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それから二週間、有里沙とは会わなかった。連絡もなかったし、登録した番号やアドレスに俺から連絡を入れることもしなかった。
雨は相変わらず、一日か二日おきぐらいのペースで降っていたが、どの雨夜にも、教会の裏庭に有里沙の姿はなかった。俺はそれに対してほっとしたが、同時に落胆もしていた。
燻る気持ちを抱えたまま、俺はいつものように学校に通っていた。有里沙と会わなくなってかなりの時間が経ったが、脳裏から彼女の面影が消えることは一瞬としてなかった。
あの夜以来、俺の気分は沈んだままだ。いつもと同じように振る舞っていたつもりだが、周囲には俺が何かに悩んで、落ち込んでいるように見えたらしい。よく喋るクラスメイトの男子たちに、「何かあった?」「元気なさげに見えるけど」と気遣われた。俺はその度、「何でもない」と言って何気なさを装い、彼らといつもの他愛ない話題に花を咲かせ続けた。俺の片想いを知っているのは、今のところ西岡と甲斐の二人だけだ。それ以外の人には一切気取られないようにしている。だが、クラスメイトに憂鬱を何となく気付かれているくらいだから、正直なところ自信はあまりない。
西岡と甲斐も、俺の落ち込みようを心配してくれたらしく、放課後にマクドナルドに食べに行こうと誘ってくれた。
俺たちは前と同じ、二階の窓際のカウンターに並んで座り、しとしとと降る小雨を見ながら食べた。二人とも前とは違って、事情を無理やり聞き出すような真似はしなかったが、俺は自分から有里沙のことを語った。
「うーん……。そりゃあまあ、何と言いますか……ぶっちゃけ、重いね」
ハンバーガーを片手に、西岡が実に複雑そうな顔つきで感想を述べた。
「死んだ恋人を今も、かあ……。何か、映画やドラマみたいな話だな。あるんだな、実際にそういう話」
「俺だって初めてさ。まあ、彼女の話しぶりから何となく感じてはいたけど、実際そうだって知った時はどすんと来たな」
いつもより低いトーンで話す俺を見て、西岡はうーんと唸ってさらに難しい顔になる。かける言葉が分からず困惑しているらしい。
甲斐はそんな彼にちらりと視線をやった後、
「んでさ、有里沙さんの容態はどうなの? 落ち着いた?」
「あの場では落ち着いたみたいだけど、それからは分かんない。連絡が全くなくてさ」
「亮輔からはしてないの?」
「してない。何て言っていいか分かんないし。正直言うと、自分からかける勇気ない」
力なさすぎる俺の言葉に、甲斐はポテトをつまむ手を止めて黙り込む。左にいる西岡は、うーんと唸りながら首を傾げた。
「喘息ってさあ、俺自身はないけど、小一の従妹がひどいんだよ。最近もひどい発作起こして入院したっていうし、空気悪いとことか、天気悪い日とか、つらいらしいんだよな。喘息って、死にはしないって聞くけど、すごい苦しくてしんどいって言うじゃん。でもさ、その有里沙さんは、そんな体を押してまで、雨の晩に教会の裏庭に行ってんだろ。それってどうなわけ?」
「どう、とは?」
眉間に皺を寄せて黙り込む俺に代わって、甲斐が淡々と訊き返す。
「だって彼女、プロの音楽家なんだろ? 体壊したら元も子もないじゃん。ただでさえ喘息持ちなのに、体に負担かかることを仕事にしてるんだから、それなりのプロ意識っつーか、そういうのを持たなきゃだめだと思うわけよ」
「なるほど」
「でもさ、体を壊しやすい雨の晩に、わざわざ教会まで出掛けてるわけだろ。まるで自分から体悪くしに行ってるようなもんじゃん」
「まあ、そう取れなくもないよな」
甲斐がさりげない響きで相槌を打つ。
「そこまでのリスクを冒してまで、死んだ恋人を待つために出掛けてるってことだろ。そこまでするか、普通? それってさあ、何つーか……」
「はっきり言っていいよ、西岡」
俺が促すと、西岡は少し躊躇ってから、
「ちょっとっていうより、かなり理解しづらいっていうか、……ぶっちゃけ、いっちゃってない?」
沈黙が下りる。黙り込んだまま反応を返さない俺を見て、西岡がやってしまったという顔になる。彼は慌てて甲斐に視線を寄越してフォローを求めるが、甲斐も思慮深げな眼差しで口を閉ざす。
西岡は狼狽を誤魔化すようにハンバーガーに被りついて、
「そもそも何で、雨の夜に教会の裏庭なわけ? 駅前とか家ならともかく、なぜに教会。しかも裏庭。明らかに人気ないし、シチュエーションも想像しにくいじゃん」
