夏休み
1
「本当、ミヤギといるとずっと女子に見られているんだもんな。いつものことだけどさ」
揶揄うように目を細めたハマに、僕が「そうかな」と呑気に答えたとき、クロの金切り声がきんと耳に響いた。「ハマ! セリカがアイス溢してる!」
屋台のテラス席でアイスを食べていた僕らは、ほかのお客さんたちと同じように、わいわいと楽しく会話をしていた。ピンクの屋根に青い空がよく映えているこのアイス屋にくる理由は、ひとえに寮からとても近いからだ。
クロの言葉に、ハマは椅子から身を乗り出し、セリカの汚れた服を拭いてやっている。「セリカ、アイスは眺めてたら溶けるんだから、はやく食うんだ」
そんなハマに、セリカは一生懸命なにかを話しかけていた。「うん、あのね、ハマ。あそこにすごく可愛い女の子がいるんだ」
「なあに、女の子……?」と僕がそのセリカの言葉に驚いて訊き返すと、セリカはちょっと頬を赤らめた。
セリカ=ホワードは、ちょっとだけ変わっているというか、のんびりした、ハマが面倒を見ている新入生だった。
胡桃色の巻き毛に大きな目を「栗鼠みたいだ」と笑ったのはハマで、そのときのハマの悪戯っぽい表情には、セリカはぽかんとしていたっけ。
そばかすがなんだか憎めない雰囲気のあるセリカは、先述したようにのんびりしていて、だからこそなのか、あのハマがなかなか手を焼いているのが、ちょっとだけ面白いと思う。まあ、僕もクロには手を焼いているんだけれど……。
「セリカが言う女の子って、あそこの金髪の子?」
僕が目線を送ったのは、セリカと同い年くらいの小さな金髪の女の子だった。しかしセリカは首を何度も横に振り、「ちがう」
「あっちの美人だろ、セリカ。まあでも、あれはちょっと分が悪いぞ。あの子は多分――」とハマが、セリカからまっすぐ向こうにいる別の女の子を顎で指し、「ミヤギに気がある」とにんまり笑った。
ハマが揶揄っているのだと分かっている僕は、苦笑する。「ハマ、またそういうことを……」
その子は、黒い髪が綺麗な、僕やハマと同い年くらいの美少女だった。長い睫毛が、遠くからでもその長さがわかるくらいはっきりと、青い目を縁取っていて、その肌は白い。ほっそりした体型に、女学園の制服がよく似合っていた。
その女学園は、美人が多いんだって、リデラ学園でもちょっと有名なのだ。
「だってさ、ミヤギ。あそこの学校は、ミヤギのファンクラブがあっただろ」
ハマの言葉に、僕はアイスを喉に詰まらせる。「その話はやめてよ……」
話をきいていたらしい、なぜかいままで黙り込んでいたクロが、「ミヤギにファンクラブ?」と丸い目をますます丸くして身を乗り出した。
そのクロの顔には、「面白そうな話だ」とはっきり書いてあって、僕は頭が痛くなりそうだった。
「気が付かなかったのか、クロワード。ミヤギと一緒にいると、いつも女子に見られているだろ。そういうことだよ。この町でミヤギはちょっと有名でさ――」
ハマが話を続けたことに、僕は吃驚して「ハマ! やめてよ」とハマを止めたけれど、ハマはどこ吹く風だ。「ほら、ミヤギはこれだろ。かわいいとか女の子みたいだとか言ってな、女子たちにすごい人気なんだよ」
赤面して俯いた僕を、クロが「女みたい?」と不思議そうに繰り返して僕の顔をまじまじ覗き込んだ。僕はそんなクロを負け惜しみのようにちょっとだけ睨む。クロがけらけら笑った。「女かあ、確かに」
「そういうクロだって、天使みたいな顔してるくせに」
僕の言葉に、クロはその目を団栗のように丸くする。「天使?」
「クロワードが天使か、どちらかというと悪魔……」とハマがしみじみ言うと、クロはハマを振り返って首を傾げる。「どういうことだよ?」
