二学期

 フロージーが、面倒を見ている一年生を連れて歩いている様を、僕はあまり見たことがない。それはハマやほかの同級生たちも同じだったらしく、フロージーが教室を出た途端に、僕とハマ、そして周りの友達が噂話を始める。「そういえば、フロージーの奴、誰の面倒を見ているんだ?」「一緒にいるところを見たことがないよな。噂ではとんでもない三ツ星の優等生らしいぞ」

「フロージーが三ツ星の生徒を?」

 僕が顎に手を当てながら疑問を呟くと、同級生たちは口々に、「らしいぞ」「でも、あいつのことだし、そうだったらものすごく自慢してくるよなあ……」

「フロージー、誰の面倒も見てなかったりして」

 誰かがぼそっと発した言葉が、波紋のように広がっていく。それに腹を抱えたのはハマだ。「はは、さすがにそれはないだろう」

 すると、低い不機嫌な声が僕らの中に割って入ってきた。「何の話だよ」

 その場の全員がはっと口を噤み、声の主を振り返る。教室の扉に手をかけて、フロージーが眉間に皺を寄せて立っていた。同級生が「いや」とか「なんでも……」とか言っていたけれど、それには取り合わなかったところを見るに、フロージーには話題まではきこえなかったのか、それとも、それは彼としてもあまり触れられたくない話題だったのか……。

「あいつが面倒をみている一年生? ああ、デイズのこと?」

 ある日、寮室に戻ってからしばらくして、お風呂から上がったクロを捕まえ、僕がそう訊ねると、あっさりクロはその名前を教えてくれた。デイズはクロとは隣の学級の一年生で、三ツ星で成績優秀、真面目な生徒であるらしい。「あいつ、いけすかないんだよな」とはクロの言。

「いけすかない? どうして」

「なんか、話しかけてもうんともすんとも言わないんだ。でも先生が話しかけるとちゃんと話すんだよ。いつも本ばっかり読んでて。あ、でも、フロージーがデイズを図書館まで迎えに来てること、よくあるよ」

「フロージーが……迎えに……?」

 ――ちょっとそれは、なんていうか……ものすごく想像しづらいというか……。

 結局、クロからききだせた情報はそれだけで、僕としても寝て起きたらそのこともすっかり忘れていた。

 朝、風邪っぽくもないのに喉ががらがらで、僕は憂鬱だった。喉風邪を引いたのだろうか、と思っただけで済ませて、いつものように教室へ向かう。その途中でハマと会い、「おはよう」と言った僕の顔を覗き込んで、ハマは「ミヤギ、声変わりか?」とあっさり言った。……声変わりだって?

 「え、声変わり?」と僕が鸚鵡返しすると、ハマは頬をぽりぽり掻きながら、「ぽくないか、風邪じゃないんだろ」

「声変わり……!?」

「どれだけ驚いているんだよ、そんなことくらいあるだろう。むしろ十四までなかったことが驚きだって。俺は十二できたぞ」

 「ハマ、ミヤギ、おはよう」とほかの友達がハマに声をかける。ハマが挨拶し返しているのをききながら、意識が急速に遠くなっていく感じがした。勿論ショックなんかじゃないんだけれど、むしろやっとかとも思うんだけれど――なんでこんなに恥ずかしいというか、違和感のようなものが付き纏うのだろう。

 フロージーが教室にくるまで、僕はなぜかびくびくして過ごした。なんて言われるんだろう、こんな、今頃声変わりなんて――「ミヤギ、今頃かよ」と嫌味に笑われたら……

 フロージーが教室の戸を開けて、力強い足音で室内に入ってきた時、僕はぎゅっと目を瞑っていた。なにも気にすることはない、恥ずかしいことなんかじゃないんだから、と思うのに。

 でも、僕の予想と外れて、教室内は一斉に、フロージーに対してざわついた。僕が「なに?」と怖々目を開けると、フロージーの後ろについてちょこちょこ歩く、小さな姿が視界に入る。

 まず目に入ってきたのは、その赤縁の大きな眼鏡だ。それからまっすぐな黒髪に、その両手で大きな本を一冊抱えて、肩にはぱんぱんになにかが詰まったバッグを背負っている。

 「ほら、これでいいか、デイズ」とフロージーが彼をデイズと呼ぶ。そのとき教室は奇妙なほどに静まり返っていて、初めての、フロージーが面倒を見る一年生の登場に、全員が息を凝らしているようだった。