「思い出の場所なんじゃない? 件の彼と初めて出会ったとか、付き合うきっかけになったとか。そこんとこ、亮輔は聞いてないの?」
甲斐に水を向けられ、俺は無言で頷いた。そういえば、有里沙が雨夜の教会の裏庭にこだわる理由を、俺はまだはっきりと知らない。
先程から一言も発しない俺を、西岡は気遣わしげに見やる。
「亮輔さ、やっぱやめといたほうがよくない? その彼女」
「どうして」
俺の代わりに甲斐が訊いた。代わりというよりも、己の純粋な疑問として尋ねたような響きだった。
西岡は俺をちらりと見た後、慎重そのものといった体で言葉を選びながら、
「だってさ、明らかいっちゃってるじゃん。死んだ恋人を想いすぎて、現実見えてなくね? 恋人が事故で死んだってことは、何があっても二度と会えないわけだろ。なのに今も想い続けて、思い出の場所だか何だか知らないけど、体壊れるのを無視して雨の晩にずっと出掛けたりしてさあ。正気の沙汰とは思えないよ、俺は。亮輔もそう思うから、悩んでるわけだろ?」
西岡の言うことは、客観的な立場からすれば至極真っ当だ。それは分かるが、俺はどうしても頷けなかった。
横目で俺を窺っていた甲斐が、ぽつりと静かに呟く。
「そうかなあ」
「何が?」
甲斐の呟きに、西岡が怪訝な目で返す。
「いっちゃってる……。まあ確かに、傍から見ればそうとしか思えないんだろうな」
「どういう意味さ」
西岡が気分を害した顔をする。甲斐は苦笑しながらフォローした。
「違うよ。別に、西岡の意見が間違ってるとか、そういうことじゃない。たださ、有里沙さんはその人のことを、ものすごく愛してたんだなあと思って」
甲斐はカップを目の高さまで持ち上げてじっと見つめながら、それに語りかけるように話す。
「愛してたんだろうね、きっと。他人の考えなんか及ばないくらいに。深く果てなく、どこまでも好きでさ。多分、この人がいなきゃあたしはだめだとか、この人がいなきゃ生きていけないとか、この人がこの世の全てとか、そこまで考えちゃうくらいに」
「まるで流行りの純愛小説じゃん。そんな綺麗なものか?」
「綺麗と狂気は表裏一体だよ、西岡。その定義は多分、本人同士にしか決められない」
西岡は、意味不明と言わんばかりに顔をしかめる。しかし甲斐は気を払うことなく、
「俺が思うに、有里沙さんは恋人に対して、好きの度合いが他人より深く広く強かっただけなんじゃないかな。彼が好きで好きでたまらなかったんだ。だけど、恋人はある日突然帰らぬ人となってしまった。身を捧げる勢いで愛してた分、その反動がでかすぎたんだろ」
「……だから雨の晩に教会の裏庭で、死んだ恋人が来るのを待つ? 体壊すかもしれないリスクを冒してまで?」
「そうすることでしか、有里沙さんは自分を支えられなかったのかも。そうすることが、その時の有里沙さんにとっての、唯一の救いだったんじゃないかな」
甲斐の答えに、西岡はさらに渋面を深くする。楽観主義者を豪語する彼は、物事を深くまたは難しく考えることが苦手なのだ。無言の俺を気遣わしげにしながら、キャパシティオーバー寸前のように頭を抱える。
「でもさ、救いって甲斐は言うけど、それってぶっちゃけ、どうにもならないことじゃん。いくら待ったって恋人は来ないし、雨は降り続けて止まないし、体調は悪くなる一方だし。そうまですることが救いになるわけ? 第一それって愛なの? ただの未練じゃなく?」
西岡はそう言って、トレーを前に押し出してカウンターに突っ伏した。
「もうだめ。俺、分かんない。いっちゃってるとしか思えないよ、俺には。そんな人好きになったってさ、ぶっちゃけ不毛じゃん。勝ち目ないじゃん」
「おいおい、行き詰まったからってぶっちゃけすぎだぞ」
甲斐は慌てて西岡を窘める。俺は気にしてないと首を振ってみせた。
「やめとけよ、亮輔。その人、マジでいっちゃってるって。だって普通じゃないだろ、その価値観。お前の手に負えるような女じゃないよ」
「そうか? 俺は別にいっちゃってるとは思わないけどなあ」
「甲斐のばか、変にフォローしてどうする」
西岡は突っ伏したまま手を伸ばし、甲斐の頭をぱしっと引っぱたいた。そしてポテトを五本つまんで口に放り込み、
「何事も、度を過ぎたらだめなわけ。分かる? 恋愛だってそうだよ。好きになりすぎて目の前見えなくなって、挙句の果てにいかれちゃったら意味がないじゃん。綺麗とか純愛とか言うけど、その本質に目を凝らすと俺はぞっとするね」
