3
その週の日曜日は、五日ぶりの快晴だった。久々の青空が清々しい。
俺は昼過ぎに、甲斐と駅で待ち合わせをした。
有里沙のコンサートの付き合いに甲斐を選んだのは、彼が控えめで物静かな性格だからである。聖歌のみのコンサートに連れていくと確実に爆睡、もしくはつまらないと文句ばかり言いそうな西岡は、悪いが今回は遠慮してもらうことにした。それを伝えると、甲斐は「正しい選択だ」と笑った。
時間どおりに落ち合うと、二人はまず花屋に行って、三千円でブーケを作ってもらった。コンサートに行くなら必要だろうと甲斐が言ったのだ。勿論料金は割り勘で、小さなメッセージカードには、お互いの名前だけを書いておいた。
俺は花を片手に持って歩いていた。その隣を、甲斐が同じ歩幅で歩いている。曜日柄か天気柄か、街はいつもより人出が多い。梅雨特有の蒸し暑さは否めないが、それでもまだ晴れているだけ気分は救われる。
甲斐は行き交う人々を何気なく見ながら、
「コンサートなんて久しぶりだなあ。去年の夏フェスに、お前と俺と西岡の三人で行って以来だっけ。といってもあれはライブで、コンサートではないか」
「俺は初めて。聖歌とか、そういう宗教系の堅いやつは。甲斐は行ったことあんの? こういう系というか、クラシック系のやつに」
「昔だけどな。母親が外科外来に勤めてた頃、暇あらばよく連れていかれてた。何とかフィルハーモニーの何々公演だとか、どこどこ国の歌手、誰々さんの来日公演とか」
「豪華そうだな。それって高いんじゃないの?」
「だからだよ。忙しい合間に暇を見つけては、娯楽に金注ぎ込んで、気晴らし感覚で行くのさ。付き合わされたのは俺。小中のガキがおとなしくすまし顔で、高尚なクラシックのコンサート。おかげでそっち系にはだいぶ詳しくなったよ。まあ尤も、両親とも救急病院に勤務になってからはなくなったけど」
「じゃあ、聖歌とかにも詳しいの?」
「詳しくはないよ。でも、聖歌ってよく映画のサントラとかで使われてるし、クリスマスソングなんて八割方は聖歌じゃん」
そう言われても、俺にはさっぱり分からない。流行の邦楽なら大体は分かるが、音楽史的なものは授業でしか触れたことがない。
「まあ、聴けば分かるだろ。タイトル知らなくても、案外耳に覚えがあるかもだし」
そう言って甲斐は話をまとめる。俺も、それもそうかと思って頷いた。
教会までは坂道だ。時間がかかる上に、体力も意外に消費する。そのためか、会話をしながら歩いていると、地味に疲れが増す気がした。照りつける陽射しのせいで、額や首筋にじとりと汗が浮く。
俺たちはしばらく無言で歩いていたが、口火を切ったのは甲斐だった。
「倉本有里沙さんのことだけどさ」
俺は甲斐を見た。普段、学校までは電車の甲斐だが、坂道を歩いていても顔色一つ変えない。
「思い出したんだ。どこで倉本さんの名前を聞いたのか」
「マジで?」
「ああ。やっぱり音楽関係じゃなかった。お前さ、倉本さんのこと、どこまで知ってる? 彼女、自分にまつわることとか、お前に話したりした?」
俺は頭を振って否定する。
「そっか……」
甲斐は僅かに視線を落として黙る。勿体ぶっているのではなく、本当に話していいのか迷っているようだった。
「いいよ、言ってくれて。俺、何聞いても驚かないし」
半分は本当で、もう半分は強がりだった。甲斐はなおも迷うように視線を泳がせるが、やがて慎重に言葉を選びながら語り始める。
「お前から倉本さんの名前を聞いてから、ずっと気になってたんだ。音楽関係じゃないって分かってたから、試しに母さんに訊いてみた。そしたら見事的中」
甲斐の両親は、市内にある総合病院の救急外来に勤めている。父親のほうは医者で、母親が看護師だ。だから、導き出される結論は自然と決まっていた。
「患者だった……ってこと?」
「半分正解、半分外れ」
俺は眉をひそめた。
「順番に整理して話そう。まず、俺が彼女を知ってた理由だけど、一度だけ病院で会ったことがあるんだ。当直だった父さんの着替えを持っていった時に、救急外来の近くでうずくまってる女の人がいてさ。周りに誰もいなくて、その人ものすごく苦しそうだったから、俺が人を呼んだんだ。ナースステーションに行って母さんを呼んで、その人のところに連れていった。その人は以前病院に入院していて、診察待ちの途中で喘息の発作を起こしたらしいんだ。……もう分かるよな」
「それが有里沙さんだった……?」
「そういうこと。何で名前を覚えていたかっていうと、単純明快な話、母さんがその人の名前を呼びかけながら処置してるとこに、一緒にいたから」
「よく覚えてたな、お前。そんな些細な出来事」
「俺だって、今の今まで忘れていたさ。つまりはそんな一瞬の遭遇。んで、思い出したからには、母さんにそれとなく訊いてみたんだ。彼女の個人情報を侵害しない程度に」
