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 六月に入って初めての木曜日、ここ一帯の地域が梅雨入りした。

 有里沙と出会った夜の翌日から何日かは、晴れと曇りを繰り返していた。しかし、今日になって天気は大きく崩れた。目を覚ますと土砂降りの雨で、朝のニュースが梅雨入りを伝えていた。俺は傘を差して、普段よりも十五分早く家を出た。

 あれから毎晩、俺は教会に通っていた。学校が終わると、滅多に行かない近所の図書館へ行き、明日までの宿題を済ませる、もしくは、明日の予習をするという名目を作って、閉館時間の八時まで居座る。そして帰りに教会に寄っては、裏庭に有里沙の姿がないか確かめていた。彼女は雨の日にしか教会に来ないようなことを言っていたが、もしかしたら、雨でない日も来ているかもしれない。そのチャンスを逃したくなかった。

 家族や友人に、普段と違う行動を気にされることはなかった。本当に気付いていないのか、気付いていても言わないだけなのかは分からない。そんなことを頭の隅で思いながら、俺は毎日教会に足を運んでいた。しかし、いつ行っても有里沙はいなかった。聖堂の中にも裏庭にも、その姿は見当たらなかった。

 どうやら本当に、雨の日にしか来ないのかもしれないと思い始めた今日、俺の内心に呼応するように雨が降った。

 毎年うんざりする梅雨も、今年はなぜか違った。雨が降れば有里沙に会える。逆を言えば、雨の日でないと有里沙には会えない。鬱々と降る雨に、生まれて初めて心が弾んだ。

 そんな物思いに耽りながら、俺は教室でずっと窓の外を眺め続けていた。月に一回の席替えで、後ろから二番目の窓際の席になった途端、外にぼんやり目をやってはため息を繰り返す。

 不意にごつんと頭を叩かれ、我に返って振り向いた。机の端に腰掛けた西岡が、にやにやしながらこちらを見ている。

「……何?」

「なーにが、『何?』だよ。ぼさっとしやがって、こんにゃろー。ちったあ痛がってみろよ」

 ぽかんと口を開けていた俺は、頭を小突いたのが西岡だったことをようやく認識する。

「……ああ、何だ。西岡か。驚かせるなよ」

「驚かせるなだあ? ちっとも驚いてねえじゃねえか。こんにゃろうめ」

 西岡は両の拳を、俺のこめかみの両脇にぐりぐりと押しつける。

「あいてててて、やめろよこら」

「ようやく正気に戻ったか、この腑抜けが。次、英単語テストだぞ。十問中、六問正解しないと居残りだぞ。分かってんのか」

「西岡、それぐらいにしてやれ。亮輔の頭から、覚えたばかりの英単語が飛んでっちまう」

 二人の様子をすぐ側で眺めていた甲斐が、くつくつと笑いながら仲裁に入った。俺は西岡の両手を振り払うと、じんじんと痛むこめかみを右手で押さえる。

 甲斐は顔から笑みを拭い去ると、

「随分ぼうっとしてたな。俺たちが来たことに気付いてた?」

「全然」

「その様子じゃ、テスト対策も全然してないな。休み時間、あと五分もしないうちに終わっちまうぞ」

「ご明察。でも俺、予習なら昨日のうちに済ませたから若干余裕」

 俺は適当に応酬すると、窓からようやく視線を離した。

「俺たち、さっきからここにいたぞ。なのにお前、俺が机に座ったって見向きもしねえ」

 西岡は俺の机に深く腰掛け、広げていたノートや教科書を尻に敷く。

「お前、どけよ。くしゃくしゃになるだろ」

 俺の抗議をにやにやと受け流した西岡は、いきなりずいと覗き込んで、

「亮輔。お前、何かあったろ?」

「は?」

「俺たちが来たのにも気付かずに、ずーっと外ばっか眺めやがって。雨降りのグラウンドに可愛い女子でもいるのか? え?」

 じりじり迫ってくる西岡の顎を、俺はぐいと押し返す。

「何だよお前、俺たちに言えない秘密でもあんのか? あーっ、さては今週のジャンプ捨てたな? 俺まだ読んでないんだぞ!」

「違うって。ジャンプの順番は確か木谷だから、あいつか、次の奴が持ってるはず」

「じゃあ何だよ。ぼけーっとした顔で、じーっと外ばっか見やがって。んでもって、時々にやにやしながら」

「ばか言うな。にやにやなんてしてないぞ」

「いや、してたぞ」

 言い合う二人を面白そうに眺めていた甲斐が口を挟み、

「にやにやとまでは言わないけど、時々目元と口元が緩んでた」

 絶句する俺に、甲斐はにやりと笑った。何と返せばいいか分からず、西岡から目を逸らして黙り込む。西岡はなおも俺の目を覗き込んでくるが、俺は即座に顔を背けた。

「もしかして恋でもした?」

 俺はぎょっと甲斐を見た。何気なく問うた張本人は、的を射てしまったことに少し驚いた顔になる。対して目の前の西岡は、「何ーっ」と大声を上げて俺の肩を鷲掴みにし、勢いをつけて激しく揺さぶってきた。