「意味があるかないかなんて、本人同士にしか分からないさ。でも、俺は別にいかれちゃってもいいと思う。人がいかれる理由なんて、愛だけで充分だよ」
俺は目をぱちくりとさせた。西岡はつまんだポテトを取り落として唖然としている。
「……甲斐。何だその、全てを悟りきったような台詞は。お前はどこぞの、誰にも負けない恋愛マスターか」
「西岡。そのたとえ、微妙」
胡乱そのものの西岡にあっさり言い返し、甲斐は励ますように俺の肩を叩いた。
「ま、いいんじゃない? お前が思うようにやればさ。俺はお前に未来がないとは思わないよ。案外、有里沙さんにとっても、お前がいいきっかけになるかもしれない」
「きっかけ?」
俺が訊き返すと、甲斐は何度も頷いた。
「そう。変わるきっかけ。お前が作ってやればいいよ、彼女にさ。なあ西岡、お前もそう思うだろ?」
「うーん……」
「お前さ、友達が悩んでるんだから、嘘でもいいから何とかして励ましてやれよ」
「いや、嘘はだめだろ」
「もののたとえさ」
甲斐の言葉を受けて、西岡はしばらく悩み込んだ後、やけくそのような笑顔で俺の肩をばんばん叩く。
「まあ何だ、亮輔がどうしてもって言うなら、俺たちは見守ってやるしかないよな。もうさ、お前がそこまで言うなら、この際とことんいっちゃえよ! 恋は盲目の彼女の目を覚ましてやれ! いっそのこと、無理やりキスでもしてさあ、何なら押し倒したって」
俺は飲んでいたコーラを吹き出しかけ、ごほごほと激しく咽せ込んだ。西岡が目を点にし、甲斐は呆れたようにため息をつく。
「西岡。お前、飛躍しすぎ。亮輔にそんな度胸はないよ。全く、もうちょっとましなフォローしろって」
甲斐が憐れむような眼差しで、涙目の俺の背中を叩いてくれる。西岡は誤魔化すような顔で、ポテトを五本つまんで口に入れた。
二人の気遣いはありがたい。ありがたいが、そこまでしないと突破口は開けないのかと思うと、咳が止まらない俺は内心ひどく途方に暮れた。
それから三日経った夕方に、状況はようやく動いた。
一日の授業を終えて、久しぶりに覗いた晴れ間の下、友人たちと校門を出ると、赤いスポーツカーが目に飛び込んできた。
「うっひゃー、派手な車」
「外車だな。めっちゃ高そう」
「でも、高級車が何で校門の前に?」
「うちの学校に、送迎習慣のあるセレブなんていたっけ?」
友人たちが口々に言い募る。俺も不思議に思いながら、何気なく見つつ、その脇を彼らと通り過ぎようとした。すると突然、
「佐川亮輔君!」
威勢のいい呼び声に、俺は思わずぎょっと立ち止まり、友人たちも驚いて足を止めた。
車から長身でショートカットの女性が降りてきて、黒く大きなサングラスを外してにこっと笑う。
俺は一瞬誰だか分からなかったが、すぐに記憶の糸が結びついた。有里沙の姉、倉本亜希子だった。
「こんにちは。今帰り?」
「はあ……まあ」
「この前はごめんなさいね。あれからろくに連絡できなくて」
「いえ、別に……」
しどろもどろになったのは、亜希子があまりにも堂々としていたからだ。カジュアルなパンツスーツを纏い、モデルのようにぱっと目を惹く化粧をして仁王立ちしている女性を、気にするなというほうが無理だと思う。
突然の事態に言葉を失う俺の周りで、友人たちがざわめいた。
「誰これ、亮輔の知り合い? 姉ちゃんか?」
「すげー美人。芸能人みたいだな」
「亮輔の彼女?」
「まっさかー。さすがにそれはないだろ。何歳上なんだよ」
背後で囁き合う彼らを気にしながら、甲斐と西岡が気遣わしげな視線を投げてくる。俺はどう説明するべきか迷った。
亜希子は、そんな彼らににこりと微笑みかけると、
「一緒に帰るだろうに、ごめんね。悪いけど佐川君、借りてっていい?」
「どうぞ、ご自由に」
「ちょ、甲斐! 何でお前が即答するんだよ」
返答と同時に、とんと俺の肩を突いた甲斐に、西岡が仰天してその腕をばしっと叩く。他の友人たちは、突然の出来事に目をきょろきょろさせていた。
亜希子は快活な笑い声を立て、
「ありがとう。じゃあ、借りていくわね。佐川君、乗って」
亜希子は派手な外車の運転席へと戻る。何となく逆らえない気がして、俺は素直に従うことにした。
冷静な甲斐と不安げな西岡に、軽く手を挙げて大丈夫のサインを送り、俺は助手席に乗り込んだ。他の友人たちは事態を呑み込めていないらしいが、きっと甲斐が、西岡も含めて適当にフォローしてくれるだろう。
