は鉛のように重く暗い雲に塞がれていた。
もうすぐ雨が降る。俺は何となく、心の中で呟いた。
「有里沙さんは、どうして雨の夜に、あの教会の裏庭へ行くんですか?」
「それは……先生を、待っているからよ」
「そうじゃなくて。どうして、あの場所なんですか? ……思い出の、場所なんですか?」
慌てて添えた俺の言葉に、有里沙は得心がいったように笑顔を見せる。
「ええ、そうよ」
それはどんな、と訊こうとして、俺は黙り込んだ。しかし有里沙はそれに気付かず、
「初めてのデートの日が、あたしのチャリコンの終演後だったの」
「チャリコン? 教会のですか?」
「ええ。でも、先生はお仕事で来れなくて、終わったらすぐに行くから、教会で待っていてくれって。だけど先生はなかなか現れなくて、夜になって雨が降り出したの。あたしは迷ったけれど、帰らずに裏庭の東屋で待っていた。教会の人たちはみんな帰っちゃってて、そこにはあたししかいなかった。先生は二時間遅れて来てくれたんだけど、あたしが雨の中待っているのにびっくりしたみたいで」
その時のことを思い出したのか、有里沙が軽い笑い声を漏らす。
「先生に叱られたの。こんなところで待っていたら風邪を引くって」
「……そりゃそうでしょうね。一度目の前で倒れたんだから、心配もしますよね」
「でもね、あたしにも言い分はあったのよ。だって約束をしていたし、その時傘を持っていなかったから、帰るに帰れなくて。帰ったら約束を破ったような気持ちになっちゃうし、濡れて帰るよりは、雨を眺めていたほうが、待つにはずっといいんじゃないかと思って」
すごい理屈だ。自分勝手という意味ではなく、とても彼女らしい言い分だと俺は思った。
「そう返したら、先生はびっくりしてた。まさかそう返されるとはって感じの顔で」
「……でしょうね」
「先生は、あたしがもうとっくに帰っているだろうって思ってたみたい。でも、万が一いたら危ないから、念のため見に来たんだって。そこに本当にあたしがいたから、度肝を抜かれたって言ってたわ」
有里沙はくすくすと笑う。
「あたしは会っていきなり叱られたから、待ってたのにあんまりだと思って拗ねちゃって。そしたら先生は、おかしそうに笑ってこう言ったの。『じゃあ、雨が降ったら、有里沙はここにいると思っていればいいんだな』って」
その言葉に、俺は一瞬瞠目した。
「『デートの日に雨が降って、もし君が現れなかったら、ここで待っているんだろうと思って、僕はここに迎えに来ることにしよう』。あたしは、いいように言いくるめられた気がしたけど、でも嬉しかった。雨の日の楽しみが、一つ増えた気がして」
有里沙は穏やかな笑顔で空を仰ぐ。俺は言うべき言葉が見つからなかった。
当時の二人が、どんな会話の流れを経てそのような言葉に至ったのか、俺には見えない。だけど、立花医師の何気ない言葉が、今も彼女の心を縛っていることだけは分かった。彼女を好きでいるからこそ、その言葉の魔力を痛いまでに感じた。
「それ以来ね、雨が降ると、デートの待ち合わせ場所は教会の裏庭になったの。あたしが裏庭の東屋で待っていると、先生が車で迎えに来てくれる。あたしはわざと傘を持たずに出掛けるの。そして先生が、傘を差しながら苦笑いするのよ。『やっぱりここにいたんだ』って。あたしは嬉しくなって、先生と一緒の傘に入って、腕を組みながら出掛けるの」
うっとりと微笑みながら有里沙は語る。
「……それでずっと、雨の夜はあの場所に?」
「ええ」
「その人が、迎えに来てくれるから?」
「そうよ」
「有里沙さんは、その人を心から愛してるんですね」
俺が言うと、有里沙は立ち止まり、振り向くと笑って頷いた。
「ええ。愛しているの。先生はあたしにとって、生きる理由なの。あたしを、ありさでも他の人でもなく、有里沙自身として見てくれた。生きる理由を教えてくれた人」
その表情には一点の曇りもなく、とても華やかで愛おしくて、何よりも美しかった。
それと同時に、とても悲しいものだとも思った。有里沙は今を生きていない。立花医師といた思い出の中で、その甘く優しい茨を心に巻きつけたまま、こうして俺の前で笑っている。それを色濃く見せつけられたような気がした。
彼女を愛しく思うからこそ、俺はその姿が耐えられなかった。脳の奥の奥で、何かが音を立てて弾け飛んだ。
「……でも、立花医師はもういないのに」
俺が呟いた言葉に、有里沙の表情が止まった。
「立花医師は亡くなっていて、もうこの世にはいないのに。いくら待ったって、迎えに来るはずがない。それを分かっているのに、こうしてずっと待ち続けているんですか?」
有里沙の表情から、先程の明るさがみるみる消え去る。弛緩していた頬は凍ったように硬直し、薄紅色の頬から色が失せた。
「どうして……」
有里沙の瞳が焦点を失う。
「どうして」
知っているの、と言いたいのだろうと思って、俺は答える。
「知っています、立花医師のこと。誰からとは言いませんけど、聞きました。結婚を前提にお付き合いしていたこと。雨の夜に交通事故で亡くなったこと。そのショックで、あなたが失声症にかかって、しばらく入院していたこと。全部知ってます」
