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晴れていようが曇っていようが、俺こと
平日は毎朝六時半に起き、朝食と着替えを済ませると、大体七時半には家を出る。
俺の家は建売住宅の一軒家で、小高い丘を開発してできた新興住宅地の中にある。通っている高校までは、緩やかだがひたすら長い下り坂を徒歩でおよそ三十分、帰りはその倍は感じられる登り坂を、プラス十五分かけて行き来している。
朝から夕方までみっちりと授業を受けた後は、週に二回は友人たちと駅近くのマクドナルドやファミリーレストランで、宿題をしたりひたすら喋ったりしている。曜日に応じて多少の変化があるものの、基本的には似たような日々を送っていた。それは無論、今日とて同じである。
昨日と同じような朝と昼を過ごすと、解放の夕方が待っていた。授業が終わり、掃除も適当に片付けてしまうと、クラスメイトの
「本屋寄ってこうぜ。雑誌の発売日なんだ」
西岡が嬉々とした顔で言う。俺たちは国道沿いの歩道を塞ぐように歩いていた。
「その後はマック?」
「いや、マックはよそう。最近、結構行ってるじゃないか。俺はサイゼリヤでいいや」
適当に打った俺の相槌に、甲斐が気怠そうに異議を唱えた。すると、マクドナルドへ行く気満々だったらしい西岡が、すかさず不満たっぷりに甲斐に食いつく。
「えーっ。マックでいいじゃん、マックで。サイゼ、前ドリンクバーが壊れてたじゃんか」
「ばーか、あれは先週の話だろ。さすがにもう直ってるさ」
「無理やり決めるなよ、甲斐。なあ亮輔、いいだろ?」
「んー、俺も今日はサイゼがいいな。マック、ちょっと飽きたもん」
「ほらみろ西岡、多数決だ」
にやりと笑う甲斐に、西岡が「こんにゃろー!」と掴みかかる。真ん中に挟まれた俺は、「ちょ、やめろよ、ここ歩道だぞ!」と慌てて仲裁に入った。襟首から西岡の手を振り払い、甲斐は実に涼しげな顔で歩く。
俺たちは一時間ほど駅デパートの本屋に寄った後、すぐ近くにあるサイゼリヤに入った。時刻は夕方六時を廻っており、店内も少しずつ賑わいを見せていた。
窓際のボックス席に座り、まずドリンクバーとチキンとポテトを注文する。見慣れたアルバイトの女の子が、機械的な態度で注文を受けると厨房に消えていく。
「なあ亮輔、あのバイトの子、結構可愛くね?」
メロンソーダを片手に、西岡がわくわくしながら言う。彼が指差す先には、レジで客の精算をしているアルバイトの女の子がいた。俺はレモンスカッシュのストローをくるくる玩びながら、
「……さあ。別に何とも思わないけど」
「マジかよ。ちゃんと見ろって。結構可愛いじゃん。小顔で小柄で、程よい茶髪で。俺らより一個年下ぐらい? 可愛いなあ。結構好みかも」
「程よい茶髪って何だよ。基準どこだよ、それ」
うきうきとした西岡に呆れて返すと、窓の外を眺めていた甲斐がふっと笑って口を挟む。
「残念。西岡、あの子彼氏持ち。五組の下島の彼女。確か西中の三年だったはず」
「マジで?」
声を揃えて驚く俺たちに、甲斐はしれっと言ってのける。
「大方、高校生と偽ってバイトしてんじゃねえの。大体見た目からして明らかに中学生じゃん。発育途中というか、幼児体型っていうか。見ろよ、あのまな板みたいな胸」
俺と西岡は呆気にとられて言葉を失う。ふと後方から視線を感じて振り返ると、レジにいる件の女の子が、こちらをきつく睨みつけていた。俺は慌てて目を逸らす。
「な、図星だろ?」
甲斐は素知らぬ顔でチキンをつまむ。俺はため息をついた。
「相変わらず、お前は顔が広いな。男子は勿論だけど、女子に関しては異常に」
「そうか?」
「そうだよ。学年問わず、学校の女子の顔と名前はほとんど覚えてるし、他校の女子にも詳しいじゃん」
「俺、記憶力いいから。あと、俺の意思とは関係なく、無駄にもてるから」
「自分で言うのか」
「だって事実だし。まあ、あのレジの子は、前に校門で下島といちゃついてるとこを、たまたま見たことがあったから覚えてただけ」
「どの口が言いやがる、こいつめ! お前最近もまた告られて、んでもって例のごとく突っぱねてまた泣かしたんだろ!」
いきり立つように割り込んできた西岡は、甲斐の口の両端をぐいぐいと引っ張る。甲斐は「あたた、やめろよ」と抗うが、西岡は「こーのーやーろー」と唸りながら離さない。
「何お前、また告られたの? 今度は誰?」
甲斐は西岡の胸を無理やり突くと、引っ張られた口元を痛そうに撫でる。
「お前っ、俺のシャツに、チキンの油ついた手で触りやがったな! 合服、今はこれしかないんだぞ!」
甲斐はわめく西岡を完全に無視して、
「ああ。一組の河合って子」
「お前、最低! 何で振ったんだよ。あの子、さっきのレジの子より可愛いじゃん」
不機嫌そのものの西岡は、ポテトを瞬く間に一人で食べてしまうと、次にマルゲリータを注文する。甲斐は淡々とした表情で、
「別に。特に理由はないよ。興味が湧かなかった、ただそれだけ」
「お前、その理由で振るの何回目?」
「さあ……この間で十回目かな?」
「自覚あったのか……」
しれっと答える甲斐に、俺はがくりとうなだれた。
西岡は運ばれてきたマルゲリータを、器用な手つきで均等に切り分ける。すると、甲斐が一番先に手をつけた。
「お前! せっかく俺が切ってやったってのに、真っ先に食ってんじゃねえよ!」
怒る西岡を気にすることなく、甲斐はうまそうにピザを頬張る。
「お前らも食えよ。俺、腹減ってるんだ。食わないと、俺が全部食っちまうぞ」
悔しそうに震える西岡を、俺はぽんぽんと肩を叩いて宥めた。
「西岡、お前いちいちまともに相手すんな。甲斐はマイペースなんだ。適当に流してないと疲れるぞ」
「そうそう、俺はマイペースなの。分かったら食えって」
「お前が言うな、お前がー!」
西岡は机をばんばん叩きながら叫ぶ。周囲の客の意味ありげな視線を受けて、俺は慌てて仲裁に入った。
「甲斐。お前、西岡をからかうなよ。お前と違って、こいつはまっすぐなんだから」
「はいはい、どうせ俺は歪んでますよ。……っていう会話にはもう飽きたな」
膨れ面でドリンクバーのおかわりに行く西岡に、俺はレモンスカッシュを頼んだ。甲斐は西岡を全く気にせず、メニューを開いて思案顔だ。
俺はマルゲリータを頬張りながら、
「しかしまあ、お前本当によくもてるな」
何気なしに呟いた言葉に、甲斐は「そうか?」と気のない返事をする。
「でも、俺からみれば、お前ほど女に関心がない奴も珍しいぞ」
「そう?」
甲斐はアイスティーを飲みながら頷いて、
「普通、俺らぐらいの歳だったら、多少なりとも恋愛に興味持つじゃん。西岡ほどいきり立たなくとも、それなりには。だけどお前、女子とか恋愛とかにまるで関心ないし」
「大袈裟な言い方だな。別に関心持たなきゃいけないこともないだろ」
「やっぱあれ? 中三の時のやつが、まだ引っ掛かってるとか?」
俺は思わず言葉に窮した。そこに、戻ってきた西岡が話に入ってくる。
「亮輔の中三っていえばあれだっけ? 俺たちと同じクラスだった町田」
「そう。付き合い出して一ヶ月もしないうちに、『あたし、佐川君といても楽しくないんだよね。佐川君ってば、何言っても盛り上がってくれないし、ときめきとか全然なくて退屈』って言って、お前を振った女子」
「甲斐、お前はっきり言い過ぎ。もう少し俺みたく、オブラートに包んでだな」
さらさらと補足する甲斐に、西岡は呆れた顔で突っ込む。俺は苦々しい顔でレモンスカッシュを口に含んだ。
「ああ、そういえば、そんなこともあったっけ。嫌だなあ、同中の奴ってば、俺の黒歴史全部知ってるんだもん」
「そういえば亮輔、あの時かなり落ち込んでたっけ」
「そりゃ落ち込みもするさ。あっちから告白してきておいて、最後はあっちの都合で勝手に振るんだぜ。やってらんねえよ。俺だってそれなりに努力はしたのに」
「ぶっちゃけ惚れてた?」
「惚れてたって言えるかどうかは置いといても、それなりに感情はあったよ。やっぱ告白されて悪い気はしないし、町田も悪い奴じゃないしさ。でも正直言って、何を求められてるのか分からなかったっていうか。そもそも、あれが恋愛と呼べるだけのものだったかも、今考えてみれば怪しいもんだ」
「まあ、初めて付き合ったのがそれじゃ、後々の恋愛が嫌にもなるよな」
やさぐれる俺を、西岡がフォローしてくれる。甲斐は軽く腕組みをして、
「まあ、気持ちは分からんでもないけど、世の中の女子全員が町田みたいな奴とは限らないだろ。そこにこだわらずに、新しい恋愛してみたっていいんじゃね? お前、何気にもてるんだし」
「ばか言え、甲斐には負けるよ」
「いやいや、事実だって。お前のこと褒める女子って、実は結構いるんだぜ。何なら紹介してやろうか?」
「結構。別にそこまでして、女子と付き合いたいとは思わないし」
「何で? 傷つくのが嫌?」
直球ばかりぶつけてくる甲斐に、俺は言葉に詰まりつつ、少し考えてから答える。
「いや、単に面倒だなって思うだけ。きっかけがあればするだろうけど、自分から動いてまでしようとは思わない。だって、そんなの面倒だろ。相手に振り回されたり、自分を掻き乱されたり。よほどのきっかけがなければ、その気にはならないね」
「淡白だなあ。無気力すぎじゃね? 俺はしたいね、恋愛。ていうか、いつでも大歓迎!」
大袈裟なジェスチャーをつけて言う西岡に、俺は引き攣り笑い浮かべるしかなかった。甲斐はグラスの滴をなぞりながら、
「まあ確かに、楽しいばかりのもんじゃないってのは事実」
「だろ?」
「でも、やってみないと分からないこともあるよ。町田との時には分からなかったことが、新しい恋をしてみて分かるかもしれないし」
冷静な響きで言う甲斐に、西岡がうんうんと何度も頷く。俺は曖昧に笑いながら、
「まあ、気が向けばするだろうけど、今は別にいいかな。それに、今すぐ恋愛しなきゃ死ぬってわけでもないし」
「極論を言うなよ。話が全部終わっちゃうだろ」
西岡が呆れて俺の頭を小突く。そして背伸びをしながら、
「あーあ。何かさ、どっかにいないの? 無気力すぎる亮輔を、一撃で落とすような女は」
「残念ながら、今んとこいないね」
「顔はそれなりだし、性格も問題ないし、その気一つで誰とでもいけるんじゃね?」
「無理。だって、俺自身にその気がないんだから」
「探せよ。日曜の夜に駅前に出て、可愛いと思った子を片っ端からナンパしろよ」
「ばか、補導されるだろ。ただでさえうちの学校、呆れるぐらい校則厳しいんだから」
「ばっきゃろー、校則違反が怖くて恋愛ができるか! いいか、愛は時に障害を越えるんだぞ! よく言うだろ、恋愛は山あり谷あり崖っぷちありだって」
西岡は拳を握りながら真顔で語る。俺はこみ上げてくる笑いを堪えながら、
「まあさ、恋愛なんて面倒だよ。感情にやたら振り回されたり、些細なしがらみで頭がいっぱいになったり。面倒以外の何物でもないじゃん」
「それが恋愛の醍醐味だろ。そういうのがあるから楽しいわけで、それがなきゃ恋とは呼べなくね?」
「右に同じ」
甲斐と西岡の言い分に理解を示しながらも、俺はなおも曖昧な顔をしていた。
「でも、今はいいよ。特別したいとも思わないし、しなくても生きていけるから」
適当な響きで先程と似たことを言うと、西岡があからさまに嘆息して、憐れみの眼差しを向けてきた。甲斐もしばらく黙り込んでいたが、
「まあいいんじゃね? 今はそういうことで。どのみち亮輔も西岡も、いつまでも童貞じゃいられないんだし」
「おまっ、そういうことをさらっと言うな!」
「いきなり何言い出すんだよ、このばかが!」
同時に声を荒げた二人に頭をひっぱたかれ、甲斐が痛そうに髪を撫でる。真っ赤になって肩を震わせる俺と西岡は、直後に現れたアルバイトの女の子を見て同時に飛び上がる。その様子を見て、甲斐は笑いを堪える仕草をした。
ソーセージとグラタンをつまみながら、俺は残り少ないレモンスカッシュを注ぎに行くかどうか迷っていた。
「雨……降ってきたな」
窓の外を見ていた甲斐がぽつりと呟く。彼の視線につられて目をやると、窓ガラスがびしょびしょに濡れていた。耳を澄ませると絶え間ない雨音が、ざわめきの多い店内に紛れるように響いている。西岡はうんざりと目を眇めた。
「うひゃー、ひどい雨だな。俺たちが来た頃、こんなに降ってたっけ?」
「いや、さっき本降りになった。こりゃしばらく止まないな」
「マジかよ」
「最近、天気悪いよな。時期的にそろそろ梅雨だし、降っても無理はないか」
「どうしよう。俺、傘持ってないぜ」
「俺も持ってない。別に大したことないんじゃね? コンビニに行けば傘売ってるし」
「これぐらいの雨で、金出して傘買うのかよ。勿体ねえよ。金の無駄だって」
窓を濡らし続ける雨を見ながら、西岡と甲斐が言い合っている。
俺はグラスを握ったまま、ぼうっと窓を見つめていた。無言になった俺に、甲斐が気遣うような視線を向ける。
「亮輔? どうした」
はっと我に返って、俺は何気なく笑って頭を振る。
「いいや、何でもない」
「どうせなら、止むまでここにいないか? 晩飯も兼ねてさ」
「賛成。俺、今日も親いないし」
西岡の提案に、甲斐が即座に同意する。俺はふと思いついて、
「お前の親、仕事忙しいのか?」
問われた甲斐は、一瞬目をぱちくりとさせたが、すぐに頷いてさらりと答える。
「ああ。二人とも救急病院の医師と看護師だし、休みなくずっと働き詰めだよ。ほら、救急患者ってひっきりなしに来るから。お前らは? 遅くなって怒られたりとかしないの?」
「俺は大丈夫」
「俺もー」
二人の言葉に甲斐は、「じゃあもう少し追加するか」とメニューを開いた。