亜希子は俺がドアを閉めるなり、アクセルを強く踏み込んで発車した。俺は思わず前のめりになるが、体勢を直すとすぐにシートベルトをした。左ハンドルの車に乗るのが初めてだからか、右の助手席というのは何となく居心地が悪い。
亜希子は俺のそんな心情を知ってか知らずか、からりとした明るさで言う。
「ごめんねー。びっくりした?」
「ええ、そりゃあもう。いきなり赤いスポーツカーで現れるもんだから。何かの漫画ですか、これは」
「あはは。これ、あたしの愛車なの。いい車でしょ。日本にいる時しか乗らないんだけど」
「……どういう意味っすか?」
「あたしね、普段は海外生活なのよ。帰国したのは一年ぶりかな。お盆もお正月も仕事で帰れなかったから」
「……仕事ってもしかして、バイオリニストですか?」
「そうそう。よかったー、有里沙からちゃんと聞いていたのね」
「ほんのちらっとだけ」
「普段はね、ウィーンにいるの。オーストリアの音楽の都、ウィーン。分かる?」
「はあ。名前だけなら、聞いたことはあります。行ったことはないですけど」
「そこを拠点にしながら、ヨーロッパで演奏活動してるの。ソロでやることもままあるけど、どこかの楽団と一緒にコンサートしたりとかね。今回はたまたま休暇をもらえたから、気紛れで帰国してみたの。まあ、それも今日で終わりだけど」
「は?」
「夜の便で日本を発つのよ。有里沙も調子よくなったことだし、あたしも仕事に戻らなくちゃいけないからね。その前に、佐川君と話しておきたかったの。あはは、本気でびっくりしてるー。ごめんね。明日みんなのネタにされちゃうわね」
亜希子はあっけらかんと笑う。俺は些か憮然とした。今の心情を全て見透かされてしまったことが何となく悔しい。
「それでさ、佐川君ジェラード好き?」
「は?」
次から次へと話題が急に変わる人だ。
「嫌いではない、ですけど」
「じゃあ、そこで食べましょう。美味しいお店があるの。駅までちゃんと送るから、ちょっと付き合ってよ」
俺は亜希子のペースについていけず、ただ頷くのが精一杯だった。この状況を呑み込み切れていないのに、亜希子は自分のペースに俺をぐんぐん巻き込んでいく。逆らったり異を唱えたりすると、後々面倒事が起きるタイプだ。ここは何も言わずに従うのが得策か。
車は十分もしないうちに、亜希子の目的地へと到着した。この町全体を見渡せる丘の公園で、彼女が言う美味しいジェラード屋とは、入口のすぐ近くにあるワゴンのことだった。
「何がいい? 何でも好きなもの頼んでいいわよ」
「えーっと、じゃあ、カルピスレモンのシングル、カップで」
「随分少ないのねえ。男の子なんだから、トリプルぐらい食べなさいよ」
「いや、そんなに腹減ってないし。俺は別にいいですよ」
「ふーん、意外に謙虚な子ね。じゃああたし、ブラッディオレンジとアップルのダブル、コーンで。あ、会計は一緒にね」
俺たちはそれぞれジェラードを受け取り、大理石でできたベンチに腰掛けた。
ところどころ大きな雲が浮かぶ青空の下に、ミニチュアを敷き詰めたような町がよく見渡せる。俺は爽やかな風味のジェラードを少しずつ食べながら、冷たいデザートを食べたのはいつぶりだろうとぼんやり考えた。
「佐川君さあ」
「はい?」
スプーンを使わずにジェラードを舐める亜希子に、俺は若干胡乱げな響きで返してしまう。しかし、亜希子はそんなことは一切気にせずに、
「有里沙のこと、好きでしょう?」
どきりと鼓動が跳ねた。
「……何でそう思うんです?」
「勘。でも、間違ってる気はしないな」
亜希子はきっぱりと言い切る。俺はしばし躊躇った後、言葉にする代わりに首肯した。
「一目惚れ?」
「……ええ、まあ」
「あの子、可愛いもんねー。あたしが美人系なら、あの子は可愛い系って感じでしょ」
「それ、自分で言うんですか。妹を褒めるならともかく、自画自賛って」
「あはは。でも、間違ってないでしょ?」
どちらに対して首肯するべきか迷った。亜希子は零れそうなジェラードの雫を舌で掬いながら、
「あの子のこと、どれだけ知ってる?」
俺は一瞬沈黙して考え、
「……今してる仕事とか、音楽の趣味とか」
「立花先生のことは?」
遠慮なく核心を突かれてぎくりとしながらも、
「本人からじゃないですけど、まあ、知ってます。俺のダチの親が、立花医師と同じ病院に勤めてて、そのダチにたまたま聞きました」
決して探りを入れたわけではないというニュアンスを含めながら、俺は言葉を選んで答えた。横目で亜希子の表情を窺うが、彼女はジェラードを食べることに神経を駆使しているようだった。