凍りついた表情の有里沙が、身を翻そうとしたのを俺は見逃さなかった。その華奢な腕を掴んで引き戻す。
有里沙は身を強張らせ、俺と向き合うも視線を合わせない。
「立花医師が亡くなったこと、知らないわけがないですよね。なのにどうして、来るはずのない人を待ち続けるんですか。雨が降る晩にわざわざ外出して、体を壊してまで」
「……離して」
有里沙が身をよじる。しかし、俺は彼女の腕を強く掴んで離さない。
「あなたが待っている人は、二度とあなたの元に現れることはない。いくらあなたが愛していても、もう二度と会えないんです」
「離して!」
有里沙は声を荒げ、掴まれていないほうの腕で俺の胸を突いた。その呼吸は荒く、瞳は潤んで頬は引き攣っている。その姿は、今まで見たどの彼女よりも痛ましかった。
「もう、やめませんか」
「どうして」
「だって、あなたの願いはもう一生叶わない。叶わない願いを、叶うと信じて待ち続けるのは悲しい」
彫刻のように固まる有里沙に、俺はもう一度告げる。
「もう、やめにしませんか」
凍りついた有里沙の表情がふいに歪む。
「どうして……」
有里沙は俺の手を振り払おうとしながら、子供のように同じ言葉を繰り返す。
「どうして、そんなこと言うの」
「事実、ですよね」
「そんなこと、ない……」
「事実です。あなただって知ってるはずだ」
「知らない」
「嘘でしょう」
「知らない!」
有里沙は先程よりも強い力で俺の胸をまた突いた。俺は一瞬後方によろけるも、掴んだ彼女の腕を強く引いて、
「知らないことないでしょう。立花医師は、もう亡くなって──」
「言わないで!」
金切り声にも似た叫びが鼓膜を叩く。俺は有里沙がそんな声を出したことに、純粋に驚いていた。
有里沙は涙目になって、肩を激しく上下させる。
「死んだなんて、言わないで。そんな……悲しいこと、言ったりしないで」
有里沙の涙を見た瞬間、それまでの勢いが一瞬で萎びた。俺は掴んでいた彼女の腕を、力なく解放する。有里沙は俯いたまま、肩を震わせて泣いていた。
ぽつぽつと、空から冷たい雫が落ちてくる。それは瞬く間に雨となり、音を立てて俺たちを濡らした。
「死んだなんて、言わないで。そんなこと、言わないで」
それは、この上なく頼りない懇願だった。
「だってまだ、あたしの中には生きているの。あたしの中で、先生はこんなにもリアルで、こんなにもまだ近くにいて……。なのに、どうしてそんなこと言うの。先生がいないなんて、どうしてそんな、悲しいこと言ったりするの」
壊れたように嗚咽する彼女に、俺はただただ打ちのめされた。
「……立花医師は、もうこの世にはいない。どれだけ願ったとしても、彼はもう二度と戻ってこないんだ。彼をずっと待っていたって何も変わらない。あなたは救われないままだ。有里沙さんだって、本当はもう分かってるんでしょう? 気付いて、いるんでしょう?」
有里沙は激しく頭を振る。その仕草で、彼女は俺の言葉の全てを拒絶していた。
たまらなくなって、俺はその肩を強く引き寄せた。彼女の体が文字どおり硬直し、息を呑むのが感触で伝わる。有里沙は俺を受け入れない。そのことを痛烈なまでに感じても、抱き締めた腕を離したくはなかった。
「好きです」
俺の腕にすっぽりと収まった有里沙の肩がひくりと震える。
「俺は、あなたが好きです。有里沙さん。初めて会った時からずっと、あなたのことが好きでした。俺はあなたが好きで、あなたと親しくなりたくて、あの教会に通っていました」
腕の中で、有里沙は細かくその身を震わせる。まるで凍えているようだと思った。怯えるのではなく、寒さに耐えているような、そんな震え方である気がした。
「もう、やめませんか」
降りしきる雨で体が冷えてくるのを感じながら、俺は先程と同じことを彼女の耳に囁きかける。
「あの場所で待つこと。もう、やめにしませんか。いくら待ったって、待ち人は二度と来ない。あなたはずっと、救われないままだ」
「……離して」
「俺は、そんなのは耐えられない。あなたがずっと過去に囚われたまま、生きる姿を見るのは悲しい」
「……佐川君。お願い、離して」
「俺は、あなたを救いたい。あなたに今を生きてほしい」
有里沙は身をよじりながら、首を横に振って俺の言葉を拒む。俺はその体を離して、驚く有里沙の唇を奪った。
有里沙の目が見開かれる。俺は有里沙を抱き締めて、さらに強く深いキスをした。柔らかな彼女の唇は、濡れたように冷たかった。
有里沙は抗うように身をよじらせ、両手で俺の胸を強く突いて離れた。そして口元に手を当てて、驚愕に彩られた瞳で俺を見る。
俺は何も言わなかった。有里沙はひび割れたような顔をして、何も言わずに身を翻して走り去った。闇の中に遠ざかっていく背中を、俺は最後まで追わなかった。
雨音が鼓膜に焼きつく。俺はずぶ濡れになったまま、しばらくそこから動けなかった。
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