「外見が可愛いのは、クロも一緒ってこと――」
僕がそう言いかけたとき、黒髪の女の子が、友達と楽しそうに話しながら席を立った。なんだか気になってしまって、その子をこっそり見ていた僕たちは、その動作に全員が釘付けになる。その子がいなくなって、はああと長いため息を吐いたのはセリカだった。「かわいかったね、ねえ、クロワード」
「そうかあ?」
「クロワードは素直じゃないからな、セリカ」
語尾を伸ばして曖昧に返事したクロと反対に、にんまり笑ってハマが言う。セリカはクロとハマを見た。そんなセリカに、僕は思っていたことを呟く。「セリカが女の子に興味あるなんて、ちょっと意外だな。意外っていうとちょっと違うかもだけど」
「そう?」とセリカが訊き返したから、僕は続けた。「僕がセリカくらいだったときって、あんまりそういう話、しなかった気がするけど、セリカはそういうこと、素直に言うんだなって」
「まあ、言われてみればそうかもな。俺もセリカくらいのときは、どちらかというと可愛い子をいじめてたかも」
「え、可愛い女の子をいじめる……?」
僕に追従したハマに、セリカは「本気で意味がわからない」とでも言いそうに、眉をひそめた。もしかして、セリカは将来フェミニストになるかもしれないとふと考えて、僕はちょっと微笑む。
「あの子の名前、知りたいな」
セリカが夢見心地で呟いた言葉が、僕の頭に残ったのはなんでだろう。セリカのその言葉に、僕も「本当に」と同意しそうになったけれど、頭を振ってその考えを追い出した。
◇◇
夏休み目前になり、リデラ学園はいつもより騒がしい。今年の夏休みはどこどこにいくだとか、だれだれと遊びの予定があるのだとか……かくいう僕も、夏休みは実家でのんびりするつもりだった。
寮で生活していると、外泊に許可がいるから、なかなか家に帰ってゆっくりできない。だからこういう長期の休みは、それだけで心が浮きたつのだ。父さんや母さんと沢山の話をしたり、家の近くを散歩したり――長い休みだから、どこかで旅行もできるだろうし。そう、僕だって浮れているのだ。
一番の楽しみは、こういっては悪いけれど、クロと離れること。楽しみというと、語弊があるか……安心できる、ほっとする、とでも言うのだろうか。
四六時中クロを見張っていた一か月は気苦労の連続で、僕はそれだけで毎日へとへとだったのだ。
「ハマ、今年も釣りにいかない?」
「勿論、そのつもりだよ。良い場所探しとく」
僕とハマは、例年通り夏休み中も、会える日は遊びにいく予定だった。僕の家とハマの家はわりと近くて――とは言ってもひと駅は離れているのだけれど――遊ぶのに適しているのだ。駅のホームで待ち合わせして……それか、どちらかのお抱えの車で遊びに行くのが鉄板だった。
ハマも僕も、それなりに良家のお坊ちゃんというやつで、クロがお偉い軍人さんの息子であるのも、リデラが私立だから、ということと――リデラはその校則もだけれど、星の数によっては、すごく良い学校に進学できる。だからこそ、三ツ星の子たちはほとんどが良家の子息で、僕もクロもその中の一人なのだった。
ハマも二つ星だから、それなりに良い家柄の息子だ。ハマの家は大きな商家であって、ハマの御両親も気っ風がよく、だから僕の父さんも、「ハマくんはすごく気が良いな」とハマを認めてくれているのだった。
「ミヤギ、ちょっといい?」
夏休みの計画を立てていた僕とハマに、教室の扉の外から、クロがこちらを覗き込んで、僕に声をかける。「なに、クロが教室にくるなんて珍しいね」と言いながら、僕が近寄ると、クロはしかめ面をちょっと赤くして、「……父さんが、ミヤギにうちに来てほしいって」