「マジかよ。マジなのか亮輔。ほら、何とか言え!」

「へえ……意外。冗談のつもりで言ったんだけど」

 言われた本人よりも激しく動揺している西岡と対照的に、甲斐は驚いてはいるが冷静だった。揺さぶられ続けて若干目が回った俺は、無言で西岡を乱暴に突き放す。

 その時、授業開始を告げるチャイムが鳴った。クラスメイトたちがばたばたと自席に戻る中、口惜しそうな西岡が俺の額を指で弾く。

「今日の帰り、マックでたっぷり聞いてやる」

「えっ、マジかよ」

「マジだっつーの! 逃げんなよ」

 そう言って、西岡は小走りで自席へ戻っていく。憮然とした俺を見下ろす甲斐は、実に愉快そうな顔をしていた。

「……甲斐。てめえ、何が言いたい」

 俺が柄にもなく凄んでみても、甲斐はどこ吹く風といった顔で右手を挙げて、俺より二つ前の自席に戻っていく。

「まあ、俺も気になるし、面白そうだし。そういうわけで放課後、逃げんなよ」

 愉しそうな甲斐を、俺はむっと睨みつけてからため息をつく。そして授業が始まると、俺はまた窓の外を見ていた。

 その宣言どおり、放課後になると俺は二人に両脇を挟まれて、学校近くのマクドナルドへ連行された。掃除当番をさぼって逃げようとしたところ、下駄箱でまんまと捕まったのだ。俺は仕方なく従うしかなかった。

 学校帰りの学生でごった返すマクドナルドで、奇跡的に二階窓際のカウンター席を見つけた俺たちは、そこを陣取ってから注文に行った。

 各々の注文の品がテーブルに揃うと、バーガーに食いつくよりも先に西岡が、

「んで、いったい誰に惚れたんだ? 亮輔」

 俺は思わず、口に含んだコーラを吹き出しかけた。甲斐はポテトをつまみながら便乗し、

「俺も気になる」

「だよな!」

「あれだけ恋愛は面倒だ、興味ないしやる気ないと言い続けてた亮輔が」

「そうそう、みんな思うことは一緒。んで誰? 何組の子?」

 西岡はいそいそと訊いてくる。捕まった瞬間に覚悟を決めたつもりだったが、どうやらまだ甘かったらしい。

 どこからどう話すべきか、考えてもうまくまとまらないので、とりあえず投げられた問いを一つずつ片付けていくことにする。

「いや、うちの学校の子じゃないよ。……つーか、まず高校生じゃないし」

「え、じゃあ誰?」

 よほど意外だったのか、西岡が随分頓狂な声を上げる。甲斐は思慮深い顔をしながら、

「高校生じゃないってことは中学生? それとも小学」

「あほか! それじゃ犯罪だろうが」

 言葉を叩き折るように、西岡がすかさず甲斐の頭を引っぱたく。二人の間に挟まれた俺は、チーズバーガーを齧りながら、何とも言えない顔をするしかなかった。

「中学生でも小学生でも、大学生でもないよ。社会人。俺より七歳年上」

「年上ぇ?」

 西岡が仰天した声を上げ、甲斐は目を丸くする。西岡はともかく、クールな甲斐がこんな表情を見せるのは珍しい。二人とも、よほど度肝を抜かれたとみえる。俺はいたたまれなくなって、

「……そんなに驚くなよ。肩身が狭くなるだろ」

 驚きすぎて固まっている西岡を見やり、甲斐は我に返ったように瞬きを繰り返す。

「いや、悪い。あんまり意外だったもんだから、つい」

「ついってお前、そんな反応をされたこっちの身にもなれよ。気まずいだろうが」

「別に他意はないよ。ただ純粋に驚いただけさ。てっきり、うちの高校の誰かに告白されて、付き合うことになったとばかり思ってたから。もしくは西中の子かなとか思ってたけど、さすがに年上は想定外で。いやあ、マジ驚いた。ここまでびっくりしたの、久しぶりかも。そっかあ、年上かあ。その手があったなあ。……おい西岡、お前もそれぐらいにしておけよ。亮輔、そろそろ怒るぞ」

 甲斐は言いたい放題の感想を述べた後、唖然と固まる西岡を軽く窘める。西岡は慌てて我に返り、何気なさを繕った顔でコーラをごくごく飲むが、すぐに激しく咽る。

 あくまで冷静な甲斐は、目を眇める俺に構わず、また咳き込む西岡を気にする風でもなく言葉を重ねる。

「七つ上ってことは、二十三か四歳ってことだな。いいじゃん。俺たち青臭いガキにはない、大人の女特有の色気と魅力があるよ」

「やめろ。お前が言うと何かやらしい」

「で、どんな人?」

 俺の言葉に構わず、甲斐はあっさりと切り込んでくる。その好奇心が驚くほど薄い響きには、彼の人柄がよく表れていると思った。

「四丁目に住んでる人。音楽関係の仕事をしてるんだって。週何日かは音楽教室で講師やって、時々コンサートとかしてるらしい。教会のチャリコンとか言ってたかな」

「へえ、ご近所さんか。美人?」

「すげー美人。細くて儚げで、優しそうで。思わず見惚れたもん、俺」

 自然に言ったつもりが、とんでもなく恥ずかしいことを口にした気がして、俺はまた誤魔化すようにバーガーに被りついた。

「なるほど。つまり、一目惚れしちゃったわけだ」

 肯定するのすら恥ずかしい俺は、ただ何も言わずにバーガーを頬張り続けた。甲斐はそんな心情などお見通しだろうが、あえて触れずにポテトをつまんでいる。

「でもさー、そんな年上美人とどこで出会ったわけ?」

 チキンナゲットを口に放り込みながら、西岡が不思議そうに訊いてくる。正直に答えるのが面倒だったので、俺はわざとらしく首を傾げてみせた。

「さあ、どこででしょうねー」

「てめえっ、俺に言えないような出会い方したのかよ。友達だろ、俺ら。と、も、だ、ちっ! 素直に話せよこら、出し惜しみすることねえだろ」

「あだだだ、やめろってば。ケチャップのついた手で触るなっつーの!」

 襟首をぎりぎりと締め上げる西岡の手を、俺は必死になって引き剥がそうとする。ぷっと吹き出した甲斐が、笑いながら仲裁に入ってくれた。

「こらこら。やめてやれ、西岡」

 ようやく手を離した西岡は、ぶすっとした顔で俺のポテトを五本ほど掴んで食べる。

「おいっ。てめえ、何で食うんだよ!」

「素直に話さなかった罰だ、こんにゃろうめ!」

 むくれる西岡がおかしくて、俺はつい吹き出してしまった。変な笑いのスイッチが入ってしまい、甲斐と二人で腹が痛くなるまで笑い転げる。不愉快そうにしていた西岡も、堪えきれなくなったのか、最後には一緒に笑っていた。

 ひとしきり笑った後は、三人同時にそれぞれのドリンクを飲む。コーラの爽やかな炭酸が、喉を適度に刺激しながらも潤してくれた。

「でもさあ、俺やっぱ意外だわ。亮輔が年上に惚れるなんて」

「俺も同意見。年下とか同い年なら分かるけど、年上っていうイメージはなかったな」

「一目惚れってのも意外。どっちかって言うといつも受け身態勢で、告白されることはあっても、自分から惚れるってのはなかった気がする」

「だよなー。だって、そんな積極的なイメージないもん」

「一目惚れなんて情熱的な真似、亮輔には想像つかないよな」

「うんうん、分かるそれ」 

 しみじみと言い合う西岡と甲斐に、俺はあえて口を挟まずにいた。

「年上かあ。いくつ差なんだっけ?」

「七つ」

「七つかあ。二つか三つなら分からんでもないけど、七つは離れすぎじゃね? 世代違いすぎて、話合わなさそう」

「十以上離れてるよりましだろ。世の中には、四十歳差カップルだっているんだぜ」

「お前、そのたとえ飛躍しすぎ」

 甲斐の言葉に、西岡は呆れた顔で突っ込む。その後しばらく黙っていた西岡は、やがて困ったような顔つきで首を傾げる。

「いやー、俺が言うのもあれだけどさ、年上はやめといたほうがよくない? 亮輔」

「何で?」

 きょとんとする俺に代わって、甲斐が間髪を入れずに問い返す。西岡はポテトをつまみながら、

「だってさ、年上っていろいろとやりづらそうじゃん? 同い年や年下と違って、変に遠慮するというか、気を遣うというか。価値観違いすぎて、やりづらいと思うんだよな。一つや二つならともかく、七つも離れてたら余計に」

 確かにそれはあると思いながら、俺は神妙な顔で頷いた。有里沙が年上だと知った時にまず思ったのは、ため口を聞いてはいけないということだった。相手が年上だと、年下の身としては良くも悪くも構えてしまう。同級生と接するような態度で話しかけることが、無意識のうちに憚られるのだ。

 黙り込んだままポテトを頬張る俺をちらりと見て、甲斐が西岡に問い返す。

「やりづらいって何が?」

「は?」

「七つも離れた年上だと、何がどうやりづらいの?」

 単純な響きで投げかけられた言葉に、西岡はきょとんと目を丸くする。

「そりゃあお前、いろいろあるだろうが。話題だったり趣味だったり、それに……あーっ!」

 西岡は声を上げると、甲斐に手を伸ばしてその襟首を掴んだ。目の前を腕が大きく横切ったので、俺は反射的に体を後方へ反らす。

「お前ってやつは、またそっちに話を繋げやがって! 俺は亮輔を心配して、真面目に話してるんだっつーの! それをおちょくりやがって、この色ぼけ! むっつりすけべ!」

 襟首をぐいぐい引っ張りながら叫ぶ西岡に、甲斐はされるままになっている。俺は慌てて西岡を甲斐から引き剥がし、深く大きくため息をついた。

 西岡はむすっとした顔で甲斐を睨み、肩をふるふると上下させている。だが、当の甲斐は全く気にすることなく、

「まあ、いいんじゃない? 何事も年上だからって切り捨ててたら、人間関係進歩しないよ。年上との恋愛だって案外面白いかもしれないぞ。いろいろ教えてもらえるわけだし」

「甲斐、お前が言うとやらしいからやめろ」

 西岡の鋭い突っ込みも、甲斐はふっと軽く笑い飛ばした。西岡はしばし不機嫌そうにしていたが、ふと思いついたように、

「そういや、その年上美人、名前何ていうの? ここらに住んでるんだろ?」 

 ポテトもバーガーも食べ終わった俺は、半分ぐらい残ったコーラのカップを手にして、

「ああ、有里沙さんだよ。倉本有里沙さん」

 俺が答えると、甲斐はとある旋律に乗せて軽やかに口ずさむ。

「倉本さん家の有里沙ちゃん」

「何の茶化しだよ、それ。てか、年上にちゃん付けってどうなの」

 西岡が呆れ顔で突っ込む。しかし次の瞬間、甲斐は表情を変えて黙り込んだ。それは、彼が考え事を始めた時によく見せる顔だった。

「甲斐、どうかしたか?」

 俺の問いかけで甲斐ははっと我に返るが、またすぐ黙考に戻る。俺と西岡は顔を見合わせた。

 俺たちの視線を受けて、沈黙していた甲斐がゆっくりと話し出した。

「いや、その名前……倉本有里沙って名前が、何かちょっと引っ掛かって。どこかで聞いたことあるような」

「え、知り合い?」

「いいや、違う」

「どこかって、どこ?」

 俺と西岡は畳み掛けるように訊くが、甲斐は肘を突いて思慮深い眼差しをしたまま、

「それが、なかなか思い出せなくて……。どこだったっけなあ」

「音楽関係じゃないのか? ほら、さっき亮輔が、その人コンサートとかもしてるって言ってたじゃん」

「いや、それも違う。音楽の仕事してるってのはさっき初めて知ったし、第一俺、コンサートとかほとんど行かない。そうじゃなくて、何ていうか……別のことだと思うんだ。……ああ、悪い。浮かんでこないや。また思い出したら言うよ」

 甲斐は心底悔しそうな顔で言う。宙ぶらりんな感覚が歯痒いのだろう。

 しかし、甲斐の言葉は、俺の心にも妙な引っ掛かりを残すことになった。二人の繋がりが想像つかなくて、言葉にしがたいもどかしさを感じる。

 その後、三人とも食べ終わったことで、一時間ほどで店を出ることになった。店先で別れてから一人、夕方の喧騒の中を家路に向かって歩く。

 降りっぱなしだった雨は、その時は止んでいたが、見上げた空はそこはかとなく沈んだ色で、水底に広がる泥を思わせた。

 その日の夜、雨はまた本降りになった。マクドナルドの後まっすぐ帰宅した俺は、夕飯を食べてからはずっと自室にこもっていた。

 明日の数学の宿題をしたり、英単語テストの勉強などをしていたが、絶え間なく聞こえる雨音がずっと気になって仕方がなかった。耳障りだったわけではない。雨音を聞くとどうしても、有里沙の顔が浮かんでは消えて、勉強に集中できないのだ。

 そうやって手を止めては窓を見、ため息をついてまた手を動かすのを繰り返していた俺は、ついに決心して、数学の教科書とノートを全部閉じて立ち上がった。ジャケットを掴むと部屋の電気を消して、階段を足早に駆け下りる。