「それで……?」
甲斐は一瞬黙り込む。そして、さらに慎重に言葉を選ぶそぶりを見せて、
「彼女……倉本さんは、父さんたちが勤める病院にいた、立花医師の恋人だったらしい」
「タチバナ……?」
「内科の医師で、年齢は三十代に突入したとこ。穏やかな人柄で患者受けもよく、プラス腕もよくて、周囲の信頼も厚い人だったそうだ。俺は会ったことないけど」
立花医師。その名前を脳裏で反芻する。
「母さんは、二人がどうやって出会ったのかまでは知らないらしい。だけど、二人が付き合ってることは、周囲は何となく知っていたそうだ。彼女も何回か、立花医師を訪ねて病院まで来ていたらしいし」
「医者と患者として出会った二人が、恋愛にまで発展したってこと?」
「どうだろう。そうだったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない。でも、立花医師は、有里沙さんをとても大切にしていたそうだ。それは周りから見ても分かったらしいし、近々結婚するんじゃないかって噂もあったらしいから」
甲斐は気遣うように俺を見やる。俺はもう気付いていた。甲斐の言葉は、全て過去形なのだ。それが語る事実はもはや明白だった。
「二年ほど前、立花医師は交通事故で亡くなったらしい。雨の夜に車で国道を走っていた時、他の車のスリップ事故に巻き込まれて」
心にどすりと鈍い衝撃が加わった。
「豪雨の夜だったそうだ。立花医師は夜勤明けでも終わらなかった仕事に追われて、相当疲れていたんじゃないかっていう話だ。病院に運ばれてきた時には手遅れだったらしい」
「雨の夜……」
俺は無意識のうちに呟いていた。甲斐は一瞬目で反応するが、何も言わずに続ける。
「駆けつけた有里沙さんは、立花医師の遺体に縋りついて号泣したらしい。それで、ショックで三ヶ月ほど失声症になったとか」
「声が出なくなったのか?」
俺は絶句した。有里沙は音楽を仕事にしていて、その本業は歌だ。声が出なければ歌えない。
俺の表情からそれを読んだのか、甲斐は一度頷いて、
「精神的なものだったそうだ。それと同時に喘息も悪くなって、少しの間入院もしていたらしい。お前の話を聞くと、失声症も喘息も、今はよくなったみたいだが」
甲斐はそこで口を閉ざし、気遣うように俺を見やる。俺は応えられなかった。
何となく予想はしていた。雨の夜に、誰もいない教会の裏庭で、人を待っていると聞いた時点で、何かおかしいと思ってはいた。一回目に会った時ならまだしも、二回目の時点で、まだ会えていないというのは腑に落ちなかった。
それに、有里沙の言動も不思議だった。人が来るのを今待っているはずなのに、まるで過去の出来事のように話した。いつまで経っても来ないのに、訝る仕草すら見せない。
それも当然だ。待ち人はもう二度と、有里沙の前に現れることはない。彼女が待ち続ける恋人は既に亡き人だ。彼が来ることなど、あるはずがないのだ。
しかし、有里沙はそれを知った上で、雨の日の夜は教会の裏庭で彼を待ち続ける。
何となく予想していたとはいえ、俺は激しいショックを受けていた。有里沙は二度と現れるはずのない恋人を、来ると信じて今も待ち続けている。
「じゃあ、雨の夜に、あんなところにいるのは……」
「今でも待ってるんだろうな、恋人を」
「そんな……。だって、立花医師は死んだんだろ? 来るはずないじゃないか」
「分かっていても、待ってるじゃないの。いつか来てくれると信じて」
「でも有里沙さんは、立花医師が死んだのを知ってるんだろ。来るはずがないと分かっているなら、どうして」
「受け止めたくないんじゃないか? 最愛の恋人が不慮の事故で死んだってこと。歌い手なのに声を失くしてしまうぐらいだ。今もそれが忘れられなくて、ずっと待ってるんじゃないか? 愛してるんだよ、今もきっと、立花医師のことを」
甲斐の言葉に、俺はそれ以上何も言えなかった。甲斐もそれ以上は何も言わなかった。
二回だけ話をした時の有里沙の言葉や、夢見るように幸せそうな表情を脳裏に浮かべる。それが彼女の悲しみだったのだろうか。
俺には分からなかった。死んだ恋人を今も待ち続ける有里沙の心が。その想いの深さと果てしなさが、いくら考えても掴めないし量れなかった。
俺たちはそのまま無言で教会に辿り着いた。
受付でチケットを見せて料金を払い、持ってきたブーケを預けた。そして後方の端の席に座り、渡された薄いパンフレットに目を通しながら開演の時を待つ。
聖堂内は、人でほぼ埋まりかけていた。幼児から老年まで、観客の年齢層は幅広い。知り合いではないが、同世代らしき男女の顔もちらほら見えた。