「じゃあまあ、話は早いわけですねっと。美味しいわねー。日本だとやっぱ、この店のが一番好きだな。本場のほうがもっと美味しいけど、まあそれは仕方ないか。日本は日本、本場は本場の味ってことで」
満足げに自己完結させる亜希子に、俺は何と言っていいか分からず、黙ってジェラードを食べ続けた。彼女に合わせて食べているつもりが、元々量が少ないせいか、元来の早さのせいか、ジェラードはあっという間になくなってしまった。亜希子は舌を使ってぺろぺろと美味しそうに食べている。
「佐川君さあ」
「はい」
「有里沙のこと、どう思う?」
「どう、とは?」
いろんな受け取り方ができる問いだと思いながら、俺は率直に訊き返した。
「亡くなった彼を今も想い続けてる有里沙のこと、おかしいと思う?」
「いや、そんなことは」
「可哀想とか、女々しいとか。もしくは狂ってるとか。ぶっちゃけた話、どう思う? あ、別に気を遣わなくても、あの子に告げ口したりしないよ」
「いや、そんな心配はしてませんけど」
俺は慌てて返し、ジェラードのカップに目を落とした。
「可哀想……と、思わないことはないです。そういう感想も、正直なところ、あります。でも何か違う。しいて言うなら、見てられないなって思います」
「痛々しいってこと?」
「うーん、ちょっと違う気が。狂ってるとは思わないけど、正直見ていられないというか、もどかしいって思うことはあります。何だか悲しいというか、いたたまれなくて」
俺の言葉に、亜希子が考えるように沈黙した。ジェラードを舐める舌が引っ込まれる。
「だって、有里沙さんは今を生きていない。有里沙さんの瞳に、現実というか、今そのものが映ってない気がして。それって、狂ってるとかいうより、実はすごく悲しいことなんじゃないかって思います。……うまく言えませんけど」
繕うように締め括って俺は黙り込む。いけないことを口にしただろうかと、少しはらはらしていた。
亜希子はしばしの沈黙の後に、
「そっかあ。佐川君はあたしが思ってたよりずっと、有里沙のことをちゃんと見てくれてるんだね」
「そうです……かね」
尻切れとんぼのような俺の言葉を、亜希子は軽く笑い飛ばした。
「そうよ。じゃないとそんな思いやり溢れた言葉、すぐには出てこないわ。ましてや有里沙の姉に訊かれて、ね。そっかあ。よかった、佐川君が優しい子で。お姉ちゃん、安心しちゃった」
「はあ」
俺はどう返していいか分からず、間が抜けたような相槌を打った。亜希子はコーンから滴り落ちかけたジェラードの雫を舌で掬い、
「佐川君になら、話しても大丈夫かな」
「はあ」
「これからあたしが話すこと、有里沙に話すも話さないも、君の自由だから」
「は?」
「あたしさあ、妹がいるんだよね」
「はあ」
それは知っています、と俺は言いかけて口を噤んだ。余計なことを言うべきではないと、無意識に思ったたからだ。
俺は少し考えてから、確認のつもりで問うてみる。
「それは、有里沙さんのことですよね?」
「ええ、有里沙。でも、君が言うのは漢字の有里沙のほう。あたしにはね、平仮名のありさっていう妹もいるのよ」
俺は言葉に詰まった。亜希子はなだらかな高さになったジェラードを舐めながら、
「平仮名のありさはね、あたしの実の妹。五歳離れていたの。両親にとっては、やっと授かった念願の二人目だったんだけど未熟児でね、心臓の病気も抱えていたの」
「はあ……」
「何度も危篤と持ち直しの間を彷徨って、成長してからも入退院を繰り返していてね。ろくに学校も行けなくて、ずっと寝たきりのようなもので。心臓発作なんかもよく起こしてね、そりゃあもう手のかかる子だったの。両親は日々心を砕いて、母なんかはもう、妹につきっきり。あたしは年の割に事情をよく理解していたから、寂しいなんて言ってごねることはなかったけども」
「はあ」
俺は話の意図が読めず、曖昧な相槌を打ちながら耳を傾け続けるしかなかった。
「そんなありさもね、あたしが高二の時に死んじゃった」
「え?」
「享年十二歳。両親はものすごく落ち込んでいたわ。赤ちゃんの頃は、十歳まで生きられるかどうかって言われていたけど、それより二年も長く生きられた。あたしはそう思ったけど、両親には救いにならなかったみたい。特に母。母の落ち込みようは、そりゃあもう激しかった。この世が終わったぐらいの落ち込みっぷりでね」
「……ええっと、話に水を差すようであれですけど、亡くなったのはその、平仮名のありささんですよね?」
