第10話 霞
一、
左近が霞に始めて出会ったのは六年前の事である。出会ってから六年。結婚してからは三年になる。
左近にとって、霞との出会いは衝撃的だった。
四谷にある。左近の屋敷で、彦佐は障子張りをしている。
「兄貴、いい加減に手伝ってくださいよ」
「うーん、そうだな」
右近は寝そべりながら面倒くさそうに答えて、
「兄貴が野良猫を構うから、障子破られたんでしょうが」
「いやいや、障子を破ったから怒ったら。奴等、剥きになりやがって
ほんと、獣って、加減が無いよな」
「はいはい、言い訳は、もう、いいですから」
左近は寝そべったまま
「人には向き不向きがあってな。障子張りは俺には合わん」
「いやいや、これは慣れですから、とにかく手伝って下さい」
「ん、」
急に左近が起き上がった。
「何ですか?」
「声が聞こえる。若い女の声だ」
確かに玄関の方から
「ごめん下さい」
と女の声が聞こえる。
彦三は両手がふさがっているのを見せて、左近に無言の圧力を加える。
「ちっ、」
左近は面倒臭そうに立って、庭先の板の戸に開けてある。小さな穴から玄関先を覗いて見た。
だが、すぐに彦三の所に戻って来た。
驚いた顔をしている。
「どうしたんですか」
「なんだか、面倒臭そうなのが来たぞ」
「面倒臭い?、若い女なんでしょ」
「とにかく、お前が行ってこい」
「若い女だと云うのに、めずらしいですね」
彦三は立ち上がり玄関に向かった。
「はいはい、どなたでございましょう」
玄関で客人を見ると彦三が固まった。
大小の刀を差して、男の侍の格好をした若い女が二人も立っている。
確かにこれは面倒臭そうだ。
「どなた様でしょうか」
「柳生霞と申します」
「霞様にお仕えしている。茜と申します」
「柳生と申しますと、あの柳生様の」
「はい、裏柳生の当主。柳生木人斎は私の父です」
柳生木人斎は、将軍家指南役。柳生の一族で、裏柳生と云われる影の軍団の総帥であり。幕府の裏目付と云われる人物である。
二、
柳生霞と茜は客間に通された。
「木人斎殿には何度か会った事はあるが」
「父からも話しは聞いております」
「で、本日は何用ですか」
彦佐の問いに
「見て分かるかと思いますが、私も茜も女ながらに剣術を嗜みます。
それで、父に、江戸で一番の剣豪は誰かと聞きました」
「ほう、それは確かに興味が湧くな」
「父が申しますには、何人か候補になる者は居るが、今、一番、思い当たるのは直方左近様だと」
「えっ」
お茶を運んできた。彦三と左近が、同時に驚いた。
「兄貴は確かに強いですが、江戸で一番は、どうでしょう」
「そうだな。見た感じでは、木人斎殿の方が強そうだぞ」
うれしいのか、左近は半笑いで答える。
「いえ、父は裏柳生の当主として、長く、数多くの配下、門人を見て参りました。
その父が云うのですから、間違いないは無いかと」
「そうかぁ、」
「私も女ながらに、小さい頃から、剣術に打ち込んで参りました。
並みの殿方にも負けぬ。自信もございます」
「ほう、それで」
「ぜひ、江戸で一番の剣豪と云われる。左近様に稽古をつけて頂きたいのです」
「なるほどな」
答えながら、左近は考え込んで顎の下をさする。
「何か、不都合でもございますか」
その様子を見て、霞が不安そうに言った。
「俺の剣は無双流といってな、戦場の剣だ」
「戦場の剣?」
「より長く戦えるように、無駄な動きは一切しない。
とにかく、太刀筋の早さと、急所を狙う正確さを極めた剣で。体さばきも刀を振るのも最小限だ」
「それこそが、最強の剣なのでは?」
「いやな、今が戦国の世ならそれでよかろう。
この太平の世に。余り、見栄えのしない剣をわざわざ見る事も無かろうに
柳生新陰流は、将軍家が認めた天下の剣。
それを極めれば良いではないか」
彦三はにやにやしながら聞いている。
「何か、あるのですか」