俺は一通り周囲を観察すると、パンフレットに目を落とした。プログラムは、やはり知らないものばかりだった。タイトルを見ただけでは、どんな曲かは想像もつかない。
「なあ、甲斐。プログラムの曲、お前どれか知ってる?」
「いや。でも、タイトルを見るかぎり、そんな暗い曲はやらなさそうだな。『神の恵みはくすしきかな』、『みどりもふかき』、『ああ、感謝せん』……何となく明るそうじゃね? ざっと見るかぎり、受難曲とかはやらないみたいだな。万人向けのプログラムだと思うよ」
そう言う甲斐は、少なくともある程度の内容は把握できているらしい。全く掴めない俺は、ふむふむと頷くしかなかった。
やがて開演の合図が響き、人々が拍手をする。俺と甲斐もそれに倣った。
白いレースのワンピースを纏った有里沙が現れると、拍手はさらに盛大になった。
有里沙は最奥の十字架に重なるように中央に立つと、すっと美しいお辞儀をしてから、オルガンに一瞬の目配せを送る。その瞬間、拍手は止んで、聖堂内はぴんと静かな空気に包まれた。
オルガンの前奏の後、一拍の間を置いて有里沙が歌い出す。
透き通った高い声だ。どこか丸みを帯びた柔らかさで、明るく高らかと響き渡る。マイクを使っていないのに、その歌声は後ろにいてもよく聴こえた。歌詞の一つ一つが確かな意味を持って聴こえる滑舌のよさと、旋律や歌詞によって表情を変える豊かな歌声。
観客の誰もが、無心で聴き入っているのが分かった。皆の視線が有里沙に集まり、その表情から目を逸らさない。いや、有里沙がそうさせているのだ。彼女は観客の視線を惹きつけ、その心を歌の世界へと旅立たせる。
少なくとも、俺はそれを全身で感じていた。彼女の歌声が心を鷲摑みにする。些細な隙すら感じさせないほど、圧倒的な求心力をもって響かせてくる。その存在感は、まさしくプロのものだった。
俺は圧倒されて、ただただ彼女の歌声に聴き入っていた。
初めて見る歌い手としての有里沙は、俺の想像を遥かに超えていた。人の心を掴んで離さないだけの実力を持って、それまであった感情を洗い流し、心そのものを激しく揺さぶってくる。
歌でこんな気持ちになったのは初めてだ。俺は有里沙に釘付けになっていた。
一曲目が終わると、自然に拍手が起こった。形式だけのものではないと、こういった場に慣れていない俺でも分かるような、賞賛のこもった温かい拍手だった。
有里沙が嬉しそうな表情で礼をして、側に立つスタンドからマイクを初めて取った。
「こんにちは。本日は六月のハーモニー、こどもと楽しむチャリティーヒーリングコンサートにお越しくださり、誠にありがとうございます。本日演奏させていただきますのは、歌い手はわたくし倉本有里沙と……」
放心したような俺の耳元に、甲斐が声を潜めて話しかけてくる。
「すごいじゃないか。さすがプロだ」
「ああ……」
俺は周囲の目を気にしながら、甲斐よりも小さな声で応じた。
「綺麗な声だな。柔らかくて聴きやすいし、確かにヒーリングにはうってつけだ」
俺は頷く。自分が褒められたわけではないのに、嬉しいような、照れくさいような気持ちになった。
「普段は教えてるだけなんだろ? 勿体ない。CD出しても通用するんじゃないか」
どうやら甲斐は、有里沙の歌がすっかり気に入ったらしい。彼が何かをここまで褒めるのは珍しい。甲斐の物事に対する評価方法は、冷静に切り捨てるか、体裁を保てるだけの言葉をかけるか、もしくは関心がないと言って、最初から無視するかのどれかだ。その彼が素直に賞賛しているのだ。俺に遠慮したからというのは杞憂だろう。
そんなことを思いながら、俺は有里沙の歌に耳を傾け続けた。
彼女は時折MCを挟みながら、全十二曲を歌い上げた。ほとんどが日本語の曲だったが、二曲ほどラテン語が混じっていた。ヒーリングと銘打っているだけあって、落ち着いた雰囲気の曲ばかりだった。
心ゆくまで癒されたのか、ぐっすりと眠っている観客も何人かいた。勿論、俺と甲斐は最後までちゃんと起きていた。眠くならなかったといえば嘘になるが、心地良い時間を過ごした感覚はある。
有里沙が歌っている間も、MCでマイクを握って離している間も、俺はずっと彼女を見つめていた。その明るい笑顔、気品と人柄のよさを感じさせる話し方、豊かな表現力と柔らかさを併せ持つ歌声。初めて目にする魅力のどれもが、有里沙を際立たせている。
しかし、俺にはそれが何だかいたたまれなかった。彼女が心の奥に隠している秘密を、垣間見てしまったからかもしれない。
「……悲しいんだ」
俺が小さく呟くと、甲斐がちらりと視線を寄越す。
「綺麗な歌声だけど……何だか悲しく聴こえる。笑っているのに、笑ってないんだ」
その言葉に、甲斐は何も返さなかった。