 デイズは小さく頷き、フロージーが手渡した分厚いその教科書を片手で受け取った。

 片手に本、反対には分厚い教科書、肩にはぱんぱんの鞄――といういでたちは、七歳になるかならないかの一年生にしては奇妙すぎるというか……「うん、ありがとう」とそんな僕らの心中も知らず、デイズは本当に嬉しそうに笑っている。

「ほら、教室に戻るぞ。俺もついていくから」

 フロージーの言葉に、静かに僕らは騒めく。「いいよ、フロージー、朝礼始まるでしょう」とデイズが返したけれど、それより僕らの頭の中にはものすごい衝撃が走っていた。

 ――あのフロージーが、一年生を教室まで送り迎えしている……?

 しかも、あの二人の会話の雰囲気からすると、それはすごく自然なもので、それがますます僕らには大事件だった。フロージーがデイズと教室を出た瞬間、ざわめきは大きくなり、皆が口々に言う。「どういうこと?」「頭でも打ったんじゃないか」「フロージになにか、悲しいことでもあったのかもしれないな」

 「意外なものを見たなあ」とハマが呑気に語尾を伸ばす。僕はうんうんと頷いて、「あんなこともあるんだね、ちょっと驚いた」

 ――ああ、でも、そういえば。

「そうだ、クロが昨日、そんなことを言っていたような」

 僕の言葉に、ハマは首を傾げる。「うん?」

「あのね、いつも、フロージーはデイズを図書館まで迎えに来てるんだって、クロが言っていたんだ」

 ハマが渋面で、「図書館……」と呟き、「あの様子だと、あのデイズってやつ、本が好きなんだな。本と言うか、勉強が好きなんだろうなあ」

 「俺は合わなさそうなタイプ」とハマがこぼすことはあまりないことで、「確かにハマには合わなさそう」と僕も思って頷いた。……あれ、でも僕、デイズとタイプが近いような……?

 デイズの件は、ちょっとしたスキャンダルになった。フロージー自身の前で、大ぴらに揶揄う人はさすがにいなかったけれど、誰かがそのことをちらりと口にするたび、皆がしんと押し黙るのだ。中には自分もフロージーと同じタイプだと思っている人もいて、そういう性質の人はだいたいが「まあそうなるよなあ」と囁きあっているようだった。

 でも、大多数はそこまで過保護ではないせいか、「いやでも、毎日送り迎えしているのか?」というところから始まって、いつの間にか、「デイズがなにをするにもフロージーが手伝っている」とか、「一緒のベッドで寝ている」とか――噂に間抜けな尾ひれがつく始末だった。

 「フロージーが同じベッドに寝るのは、物理的に無理じゃないか」と笑い飛ばすハマは、本当に大物だと思う。でも、まあ僕も同意見だから、なにも言わないでおいている。

「そういえば、ミヤギの声も落ち着いてきたな」

「ああ、うん、まだちょっと慣れないけど……」

 僕の声は、ハマの言う通り声変わりであったらしく、アルトボイスから少し低くなったようだった。テノールというほど低くないから、もう少し後々からそうなればいいなとのんびり構えている。

 僕の声のことを揶揄う人はいなかった。きっと僕が考えすぎていただけで、やっぱり声変わりなんて気にする人はいないらしい。僕は自分でなにが嫌だったのか考えて、やっと、「十四なんて遅い年齢に声変わりがきたことが恥ずかしかったのだ」ということに気が付いて、ちょっとだけすっきりもしていた。

 フロージーとデイズの噂が隠してくれた、というのも、すこしある気はしている。でも、それを感謝するのはちょっとな、という良心のようなものが僕の耳元で囁いている……。

 フロージーが教室に入ってきて、級友たちに挨拶もせずどかりと席についた。ごそごそと荷物を漁る彼はどこか不機嫌そうで、いつもは嫌な顔をしていてもにやにや笑いは崩さないのに、とそのフロージーの異変に周囲はなんとなく気が付いているようで、教室内の空気に緊張のようなものが走っていた。

 「フロージー、どうした?」と彼の付き人のようにいつもくっついているリタ――針金のような細身に、顔にはフロージーを真似したにたにた笑いを貼り付けている――が恐る恐る声をかける。フロージーは鼻を鳴らし、ぎろりと僕を見た。僕はすかさず、八つ当たりだろうと察して「なに?」と切り返す。