 リビングに行くと、母が皿洗いをしていた。俺は中には入らずに、

「母さん。俺、ちょっと出掛けてくる」

「あら、由佳ちゃんはもう帰ってきたわよ」

 振り返ることなく答えた母は、塾に行っている妹を迎えに行くものだと思ったらしい。

「違う。ちょっとコンビニ行ってくるから」

「あらそう。気を付けて行ってらっしゃい。雨なんだし、転ばないようにね」

 俺はそれには答えずに、リビングの扉を閉めて靴を履いた。いくつだと思っているんだと突っ込みたかったが、大人げないと思ってやめた。

 傘を持って外に出たら、雨は思ったよりもひどい降り方をしていた。腕時計を見ると、時刻は十時を廻っている。外には人気がなく、時折車が飛沫を上げて通り過ぎるぐらいだ。

 俺は水溜りや車の飛沫を避けながら、あの古ぼけた教会へと急いだ。コンビニに行くというのは、家族に怪しまれないための嘘だ。

 教会に着いても、雨脚は激しいままだった。前に来た時と同じように、周囲には人影どころか人の気配すらない。

 俺は傘を閉じて回廊を歩き、奥にある裏庭を目指した。湿気に満ちた静けさの中に、雨音が同じ響きをもって降り続ける。

 予想はやっぱり当たっていた。裏庭に出ると、木造の小さな東屋に有里沙がいた。俺は予想が外れなかったことに安堵し、彼女に会えたことに心が躍った。

 しかし次の瞬間、胸が僅かにちくりと痛み、疑問が脳裏に湧き上がる。有里沙が一人だったからだ。

 以前、彼女は人を待っていると言っていた。しかし見たかぎりでは、誰かと会えたわけではなさそうだ。待ち人はこれから来るのかもしれないが、自分でも意外なほど、その予測は的外れである気がして不思議だった。

 視線に気付いた有里沙の瞳が俺を捉える。有里沙はゆっくりと微笑んだ。

「こんばんは、佐川君」

 俺ははっと我に返る。覚えていてくれたという喜びが、思考回路の全てを支配した。思わず惚けそうになって、慌ててぺこりと頭を下げる。

「こ、こんばんは。すみません、びっくりさせちゃいましたか?」

「いいえ、大丈夫」

 柔らかな響きとともに、有里沙は小さく手招きする。俺はどきりとしながらも、東屋の中に入った。

「今日も来てたんですね」

 俺が言うと、有里沙は頷いた。

「雨だから、何となく……いるんじゃないかと思って」

 会いたかったんです、とは言えなかった。何度か来たけれど会えなくて、とも言えなかった。

 有里沙はふわりと笑う。その笑顔に俺はうっとりした。何度目にしても、彼女の微笑みに必ず目を奪われる。その時生まれる感情は、いつまで経っても新鮮だった。

「最近は本当に、天気が悪い日が続くわね。晴れ間がほとんどなくて、気持ちがちょっと沈んじゃう」

 そう語る有里沙は、言葉とは裏腹に、ちっとも沈んでいなかった。むしろ喜んでいるようにすら見えた。俺はそのことには触れず、何気ない口調で相槌を打つ。

「梅雨ですもんね。今年は例年よりも結構な雨量になるって、天気予報が言ってましたよ」

「これだけ降れば、水不足の心配はないでしょうけど、そろそろ太陽が見たくなってくるよね」

 歌うような響きで、有里沙は言葉を紡ぐ。しかし、その響きは何だか薄っぺらかった。太陽を望むというのは、場を保つための詭弁であるような気がしたのだ。そう感じたのはほんの一瞬だったから、確かな自信などないのだが。

「でも、雨もいいわね。蒸し暑いのは嫌だけど、空気が瑞々しくて、大地も草木も喜んでいる感じ。何より」

 有里沙は東屋の外に顔を向け、闇色の空から降る雨粒を仰ぐ。

「ここでずっと、あの人のことを想っていられる」

 夢見るように呟かれた言葉は、うっとりと響いて空気に溶ける。

 俺はなぜか、胸の奥がずきりと痛むのを自覚した。この言葉こそが、有里沙の本心だと感じたからだ。それは、見惚れるほど美しいのに、目を逸らしたいぐらいの痛みを孕んでいる。