悲しいと思ったのは、有里沙の言葉を思い出したからだ。そのフィルター越しに歌声を聴くと、曲に隠されて見えなかった彼女の感情が、ほんの少しだけ見えた気がした。
その感情が悲しいと言っているのを、俺は確かに聞いた気がした。それが俺の心までを、言葉にならない痛みで刺し続けた。
月曜日からは、またいつもと同じ日常が始まった。
朝起きて学校に行き、夕方過ぎに家に帰って夕食を食べて、宿題と予習を済ませてから寝る。いつもと同じことだ。それに抗う気もなければ、投げ出したいとも思わない。
ずっと考えているのは有里沙のことだ。
日常にふと隙間が生まれると、思考は自然と有里沙の存在を呼んでくる。有里沙は今、何をしているのだろう。どこにいて、誰と一緒にいるのだろう。笑っているだろうか。何を考えているのだろうか。いつどこで、何をしていても誰といても、失った恋人を想い続けているのか。雨の日に、教会にいてもいなくても、彼を想って泣いているのだろうか。
俺には分からなかった。
有里沙のコンサートに行って、その歌声を本格的に聴いた時、俺は改めて自覚した。
俺は有里沙が好きだ。あの雨の夜、誰もいない教会の裏庭で、小さく儚い歌声を初めて聴いた時。彼女と目と目を合わせて、言葉を交わした瞬間。
俺は彼女に恋をした。刻まれて消えない何かが、心を常に焦がして逸らせる。
だからこんなにも考えてしまう。有里沙のことばかり想ってしまう。
しかし、どれだけ思いを巡らせても、俺には彼女の気持ちが分からない。
もういない相手を想い続ける。来るはずのない恋人を、来るはずがないと知っていてなお待ち続ける。その行動に意味はあるのか。来ない相手を待ち続けることが愛なのか。そうすることが、彼女にとっての救いなのか。
亡き恋人を今も想い続けるというのは、傍から見れば美しい愛の形なのかもしれない。だが、俺には自分の心を痛みつけるだけの、悲しい自虐行為にしか思えなかった。そこに愛や思い出はあっても、今や未来は存在しないのだ。
俺の感覚で言ってしまえば、過去に生きて、今は死んでいるようなものだ。二度と会えないと知りながら、足元が悪く、気温も不安定な雨の夜にわざわざ出掛けて、あんな人気のない場所で、死んだ人間を想い続ける意味が、俺にはどうしても見出せない。
相手を深く愛したから、そうなってしまったのだろうか。深く愛されたから、忘れられなくなってしまうのだろうか。
俺にはそんな経験はない。付き合ったことがあるといっても、それは恋愛と呼べるほど大仰なものではなかった。特定の異性を深く愛したことも、忘れられない恋に悩んだこともまだない。ましてや誰かを亡くしたり、その痛手をずっと引きずっていた体験もない。だから、有里沙に感情移入することは、七転八倒してもできやしないだろう。
それに気付いた時、俺は絶望にも似た気持ちになった。俺と有里沙の心が繋がる、もしくは重なることが一生ないような気がした。それほど、有里沙の心は俺の想像の範疇を超えていた。触れるには程遠く、見つめるにはあまりにも霞に近い不確かさだ。
俺は歯痒さで気が狂いそうだった。有里沙を知りたい、その心を分かりたいと思うのに、考えれば考えるほど分からなくなる。
俺を好きになってほしい。俺に振り向いてほしい。そう強く思うのに、そんなことはたとえ天と地がひっくり返っても起こらないような、果てしない迷路を歩んでいるような気分になる。立花医師を想う有里沙の心が深ければ深いほど、俺の入る隙などないように思えてならない。
そんな激しい葛藤が毎日、渦を巻いていた。
コンサートから三日も経たないうちに、また雨が降り出した。今度は前よりも一層激しい雨だった。
梅雨前線が本格的に動き出した。テレビの気象予報士が、そんなことを言っていた。蒸し暑さではなく、気温の低下を伴う雨だとも。
俺は学校が終わると、甲斐と西岡の誘いを断って家に帰った。
雨は叩きつけるように降りしきり、夜になっても止む気配を見せなかった。陽が落ちるとともに、最近の悩みの種だった蒸し暑さは急に影を潜め、塾から帰宅した妹は「寒い!」を連呼して真っ先に風呂に飛び込んだ。
「もう夏だよ? なのに何この肌寒さ。ありえない、信じらんない! 秋の夜じゃないんだよ、今! 夏よ、夏だっつーの!」
熱い風呂に入ってひと息ついたらしい妹は、怒ったように息巻いた。母は母で、暖房を入れるべきかどうか悩んでいるらしい。
梅雨はこんなに寒い雨も降らしただろうか。毎年訪れる風物詩ではあるが、雨の詳細などいちいち記憶していない俺は首を傾げた。
そして、不意にある疑念に駆られた。
こんな激しく冷たい雨の夜も、有里沙はあの教会の裏庭にいるのだろうか。雨脚の衰えない空を見つめながら、一人じっと佇んでいるのだろうか。