俺は遠慮しながらも、話を整理するために口を挟んだ。亜希子はジェラードをぺろりと舐めて首肯する。
「ええ」
「じゃあ、今のその、漢字のほうの有里沙さんは、いったい……」
「漢字の有里沙はね、平仮名のありさが亡くなった三ヶ月後に、うちにやってきた養女」
「養女?」
俺は愕然として、彼女の言葉を繰り返した。
「そう、養女。父が支援していた児童養護施設で暮らしていた、たまたまありさと年が同じで、たまたま同じありさっていう名前で、んでもってたまたま、死んだ平仮名のありさと瓜二つの容姿をしていた、有り無しの有に里に、さんずいの沙って書く女の子」
さらりと告げられた内容に、俺は呆然と言葉を失くした。
「娘を亡くして憔悴しきっていた母を見かねた父が、気晴らしにって、自分が視察する施設に母を同行させたの。その時、母が漢字の有里沙と出会って、彼女を養女にしたいって言い出した。有里沙が死んだ娘と共通点があると知ったら尚更、絶対引き取ると言い張ったわ。この子はありさの生まれ変わりだ、これは運命なんだって言って……ね」
「身代わり……なんですか? 有里沙さんは。亡くなった、平仮名のありささんの」
亜希子はジェラードを舐める舌を引っ込めて、何とも言えない苦笑いを浮かべる。
「そう言われても仕方ないわね」
「それって……あの、他人の俺が言うのもあれかと思いますけど、それって結構、残酷なことですよね」
言った後に、言うんじゃなかったと後悔した。しかし、言わずにはおれなかった。
亜希子は素直に頷いて、
「そうね。そうだと思うわ。だからあたしも父も、最初は反対したのよ。でも、結局は父が母に折れる形で、有里沙を養女にすることが決まった。父は事前に、有里沙に事情を話したそうよ。有里沙は、死んだ平仮名のありさのことを知った上で、父が申し出た養子縁組を受け入れた」
なだらかだったジェラードが平らになり、亜希子はコーンを少し齧る。
「あたしも父も、有里沙を家族として迎え入れたわ。死んだありさとは違って、有里沙は有里沙という個人の人間なんだから、それ相応にちゃんと接しようって、家族でも話し合った。父もあたしもそう接したつもり。でも、母は正直言って、有里沙を死んだありさだと思い込んでる節が多くてね。とにかく有里沙に過保護だったの。喘息持ちで体が弱かったからかもしれないけど、それはもう必要以上に構ってね。有里沙も、母の期待に応えようとしてるのが分かった。有里沙にはね、両親がいないのよ」
「いない?」
「そう。あの子の実の親御さんは、有里沙が生まれてすぐに、二人とも亡くなってるの。それで親戚の方が、生まれて間もない有里沙を施設に預けたそうよ。尤も、その親戚との交流もそこで途絶えちゃってるけど」
俺は言葉が浮かばず、ただ俯くしかなかった。
「あの子、漢字の有里沙はおとなしい子でしょう? 自己主張も少なくて、引っ込み思案で。それはあの子本来の気質でもあると思うんだけど、大部分を占めているのは恐らく、平仮名のありさだと思うのね」
亜希子はコーンを齧りながら語る。それが彼女のポーズなのだと、俺はようやく気が付いた。
「有里沙が、死んだありさになろうと努力してることは、父にもあたしにもすぐに分かった。あたしたちが思ってる以上にあの子は、自分が身代わりで引き取られたんだと痛感していたみたい。そんなことはないって言ってやりたかったけど、両親にそんな思いがないわけないから、あたしとしては何も言えなかった。だからあたしはあの子を、一人の人間だと強く思って接した。……言葉で語るのは難しいわね。伝わりづらいかもだけど、何となくニュアンス分かる?」
「ええ、何となくは」
俺が頷くと、亜希子はほっとしたように笑う。
「有里沙はすごくいい子に育ったわ。両親を常に気遣って、その気持ちに応えようと、死んだありさになりきろうとして。あの子は身代わりとして生きようとしていた。本来の自己を封印して、身代わりとして倉本の家に馴染もうとしていた。でも、『君は君だから、君の人生を生きていいんだよ』なんて、あたしは口が裂けても言えなかった。あの子を身代わりのように連れてきたあたしたちが、言える言葉じゃないでしょう? 父は我慢しきれずに言っちゃったけど、あたしはとても言えないわ、そんな残酷な言葉。でも、それがきっと、有里沙を今も苦しめているのね」
「……後悔、してるんですか?」
俺の言葉に、亜希子は一瞬止まった。