 「うるさいな」とフロージーが呟き、意味が分からなくて僕は首を傾げた。フロージーは追従する。「声変わりしたんだな、ミヤギ。女みたいな声だったもんな」

 「……うるさい?」と僕は眉を跳ね上げる。ハマががたりと立ち上がったけれど、なぜかハマはフロージーの表情を見て、すぐに座ってしまった。視界の隅でハマが腕を組む。

 「そういえば、フロージー」、僕は彼の最初の一言が、自分に向けられたものだろうと思い込んで、苛立ちをたっぷり込めて言葉を発した。「デイズにすごく優しいらしいじゃない、らしくないよね」

 ――自分で苛立ち任せに発言したけれど、さっとフロージーの表情が変わったことに、僕は一番言ってはいけないことを言ってしまったことに気が付いて、「あ」と思う。でも、もう遅い。

 フロージーが殴りかかってくるだろうと思ったのに、意外にも彼はなにも言わず、激しい音を立てて席を立つと、僕の机を一度思い切り蹴って、それに怯んだ僕を睨みつけただけで、教室を出て行った。

 フロージーは、その日、教室に戻ってこなかった。

 僕のほうがすっかり気落ちしてしまって、その日、最近忙しくてあまり本も読めていなかったから、と理由をつけて、気晴らしに図書館にいくと、そこにはあの子――デイズが居た。

 デイズはぱらぱらと、年上の僕が読んでもかなり難しかった分厚い本を捲っている。すごく集中しているようだから、僕がこっそり後ろを通っても、まったく気が付かない。というか僕を知るはずがないのでは、ということに僕のほうが「気が付いた」くらいだ。

 小説よりも難しい参考書のほうが読みたい、という気分で、参考書の並ぶ本棚へと静かな足音で行く。しんと静まり返った放課後の図書館には、僕とデイズ、そして司書さんしかいない。そこに、唐突にばたばた入ってきたのがクロだった。「静かに!」と司書さんの神経質な声が響いて、クロは小さく頭を下げて漫画の本棚に走っていった。

 僕はその姿をこっそり追ってクロの背に近づき、その頭を小突く。「いてっ!?」と声をあげたクロに、「室内は走らない」と僕は呟いた。

「ミヤギ? びっくりした」

 クロがその真ん丸な目をさらに丸くしたことに、僕はため息を吐き、「びっくりしたのは、こっち」と腰に手を当てる。

「クロ、本当に図書館にきてたんだね。よく来るの?」

「漫画があるから。それに、ここ、運動部がよく見える」

 そういって、クロが窓の外を見る。漫画のコーナーは窓の傍、図書館の端っこにあって、そこからすこし離れたところに、背の高いフェンスを挟んで、運動部が練習をしている。「運動部?」と僕は訊き返して、それから、「入りたいの? クロ」

「まだ、入れないだろ。先生がまだだめだって言ってた」

 クロが頬を膨らませて言う。僕は「ああ、なるほど」と思った。

 リデラは、部活動は中学年からしか入れない。つまり十歳からやっと本格的に開始できるようになるため、それ以前からなにか一芸を身につけようと思ったら、個人個人でレッスンに通うしかないのだった。勿論、レッスン自体は簡単な申請さえすれば通うことができるのだけれど……。

 「レッスンには通わないの」と僕が再び訊ねると、クロは赤い唇を尖らせて、「父さんが、良いところを選んでくれるって言ってたけど、忙しくて」

 なるほど、と僕は頷く。それなら仕方ないことだし、それ以上突っ込むこともできはしない。

 「運動部なら、なにに……」と僕が訊こうとした瞬間、ふと視線を感じて、僕はそちらを見た。デイズが、向かい合わせの書棚の傍から、こちらをじっと見ている。「あ、ごめん。うるさかった?」と僕が誤魔化して微笑むと、デイズはすぐ目を逸らしてほかの書棚へと行ってしまった。

 「ほら、喋んないだろ、あいつ」とクロがぼそりと呟く。僕は深い息を吐いて、後ろ頭をちょっとだけ掻いた。「人見知りかなあ……」

 クロはそんな僕のひとり言なんてもう耳に入っていない様子で、今度はじっと窓の外を見詰めていた。何の運動部を見ているのだろう、と僕もクロと同じ方向を見る。でもその目はいろいろな部活のほうへとあっちこっちに忙しなく移り変わっていて、ああもしかして、とも思った。「クロ、どの部活も楽しそうだよね」