思いがけないクロのお願いに、「えっ?」と突飛な声が僕から飛び出した。「クロの家に、招待してくれるってこと?」
「み、ミヤギが嫌なら、それで良いんだ! 父さんに言っておくし――」
クロが安心したように頬を緩めたけれど、僕がそう訊ね返したのは、そういう意味ではない。僕は「え」と声を出してしまい、「え?」とクロも落胆したように同じような声を出す。
「嫌とは言ってないけど……僕はむしろ、それならぜひ、って」
「クロは嫌なの?」と僕が言葉を繋ぐと、クロは嫌そうにも見える、だけど照れているようでもある顔で、ゆっくり首を横に振った。「わかった。……父さんに伝えておく」
そのクロの返事にきょとんとしてしまい、僕はハマに答えを求めるように視線を送った。その視線に気が付いたハマが、頬杖をしたまま、真面目な顔で、無言のまま頷く。
「ミヤギ、クロワードはお前に、来いと言っているぞ」というアイコンタクトだ。
「ありがと、クロ。喜んでいきます、って伝えておいて」
そう言って、僕がへらへらと笑うと、「うっ」と潰れた蛙みたいな声を出して、クロが顔を背けてしまった。
――夏休みにはクロと離れるんだって、喜んだのは僕なんだけれど。
それでもなんとなく、クロがよく自慢しているお父さんに会えるのは僕にとっても、すごく嬉しいことであって、それは――多分だけれど、僕も少しくらいは、クロから信頼されているのだろう、という証明のようにも感じたからだった。
2
夏休みに入り、数日が経って、クロとの約束の日がやってきた。僕の父さんは、クロワード=リーツという子どものいる軍人さんを知っているらしく、「リーツ大佐に失礼のないようにな」と僕に重々言っていた。
父さんの知り合いらしいのだけれど、リーツ大佐は僕とはまったく面識がない。でも、そもそも父さんと知り合いだったからこそ、息子のミヤギくんがいるなら、とクロはリデラに入学することになったらしいのだ。
小さなエピソードはもうひとつあって、ハマのお父さんとリーツ大佐は、学生時代、ライバルの関係だったらしい。だからこそ、それを知っていたクロはハマを睨んでいた――一番最初に僕とクロが出会ったのあのときだ――のだと。その関係は学問から、運動、好きな女の子に至るまで、とにかくなんでもハマのお父さんとリーツ大佐は同じで、友人までほとんど「お揃い」だったのだとか。
「気が合うようで、気が合わなかったんだよなあ」というのは、僕の父さんの言葉だ。「いや、合いすぎていがみ合っていたのかもな。同族なんとやら……」と付け足して、父さんは懐かしそうに笑っていた。
クロの言っていた住所を運転手に渡し、僕はめかし込んで車に乗る。窓から見るクロの住んでいた町はとても都会で、リデラ学園がある町のほうが随分、長閑に思えるほどだった。
あまり来たことがない地名だったから、どんな場所なのかと思っていたのだけれど……やっぱり僕の家からとても遠い場所で、車で数時間もかかるらしい。リデラと実家が近い僕と違って、クロはこんな遠くからあの学園にやってきたのだなと、それがとてつもなくすごいことのように感じた。
「つきましたよ」と運転手が言い、僕は車を降りた。クロの家も僕の家と同じくらい大きくて立派で、煉瓦造りの屋敷が堂々とそびえている。
黒い飾り門扉をくぐって中に入ると、気立てのよさそうな女中が僕を見て「こちらです」と白い歯を見せた。彼女について中に入り、応接間だという部屋に入る。
そこにはなんだか緊張しているようにも見えるクロと、恰幅の良い、クロにどこか似ていて、黒髪を刈り上げた――リーツ大佐が居た。
