第19話 活人剣
一、
道端で彦佐が首に鈴の付いた猫とじゃれている。
それを隣に立っている左近がいぶかしそうに見ている。
「本当に人懐こくてかわいいな。ほら兄貴、見てくださいよ」
声を掛けると、左近は眉間に皺を寄せて
「変わった犬だな」
「いや、いや、どう見ても猫でしょう。こんな小さな犬なんか居ないですよ」
「どうりで俺の嫌いな虎に似ていると思ったよ」
彦佐は笑いだし
「そうですね。茶トラの猫ですし。よっぽど、虎が嫌いですね。兄貴」
「そりゃあ、殺されそうになれば。誰でもそうだろうよ」
「なるほど、そうですね」
甘えて、満足した猫は彦佐の膝の上から飛び出して行く
「ところでよ」
橋の欄干に手を掛けて川を眺めている左近が言う
「半兵衛の小三郎の神速を躱した技。ありゃあ、
それを聞いて彦佐はふと考えて
「ああ、そうですね空蝉ですね。あれは。
でも、剣術じゃあ、違う呼び方なんじゃないんですか?」
「そうだな。寸避けとか変わり身とか呼ぶかな?」
言いながら左近は顎をさすり
「しかし、あんなに綺麗な変わり身は見た事ねぇぞ。消えたように見えたからな」
「避ける前に刀を伸ばしましたよね」
「ああ、あれは用心の為だ。あれで刀の太刀筋を変えるんだ。避けやすいようにな」
左近は川面にきらきらと光る、小魚を見ながら
「あいつ凄い所にまで行ってるな。近ごろでは一番の剣士だ」
暫く水面を見た後で左近は彦佐に向き直り
「そろそろ行くぞ」
「へい」
返事をした彦佐は歩き出した左近の後を付いて行く
二、
「活人剣ですか?」
桐丸が半兵衛に聞き直した。
口伝会の屋敷の一室で半兵衛と藤井、桐丸が話している。
「昔、師匠から活人剣の話しをされましてね。剣は人を殺す為の物だが、人を救う事も出来ると」
好物の落雁を頬ばりながら半兵衛が続ける。
「弱い者達を助ける事なのだと思っていましたが、才のある者を良い方に導くのも活人剣なのだと知りました」
「それは左近が?」
「ええ、あの男の強さはそう云う所にもあるのだと」
「役目柄。そのような行いをしているのですか?」
桐丸の問いに
「口は悪く、無愛想な男ですが、心根の優しい所があります」
「それで我が弟も助けたのですか」
「そう、あの男にとって自分の信念を貫く事が大事で、その為に誰にどう思われるかはどうでも良い事なのです」
「その信念とは?」
「桐丸は何の為に口伝会に居るのです?」
逆に聞き返された桐丸は
「ここが好きですし」
「では、何故ここに入ったのです?」
「大好きな剣で身を立てられると思いました」
半兵衛は藤井に振り返り
「藤井殿は?」
「私も剣で身を立て、できれば金も稼ぎ、名もそれなりに売れればと思っております」
「私もそうです。今は仲間を守ると云う気持ちも有りますが」
「では直方左近は?」
「これは私の憶測なのですが、悪人を少しでも減らそうとしているのです」
「それが、あの男の役目では?」
「それだけでは無い。見ていると金に余り執着は無いようですので、単純に悪い奴を減らし。江戸、いや、関八州を暮らしやすい世にするのがあの男の思いなのです」
「ああ、そう云えば。悪い奴が増えると住み難くてしょうがねぇが左近の口癖だと聞いた事があります」
「私達よりも崇高ですね」
「そうなのです。あの人はその為に命を掛けて役目を負っているのです」
三、
陰流、小山一派の総帥である小山影之進は怒り狂っていた。
「一体、小三郎は何処に行ったのだ」
「とうに本家を出て江戸に向かったと聞いておりますが」
茂木孝衛門が答える。
「十日は過ぎているぞ。何処に消えたのだ」
孝衛門は言いづらそうに
「帰路の途中で口伝会の柳沢半兵衛に勝負を挑んで敗れたとの噂が上がっております」
「柳沢半兵衛だと、何故だ。どちらかと云えばあの男は我らの仲間では無いのか」
孝衛門は更に言いづらそうに
「近ごろでは、直方左近と懇意にしていると噂が出ております」
「ふざけるな!我らに取って共に邪魔な存在であろうが。小三郎は左近を倒す為の切り札だと云うに」
「小三郎は当てにはならずに、これからは柳沢半兵衛の率いる口伝会も敵になる可能性が出てきました」
「くそっ、」
影之進が湯呑みを襖に投げ付けた。
実際に小三郎達、免許皆伝の者が左近に負けて以来。小山派が免許を金で売っているとの噂も立ち門下生も随分と減っている。
その時、道場から門下生の一人が走って来た。
「大変です」
「どうした!」
孝衛門の問いに
「口伝会が殴り込んで来ました」
「口伝会だと!」
四、
道場には柳沢半兵衛。その隣には藤井啓造が立っていた。
その周りを門下生、数人が取り囲んでいる。
急いで道場にやって来た影之進。
「半兵衛殿。これはどう云う事なのだ」
後ろには孝衛門が付いている。
影之進の顔を見た半兵衛は
「達素小三郎の事を聞いて無いのですか?」
「やはり半兵衛殿が小三郎を?」
「ええ、立ち合いをして達素小三郎を敗りました」
「何故?我らは邪魔な直方左近を倒す為の同士では無いのか」
半兵衛は苦笑いをして
「同士?我が口伝会は立ち合い中に矢を射かけたり。金で免許は売りませんよ」
「それは、ただの噂だ」
「噂ですか?
「証拠があるのか」
孝衛門の言葉に
「あなたは弟子の言葉を信じないのですか」
「弟子の顔も金にしか見えないのでは無いのか?」
藤井が口を挟む
「藤井。貴様」
孝衛門が歯ぎしりをする。
「小三郎には小山派とは縁を切るように申し伝えました」
「半兵衛、」
影之進が半兵衛を睨む
「小山殿。そんなに直方左近を邪魔に思うなら、あなたは小山派の総帥として弟子に頼らずに自分で、その腕で直方左近と立ち合いをするべきです」
「余計な世話だ。貴様には関係ない」
「そうですね。でも、小三郎に助言した立場として責任を取りたいと思いましてね」
「儂に立ち合えと?」
「そうです」
「真剣でか?木刀で良いでは無いのか」
「剣に生きるのであれば、ここは命を掛けるべきかと思いますが」
影之進がちらりと孝衛門を見る。孝衛門は頷いて動こうとしたが
「おっと、動くなよ」
藤井に行く手を遮られた。
「貴様、」
孝衛門は刀に手を掛けたが、藤井も刀に手を掛け
「先に斬り合いをするか」
その言葉に孝衛門は藤井を睨む
「ぎぇっ、」
その時、遠くから悲鳴が聞こえた。そして、桐丸が現れて
「不穏な動きをする奴は斬りましたよ」
そう言って更に道場の周りにいる門下生に睨みを効かす。
「何故、そこまで我らを憎む」
影之進の問いに
「あなたが江戸の剣客の面汚しだからです。それに」
「それに?」
「あなたのような者が居たら、江戸の町が住み難くてしょうがない」
その言葉を聞いて藤井は
「随分と左近に毒されたものだな」
ぼそっと呟いた。
「ふん、儂も舐められたものだな」
影之進が周りを見渡してから
「よかろう、真剣で立ち合おう」
覚悟を決めた。
「そうですか」
五、
二人が向かい合う。
間合いを詰めると刀を抜いてそれぞれに構えた。
影之進がじりじりと左回りに間合いを詰めていく、半兵衛は影之進を目で追いながらも微動だに動かない。
影之進の動きが止まった時、握っている刀の手元からぽとりと細長い鉛のような物が落ちた。
その音に半兵衛が反応して驚いた時
「勝機!!」
影之進が半兵衛に上段から斬り掛かった。
「くっ、」
半兵衛はすぐに反応して刀の根元で受けた。
鍔ぜり合いになり、二人はぎりぎりと互いを押し合う
やがて互いを押しきって二人は離れた。
「思ったよりも剛力だな」
体格の優れている影之進は半兵衛の力に驚いている。
「これが仕事ですからね」
言い終わり。半兵衛が息をすっと吸ったのを見計らって、すかさずに刀で突いた。
それを見透かしていたかのように半兵衛は身を屈めて切っ先を躱して胴を抜いた。しかし手応えは無い。代わりにしゃーっと、鉄を擦った音がした。
斬られた上着の下から鎖かたびらが見える。
影之進はすかさず振り返って、やはり振り返えろうとしている半兵衛に斬り掛かった。
半兵衛は右足を引いてぎりぎりで影之進の刀を躱したが少し頬を斬られた。
「ふん、」
得意げに影之進がにたりと笑う。それを見た半兵衛は
「とことん、卑怯な剣だ」
頬の血を拭った。
「ははっ、我が剣を卑怯だと思うか?