不思議そうに茜が聞いた。
「ありゃ、女相手に面倒臭んで、やりなくないのと、それでもやらなくちゃならねぇんなら、なんとか金にならねぇかって、話しですよ」
「お金ですか」
「兄貴の剣は、儂の見立てでは、日の本一の最強の剣。ただでは教えられませんよ」
茜が彦三の顔を見て
何かを含んでいる左近の顔を見て
その左近の物有り顔を見ながら、困惑している霞を見て
霞に近付き、ひそひそと耳打ちをした。
それを聞いた霞が
「もちろん、ただでとは申しません。
それなりの謝礼をさせていだだきます」
霞は懐から財布を取り、中から二両を出して左近の前に置いた。
それを見た左近はにこりと笑い
「かたじけない、見ての通りの貧乏所帯でな、助かるよ。
彦三、ありがたく貰っておけ」
着飾らぬ素直な左近の反応に、霞は少し驚いて
「いえ」
と答えた。
三、
木刀を持ち、二人は庭で対峙した。
二人とも正眼に構え、相手の出方を伺う。
そのまま、構えながら。足さばきで、右に左にと二人が動く、共に隙が無く、中々、手が出ない。
その内に霞が木刀を上段で八の字にゆっくりと回し始めた。
「柳生新影流、輪の太刀。誘いか?」
左近の動きが止まったのを見て、半身をずらしながら、右上段から霞が打ち込んだ。
刹那。霞の持った木刀が手から吹き飛んだ。
「どうして?」
霞が打ち込んだ時に、左近も同時に突きで踏み込んだ。
それは霞も理解したのだが、次の瞬間。
持っていた木刀が吹き飛んだ。
吹き飛んだと云うより感覚としては、からめ取られた感じがした。
「さてと、木刀が無くなったがどうする」
勝利を確信したように左近が半笑いで言った。
「まだです」
咄嗟に霞は、正眼に構えた。
左近の右脇から懐に飛び込み
木刀を持っている手を掴み手首をひねった。
「無刀取りか」
左近は、驚いたが、ひねられた手をそのままに廻し
一旦、木刀を離して。手のひねりを戻し、
また木刀を掴み。そのまま、体で霞を押した。
「危なかった。こちらも木刀を取られる所
だった」
体を押されて、倒れ込んだ霞は観念をして
「参りました。さすがですね」
と言った。
「いやいや、霞殿もなかなか、柳生新陰流を極めていられるようで、こちらも何度かひやひやしたぞ」
左近のその言葉を聞いて、霞はにこりと笑って、立ち上がり
「流石は江戸一番の剣豪、直方左近様。
私を弟子にして下さい」
後ろ手に髪を縛ってある。
その、かわいい頭を下げた。
「へっ、」
それを聞いた左近は、いきなりの展開に顔を
四、
あれから、六年の月日が流れて。今や、二人は押しも押されぬ、おしどり夫婦となった。
男装を止め。若い人妻が着るような。
かわいい着物姿の霞を愛でながら。お茶屋で甘酒を啜る。
左近に取って、正に
「幸せ過ぎて、明日、死んじまうんじゃねぇのか」
年齢的には、左近が三十七で霞が二十六。
歳は一回り以上離れているが
彦佐に言わせると、左近がいつまでも子供のような性格をしているので、丁度、良いそうだ。
左近にしても、歳の離れた妹のような妻が可愛いくて仕方がない。
不忍池を散策して、お茶屋で甘酒を飲んだ二人は、留守番をしている。彦佐と茜の夫婦へのお土産のいなり寿司を買って帰路に着いた。
「あれ、」
左近が胸元を探っている。
「どうしたのですか」
霞が聞くと
「
「数珠と云うと、道海さんに貰った」
「いつも、持ち歩いて居るんだ」
「先程のお茶屋さんですかね」
「あそこで一度、見たんだよな」
「それじゃあ」
「ちょっと、見てくるわ。先に帰っててくれ」
そう言って。左近はお茶屋へと戻って行った。
五、
左近の後ろ姿を見送って。霞は家路を急ぐ。
すると、前から派手な格好をした若い侍が三人、がやがやと騒ぎながら歩いて来る。
その三人を避けて脇を通り過ぎようとした時、侍の一人が霞を見て
「おっ、綺麗な女だな」
そう言って、霞に近寄って来た。