「佐川君は、雨は好き?」

 この上なく純粋な響きに、俺は思わずどきまぎした。

「嫌いではない……ですけど、やっぱ晴れのほうがいいかな。明るいほうが落ち着くというか。雨ってじめじめしてて、梅雨の時期とか特に、蒸し暑くなるじゃないですか」

「そうね。あたしも、晴れも勿論好きだけど、でもやっぱり、雨も好きだわ」

 そう言って有里沙は淡く微笑む。一見どちらも肯定しているようだが、明らかに雨のほうに軍配が上がったニュアンスだと感じた。

「有里沙さんは、雨の何が好きなんですか?」

 否定的な響きにならないよう、細心の注意を払いながら尋ねてみた。有里沙は一瞬考え込むように沈黙し、漆黒の瞳を降りしきる雨に向けた。

「全部かな」

「全部?」

「窓ガラスについた雨粒も、暗闇の中で、車のライトに照らされて初めて露わになる姿も、歌うように降り続ける雨音も、全部。それらのどれもが美しいと思うし、愛おしく感じるの。だから正直、晴れの日よりも、雨ほうが気持ちが弾む」

「湿気とか嫌になりませんか? 出掛けるのが億劫になったり、服が濡れるの面倒だなあと思ったりとか。今の時期、暑さもプラスされちゃうわけだし」

「確かにそういうのもあるけど、でも、考えようによっては、それも雨の日にだけ味わえる楽しさの一つよね」

「なるほど」

 繊細そうな雰囲気とは裏腹に、ポジティブシンキングな一面もあるらしい。好きだからこそそう思えるのだろうと、俺は内心首を傾げながらも納得しようとした。

 学生の俺からすれば、雨降りで気持ちが弾む事柄を思いつくほうが難しい。しいて挙げるとすれば、体育の場所が運動場から体育館に変更になることと、放課後恒例の全校清掃で、屋外担当班が自動的にお役御免になることぐらいだ。それらがなければ、雨天なんて言葉は聞くだけでうんざりするし、陰鬱と面倒しか残らない気がする。有里沙には申し訳ないが、どうやら俺は雨に対して寛大にはなれないらしい。

 有里沙は、そんな俺の内心には露も気付いていないとみた。口元を穏やかに綻ばせ、黒い空から降り続ける雨を見ている。延々と同じ景色なのに、よく飽きないものだ。

「雨の日って、青の色がいつもより際立つと思わない?」

「青……ですか?」

「そう。雨にも色があるのよ」

 唐突な言葉の意味を計りかねて、俺は返答に窮した。

「青にもいろんな種類があるけど、あたしは草冠に倉って書く蒼が一番近いと思うな。普通の青よりも深みがある感じ」

「はあ。雨に色……ですか」

 俺は降りしきる雨に目を向ける。空から絶えず落ちてくる、ビーズよりもさらに小さい水滴は、どれだけ目を凝らしてみても無色透明で、一秒につき億以上は降るだろうそれらは皆、同じ色と形をしていた。少なくとも視覚的には、どう転んでも蒼ではない。

 それよりもまず、そんなことを思い巡らせたことすら今までなかった。雨に色などあるのかというのが正直な感想である。

 難しい顔で黙り込む俺を見て、有里沙はふふと笑いながら言い添える。

「実を言うと、受け売りなんだけどね、この話は。あたしもね、その人に言われて初めて気が付いたの」

「そうなんですか?」

 俺は驚いた。てっきり、有里沙自身の考えなのだと思っていた。

「あたしもね、ずっと前までは、雨が苦手だったの。じめじめして濡れるのは勿論だけど、雨の日はどうしても体調を崩しがちになるから。でもね、その人は言ったの。『鬱々と降りしきる雨にも、海や空と同じ色があると思えば綺麗じゃないか?』って」

「海や空と同じ……」

 俺はその言葉を反芻した。有里沙は深く頷いて、

「なるほどって思わない?」

「雨は蒼の色をしてるってことですか?」

「ええ。だって、雨は空から降ってくるでしょう? 空は青い色をしているし、雨が流れ込む海だって青いわ。それに、この地球そのものが青い色をしているじゃない。だから、空から生まれて、海へと還っていく雨も同じ色をしていると思えば、何となく、ああそうかって分かる気がするの。青から生まれたものは、青へと変わって、やがてまた青へと還っていく。それがこの星のリズムなのよ。それを心で感じたら、雨はもう蒼い色をしているの。……なーんて、全部受け売りなんだけどね」

 そう言って、有里沙は悪戯っぽく笑う。彼女の言葉はとても真摯で、それが紛うことなき真実だと信じているようだった。その純粋さが何だか眩しい。

「何だか随分、詩的な話ですよね」

 かろうじて浮かんだ感想をそのまま告げると、有里沙はとても嬉しそうな顔をした。

「でも、素敵でしょう? 美しさに満ちていて」

 俺は曖昧な表情で首を傾げた。美意識や詩情豊かさといったものを、欠片も持ち合わせていない俺は、どう返していいのか分からなくなっていた。この話がこれ以上続くのはつらい気がして、