それから俺たちは、運ばれてきた料理を次々に平らげては、とりとめのない会話を繰り広げ続けた。雨が止んだのを見計らい、料金を割り勘で払って店を出た頃には、時刻は夜の八時を過ぎていた。
駅で二人と別れた後、俺はどこへも寄らずに、住宅街の坂道を一人歩いて家に向かう。
雨上がりの湿気をたっぷり含んだ空気が、アスファルトの匂いと混じって独特の気配を醸し出す。時々すれ違う人々は皆、手には傘を持っていた。歩道の少し窪んだところには水溜りができており、電線からも時折滴が零れ落ちて服に染みる。空はどんよりと暗く、星も月も見えない。周囲に騒音や風はなく、閑散とした空気は重さを含んでいた。
俺は坂道を速いペースで登っていた。駅から自宅までは、坂道を延々と登らなければいけない。毎日歩いて慣れているとはいえ、登り坂だと時間の経過がやけに遅く思えて嫌になる。バスという手段もあるが、何となく負けた気がするので使わない。
自宅までの中間地点である花屋を過ぎた辺りで、ざわざわと空気が動いた。ふと空を仰ぐと、先程まで止んでいた雨が降り出してきた。
「げっ、また降ってきた」
帰るまで何とか持つだろうと思っていたのに。まだ本降りではないが、服に染み込む雨粒はじめじめとして、お世辞にも心地良いとは言えなかった。
俺は急くように坂道を歩いた。しかし、歩けば歩くほど雨脚は強くなっていく。五分も経てば、雨はざあざあと本降りになっていた。
肩から提げたサブバッグをしっかりと持ち、左手で持つ黒革の正鞄で頭を庇いながら、俺は小走りで坂道を登った。既に全身はびしょ濡れで、じめじめを通り越して肌寒ささえ感じる。
俺は耐え切れずに立ち止まり、周囲に視線を走らせて、雨宿りできる場所を探した。そして、目の前にあった教会の建物に、考えるよりも先に駆け込んだ。
絶え間なく全身を濡らし続けた雨から逃れ、俺は聖堂の閉ざされた扉に凭れかかる。荒くなった呼吸をゆっくりと整えながら、脱力したようにその場に座り込んだ。投げ出された二つの鞄がどさりと音を立て、地面にぶつかると周囲のコンクリートを少し濡らす。
ひと心地ついた俺は、改めて周囲を見渡した。
「教会……か」
古ぼけた教会だ。通学路ではあるが、今まで立ち寄ったことはない。年季の入った鉄の門は閉まっておらず、大きめの聖堂は独特の佇まいがある。
「日曜に礼拝があることぐらいしか知らないな……」
独りごちながら、ポケットにあったハンカチで、濡れた髪や服を拭こうとした。しかしそれ自体も湿っており、役に立たないとすぐに気付く。
俺はため息をついて、降りしきる雨を眺めた。
この曜日のこの時間、両親は仕事でまだ帰っていない。妹は高校受験の年なので、最近は毎日のように遅くまで塾にいる。傘を持って迎えに来てほしいと頼もうにも、来てくれる人は今家にいない。
「参ったな……」
俺は途方に暮れた。雨は激しくなる一方だ。サイゼリヤにいた時と違って、明らかにすぐに止む気配がない。
小さなくしゃみをして、肌寒さに身を震わせた。このままじっとしていたら風邪を引いてしまう。雨脚がましになるまで、体を動かしていたほうがいい。俺は地面に放り出した二つの鞄を持つと、立ち上がって歩き出した。
この教会は古い。マンションや建売住宅の建設ラッシュが押し寄せるよりずっと前、昭和の初期には既にあったという話を、地元民の父から聞いたことがある。聖堂の周りはちょっとした回廊のようで、等間隔で立つ太く丸い柱が天井を支え、雨に濡れずに歩くことができる造りになっていた。
見るかぎり、全体の敷地も思いのほか広いようだ。周りは土色の壁と常緑樹で囲まれている。
「ここまで入るのは初めてだ」
クリスチャンではないためか、地元に教会があっても、俺にとっては無用の長物だった。外観を見慣れていても、足を踏み入れたことは一度もないため、ちょっとした探検気分に駆られる。
外から見るかぎり、聖堂は奥に長いらしい。正面から見るだけでは、規模は分からないだろう。夜であるせいか、敷地内に人気はまるでない。かといって、昼なら人が多いということもないだろう。
ざあざあと激しい雨音が、ここ一帯を濃密に支配する。靴音さえ掻き消されそうな雨の中で、ふとかすかな旋律を聴いた気がした。
立ち止まり、周囲を見回すが誰もいない。気のせいかと思ったが、耳をよく澄ませてみると、小さいが綺麗な歌声が聴こえた。
「人が……誰かいるのか?」
俺は驚いて、旋律の流れるほうを目指す。ところどころ掠れて響くそれは、雨音をふわりと包み込むような穏やかさで、とても透き通っていた。
歌声に引き寄せられるように回廊を進むと、聖堂より奥にある開けた場所に出た。
そこは裏庭だった。煉瓦色の石畳が敷かれた小道と、手入れが行き届いた花壇。チョコレート色をした小さな噴水からは、雨音に溶けるように水が溢れる音がする。庭自体は小さいが、決して窮屈という狭さではない。
教会全体の敷地を囲む壁の近くに、木造の小さな東屋があった。先程まで曖昧だった旋律が、歌詞とともに鮮明に聴こえてくる。
女性が一人、東屋の中にいた。椅子に腰掛けているのだろう、その姿は上半身しか見えない。彼女は出入口のすぐ側に腰掛け、目を瞑って英語の歌を口ずさんでいた。
滑らかな発音とともに、柔らかく澄んだ歌声が響く。その光景はまるで一枚の絵画のようだ。夢見るような表情で歌う彼女はとても美しかった。
俺は魅入られたように彼女を見ていた。身動ぎも呼吸も忘れて立ち尽くし、歌声に耳を傾け、その表情を見つめ続けた。
まるで夢のようだった。時が止まったかのような錯覚が、全身を生々しく支配する。激しい雨音さえ、彼女の歌声に浄化されて消えていく幻を見た。
生まれて初めて、何かを心から美しいと思った。それを壊してしまうことを恐れて、俺は息を詰めて瞬きすらできずにいた。
空気を震わすような旋律が消え、周囲が再び雨音だけの空間に戻る。彼女がゆるりと瞼を開き、そこに佇む俺を捉えた。驚きの色に染まった瞳が、俺のそれと交錯する。
言葉も忘れて見惚れていた俺は、我に返った瞬間、なぜか顔が真っ赤になった。
「あ、いや、その……。すいません」
しどろもどろに謝る俺に、彼女はきょとんとした顔で瞬きをする。
「どうして……謝るの?」
硬質なものが何もない、透明で柔らかな声だ。俺は思わずうっとりした。
答えを忘れて見つめ続ける俺を、彼女は不思議そうに見つめ返す。俺はしばしの恍惚の後、問われているのは自分なのだと気付いて慌てた。
「あっ、いや、その……。綺麗な歌だなあと、思って……」
女性は目をぱちくりとさせた。
「歌が聴こえてきたから。綺麗だなと思って、気になって……」
自分がいったい何を言っているのか分からなかった。飛び出そうなほど早鐘を打つ鼓動を抑えることに必死で、思考回路がうまく働かない。
女性はふわりと微笑むと、
「カーペンターズ」
「え?」
「カーペンターズ。知ってる? 『レイニーデイズ・アンド・マンデイズ』。……ああでも、今の子って、カーペンターズを知らない世代なのかな」
俺は慌てて頭を振る。
「いえ、知ってます! 『イエスタデイ・ワンス・モア』とか、『トップ・オブ・ザ・ワールド』とか」
俺が何度も頷くと、彼女は花が咲いたように笑った。
「よかった。知らないって言われたらどうしようと思った」
「そんな。音楽の教科書にも載ってますよ。それに俺、父親が洋楽好きで、ガキの頃からよく聴いてたんです。だから分かります」
何をそんなに必死になっているのか、自分でも分からない。うろたえずに落ち着いて話したいのに、胸を破らんばかりに逸る鼓動がうるさくて、どうにも冷静になれない。
彼女の微笑みに、まるで自分の中で何かが咲いたような気持ちになる。こんなのは初めてだった。
歌声のない夜の闇を、雨が絶え間なく濡らし続ける。俺は回廊の屋根があるぎりぎりのところに立ち、彼女と向き合った。
俺より少し年上の、二十代前半ぐらいの女性だった。胸に届くぐらいの艶やかな黒髪と、抜けるように白い肌。花柄のワンピースに、サーモンピンクのストールを羽織っている。
なんて美しい人だろう。水のように透明で、穏やかな雰囲気を纏った人だ。さらりとしたまっすぐな黒髪も、バラと同じ色をした唇も、彼女の魅力を一層際立たせている。
「あなた、だあれ? この町の人?」
親しみを持った口調で彼女が尋ねる。
「はい。えっと、家がこの近くで……。ああえっと、佐川亮輔っていいます。F高の二年」
「高校生?」
「はい」
「そっかあ。じゃああたしと六つか七つ、違うのね」
にこりと笑う彼女に、俺はまた胸を高鳴らせる。
「あの、お名前、何ていうんですか?」
「え?」
女性は瞠目して言葉を詰まらせる。俺は、雨音で聞こえなかったのだと思ってもう一度、
「名前。あなたは、何ていうんですか?」
女性は虚を衝かれたような眼差しになるが、数秒遅れて先程の笑みを取り戻す。
「アリサよ」
「アリサさん……。どんな字を書くんですか?」
俺の問いに、彼女はまた瞠目する。しかし、それはほんの一瞬のことで、次の瞬間にはふわりと優しい微笑を浮かべた。
「倉本有里沙。えっとね、倉庫の倉にブックの本、有り無しの有に里に、さんずいに少ないって書く沙。それで倉本有里沙」