「うん。いまはもうすこし考えるんだ。なにに入るか」

 「途中でやめたくないだろ」とクロは顔をくしゃくしゃにして笑う。僕も笑ってみせて、運動部なんてものと全く縁がなかった僕の運動神経のなさが、ちょっと残念というか――そんな風な夢を見る、そういうクロのことが、初めて眩しく見えた。

◇◇

「ミヤギ、ちょっといいか」

 寮室に戻って、食事とお風呂を済ませ、勉強机についていたとき、そういってハマが寮室の戸をノックした。

 クロが「ハマだよ」と僕に声をかける。僕は時間が経つにつれ、またあのフロージーに対して放ってしまった失言を思い返してしまい落ち込んでいて、勉強もあまり頭に入ってこなかった状態だった。だからなのか、ハマにすら「僕がなにかしてしまったのかな」と不安になる。

 ハマがそうやって、部屋に入る前にわざわざ僕に声をかけるのは、なにか大事なことがあるときが多いのだ。僕はゆっくり扉を開けて、「どうかした? ハマ」と努めていつも通りに笑ったつもりだった。頬が攣るのは仕方がない。

 でもそこにはハマのほかに級友が二人いて、不思議に思って僕が事情を聴くと、「ミヤギに相談したいことがあるんだ」と級友たちはハマを頼ってきたらしかった。僕は「どうしたの?」と部屋にみんなを入れて戸を閉める。

「フロージーにさ、……俺らも謝った方がいいかな」

 ちょっと視線を交わした後、二人はそう僕に持ち掛けた。僕はますます首を傾げる。「えっと……?」

 「こいつらさ、デイズのことで結構尾ひれつけて話してただろ。フロージーが最初にうるさいって言ったのって、ミヤギにじゃなくて、教室の全員に言ってたんじゃないかってさ」とハマが言葉を付け足す。僕はますます浮かぶ疑問が整理できなくて、「うん……?」

 僕がなにかをしたというわけではないということは察しても、状況がいまいち分からないでいる僕に気が付いたのか、もう一人が口を開いた。「えっと……だからさ。ミヤギ、お前のことを揶揄ったのは、フロージーが悪いと思うよ。でも、最初にうるさいなって言っただろう、あいつ。それ、俺らに言ってたんじゃないかって……よくよく考えたら、たぶん、ミヤギはあのうるさいって言葉を、自分の声のことだと思ったんじゃないか? 俺らもさ、ミヤギがあんな言い方するなんてよっぽどだなって、それも考えてさ」

「俺らはすぐに、フロージーがああ言ったとき、あ、やりすぎたなって思ったわけ。ほら、変な噂立てて、笑い物みたいにしちゃってたからさ……、で、墓穴をミヤギが掘っちゃったもんだから、フロージー、ミヤギになにも言わずに出ていっただろう。あれ、多分、フロージーも、タイミングが悪かったなってちょっと思ったんじゃないかと……」

 「でも、そもそもふたりにそんな喧嘩をさせたのって、俺たちがフロージーを影で散々馬鹿にしたみたいなもんだったからだろう。そんなつもりなかったけど、フロージーはあんなこと言われてたらそりゃあ傷つくし、嫌だったろうなって……」と二人は再び顔を見合わせる。

 僕はああ、とやっと理解して、ちょっと目を逸らして考えた後、「みんなで謝る……?」と頼りない答えを出した。ハマがふうと息を吐く。

「悪いことをしたなら謝らないと」

 そう、クロがぼそりと呟いた言葉が、僕ら四人の耳にはっきり響く。僕らは一瞬きょとんと目を丸くしてから、クロを同時に見た。クロはなんだかすごく真面目な顔をして、僕の方ではなく、級友ふたりのほうをまっすぐ見ていた。「父さんが、いつも言ってる。悪いことだってちゃんとわかってて、敢えてしたなら、あとで後悔して謝ったって遅いけど、敢えてじゃないならまず謝って、あとは相手にめちゃくちゃに怒られるべきだって」

 しん、と室内が静まり返る。クロはその静けさが居心地悪かったらしく、「よくわかんないけど……」と付け足してそっぽを向いた。「俺、寝る」と真っ赤になったクロの、小さな背中が寝室に消えてから、僕らは静かに頷きあった。「確かに、クロワードの言う通りだな」と呟いたのは誰だったのだろう。

 次の日、僕ら四人は集まって、ひそひそ話していた。「いまじゃないと、捕まらないかも」「こんな早くに……ますます怒らないかな」「仕方ないだろう、今日も教室に来ないかもしれないんだし……」

 ごそごそ、と室内から物音がしている。「デイズ、忘れ物はないか?」とフロージーの声。「ないよ、ありがとう」とデイズらしい高い声も聴こえる。僕らは緊張で息が詰まる思いだった。

 時刻は朝で、フロージーが部屋を出るだろう時間より早く、昨日の夜のメンバーが集まって彼の寮室の前を陣取っていたのだ。廊下から差し込む朝の光はまぶしく、僕の部屋と違って校舎の立派な石造りの城が見えない場所、でも裏の林の隙間から漏れた光が、窓から廊下を照らす、そんな場所にフロージーの部屋はある。

 その部屋は元々二人部屋で、いまは一年生も含めての四人部屋だ。

 リタもフロージーと同室で、だからこそふたりは仲が良いのだということにふと気が付き、「リタはフロージーの付き人」だというのは、僕の勝手な思い込みだったのだろうか、と思った。

 もしかしたら……リタはフロージーの、こういう面倒見のいいところを知っていて、だからこそ友達になっていたのかも、といまはなんとなく思う。フロージーは本当に嫌な奴だけれど、デイズに対して優しいことだけは、確かなんだし。

「フロージー?」

 僕はそう恐る恐る声を掛けて戸をノックした。いままでデイズに話しかけていたフロージーの優し気な声がぴたりと止まって、稍々間を置いたあと、ゆっくり軽い足音が近づいてくる。リタだろうかと思ったけれど、それはデイズの声音で、「だれ? 入って良いよ」

 「あ、こら、デイズ!」とフロージーが焦ったような音を立てて、それに僕らは何度目かに顔を見合わせた。「はいるよ」とハマが言う。

 戸を開いたとき、やっぱりフロージーは不機嫌そうにふんぞり返っていて、その様子がいつも通りだったからか、僕らは知らず知らず安堵した。でもやっぱり、そんなフロージーや僕らを、自分たちで笑い飛ばす気にもなれず、まず級友の一人が小さく口火を切る。「ごめんな、フロージー。俺ら、言いすぎた」

 「なんだよ、なにを言いすぎたって?」とフロージーが訊き返す。本当に不思議だというような声なんかじゃなくて、眉がぴんと跳ねたことも、そのますます嫌悪を示す声も、ぜんぶ、僕らの要件をフロージーがちゃんと察したことを示している。

 「お前がちゃんと面倒を見ているの、本当に偉いよ。それをこう……いろいろ言っていた俺らのほうが、その」もうひとりがそう言葉を繋ぐと、フロージーはふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

 ハマがちょっと背筋を伸ばしたのを見て、フロージーは言う。「まあ、良いことにしてやる」

 「それよか、もう出ないとデイズが間に合わないんだよ。そこ、どけ。ほら、邪魔だよ」とフロージーがデイズを手招きして、鞄を持たせ、僕らをどかしにかかる。「邪魔、邪魔!」と大きな声で言いながらぐいぐい僕らを押すものだから、僕らも慌てて散る。「デイズ! いこうぜ」

 「え、え、いいの? みんな謝ってるみたいだけど……なにがあったの?」と戸惑うデイズを後目に、僕たちを追い立ててフロージーは寮室を出て行った。

 その背中がいつもどおりだったからか、僕らははああと緊張の糸が切れて深い息をはく。「あの様子だと、許してくれたのかどうかもわからないな」と誰かが呟いたあとに、やっと僕は、「あれ? 僕のこと、フロージーに謝ってもらっていないな」と、曲がり角の向こうに去っていったフロージーの背を目で追ったけれど、もう遅い。

 ――まあいいか、と僕は違う意味での深いため息を吐いた。

◇◇

 フロージーは、その日から本当にいつも通りに戻り、フロージーのことを馬鹿にするような噂も、それから完全に消えてしまった。一週間ほど経って、二学期の学科も少し進み、秋がきて、すこしだけ寒くなった。