「そういえば、待ち人の方とは、あれから出会えましたか?」

 俺の問いが終わるよりも早く、有里沙の表情が一瞬止まった。

「会えましたか? 前に、ここで待ってるって言ってた人と」

 有里沙は息を詰めて瞠目する。それまであったにこやかさが、引き潮のように消えていった。俺は一拍遅れて、その意味にようやく気付く。

「……まだ、会えていないんですか?」

 有里沙は微笑のない曖昧な顔をするだけで、明確な答えを示そうとしない。

「連絡、取れないんですか? その人と」

 有里沙はついに黙り込んだ。薄紅色をしたきめ細やかな頬から、すうっと色が失せていく。彼女は沈黙したまま、相槌も返答もなく、視線だけを雨空に漂わせた。

 俺は怪訝に思いながらも、それ以上問うのはなぜか憚られた。雨を見上げる有里沙の顔が、あまりにも悲しげに見えたからだ。

「いつ頃来られるんですか?」

 追及するのはよくないと思いながらも、訊かずにはおれない自分がいた。その言葉で有里沙の表情が一層蒼白になり、俺は初めて己の失態に気付いて激しく後悔した。

 有里沙はゆっくりと視線を泳がせながら、消え入りそうな声でようやっと口を開く。

「いつになるかは分からないけれど……でも、いつかきっと会えるわ。今はまだ会えなくても、あたしはそう信じているの」

 歌うように柔らかく、それでいて泣いているような痛切さを帯びた呟きだった。

 その後流れた沈黙は、そこはかとなく重く長いものだった。俺は内心ひどく狼狽し、どうしていいのか分からず途方に暮れる。それを口にすれば、今度こそ有里沙は何も語ってくれなくなる気がして、結局何も言えないまま時は流れた。

 雨音だけが満ちる沈黙の中、有里沙は止まない雨に、静かな眼差しを向けている。ただの趣味というだけで眺めているわけではない。彼女が雨とこの場所を好む理由は、きっと別にあるのだろう。それに気付いた以上、俺はもうその話題を続けることはできなかった。

「有里沙さんって、音楽が好きなんですよね」

 新たな話題を切り出され、有里沙はついと視線を動かして反応する。その表情は、どこかほっとしているように見えた。勘がいいのか悪いのか、俺はそれを見逃さなかった。

 俺はそれまでの空気を払拭させようと、努めて明るく軽い口調で重ねる。

「普段どんな音楽を聴くんですか?」

 僅かに首を傾げて目を瞬かせていた有里沙は、先程までの憂いの色を消し去って、引き結んでいた口元をふっと緩めた。

「主にクラシックよ。あとはイージーリスニングとか。インストゥメンタルが多いわね」

「今どきの邦楽とかは聴かないんですか?」

「うーん、あんまり聴かないわね。ロックとか、ポップスとか苦手なの。賑やかだから」

 そう言って、彼女は苦笑気味に首を傾げる。

「洋楽だと、ビートルズやカーペンターズの時代のものが好きかな。あとはエンヤとか。派手じゃないものが好きなの。ビートルズも、どちらかというとバラードのほうが好きね」

 なるほどと俺は頷く。今どきの邦楽やロックをよく聴く俺とは畑が違うらしい。派手な音楽を好まないというのは、彼女の性格そのものを表しているように思えた。

「音楽を仕事にしてるのって、何かきっかけがあるんですか?」

 有里沙は沈黙して考え込む。きっかけという言葉に当てはまる出来事を、記憶から探しているようだ。俺は質問を変えてみた。

「音楽……歌を始めたのって、いつ頃だったんですか?」

 有里沙は沈黙する。答えることを嫌がるのではなく、迷っているような仕草だった。

 俺は尋ねたことをすぐに後悔した。また同じ失敗をしてしまった。

 困らせたいわけでは決してない。黙らせてしまうのも本意ではなく、ただ純粋に、有里沙のことを知りたいだけなのだ。

 しかし、彼女は自分のことを語りたがらないタイプらしい。それに気付きながら質問を重ねることが、有里沙の心を傷つけているのではないかと不安に駆られる。

 有里沙をもっと知りたい。だけど傷つけたり、不快な思いを抱かせたくはない。何かうまい言い回しはないものか。

 悶々と悩む俺を見ていた有里沙は、ふっと優しい笑みを浮かべた。

「佐川君は優しいのね」

 俺は虚を衝かれて、咄嗟に返事ができなかった。

「ごめんなさい。あなたのせいではないのよ、佐川君」

 顔を上げると、有里沙はさらに笑みを深くした。

「あなたのせいじゃないの。ただ、あたしが内気すぎるだけ。言葉が下手なの。二十四にもなって恥ずかしいけど、誰かと話すことが未だに慣れなくて。家族にも友達にも、いつもこうなの。だから気を悪くしないで。あなたのせいじゃないの」