そんなはずはないと一瞬は思った。あまりにも雨が激しすぎる。気温も低く、見通しも悪いこんな日に外出したら、いかにも虚弱そうな有里沙は、風邪を引いてしまうこと間違いなしだ。理性に従うなら、さすがにそんな真似はしないはずだ。
しかし、理性よりも想いが勝ったらどうなるだろう。こんな夜でも、彼女はあの教会に赴くのではないか。
そう思うと、いてもたってもいられなくなった。俺は母に、コンビニに行くとだけ告げると家を出た。
傘を突き破らんばかりの雨粒に急かされるように、俺は駆け足で教会へと向かう。
教会へ着くまでの道すがら、誰ともすれ違わなかった。こんな夜に出歩くのは、誰だって億劫だし嫌なはずだ。
正直なところ、杞憂で終わってほしかった。杞憂だと信じていた。単なる思い過ごしだったじゃないかと、自分で自分を嗤うことになるほうがよほどましだと思った。
雨でびしょ濡れになった回廊を走って裏庭に着くと、東屋の中に細い人影が見えた。サーモンピンクのストールが、薄い街灯の光を受けて夜闇に鈍く浮かび上がる。そこには眠るように目を閉じた有里沙がいた。
俺は青ざめ、慌てて東屋に入って有里沙の肩を揺さぶった。
「有里沙さん!」
何度か肩を揺さぶると、有里沙はゆるりと目を開いた。そして驚いた瞳で俺を見つめる。
俺はほっと気が緩み、脱力してその場に座り込んだ。
「佐川君……どうしたの?」
「それは、俺が訊きたいです」
俺は砕けた膝を立て直し、有里沙の隣に座ると大きく息を吐き出す。そして若干だけ叱責の響きを含めて、
「こんな夜に、何してるんですか」
「何って……」
「こんなに雨が激しいのに。それでなくとも、今日は冷たい雨なのに。昼間はまだいいとしても、夜は気温が下がってる上に、まだ雨も止んでないのに、こんな場所にいたら風邪引くでしょう」
俺はようやく冷静さを取り戻して有里沙と向き合った。有里沙は目を瞬かせていたが、やがて一度だけ咳をした。
「ほら、風邪の前兆です。早く帰ったほうがいいですよ」
「……もしかして、心配して来てくれたの?」
「もしかしなくてもそうです。こんな夜に、まさかとは思いましたけど。何で今日ぐらい、やめようとか思わなかったんですか」
「もしかして……怒ってる?」
「怒ってません」
「でも、呆れてるでしょ?」
「呆れてもいません。ただ」
その先を続けようとして、俺は思わず口を噤む。有里沙は不思議そうに首を傾げた。
思い留まらなければ、感情に任せて全部ぶちまけてしまうところだった。待ち人は死んでしまったから二度と来ない。それを知った上で、こんなことをしているのか。やり場のない感情に駆られ、口走ってしまいそうになるのをすんでのところで自制した。
言うのは簡単だ。しかし、傷つけてしまうのが怖い。それが二度と修復できない傷になり、彼女に嫌われてしまうのがさらに怖い。
俺は早鐘を打っていた鼓動を落ち着け、俯く有里沙を励ますように言う。
「心配したんです。もしかしたらこんな夜も、ここに来てるんじゃないかって。天気予報が言っていました。これから二、三日激しい雨が続いて、今晩はさらに激しくなって冷え込むだろうって。ここのところ蒸し暑い雨ばっかでしたけど、今日はそうじゃないんです。だから帰りましょう。風邪を引いたらいけない。俺、送りますから」
俺は精一杯の笑顔を浮かべて、有里沙に手を差し出した。しかし、彼女はゆるゆると首を横に振る。
「もう少し、ここにいたいの」
「だめです」
「お願い。もう少しだけ。あと少しだけ、ここにいさせて」
有里沙の言うあと少しが、俺には永遠に思えて仕方がなかった。じりじりとした衝動を抑えようとすると、意味のない苛立ちが湧いてくる。それでも、彼女の嘆願をノーと切り捨てるだけの厳しさと勇気を、俺は持ち合わせていなかった。
有里沙は東屋の外を見つめる。彼女の視線の先で降りしきる雨は、激しいまま大地を濡らし続ける。その音は嫌になるほど鼓膜に響き、時折風に煽られてさらにうるさくなる。
「有里沙さん」
俺が呼ぶと、有里沙は静かに振り向いた。その顔はいつにも増して白く、肌のきめがはっきりと見えそうなほどだった。
「待ち人は、いつ来るんですか?」
そんなつもりはないのに、責めるような響きになった。有里沙は微妙に視線をずらして答えない。その表情に、意味もなく罪悪感に駆られた。
俺は少し沈黙してから、質問を変えてみる。
「どんな人なんですか?」
有里沙は考えるように沈黙し、やがて花のように可憐な微笑を浮かべる。
「とても大切な人」
「大切?」
「ええ。世界で一番大切で、誰よりも愛しい人」
その言葉は歌うように柔らかな響きで、激しい雨音にすぐに溶けて消える。有里沙は雨を見つめながら、
「あの人は、あたしのことを、誰よりも理解してくれたの」
