第9話 辻斬り
一、
「兄貴、早くして下さいよ。もう」
「歩き疲れて、足が痛てぇよ」
辺りは、すっかりと暗くなっており。左近達は帰り道を急いでいた。
「この位で、弱音を吐いていたら、立派な忍びにはなれませんよ」
「俺は
左近達は霞に頼まれて、川崎まで評判の醤油を買いに行った帰りだった。
「もう、だめだわ」
左近は堪らずに道端に座り込んだ。
お使いを終えた二人は、これも川崎で評判の、酒とくず餅をたらふくと喰らってしまい、遅くなってしまったのだ。
「あーあ、遂に座り込んだよ。大体、酒を飲み過ぎなんですよ」
「俺は悪く無い。旨すぎる川崎の酒が悪いんだよ」
その時だった。
「ひぇー、」
男の悲鳴が聞こえた。
「なんだっ、」
左近達が悲鳴の方を見ると、町人らしき男が腰を抜かして尻餅を突いている。
二人は急いで駆け寄った。
町人の所に着くと、左近達からは見えなかった方向に、斬られて倒れている侍と、それを斬ったと思われる侍が立っている。
「辻斬りか?」
左近の言葉に振り向いた侍は、般若の面を被っている。
「般若?」
「おいおい、絵に書いたような。辻斬りだな」
左近を見た。般若の面を被った辻斬りは、
刀を大きく八相に構えると
「きぇーい」
奇声を出して、こちらに走って来る。
それを見た左近は
「やべぇぞ、ありゃあ、本物だ」
「本物って?」
「本物の示現流だ」
般若の面は、
「ちくしょう、」
左近は刀に手を掛けると
「彦三、そいつを抱えて下がれ」
そして、中腰になった。
「全霊で打ち込んでくんだろうな。奴ら、加減がねぇから」
数えきれない程の立ち合いをしてきた左近だが、一番苦手な流派と聞かれたら、間違いなく示現流と答えるだろう。
その独特な蜻蛉と云われる構えから、猿叫と云う叫び声で全身全霊に繰り出される剣撃は、正に一撃必殺の剣で、刀で受けよう物なら、刀ごと頭を割られる。
若い頃に、養父と共に初めて示現流を見たときには、左近は驚き、そして、戦慄を覚えた。
「なんて、思い切りの良い剣だ。一撃に、全てを掛ける。ある意味、
左近の養父も、示現流の凄さを認めて、左近に絶対に示現流の太刀を刀で受けぬよう。
できれば、初太刀は外せと教えていた。
やっぱり、初太刀は外そうと左近が思った時だった。
二間先で般若がぴたりと止まった。
「奴ら、走りながらでも打ち込める筈だが」
そう思いながら、左近が般若を見ると
「抜刀術か」
刀を下ろして般若が言った。
「おい、おい、用心したのか、示現流らしくない」
左近は刀を抜いて、立ち上がった。
と、同時に般若が斬りかかって来た。
「きぇーい」
「やべぇ、」
左近は、まさに全身全霊で般若の打ち込みをかわしたが、般若は何度も斬り込んでくる。
「くそっ、」
驚いて般若が後ろに下がり、間を取った。
「はあ、やばかった」
左近は、ぜぇぜぇと肩を上げている。
そして、正眼に構えると
「よし、何とか
確かに、打ち込んいる内に、般若の打ち込む速さも力も落ちてきている。
「面も被っているから、もう、苦しんじゃねぇのか」
「ふん」
般若が又、打ち込んで来たが、左近は刀をすっと伸ばして絡ませ、体さばきも使い、般若を体ごと弾いて倒した。
そして、切っ先を般若に向け、中段に構えて
「随分と力を使ったな、もう、おめぇの剣撃は恐くねぇぞ」
般若はすかさず、立ち上がり蜻蛉に構えたが、今度は刀を左近に向かい、思い切り投げた。
投げられた刀を左近は刀で弾く
その隙を見て、般若は逃げ出した。
「あーあ、武士の魂を投げちゃたよ。ありゃあ、示現流の面汚しだな」
その様子をはらはらと見ていた彦佐が、近付く
「兄貴、大丈夫ですか」
左近は彦佐を見て
「やばかったな、示現流を知って無ければ、やられてなかもな」
そして、般若の投げていった刀を拾う
二、
翌日になると、般若に斬られた侍の身元が分かった。
日本橋にある。新明流の道場の師範代で杉本伊織と云う侍だ。
杉本は久留米藩士で、御前試合の声も掛かっていた程の剣士であった。
その話しを彦佐から聞きながら、左近は般若の置いていった刀を見ていた。
「立派な、
彦佐も覗きこむ
「何が違うんですか?」
「持って見ろ」
左近が彦佐に刀を渡す。
横に受け取った彦佐が、切っ先から刀を見渡し
「なんか、しっかりしてますね」
「打ち込む用の刀だからな、少し重いだろ」
「はい、あれっ」
彦佐は驚き
「これ、柄が反ってますよ」
「ああ、それは薩摩拵えの特徴だな」
刀の柄が内側に反っている。
「打ち込む時に力が入るんだろ。それと、打撃が少し速くなるのかな?」
「ふーん、色々違いますね」
柄尻も大きくなっていて、すっぽ抜けにくくなっている。
「
「八相(蜻蛉)に構えるから、小さい方がこめかみとかに、当たりにくんじゃねぇのか」
「あれっ、これ、
彦佐が鍔に散りばめてある。金に気が付いた。
それを聞いて、左近は
「そうなんだよな、おそらく、それは金だろう」
そして、顎に手を当て
「薩摩藩の上級武士は、いざと云う時に使う為に、鍔に金を入れておくと聞いた事がある」
「するって云うと?」
「般若は、薩摩藩の上の方の奴かも知れんな」
三、
江戸の外れ、渋谷村にある別邸の庭を望む客間に、薩摩藩江戸家老。新納伊勢守元久が居た。
落雁を頬張り、茶を飲んでいる。
そこに庭から、庭師の格好をした男が入って来て元久の前に膝まづいた。
「半助、旨いぞ。食ってみろ」
半助と呼ばれた男に、落雁を差し出した。
半助は落雁を受け取り、口に入れてしゃぶる
「結構な、お味でございます」
「だろう、江戸で評判の落雁だ」
口の落雁が、無くなるのを確認して
「長之助様の事ですが」
「ふむ」
半助は、元久が抱える忍びである。
「昨夜も江戸市中で、久留米の者を襲って、斬り捨てました」
「そうか」
元久が眉間に皺を寄せる。
「一度や二度なら何とかなろうが、こう度々では」
「心中、お察し致します」
「薩摩より、行二郎を呼んだ」
「それでは」
半助は忍びであるが、侍身分で元久の古臣であり、元久の相談相手でもある。
「身の丈も高く、勉学優秀。剣術も師範代の腕前。良い跡継ぎが出来たと思っていたのだが」
「長之助様は何かに取り憑かれたのでしょう、薩摩に帰り、ご療養をすれば」
半助の言葉に元久は
「恐らく、もう、長之助は駄目だろう。家老に必要なのは算術、胆力、慈悲の心だ。
長之助は、その三つとも、失っている」
四、
江戸にある。薩摩の上屋敷の一室で、新納家嫡男。長之助は歯ぎしりをしていた。
示現流を馬鹿にして、御前試合に出られるなどと、浮かれていた杉本伊織を倒したのは良いが
変な侍に、又、示現流を馬鹿にされた。
「日の本で一番の剣術は示現流だ。そして、江戸一番の剣豪は、この新納長之助様だ」
長之助は幼い頃から神童と呼ばれ、読み書きはもちろん、兵法もすぐに暗記し、剣術も示現流の免許皆伝を持っている。
身の丈も高く、物静か、端正な顔付きもしていて、正に皆が憧れる。江戸家老の跡継ぎであった。
しかし、それが悪かったのか、世の中に完璧な者など居ない 。
自身が完璧だと思う長之助は、いつしか、周りの者を馬鹿にするようになった。
唯一認める。厳しい父の目もあるので、人前では物静かにしているが、気に食わぬ事があると、裏で仕返しをするようになった。
特に誇り高いので、自分や薩摩藩。示現流を馬鹿にする者は許せ無くなり、仕返しをする。
そして賢いので、中々周りにもばれなかった。
そうして育って来たので、長之助の心は歪んでしまった。
新納家の跡取りとして江戸に出て来たのだが、幼い頃より馴染んで来て、最強の剣術、示現流が、江戸では、ほとんどの者が知らず。
知っている少数の者にも異質の剣として扱われるのが、我慢ならなかった。
電光石火の剛剣、薩摩示現流は最強の剣、その思いは長之助の中で日に日に強くなり
馬鹿にされた噂を聞いた事で爆発した。
「最強の示現流を馬鹿にする奴は許さん。
斬ってやる。なーに、上手くやれば、ばれる事は無い。それに、こちらは天下の大藩、薩摩藩。いざとなったら、どうとでもなる」
始めは、公然と示現流を馬鹿にしている。
二人だけを斬り、その後はやめよう思っていたが、いざ、それが成功すると味をしめ、
三人目、四人目と進み
七人を超える頃には、江戸市中に示現流の辻斬りが居ると噂になった。
まず、示現流は藩外不出の剣なので、示現流の辻斬りが居るのがまずいし、外様である薩摩藩が関わっているのもまずい。
それらの事を思い、江戸家老。新納元久は長之助を廃嫡し、薩摩に帰そうとした。
その事も長之助に、今朝。知らされたのである。
「まあ、薩摩に帰される事は良いだろう。
また、策を
長之助は、思い切り机を叩くと
「だが、天才の俺を馬鹿にした。あの侍だけは許せん。薩摩に帰る前に斬ってやる」
少し経って、屋敷に使える中間が、長之助の部屋を訪ねて来た。
「長之助様、」
長之助は平静の顔を作り
「おお、留六。帰ったか」
やさしく、声を掛けた。
留六は長之助の前に座り
「辻斬りとやり合った。侍が分かりました」
「誰だ」
「おそらく、今、江戸で噂の直方左近です」
「直方左近!」
その名は、聞いた事がある。
虎を斬っただの、神速と呼ばれた達素小三郎を破っただの、死神と共に三十人の浪人を斬っただのと
今、江戸で一番と噂の剣豪だ。
「あの、直方左近か」
機会があれば、戦いたい相手ではあったのだが、あれが
「留六、ご苦労だったな。役目柄の事だ。
この事は、又、内緒にしてくれ」
長之助が口止めをして、礼金を渡すと、留六は部屋を出て行った。
襖が閉まるのを確認して、長之助は両拳を握り机に置いた。
「なるほど、あの直方左近だったのか!
ならば、今回の事も納得出来る」
にたにたと笑いだし
「奴を斬れば。俺が江戸で一番。いや、日の本で一番の剣豪だ」
長之助は、伏せていた上半身を起こすと
「今までで一番の大物だな、念の為だ。勝つための算段をしないとな」
五、
般若に会った。町外れの通りに椅子を置き、どっかと左近が腰を掛けていて、脇には彦佐が立っている。
「彦佐、水だ」
彦佐が、水の入った瓢箪を渡す。左近はそれをぐいっと飲み
「本当に水だな」
「これから、立ち合いをするのに、酒は飲ませられませんよ」
「終わったら、死ぬほど飲んでやる」
「こんな所で待っていて、本当に般若が来るんですか」
「来る」
左近は自信を持って答える。
「奴は死合いと云う、病に取り憑かれているので、必ず来る」
彦佐は呆れて
「何なんですか、その自信は」
「前に秦野で兵吾と立ち合った時に言ったろ、死合いはあぶない
「はい」
「何回も般若は、出てるって話しだからな。辻斬りをしている内に、やめられなくなったんだろうな」
「そうなんですか?」
そんなに納得もできずに彦佐が答える。
「それに、これも取り返したいだろうしな」
般若の置いて行った。刀を出した。
「金が入っているからですか」
「それもある。それに、これで身元がばれるからな」
「まあ、そうですけど」
「町奉行に掛け合って、般若をやったら、三十両くれるって云うし。何より、あんな奴が江戸市中に居たら、物騒でたまらん」
通りを通る。町人や侍などに気味悪がられながら、一時程。過ぎただろうか
子の刻を回った頃、般若は現れた。
左近はにやりと笑い
「やっぱり、来たか!」
先日と違い、般若の面の口元が無い、それに左近が気付き
「おっ、息切れ対策か」
般若はゆっくりと近づき、三軒先で止まった。
「貴様、直方左近か?」
「ほう、俺の名を知っているのか。薩摩藩士」
左近が答えると
「ふん、俺の正体を突き止めたつもりか」
「こっちには、立派な薩摩拵えもあるしな」
彦佐が、持っている刀を掲げる。
「それも、返して貰うぞ」
そう言うと、長之助は大きく蜻蛉に構えて息をした。
「この前より、構えが高い」
彦佐が呟く
左近も刀を抜き、正眼に構えた。
だが、左近が構えると同時に、長之助が猿叫で斬り掛かって来た。
「きぇーい」
大振りだが太刀筋は鋭い。左近は刀で身を隠しながら、半身でかわした。
「よし、初太刀をかわした」
そう思った瞬間だった。
長之助は振り下ろした太刀を翻して、今度は下から斬り上げた。
「燕返し?」
少し形は違うが、それは、左近の養父の得意技であった。燕返しだった。
「ふぅ、」
燕返しを見馴れていた。左近だから、避ける事が出来た。
左足を引いて奇跡的に、それも紙一重でかわした。
「なにっ、」
かわされた長之助は驚いた。
これは示現流の奥義だからだ。
「くそっ、」
長之助が地団駄を踏む
「やばかったな」
かわした左近も不思議に感じている。
「きぇーい」
長之助が蜻蛉で斬り掛かってくる。
相変わらずの連撃を左近は、体さばきと刀でかわしていく、長之助の動きが止まり
「どうした。それで終わりか、薩摩藩士」
左近が余裕を見せた。その時だった。
長之助が隠し持っていた。砂を左近の顔にかけた。
「うぉっ、」
砂が目に入り、左近が目を閉じる。
「兄貴!」
「しめた」
長之助は勝ちを確信して斬り掛かった。
だが、目の見えない筈の左近が、長之助の切っ先を避けて、逆袈裟で長之助を斬った。
腹を斬られた長之助が倒れる。
「兄貴、」
心配した彦佐が左近に駆け寄った。
「致命傷だな」
そう悟った左近は、般若の面を取り、長之助を抱えた。
思いの他、若い顔立ちをしている。
「馬鹿な奴だ。もう一度、燕返しをしたら、勝てたのに」
長之助は左近の顔を見ると。笑みを浮かべ
「すごいな、虎殺しの左近。目が見えなくても斬れるのか」
「何度も、お前の太刀筋を見たからな」
「どうして、こうなって、しまったのだろう」
「どこかで、道を踏み外してしまったんだろうよ」
長之助は又、笑い
「示現流は最強の剣ですよね?」
「ああ、今度、生まれ変わったら、本当の示現流を極めろよ」
長之助は苦しそうに息を荒げて、血のまじった咳をしながら
「そうか、本当の示現流じゃ無かったから。負けたのか」
言い終わり。星空を見上げて、眠るように事切れた。
六、
それから、薩摩藩。江戸家老の嫡男が病死したとの噂が左近の耳にも入った。
大池の
「何だったんだろうな」
「ええ、」
「見た目も良くて、剣の腕も立つ。頭だって悪くないだろうに」
「そうですよね、あんな汚い立ち合いが出来るんですから」
「家柄だって、薩摩藩の家老。何の不満があるんだ」
「ありすぎるのも問題なんじゃないんですか」
「そう云うもんか、只、若い奴を斬るのは、たまらんな」
彦佐は立ち上がり
「兄貴は良くやりましたよ。あんな奴でも情けを掛けて、おまけに亡骸や刀まで薩摩藩に届けて。もう、十分ですよ」
「んー、」
左近は思い込んで
「そうか」
そう言って小石を大池に投げた。
静かな水面に、小石の波紋が、いくつも広がった。
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