他の二人もそれに続いて三人で霞を囲んだ。
「何の用ですか」
じろじろと見回す。侍達を嫌がりながら、霞が言った。
「おい、女。口の聞き方に気をつけろよ」
「そうだ」
他の侍も続く
「ここに居られる。新三郎様は、公儀、お目付け役の奥平、伊勢守様のご子息だぞ」
そう言われて、まん中に居る若侍が得意げな顔になった。
「お前は何処の武家の娘か知らぬが、逆らうと為にならぬぞ」
「そうだ」
又、さっきの侍が続く
「あなたはお父上の権力を傘にきて、威張っておられるのですか!」
呆れて、霞が言った。
「馬鹿め、権力の偉大さを知らぬのか、権力があれば。俺達が悪い事をしても揉み消せるし
何なら、お前を家ごと、とり潰す事もできるのだぞ」
「そうだ。そして、俺達はその権力を使って、口伝会よりも大きくなってやる」
侍達の言葉に霞が
「全て、親頼みとは、情けない話しですね」
「この、あまぁ、いい加減にしろよ」
怒った新三郎が霞に詰め寄る。
六、
「あーあ、うちの嫁さんを怒らせちまったな」
「はっ!」
三人が驚いて声の方に振り向くと
数珠を持って、茶屋から戻った。左近が腕を組んで立っている。
「なんだ。お前は」
侍の言葉に
「口伝会は、なかなか手強いからな。おめぇ達じゃ、超えるの無理なんじゃねぇか?」
「何だと、無礼者が、許さんぞ」
「おっ、やるか」
左近が刀に手を掛けると
「これは、私が売られた喧嘩です。左近様は下がって居て下さい」
霞がそう言うと
「はい、はい、」
左近は返事をして、霞に刀を投げ渡した。
霞はその刀を受け取り
「新三郎とやら、私も剣術の心得があります。勝負をしましょう」
三人は驚いたが、すぐに笑って
「はっ、はっ、勝負だと」
「新三郎様は陰流の免許皆伝だぞ」
「女を斬っても、自慢にならん」
そんな三人を横目にしながら、霞は懐から、くないを出して投げた。
「ぐぉっ、」
一人の肩に刺さった。
「こいつ、手裏剣を投げたぞ」
「ゆるさん。生意気な浪人共々、斬ってやる」
刀を引き抜き、鞘を地面に置くと、霞は立ち上がり。着物の裾を捲って、青岸に構えた。
「ふん、」
新三郎も刀を抜き、正眼に構える。
じりじりと二人は右回りに動いて行く
先に新三郎が動いた。素早い上段斬りだ。
それを霞は半身でかわしながら斬り込んだ。
「くぅ、」
その太刀を新三郎はすんででかわした。
「ほう、流石は免許皆伝」
左近が感心した。
一旦、距離を取ると、新三郎は懲りずに下から斬り込んだ。
霞はそれも、刀を受けながしながら斬り込む。
予想していたのか、新三郎はそれもかわしたが、霞は更に刀で突いた。
避けながら、新三郎は体勢を崩した。
「隙有り!」
霞の刀が新三郎の肩に刺さる。
「つぅ、」
「それまでだな」
左近が口を出し
「おい、お前、刀を抜け」
まだ。怪我をしていない、残りの侍に声を掛ける。
「う、あっ、」
急いで刀を抜いた。侍が構えたのを見て、左近は脇指しを抜き
「斬って来い」
「くそっ、」
斬り掛かって来た侍の刀を受け流しながら、肩を斬った。
「ぐぉっ、」
肩を押さえる三人を見て
「これで、皆、お揃いだな」
そして、脇差しを新三郎に向けると
「この事は老中、土屋相模守に言って置くからな」
「ろ、老中!」
驚く三人に左近は、更に
「それから、うちの嫁は、裏柳生の頭領の娘だからな。そっちも気を付けろよ」
「裏柳生!」
みるみる青くなる。三人の顔を横目に
刀を鞘に納めて、近寄る霞に笑みを浮かべて
「見事だったぞ」
「左近様」
「また、強くなったな」
霞は照れ笑いをして
「虎にも勝てそうですか?」
そう言うと、左近は眉間に皺を寄せて
「んー、虎は止めとけ。身体中が痛くなって、堪らんからな」
苦笑いをした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます