雨に恋う
咲原かなみ
プロローグ
その日の夜空は、薄い藍色をしていた。
暗く沈みきっているようで、実はそれほど深くはないような色。決して明るいわけではないが、暗いと言い切るには少し度合いが足りない。
要するに中途半端なのだ。時刻は八時を過ぎているのに、さほど暗くない空は、曇天ではないが、星が見えるほど晴れているわけでもない。
「……はっきりしないなあ」
本音がぽろりと口から漏れた。はっきりしないものは苦手だ。何でも白黒がはっきりしていないと居心地が悪い。かといって嫌いだと断言することは、全ての言い分をばっさり切り捨ててしまうようで何だか嫌だ。
そんなことをつらつらと考えながら、俺は静かな夜の住宅街を歩いていた。
学校帰りに友人たちとマクドナルドに長居していたせいで、帰宅時間はいつもより少し遅めだ。しかし両親は遅くまで共働きで、妹は塾に通っているから、それを咎める者はいない。心配はただ一つ、冷蔵庫に夕飯が用意されているかどうかだ。
ひゅるりと生温い風が吹き、空気が次第に湿り気を帯びてくる。周囲を包む夜の気配が濃くなっていく。
それを何となく感じながらも、特に気に留めることなく歩いていた時、ふと頬に僅かな冷たさを感じて空を仰いだ。
ぽつぽつと、小さな滴が落ちてくる。手をかざしてみると、かろうじて目に留まるぐらいの雨粒が二つか三つ、ぴちゃんと肌に触れた。
「降ってきたかー……」
呟くよりも先にため息が出た。先程より速めに歩きつつ、右肩から提げたサブバッグから折り畳み傘を取り出す。何の飾り気もない黒のそれは、今の空とよく似ていた。
雨脚が次第に増していく。俺はばさばさと乱雑に組み立てながら、出掛ける間際に傘を持たせてくれた母に感謝した。天気予報が言う降水確率四十パーセントなど、まるで信用していなかったのだが。
どうやら通り雨であるようだ。雨脚はやや強めだが、土砂降りと言うには大袈裟で、雷鳴が聞こえないから、夕立ではないらしい。雨のわりに、空に雲があまりないのが不思議だった。さらさらと鼓膜を撫でるような雨音が響く。激しい雨ではないことに、内心でほっとしていた。
肩幅サイズの傘を差した俺は、前から近付いてくる靴音に気付いた。雨音に紛れるようにこつこつと響くそれは、女性が履くヒールの音だろう。目を向けると予想どおり、向かいから歩いてくる女性がいた。
さりげない顔で歩を進めながら、距離が狭まってくるごとにはっきりと見えてくる彼女を窺う。胸に届くぐらいの癖のない黒髪に、鼻梁の整った小さな顔と、モデルを思わせる華奢な体躯。年恰好は明らかに俺より上で、二十代前半ぐらいに見える。鮮やかなサーモンピンクのストールを纏う、絵に描いたように美しい女性だった。
俺は彼女とすれ違う。直接目が合うことはなかったが、俺はその表情を一瞬だがしっかりと見た。洗練された美貌に、胸がどきりとざわめいた。
彼女はこつこつと規則正しい靴音で、俺との距離を確実に広げていく。控えめな靴音が次第に遠ざかり、俺は少ししてから立ち止まって振り返った。
遠くへ離れていく彼女は傘も差さず、闇に溶けるように歩き去っていく。その漆黒の髪は絹のようにしっとりと、古ぼけた電柱の光を受けて僅かに艶めいて見えた。
俺はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて踵を返すと再び歩き出す。
あの後、家に帰ってからも、宿題を片付けて深夜遅くに床に就いた時も、彼女の姿が心の端をぎゅっと掴んだように消えなかった。まっすぐ前を向いて歩いているのに、声をかけたらたちまち消えてしまいそうな儚さを纏った女性。波紋のない水面のような表情で、降りしきる雨には一瞥もくれなかったが、つぶらな瞳はどこか濡れていた気がした。
声をかければよかった。そんな後悔が胸を掠める。だが、では何と言って話しかければよかったのか、大体ほんの一瞬すれ違っただけの相手に、声をかけてどうするのかといった疑問に揉まれながら、気付けば眠りに落ちていた。
雨は夜が更けるごとに激しさを増し、明け方には土砂降りになっていた。
後になって思う。たった一瞬すれ違っただけの彼女の姿が、脳裏に焼きついて消えなかった理由を。それまで俺にとって、雨は単なる気象変化の一つでしかなかった。
五月下旬。雨が春の終わりと夏の始まりを告げる頃、俺たちは出逢った。
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