「理解……ですか?」
その台詞は前にも言っていたなと思ったが、あえて指摘はしなかった。
「そう。誰よりも深く、あたしのことを理解してくれた。あたしという人間の存在も、抱えているものも、孤独でさえ。あの人は誰よりも優しくて、あたしの気持ちを全部受け止めてくれて、分かってくれた。優しい人だったわ。そう……まるで雨みたいに」
俺は思わず痛ましくなって目を細めた。
「この地上を包むように、渇きを潤すように染み渡る雨みたいな。優しくて穏やかで、とても温かくて」
「……温かいですか? 雨が」
くだらないことを訊いたと、言った後に思った。しかし有里沙は、そんなことには露も気付かずに、
「ええ、とても。あの人の傍にいると、雨さえ温かいものに思えたの。こんな冷たい、寒くて激しい雨さえも。沁み渡るように優しくて、泣きたくなるくらい」
優しい人だったわ、と有里沙は先程と同じことを呟く。それらの言葉はやはり過去形だった。今愛しているはずなのに、まるで過去の出来事を語るような物言いだった。
有里沙は懐かしむように遠くを見つめる。
「彼はね、お医者さんだったの。いつだったかな……もう四年ぐらい前かな。外に出ていて、喘息の発作を起こしちゃったことがあってね。道端で意識を失くしちゃったの」
俺は驚いた。
「喘息はあたしの持病でね。普通に暮らしていれば、日常生活にさほど支障はないけど、天気が悪かったり、気候の変化があったりすると、時折体調を崩してしまうの。その日も雨だった。今日みたいな、激しくて冷たい雨。大丈夫だと思っていたの。ただの打ち合わせで、歌うわけじゃないから。そう遠くに出掛けるわけじゃないから大丈夫だと。だから薬も吸引機も、何も持たずに出掛けたの」
「……随分、無謀なことをしたんですね」
俺の素直すぎる言葉に、有里沙は薄く苦笑いをした。
「ええ。その時に助けてくれたのが、立花先生だったの。今思うと、あの時先生が助けてくれなかったらあたし、どうなっていたのかしら。想像するとちょっと怖いわ」
それは、どちらの意味を指すのだろう。助けてくれた人が、立花医師ではなかった場合か。それとも、誰にも助けられずに悪化した場合か。何となく前者である気がしたが、俺はあえて訊かなかった。
「あたしはその時のこと、全く覚えてないの。先生が言うには、あの時助けてくれた先生にあたしは、『救急車は呼ばないで』って頼んだんだって」
「それはまた随分……」
無茶なお願いですね、と言いかけて口を閉ざした。普通、誰かが道端に倒れている場面に遭遇したら、九割の人間は救急車を呼ぼうとするのではないか。助けたのが医者なら尚更、その判断を下すだろう。
「多分、家に迷惑かけたくなかったんだろうな。先生が言うには、あたしがあんまりにも必死に頼むものだから、根負けしちゃったんだって。それで先生は仕方なく、あたしを自分の家まで運んだの」
「運んだ? あなたを? 自分の家まで?」
俺が思わず訊き返すと、有里沙はふふと笑って頷いた。俺は唖然として言葉を失くした。
立花医師。なんて大胆な人だ。甲斐の話から何となく、絵に描いたような好青年をイメージしていたが、どうやらそれだけの人物ではなかったらしい。優しく穏やかな中に、突飛な一面も持ち合わせていたようだ。
道端で行き倒れた見知らぬ女性を家に連れ込むなど、俺には到底真似できないし、そんな勇気はどこをどう掻き集めたって生まれまい。何より、医者なら本人の意思など無視して、救急車を呼ぶべきではなかったのか。そんな簡単に、病人のわがままを受け入れていいのか。
有里沙は、そんな俺の内心には気付いてないようで、思い出に浸る眼差しで語る。
「目が覚めた時、知らない部屋のベッドで驚いた」
「そりゃそうでしょうね」
尤もだと思いながら相槌を打つが、その時何もなかったのかと尋ねる勇気は皆無だった。
「その時のこと思い出すと、今でも泣きたくなる」
俺はどきりとした。
「とても優しかったから」
心臓がさらに跳ね上がる。俺は笑えないほど狼狽していた。
「優しかったって、その……何がですか?」
訊いてはいけないと思ったが、訊かずにはおれなかった。しかし答えを聞く前に、俺は早くも後悔した。有里沙がとても幸せそうに笑ったからだ。
「とても、優しいことを言ってくれたの。今まで誰にも言われたことのなかった、だけど、誰かにずっと言ってほしかった、優しい言葉。先生がくれたあの言葉で、あたしは救われたの。先生があの時、ああ言ってくれなかったら、あたしは多分、今まで生きてこれなかった」
深い想いが溢れた言葉に胸を衝かれる。それまで渦巻いていた浅ましい想像とやきもきした気持ちが、一瞬でどこか遠くへ吹き飛んで消えた。
有里沙は懐かしむような、慈しむような眼差しで雨を眺めながら、