たまらんぞ、己の腕に酔っている馬鹿を騙し打ちにするのは」
高笑いする影之進を見ながら半兵衛は
(なるほど、こんな馬鹿が近くに居ては確かに住みにくい)
改めて感心した。
「だが、今。斬れなかったは誤算でしたね」
六、
「本当に汚い剣だ。しかし、会頭が斬られるのを初めて見ました。大丈夫ですか?」
桐丸の問いに藤井が答える
「かすり傷だ。それに影之進は手を出し尽くしんじゃないのか、どっちにしても会頭が負ける筈が無い、江戸で一番の剣豪だぞ」
「直方左近よりもですか?」
藤井は桐丸を見て考え込み
「ふーむ、あれは手強いな」
「答えていませんよ」
再び半兵衛、影之進が向き合う。影之進は不敵な笑みを浮かべている。
半兵衛は下段に構えて又、動かず意識を集中させている。
「きぇーい、」
奇声を上げながら影之進は上段で斬り掛かった。脇はがら空きだが鎖かたびらで守られている。
だが半兵衛は姿勢を下げて影之進の左脇をすり抜けた。すり抜けると素早く振り返り、振り返った影之進の額を割った。
影之進も反応したが半兵衛の動きは影之進の想像よりも早く正確だった。
半兵衛を気遅れさせようと出した奇声だったがもはや半兵衛には効かなかった。影之進は奇策を外し過ぎた。
「くっ、」
影之進が膝から崩れ落ちて右に倒れた。
「総帥!」
孝衛門や門弟達の声が道場に響いた。
七、
小山道場の周りには人だかりが出来ている。
「何だよ、これから殴り込みに行くってのによ」
「すいません兄貴。あっしが猫をなでてて遅れたからですかね」
左近と彦佐が人だかりの奥から小山道場を見つめて話している。
「なんか、あったのか?」
左近が目の前にいた町人に聞いた。町人は振り向き
「何でも、小山道場の総師範が斬られたそうなんですが」
「総師範。小山影之進か?」
「そうです」
聞いた町人とは別に後ろから聞こえる声に左近と彦佐が振り返える。
「藤井!」
藤井啓造が立って居た。
「何で、貴公が此処に」
「影之進を斬ったのは会頭だからです」
「会頭!半兵衛が斬ったのか」
「そうです」
「何故、」
「斬ると言いながら峰打ちにした心根の優しい所を持っている小三郎を捨て駒として利用する影之進が許せんそうです」
「あいつの方がお節介だろうが」
「半兵衛様は
彦佐の問いに
「今、道場の中で町方と立ち合いの子細を話しておる」
「弟子達が黙ってないだろう」
「影之進の立ち合いが汚なすぎて、影之進が殺られた後に弟子達は居なくなり申した」
「師範代は?」
「師範代の茂木孝衛門はこれまでだと諦めたようです」
「まあ、口伝会が本気になれば小山一派を黙らせる事も出来るだろうが」
「自ら影之進と立ち合うとは半兵衛様らしいですね」
「ふむ、半兵衛としては余り得る物は無いはずなんだがな」
左近が鼻を鳴らした。
そして、啓造に向かい
「しかし何故。貴公が此処に」
「必ず左近殿は此処に来られるだろうと」
「そうか」
「左近殿は活人剣を知っていると」
「活人剣?」
「今回の小三郎の事は剣を活かす事だと」
「ああ、そんな大層なもんじゃねぇよ」
言った後に左近は道場の方を見てから
「彦佐、帰るぞ」
「えっ、兄貴。半兵衛様に会わなくて良いんですか」
「半兵衛が意地を通したんなら、俺は何も言うことはねぇよ。じゃぁな、藤井」
左近は手を振りながら振り向いて歩き出す。
「藤井様。失礼します」
彦佐はそれを追いかける。
藤井啓造は二人の背中を見送った。
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