 労わるような響きに、俺はようやく気が付いた。有里沙は気遣ってくれているのだ。ありがたさと申し訳なさで胸がいっぱいになり、同時に己の不甲斐なさに打ちのめされる。

「でも、佐川君は話しやすいな。何でだろ。まだ知り合ったばかりなのにね。佐川君が話し上手で、聞き上手だからかな」

 思わず真っ赤になる俺に、有里沙は柔らかい笑みを向けて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「音楽を始めたこと、別に大したきっかけがあったわけじゃないの。でも、気付いたら好きになってた。歌うことが好きで、歌で気持ちを表現するのが好きで。そしたらいつの間にか、歌でなら自分を素直に出せるようになっていたの」

「素直に……ですか?」

「ええ。ピアノも好きよ。最初に始めたのはピアノだったし、歌は姉に勧められて始めたけれど、初めの頃は正直、苦手意識のほうが強かった。でも、中一の時に授業で歌ったら、先生がものすごく褒めてくださって、それで自信がついたの。だけどあたし、本当に人見知りだから、学校でも人付き合いとかが苦手でね。中一の時に入ったコーラス部も、人付き合いに疲れて、すぐに辞めちゃったの。本格的に声楽を習い出したのはその後。部活とかで大勢と一緒っていうのはつらいけど、一人でなら続けられるって思ったから」

 有里沙はどこか照れくさそうに、頬を赤らめながら言葉を紡ぐ。

「大学まで歌を続けて、仕事として歌を続けていこうと思えたのは、いい先生たちに教えていただけたこともあるけれど、単純に好きだったから。何よりも歌が好きで、歌があたしを生かしてくれていると思ったから」

 生かしてくれている。その言葉の深い意味が、俺には分からなかった。

 有里沙は雨を眺める。雨音は一向に変化することなく、周囲は依然濃く暗い湿気に包まれたままだ。

「歌が生きる理由……ですか?」

 俺が尋ねると、有里沙は迷うことなく頷いた。

「だってあたしには、もうそれしか残されてないもの」

 そう言って笑う有里沙の頬には、先程の紅潮はもう残っていない。抜けるように白い肌が、僅かに青白く見えるのは気のせいだろうか。

「それにね、あの人も、言ってくれたの」

「あの人?」

 有里沙は薄く笑うだけで答えない。俺は、その言葉が指すのが誰なのか、一瞬遅れて気付いた。

「有里沙さんがここで待ってる人……ですか?」

 訊いても詮無いことだと分かっていた。案の定、有里沙は薄く笑うだけで答えず、しかし否定もしない。

 有里沙は雨を仰ぎながら、夢見るような表情で呟く。

「あの人は、あたしの歌を褒めてくれたの。誰よりも深く受け止めてくれて、好きだと言ってくれた」

 その言葉はとても幸せそうで、傍から見れば惚気のような響きだった。しかし、俺にはどうしてもそうは聞こえなかった。とても幸福に満ちているが、なぜか痛切な響きを伴って、心の琴線に触れたからだ。

「だからあたしは歌うの。あの人だけのために、歌い続けるの。これからもずっと」

 俺は言葉を返せなかった。言いようのない感情が胸を騒がせる。痛みのようでいて、切なさとも表裏一体になった感情。しかし、それを言葉にすることはできなかった。ましてや有里沙に告げることなど、できるはずもなかった。

 俺は苦い表情で有里沙を見つめていた。何か口にしたいと思っても、勇気がなくて結局は黙り込む。しかし、有里沙は満ち足りた表情で雨を眺めている。

 すると、有里沙がぱんと小さく手を合わせて俺を振り向いた。

「そうだ。佐川君、今度の日曜空いてる?」

「え?」

「今度の日曜日、この教会でチャリティーコンサートをやるの。あたしのソロコンサート。割引のチケットがあるから、よかったら来ない?」

 俺は驚いた。有里沙は名案だと言わんばかりの笑顔で、ポーチから二枚のチケットを出して渡す。俺は受け取って、それを見てみた。

「といっても、ポップスは歌わないの。聖歌がメインなんだけど」

 そう言い添えられたコンサートのチケットは、確かに堅いイメージのあるものだった。

「よかったら、お友達と一緒に。佐川君にもあたしの歌、ぜひ聴いてもらいたいわ」

 その一言が決め手となった。俺は有里沙に何度も礼を言い、必ず観に行くと約束をした。

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