「有里沙さん……」
復唱するように呟くと、有里沙は柔らかに笑う。俺はまた真っ赤になった。冷静さを取り戻しかけた鼓動が、つられるように勢いよく跳ね上がる。
「あの……有里沙さんは、ここで何を?」
「あたし?」
有里沙はきょとんとするが、すぐに先程の表情に戻る。俺は思わずうっとりするが、ふと東屋の中に視線を巡らせて、彼女が傘を持っていないことに気付いた。
「あの、傘は……? ああ、もしかして、あなたも雨宿りですか?」
思いついて尋ねると、有里沙はゆるゆると首を振った。そして、東屋の外に広がる空を仰いで、
「人を待っているの」
「人?」
「そう。待っている人がいるの。ここで、ずっと。ここは、思い出の場所だから」
そう呟く彼女の横顔は、静謐な美しさがあった。波紋のない水面のように、揺らぎない眼差しで雨を見つめる。
俺は彼女の視線を辿るように、降りしきる雨に目を向けた。
「雨の日はいつも、ここに来るの。ずっとここで、その人を待っているの」
そう言って目を閉じる彼女の言葉は、祈りにも似た響きだった。しかし俺はなぜか、その表情を悲しいと思った。一瞬浮かんだその言葉の意味が自分でも分からず、すぐに脳裏から振り払う。
「ここでずっと、雨の音を聴いているの。花や空を眺めたり、そこの噴水を見つめたり。ここは静かで落ち着くし、滅多に人が来ないから」
その言葉に、突然現れた闖入者を責める響きはなかった。しかし俺は、彼女の密やかな愉しみを邪魔してしまったような罪悪感に駆られる。
「あの、傘はどうしたんですか? 持ってないみたいだけど……」
有里沙は一瞬きょとんとするが、すぐに得心のいった顔になる。
「ああ、持ってきていないの」
「持ってきてない? 忘れたじゃなくて?」
「ええ」
何でもないことのように有里沙は頷く。俺は呆気にとられた。
「家を出た時にはもう降っていたけど、小降りだったから、いらないと思って。それに、別に傘なんて、あたしには必要ないもの」
「どうして? 風邪引きますよ」
「ふふ、大丈夫よ。あたし、雨に濡れるのが好きなの」
俺は驚いた。有里沙は何でもない顔をしているが、その薄着姿でずっと雨の中にいれば、確実に風邪を引くだろう。季節はもう初夏になりかけているが、雨夜は普段と比べて確実に気温が低い。
俺の顔を見て察したのか、有里沙は一度頷くと、
「心配してくれてありがとう。でもあたし、雨が好きなの。だから大丈夫。あなたこそ、早く帰らないと風邪を引いてしまうわ」
「俺は平気です。寒くないし、風邪なんて滅多に引かないし」
「そう?」
僅かに首を傾げながら有里沙は笑う。ほんの数秒の微笑なのに、周囲の闇が鮮やかに色づいていく錯覚を覚える。それを確かに見た気がして、俺は彼女から目が離せなかった。
有里沙は降りしきる雨を、微睡むような表情で眺める。雨音に満ちた沈黙は、涼しさを帯びた空気をかすかに震わせるだけで、その時の流れは永遠にすら似ていた。
「あの……一緒に、眺めてもいいですか?」
有里沙がつぶらな瞳で俺を見る。その眼差しにまた顔が赤くなったが、照れくささを振り払ってもう一度言った。
「一緒に雨、眺めてもいいですか?」
彼女が垣間見せた僅かな逡巡に、俺は全く気付かなかった。やがて有里沙は歌うような柔らかさで、
「どうぞ」
俺は心を昂ぶらせた。そして頷くよりも早く、濡れるのも厭わずに屋根から飛び出した。
雨によって木目が一層濃くなった東屋は、見た目よりも狭かった。俺は一瞬迷うが、適度に間隔を空けて彼女の隣に座る。俺が座った位置からは外が見えづらく、雨音だけがやけに鮮明に聞こえた。
俺はふと思い出して、恐る恐る尋ねてみる。
「あの……ひょっとして、前もここに来てませんでしたか?」
振り向いた有里沙は、ほんの少し意外そうな顔をしていた。
「ええ。ここにはよく来るの。でも、どうして?」
有里沙は少し首を傾ける。その言葉に怪訝さや問い質すといった響きはなく、ただ純粋な興味として尋ねているように聞こえた。彼女の柔らかな物腰に、何となく抱いていた気後れが救われる。
「前にその、たまたますれ違ったことがあって。いつだったかな。小雨の時に、ここの近くの坂道で。その時も確か、その……傘を差してなかったと思うから」
彼女の気を害さないようにと思うあまり、いつの間にかしどろもどろになっていた。
有里沙は数度瞬きをした後、申し訳なさそうに、
「ごめんなさい。覚えていないけれど、そうだったのね」
「いや、いいんです。俺こそ、いきなり変なこと訊いて、すいません」
慌てて謝ると、有里沙は首を横に振った。
東屋を照らすように立つ街灯の薄灯りが、その横顔を浮かび上がらせる。凛とした表情に滲む儚さが、付加価値の魅力として彼女の美しさに花を添える。無意識のうちに見惚れていた俺は、知らず知らずのうちに昂ぶってくるものを自覚した。
雨音は一定のボリュームを保ったまま、地上を満たし続けている。傘がないまま出ていけば、たちまち全身がびしょ濡れになってしまうだろう。
雨を眺めていた有里沙は、ふっと思いついたように俺の顔を見た。いきなり視線が合ったことに驚いて、どきりと心臓が跳ねて飛び上がりそうになる。
「佐川君、お家はここの近くなの?」
「え、あ、はい。三丁目の住宅街……」
「ずっとここに?」
「はい。生まれた時からずっと。この町は父の地元で、父の実家もすぐ近くにあって。俺は保育園から高校まで、ずっとこの町で」
そう言うと、有里沙は笑った。
「そっかあ。じゃあ、ご近所さんね。あたしは四丁目なの」
「あ、ほんとだ。近いっすね。一人暮らしですか?」
口にした後に、知り合ったばかりの女性に言う言葉ではないと気付いて青ざめるが、有里沙は気にも留めていない顔で頷く。
「四丁目って不便じゃないっすか? 駅から離れてるし、店とかもあんまなくて」
「そうね、確かに、生活にはちょっと困るかも。でも、国道から離れてて静かだし、多くのことを望まなければ暮らしやすいわ」
「職場とか近いんですか? てか、何の仕事を……」
有里沙は一瞬考えるように黙り込むと、言葉を選ぶように、
「音楽の仕事をしているの」
「音楽?」
俺は思わず訊き返してしまう。一瞬意外に思えたのだが、彼女の佇まいといい、先程の綺麗な歌声といい、確かに分かる気がする。少なくとも、OLと答えられるよりはしっくりくるなと思った。
「教師ってことですか? それとも」
「教師というより、講師ね。週に四日ほど、駅前の音楽教室で歌とピアノを教えているの」
「すごいですね。もしかして音大卒ですか?」
「そうだけど……別にすごくないわよ。この世界ではそんな人、五万といるわ」
「どこの音大なんですか?」
「……N女子大って知ってる?」
彼女が口にした大学名は、県内でいわゆるお嬢様大学として有名な女子大だった。格式が高い上に、偏差値も高いと言われている。俺は進学雑誌でちらりと見たことがある程度の知識だが、学校ではN女子大を目指す生徒も多くいる。
「五つ上の姉がN女卒なの。N女のバイオリン専攻。だからあたしも。専攻は声楽。まあでも、卒業したのは二年前なんだけどね。もう昔の話よ」
そう言って、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。どうやら照れ隠しらしい。自分のことを話すのが得意ではないのだろうと思った。
「週四日、音楽教室ってことは、他の日は何してるんですか?」
疑問に思って訊いてみたら、照れ笑いだった有里沙の表情がほんの少し変化した。
「いろいろかな。あたし、人より体が丈夫にできてないの。だから、体に合わせた働き方しかできなくて」
表情の変化の意味に気付いた俺は、何と訊くべきか迷った。
「……どこか悪いんすか?」
有里沙の表情が一瞬止まる。俺は自分の過ちに気が付いた。
「すみません。遠慮もなく、根掘り葉掘り訊いちゃって」
慌てて詫びる俺に、有里沙はゆるりと首を横に動かした。
「気にしないで。別に怒ったとか、そういうのじゃないの」
彼女は静かにそう言うが、俺は内心でひどく反省した。彼女のことを知りたいあまり、気持ちだけが先走ってしまって恥ずかしかった。
有里沙はそんな俺を不思議そうに見ていたが、やがて雨へと視線を動かすと、
「今夜はよく降るわね」
歌うような響きだった。うっとりとしているような、憐れんでいるような、俺の持つ語彙では到底表せない感情が滲んでいる。それが訳もなく胸を焦がした。
有里沙は雨を眺め続ける。何と話しかけようか。だが、何を口にすればいいのだろうか。俺には全く分からなかった。
「……音楽が、好きなんですか?」
ようやく口にできた会話の糸口に、有里沙は空を仰いだまま素直に頷く。
「ええ」
「ピアノも弾けるんですか?」
「ええ」
「ええっと……演奏するのと歌うのって、やっぱり気分が違うんですか?」
有里沙は少し考える。
「ピアノも好きよ。歌でもピアノでも、音楽に触れるのはどっちも好き。でもやっぱり、歌うことが好きかな。本職だし、歌っている時が一番、心が落ち着くの。言ってしまえば、趣味を仕事にしたようなものね」
「でも、それってなかなかできないですよね」
「そうね。世間的には難しいことなのかもしれない。でも、あたしはそれが一番性に合っていたの。それしか他になかったから。他に見つからなかったでも、いいかもしれないけど」
静かすぎる言葉に、俺はただ黙って頷くしかできなかった。よくは分からなくても、これ以上追及してはいけない気がした。
俺は考えあぐねた末に、別の話題を切り出す。
「歌を教えてるってことは、コンサートとかもしてるんですか?」
有里沙は瞬きをして言葉を詰まらせる。俺は地雷を踏んでしまった気持ちになった。
しかし有里沙は柔和な表情で、
「ええ、時にはね。この教会でも時々歌っているのよ。ここの牧師様が父のご友人でね。その繋がりでお願いされて、大学時代から三ヶ月か四ヶ月に一度の頻度でやらせてもらっているの。チャリティーコンサートなんだけど」
「それはその、有里沙さんだけのステージなんですか? それとも……」
「場合によってはソロの時もあるわ。それに、ステージっていうほど大袈裟なものじゃないの。会場はここの聖堂だから、スポットライトもステージもないし。時にはホールに呼ばれることもあるけれど、それは年に数度の割合で、あたしにとっては珍しいの」
有里沙はそう言うが、俺にはとてもすごいことに思えた。彼女は音楽のプロだ。それが何だかとても眩しかった。だからなのか、考えるよりも先に、自然と言葉が口から出る。
「俺、さっき聴いた有里沙さんの声、すげー綺麗だと思いました。澄んでるっていうか何ていうか、綺麗って言葉だけじゃ言い切れないっていうか……。そう、柔らかくて優しくて、聴いてて穏やかになるっていうか、ほっとするっていうか。それは多分、有里沙さんの性格とかもあるんでしょうけど、普段仕事で歌う機会が多くて、それでってのもあるんだろうなって。だって、そんじょそこらの歌手より全然綺麗でしたよ。クラシックぽいっていうか、その、何つーか、プロっていうのか、その、えーっと……」
感情をそのまま口にしているせいで、だんだん自分が何を伝えようとしているのか分からなくなる。もっといい表現があるだろうに、脳裏が真っ白になって浮かんでこない。有里沙の眼差しを感じて、俺の思考回路はもはやショート寸前だった。
「えっと、つまりその、有里沙さんの歌声ってすごいと思うんです! 俺はいいと思います。てか全然、ソロとかでもいけると思います!」
パンクしかけた脳が生んだ己の言葉に、俺はがっくりと打ちのめされる。穴があったら入りたいという言葉の意味を今、身を持って学んだ気がした。
本当はもっと別のことを伝えたかった。しかし、有里沙の視線をすぐ傍で感じていると、普段なら問題ないことが急にできなくなってしまう。こんな気持ちは初めてだった。恥ずかしくて情けない。そして、情けない以前に格好悪い。
有里沙は目を細め、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。嬉しいわ」
それは優しい言葉だった。嘘も虚飾も何もない、とても澄んだ響きをしていた。俺はまた彼女に見惚れた。
「自分では、そんなに大したことはないと思っているのに、褒めてもらえると嬉しいものね。ありがとう」
まるで自分が褒められているような錯覚に陥った。俺は邪念を振り払うようにぶるぶると頭を振る。誰かに見つめられるだけで、これほど鼓動が高鳴ることなど未だかつてない。
「あ、あの」
無意識のうちに飛び出した言葉に、俺自身が一番びっくりする。それを悟られまいと、
「あの、俺、またここに来てもいいですか? よかったら、また話しませんか?」
単純明快な誘い文句なのに、恥ずかしいほどうろたえた響きになった。我ながらあまりに滑稽だ。きっと彼女には俺の下心など見え見えだ。もしくは、無粋なほどあからさまな態度に、気分を害してしまったかもしれない。
しかし、そんな俺の焦りと不安はどれも外れていた。有里沙は躊躇うそぶりも見せず、花のような笑みで頷いてくれた。
「ええ、また話しましょう。よろしくね」
有里沙はすっと手を差し出した。きめ細やかな肌をした小さな手だ。おずおずと握り返すと、想像以上に華奢で驚いた。
俺は彼女に痛みを与えないよう、細心の注意を払って握手した。その手は冷え切っていて、まるで水の中に入れたようだ。
少し汗ばんだ俺の手が、馴染むように彼女に温もりを与えていく。手と手を通じてそれを実感した俺は、有里沙に心奪われたことを遅ればせながらも自覚した。
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