「会いたいなあ」
「……え?」
夢見るような響きに、俺は思わず間抜けな言葉を返してしまう。有里沙は花が咲いたような笑みをたたえながら、
「会いたいなあ。先生に。会いたいなあ。会いに、いきたいなあ」
「……有里沙さん」
彼女が呟いた言葉に、俺は無意識のうちにぞっと胸が冷えた。
「だって、愛しているんだもの。今もずっと、愛しくてたまらないの。先生はあたしの全てだから。今も昔も、これからもずっと、先生はあたしの全てなの」
その言葉は美しい幸福に満ちて、それでいて心を引き裂かんばかりの痛みを伴っていた。俺は有里沙にかける言葉が見つからず、ただその横顔を見つめることしかできなかった。
「会いたいなあ。先生、会いにいきたいなあ。……会いに、来てくれたなら」
そう言って有里沙はもう一度咳き込んだ。
俺は頭が真っ白になって、ただひたすら黙り込んだ。
有里沙の心の中には、死んだ立花医師が今も住み続けている。その想いの深さは、俺の想像の範疇を遥かに超えていて、どう転んだって太刀打ちできない。彼女の心は今も立花医師のもので、その想いが彼女を今も生かしている。
その様を目の当たりにして、俺に言えることなど何もなかった。現に今も、有里沙の眼差しは俺に向いていない。雨も空も通り越した彼方に、視界を遥かに越えた果てしないところに向けられているのだ。
絶望のような、諦観のような、暗澹とした気持ちが俺の心を満たした。
有里沙は何度かまた咳き込む。回数を重ねるごとにそれは激しくなっていき、彼女が体を曲げて咳をしているのを見て、俺はようやくその異変に気付いた。
「有里沙さん、どうしました」
体を九の字に曲げた有里沙は、何度も咳き込んで答えない。それも、ただの咳ではなかった。ぜいぜいと喉を鳴らすような喘ぎが混じり、だんだん激しくなって止まらない。
俺はざっと青ざめた。喘息だ。有里沙は喘息の発作を起こしているのだ。
「有里沙さん、大丈夫ですか! しっかりしてください!」
今にも崩れそうな彼女の肩を抱いて、俺は必死に呼びかけた。しかし、有里沙は苦しげに咳き込み続けるだけで答えてくれない。
どうすればいいのか。俺はひどく途方に暮れた。周りには人気がないどころか、人っ子一人いないのだ。誰にも助けを求められない。
救急車を呼ぶしかない。たとえ有里沙が嫌がっても、それしか今は術がない。
そう思ってポケットから携帯を出そうとした時、有里沙のポシェットが点滅しているのが見えた。
色とりどりに点滅するそれの正体をすぐに見破った俺は、慌ててポシェットを探って携帯電話を掴んだ。
俺は考えるよりも先に通話ボタンを押して耳に当てる。
〈あ、有里沙? あたしだけど、今どこにいるの?〉
若い女性の声だった。彼女を呼び捨てにしているから、親しい人なのだろう。俺はなりふり構わずに叫んだ。
「すいません! 怪しい者じゃないです! 事情は後で説明しますんで、とにかく早く三丁目の教会まで来てください! 有里沙さんが、喘息の発作を起こしてるんです!」
俺の言葉に電話の相手は驚いたようだったが、すぐに車を飛ばしてこちらに来ると言ってくれた。
俺は電話を切ると、携帯を有里沙のポシェットに戻して、これからどうするかを必死に考える。
有里沙は苦しげに咳をしながら、俺の腕の中でぐったりと青ざめている。雨は先程よりもさらに激しくなって、湿気をたっぷり含みながらも肌寒い。こんな中に有里沙を置いておくと、喘息の悪化は勿論だが、肺炎も起こしかねない。
俺は有里沙を抱き上げると、東屋を素早く飛び出して回廊へと移動した。聖堂の扉は思ったよりも重く、有里沙を横抱きにしている今は、開けづらいことこの上ない。しかし、彼女を外気に晒し続けるよりは、遥かにましなはずだと思った。
聖堂はがらんとしていて真っ暗だった。灯り一つない暗闇は、本来神聖であるはずの場所を、言い知れない不気味さで支配している。
俺は一番後ろの列の椅子に有里沙を座らせ、その肩に自分が着ていたジャケットを羽織らせた。そして、崩れ落ちないように肩を抱いて迎えを待つ。
有里沙は苦しげに咳を繰り返しており、意識は混濁しているようだ。その頬は冷たく、闇の中でも血色の悪さが窺える。
十分ほど経って、教会の前に車が止まる気配がした。俺は有里沙を横抱きにすると、慌てて聖堂を飛び出す。
扉の前で、長身の女性が傘を差して待っていた。
「電話に出たのは君?」
女性の問いに、俺はこくこくと頷く。
「オーケー。じゃあ、君も乗って。アパートまで飛ばすから」
「いや、そんな。俺はいいです。それよりも有里沙さんを」
「そう。有里沙を運ぶのを手伝ってほしいの。この子、恐ろしく軽いけど、女のあたしじゃ持ち上げられないもの。さあ、早く乗って」