 夏休みの薄着が嘘のように、僕らはまた赤いカーディガンを着込んで、ジャケットは脱いだ状態で、寮から校舎へと短い距離を通う。校舎の立派な石造りの城は肌寒くて、どこかひんやりとしていた。

 花が枯れたのだとしょんぼりしているセリカを慰めたのだと僕に愚痴るハマを、僕が笑い飛ばしていると、そこにのそのそフロージーがやってきて、鼻を一度鳴らして片方の眉を上げた。「なんだ、少し声が低くなったな、ミヤギ」

 その言葉に、「また揶揄う気?」と僕がむっとして言い返すと、フロージーは「いや?」と口角を上げた。「別に」と言い残して去ってしまう。

 「なあに、あれ」と僕がハマを見ると、ハマは顎を触りながら、「……謝っているんじゃないか?」

 僕が唖然と、「へ?」と問うと、ハマはふふんと笑った。「素直じゃない。まあ、らしいといえば、らしいよな」

 「謝っている?」とハマの言葉を繰り返して、僕は「今更……」と呟いたけど、やっぱりフロージーに対してはそれでも、まあいいかと思ってしまって、ちょっと無意識に赤いカーディガンの袖を指で引っ張った。

「デイズと、すこし話すようになったんだ」

 それからまたちょっと経って、二学期の半ば頃に、クロがぽつりと食堂でそう言った。僕、クロ、ハマ、セリカ――といういつものメンバーで囲んでいたテーブルが、にわかに騒めく。「デイズとクロでどんな話をするの?」とセリカが不思議そうに訊ねる。

「どんなって、どんなでもないけど。俺は漫画の話をして、あっちは難しい本の話をするんだ。でもまったく意味が分かんないときもあって、なのになんか、楽しいんだ」

 「すごいんだ。海軍とか、陸軍の話を詳しく教えてくれるんだよ。父さんもなかなか話してくれないようなこととかも、いっぱい」とクロはちょっと目を逸らして言う。僕とハマは目を合わせて、僕が「お父さんも知らないようなことを? すごいね」と言うと、クロはぱっと目を輝かせた。「そうなんだ! すっごいんだよ! 父さんが難しいからっていうところを、デイズはすごくわかりやすく教えてくれるんだ。……なにをって言われても、うまく説明できないけど」

 語尾につれ声のトーンを落としたけれど、クロはそう一息で興奮したように話すと、「すごいんだ、ほんとうに」とデイズのことをそう漏らした。僕はなんだか笑ってしまう。

 「なんで笑うんだよ」とクロが不機嫌そうに言ったけれど、僕としてもなんでこんなに楽しい気持ちになるのかわからない。

 そんな僕らのひとつ向こうの席で、フロージーとデイズが食事をしていたことを知ったのは、それからずっと後のことだった。

 デイズと仲良くなったクロの話によると、デイズはすごい集中力の持ち主で、一度本に集中してしまうと、まったくなにも聴こえなくなるらしい。先生たちは、そんなとき、デイズの肩を軽く叩いてから声をかけてくれるから気が付くだけなのだと、クロは覚束ない説明で僕に愚痴っていた。「愚痴る」というのは、そのあとに続いた言葉のことでもある――「デイズのこと、俺、悪く言ってたけど、俺の方が意地が悪かったみたいだ」

 「そうだね、そうかもしれない」と頷く僕に、クロは頬を膨らませて呟く。「でも、俺が謝っても、あいつ、良いって言って笑うんだよな。なんか納得いかない」

 デイズとクロは正反対のようで、似ているのかもしれないな、と僕はふと思う。そして多分、フロージーも、デイズと似通っている部分があるのだろう。

 リタやデイズはきっと、フロージーの不器用……というか、言い表せない部分を知っているのだ。そういう言い表せない部分というところが、デイズとフロージーはなんだか似ていて、それはもしかしたら、あの気が弱い従者みたいに見えるリタだって、と思ったことも、僕にはなんと言い表せばいいのか分からないけれど。

 ――いつか、もっと後になって、フロージーと友達になる未来があるかもしれないな……。

 そう僕が、自分で予言のように考えてしまったのはなぜだろう。でも、それが実現してしまうのは、本当にずっとずっと、何年も後のことだろうとも、僕は思うんだ。

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