「後悔……なんて言葉は、あたしたちが使うには、ずるすぎるわね。どうしていいか分からなかったっていうのが、正直なところかしら。あたしも当時はまだ若かったもの。あの子にどう接したらいいか、一人悩んだ時期もあったのよ」
都合がいいかもしれないけど、と付け足して、亜希子は苦笑した。
「あの子が音楽を始めたのは、あたしの真似だったのよ」
「真似?」
「あたし、今となっちゃバイオリン弾きだけど、元々はピアノから始めたのよ。でも、平仮名のありさが死んでからはやめちゃった。死んだありさの夢はね、ピアニストだったの。漢字の有里沙はそれを知って、ピアノを始めたいって言い出したんだと思う」
「亡くなったありささんの夢を、身代わりとして叶えるために……」
「健気だと思わない? 健気で純粋で、悲しいわ」
亜希子の言葉に、俺は頷くことしかできなかった。
「ピアノ一本でいこうとした有里沙に、歌を勧めたのはあたしなの。あの子のその……悲しいまでの健気さが、何か見てられなくなっちゃってね。有里沙には、有里沙だけの何かを、音楽で見つけてほしいと思ったの。まあ要するに、あたしのエゴなんだけどね」
「そんな」
「でも、有里沙は歌が性に合ってたみたいでね。のめり込むように声楽を学んでいたわ。ピアノも勿論、並行してやっていたけれど、声楽への意欲は尋常じゃなかった。それが自分だ、自分にはそれしかないんだと言わんばかりで」
亜希子は少し言葉を止めると、自嘲するように薄く笑う。
「あの子は多くを語らない性格なの。有里沙がどう思ってるかなんて、あたしには想像しかできないけど、きっとつらかったんじゃないかしら。あたしは精一杯明るく接したつもりだったけど、本当はひどく傷つけていたかもね」
明るい響きとは裏腹に、亜希子の瞳が全く笑っていないことに俺は慌てた。
「そんなことないです」
亜希子が驚いて俺を見る。出すぎた真似をしたと思ったが、
「そんなこと、ないと思います」
「……どうしてそう思うの?」
責めるでも問い詰めるでもなく、亜希子は自然な響きで問うた。俺は少し迷ったが、思い切って語る。
「有里沙さんは、優しい人だから……。俺が知ってるかぎり、有里沙さんは優しさが分かる人だから。亜希子さんの気持ちを偽善とか、そんな風に受け取ったりはしていないと思います。亜希子さんの優しさを、疑うようなことはしない気がします」
第三者特有の、都合のいい詭弁だと思われるかもしれない。俺はそう恐れていたが、意外にも亜希子は微笑んで、
「ありがとう。そうだといいな」
「きっとそうですよ」
「あたしもさ、世間一般では天才だとかいろいろ言われるけど、そんなに人間できてないのよ。あたしは有里沙のこと、大事な妹だと思ってるけど、死んだありさのことを忘れたかっていうと、そうじゃないもの。あたしだって、結構残酷なのよ」
「そうかもしれないけど、でも亜希子さんは、有里沙さんが倒れた時に、真っ先に車飛ばして来てくれたじゃないですか。見ず知らずの俺が電話に出たのに、疑ったり責めたりすることもせずに、あんな雨の中、来てくれたじゃないですか。それって、有里沙さんを大事に思ってないとできないことだと、俺は思います」
まくし立てるように言う俺に、亜希子はふふと笑い声を立てた。その声はとても明るく優しいもので、俺の言葉を嗤うものではなかった。
「ありがとう、佐川君」
亜希子はそう言ってにこりと笑い、残りのコーンを口に放り込んだ。
「ああ、美味しかった。佐川君は美味しかった?」
「あ、はい。ご馳走さまでした」
「どういたしまして」
亜希子は笑いながら立ち上がって、展望スペースの手すりを掴んで町を見下ろす。
「あの」
俺は座ったまま、少し大きな声で問うた。
「何で俺に、そんな話を?」
亜希子は振り返り、きょとんとした顔で俺を見る。
「その……身内の大事な話を、何で他人の俺なんかに?」
「うーん、それはねー」
亜希子はこちらを向いて凭れるように立ち、両手を広げるように手すりに手を置く。
「君なら、話してもいいかなと思って」
「はあ」
「君、有里沙にぞっこんみたいだから」
「ぞ……っ」
真っ赤になって絶句する俺を見て、亜希子はおかしそうに笑った。そしてひとしきり笑い転げた後、
「君なら、有里沙の身の上話を聞いても、それを変に吹聴したりとか、そういうずるい真似はしないだろうなと思って。もし君が本気で有里沙を好きなら、知っておいてほしいことだったから。というわけで、行こうか」
「はい?」
いきなり話が変わったことに、俺は思わずあんぐりとした。しかし、亜希子は何てこともないようにサングラスをかけ直し、俺についてくるよう促しながらさっさと車へ向かう。
「そろそろ時間だし、電車の時間もあるし、駅まで送るわ」
「駅までって……俺、地元民だから、ここから一人でも帰れますよ?」
俺は亜希子から助手席に乗るよう指示されるも、
「高校までも徒歩だし、家は三丁目で」
「うん。君は帰れても、有里沙が帰れないでしょ」
「は?」
亜希子は運転席に乗り込むと、俺がシートベルトをつけたか確認せずに車を発進させた。
どうしてこの人はこう、アクセル全開の急発進が好きなのだろう。俺はまた前にのめりかかる。
「有里沙ね、今日こっちに帰ってくるの。電車の時間はあたしが指定しといたから、悪いけど駅まで迎えに行って、あの子を家まで送ってやってくれる?」
さらりと告げられた言葉に、俺は仰天してうろたえた。
「ちょ、何でそういう展開なんですか!」
「君が適任なんだってー。あたし、これから空港に向わなきゃいけないし、あの子を送るだけの暇がないのよ。それに、今晩もまた雨が降るっていうしさ。天気予報だと、今日の雨は前みたいな寒いのじゃないっていうけど、蒸し暑けりゃいいってもんでもないしねー。有里沙がまたあんなとこに出掛けて、喘息でも起こしたら事だしね。君もぶっちゃけ気になるでしょ?」
「気に……はなりますけど。でも、いいんですか? 俺、年下だけど一応男ですよ?」
「別にいいわよ。君と有里沙の間で合意ができれば、あたしは別に何とも」
「ちょ、亜希子さん! あんた、一応でも有里沙さんのお姉さんでしょ!」
「あはは。でもいいじゃない。あたしが君と有里沙のキューピットになってあげるって言ってるんだから。あの子、引っ込み思案もいいとこだからさ。こっちからきっかけ作るなり押していかないと、いつまでも進展しないわよ?」
俺はぐっと押し黙る。それは尤もな意見だった。亜希子は俺の顔からそれを読み取り、
「というわけで、後のことはよろしくね。ああ、ちなみに有里沙には、君が来ること伝えてないから、そこんとこもうまくフォローよろしく」
「……何か、課題いっぱいっすね、俺」
「恋には駆け引きも必要よ。まあ、あの子相手に駆け引きがいるかどうかは分かんないけど、一つのイベントだと思って」
亜希子の言葉は実に明るかった。俺は何だかため息をつきたくなったが、車窓を眺めながらそれをやり過ごした。
亜希子が教えてくれた様々な事実は、俺の脳裏にかかっていた靄を消した。今まで見えなかったものが、少しずつではあるが見え始めた気がする。そのきっかけを作ってくれた亜希子には、感謝しなければならないだろう。彼女の言葉がなければ、恐らく俺と有里沙は平行線を辿り続けるままだったろうから。
車は十分ほどで駅前に到着した。一目で高級外車と分かるこの車は、大通りの路肩に停車しても道行く人々の興味を充分に惹いた。
亜希子はサングラスを外し、
「有里沙は五時半ちょうどに着く、下りの普通電車で帰ってくるから。改札にいれば多分会えると思うわ」
「亜希子さんは会わなくていいんですか?」
「いいのよ、あたしは。今日発つことはちゃんと言ってあるし。それより、これあげる」
亜希子から渡されたのは名刺だった。
「日本用の名刺。連絡先書いてあるから、もし進展とか相談があったら、いつでもメールしてちょうだい」
「はあ、どうも。ありがとうございます。じゃあその、俺行きますね」
俺は受け取った名刺を胸ポケットに入れて、シートベルトを外すとドアに手をかけた。
「佐川君。有里沙のこと、よろしくね」
「はあ」
俺は苦笑いのような顔で曖昧に返した。あまりにダイレクトに言われて戸惑ってしまったのだ。亜希子はそんな俺を面白そうな目で見つめ、
「君なら、有里沙を救えるかもしれないね」
俺は虚を衝かれて言葉に詰まる。
「どう、でしょうか……ね」
「大丈夫。うまくいくことを願ってるわ」
その笑顔につられるように何度も頷いて、俺は礼を言いながら車から降りた。
亜希子は一度俺に手を振ってから車を発進させる。俺は慌てて一礼し、真っ赤な高級外車が大通りを瞬く間に走り去るのを見送った。
俺は強張り続けて固まった肩から力を抜く。大きなため息が勢いよく吐き出された。
そしてまた、何とも言えない気持ちが胸の奥に立ち込めていく。俺はそれに顔をしかめ、雲が増えてきた空を仰いだ。
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