女性に急かされるまま、俺は有里沙を抱いて車に乗った。運転席に乗った女性はシートベルトもせずに、アクセルを思い切り踏んで勢いよく発進させる。
「あたしはこの子の姉の
「佐川亮輔です。三丁目に住んでて、その……えっと、突然有里沙さんが咳をし出して、だんだん苦しそうになって」
「多分っていうか、十中八九、喘息の発作ね。天気が悪くなったり、気圧や気温が変化したりするとよくなるのよ。季節の変わり目とか、台風の時とか」
「彼女から聞きました。でもまさか、今なるなんて」
「あたしの予感が当たったわね。今日もこんなことになってるんじゃないかと思って、空港に着いてすぐ、こっちに寄ったのよ。ああ、よかった。思い過ごしじゃなくて。佐川君もごめんなさいね。こんな時間に付き合わせちゃって」
悪いけどもう少し辛抱してね、と付け足すと、亜希子は文字どおり車を飛ばして住宅街を駆け抜けた。
こんなに急いだら事故を起こすのではないか。もしくは、警察にスピード違反で捕まるのではないか。そんなことを思ってはらはらする余裕もなかった。俺は、自分の腕の中で浅い呼吸を繰り返す有里沙に、ただただ心臓が縮む思いだった。
五分とかからないうちに、車は有里沙のアパートに到着した。恐らく亜希子が猛スピードで飛ばしたからだろう。
俺は亜希子に言われるまま、有里沙を寝室のベッドまで運んだ。
「とりあえず落ち着かせるから、悪いけど君は居間で待っていてくれない?」
「あ、はい」
そう言うと亜希子は寝室に入り、ぱたんと扉を閉めた。俺はどうしていいのか分からずしばらく立っていたが、そうしていても仕方がないことに気付いて、とりあえず二人掛けのソファに腰掛ける。そして、ぐるりと部屋を見渡した。
二階建ての洒落たアパートだった。一階の東端の部屋で、間取りは一LDKだ。一人暮らしの女性が住むには、ちょうどいい広さなのかもしれない。
シンプルな装飾の居間はすっきりと片付いており、目立つ家具はソファやガラステーブルぐらいだ。目の前のガラステーブルには、赤ペンで書き込みが入った楽譜が広げられている。窓際に置かれたピンクのガーベラの花瓶は、近付いて見てみると造花だった。
俺はソファに座り直し、はらはらする心を落ち着けようと、ここで生活する有里沙を想像してみた。朝昼晩と食事を摂り、家事をしたりテレビを観たり、本を読んだり音楽を聴いたりする有里沙の姿を、脳裏に描こうと努力した。
しかし、何一つ思い浮かべることができず、俺は大きなため息をついた。想像できないのは、有里沙のことをよく知らないせいか、喘息を起こして苦しむ彼女が心配でならないせいか。それすらも今の俺には分からなかった。
三十分ほど経ってから、ようやく亜希子が有里沙の寝室から出てきた。ただひたすら案じていた俺は、弾かれたように立ち上がる。
「あ、あの、有里沙さんは」
「大丈夫。落ち着いたわ。思ったより軽めの発作で済んだみたい」
「病院とか」
「明日あたしが連れていくわ。とりあえず今晩は寝かせておくことにする。あたしも心配だから今日泊まるし。ああ、パパとママに連絡しなきゃ。佐川君だっけ? 本当にごめんなさいね。驚かせてしまって」
まくし立てるように語る亜希子に気圧されつつ、俺はぶるぶると首を横に振った。
「いえいえ、そんな。俺は何もしてないっす。それより、有里沙さんが何ともないみたいでよかった」
「びっくりしたでしょ?」
「そりゃあまあ」
「ごめんなさいね。でも、もう大丈夫だから。こんな時間だし、家まで送るわ」
「いえいえ、いいっす。自分で帰れます。近所だし、買物とかでこの道も通ったことあるし」
「でも」
「傘もありますし、大丈夫ですよ。気にしないでください。それよりも、有里沙さんの傍にいてあげてください」
「そう。分かった。じゃあ、携帯番号教えて」
「は?」
「治ったら有里沙に連絡させるから。あ、それともあの子、君の連絡先知ってるの?」
「いや……」
「じゃあ交換しましょ。赤外線使える?」
そう言って、亜希子は有里沙の携帯電話を、まるで自分のもののように操作した。俺も慌てて自分の携帯電話を操作し、マイデータを赤外線通信で交換する。俺は送られてきた有里沙の連絡先を、とりあえずグループ設定なしで登録した。
これ以上長居するのも悪いと思って、俺はそそくさと有里沙の部屋を辞去した。玄関まで見送ってくれた亜希子に何度も頭を下げ、豪雨の中を走るようにして自宅へ戻る。
何かを考えるだけの余裕がなかった。家に帰って自分の部屋に入った時、頭を埋め尽くしていた緊張が一瞬で消え去り、代わりに重い疲労感がどっと押し寄せてきた。
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