「ミヤギ君、いつもクロワードが世話になっているね。ぜひ礼を言いたいと思って、君をこの家に呼んだ次第なのだけれど」とリーツ大佐が言う。
「クロワードは、学園ではどうしているのかな? こいつのことだから、君にとても迷惑をかけてはいないか」
そう問われて、僕はちらりとクロを盗み見る。クロは、もの言いたげな目でこちらを見ている。「はい。すごく暴れん坊で、困っています」と僕はわざと意地悪なことを言った。
リーツ大佐は、僕の言葉に一瞬目を丸くしたあと、はじけるように笑った。涙が出るほど笑ってる姿に、言い出したはずの僕まできょとんとしてしまう。クロが耐え切れずに、真っ赤な顔で叫んだ。「父さん!」
「面白そうな話をしているのね。あれ、クロワードが林檎みたいになっているじゃない」
突然の綺麗な声に吃驚して、声のほう、応接間の扉を僕は見た。扉が少し開いて、そこからすごい美人が顔を出している。「うん?」と僕は首を傾げる。……彼女はどこかで……。
「ベル」とクロは、彼女の名前を呼んで、眉間に皺を寄せる。その子――姓はリーツだろうか――は黒い髪をポニーテールに結っていて、その睫毛が青い目を縁取って……
「あ!」と僕は咄嗟に声を上げる。彼女とリーツ大佐が驚いた顔でこちらを見て、クロよろしく顔を赤くした僕に、クロが意味深に笑い、「ベル、ミヤギはベルを可愛いって言っていたんだよ」
――そう。ベルは僕たちがアイス屋で見た、あの美人だったのだ!
「もう、クロワードったら、またそういうことを言うんだから!」と声を弾けさせて、彼女が鈴を転がしたような声で笑う。「ねえ、おじさま、私もここにいてミヤギ君とおしゃべりしたい。ミヤギ君は私の学校で有名人なの」
ベルがそう言ってにっこり微笑んで、僕の隣に座ると、そんな彼女に僕は、顔から火が出そうだった。
どうしてこんなに体が強張るのだろう! 普通の女の子に、いや、いままで女の子なんて、ほとんど話したこともないからかな……!
「おや」、とリーツ大佐が顎髭を触っているのを見ながら、僕はベルの隣から一刻も早く抜け出したい衝動に駆られていた。
目線を下に落とせばベルの白い膝小僧が見えるし、なんで彼女はこんなに短いショートパンツを履いているんだとそんなことばかり気になる。「間抜けにも程がある」とは、まさしく今の僕のことだ。
デニムのショートパンツも、大きな水玉模様のタンクトップも、ベルの白い肌と華奢な体型を引き立たせていて、僕は緊張でなにがなんだかわからなくなっていた。
なんであれ、相手が悪い。女の子に慣れてないだけならまだしも、ベルはあまりにも美人すぎる。この子をアイス屋さんで見たときに、セリカが「可愛い」とつい漏らしてしまった理由を、僕はやっと、一番恥ずかしい方法で理解した。
リーツ大佐とのお茶会をそんな状態で終え、僕はへとへとになって、屋敷の裏庭にあった、クロのものだろうブランコを悲壮感たっぷりに漕いでいた。
そんな僕を、勝手口の二段階段の下段に座ったクロが、口の端を歪めながら眺めている。「ベル、可愛かっただろう、ミヤギ。顔が真っ赤だった」と、クロが「俺はベルなんか、まったく可愛いと思ってないけどな」という口調で僕を揶揄った。
「うるさいなあ……いきなりじゃなかったら、僕だってもう少し……」
口をすぼめる僕に、クロは本気で「もう少し?」と訊ねる。クロの察しの悪さを、一学期の短い間でなんとなく知っていた僕は、深いため息をつく。「なんでもない」と目を逸らして、僕は頭を抱えた。
◇◇
「ミヤギ君、今日はもう遅いから、ぜひ泊っていきなさい。クロワードも、ベルもそうして欲しいと言っていてね」
リーツ大佐の言葉に、僕は顔を上げた。クロの部屋に移動しててきとうにクロと時間を潰していたせいで、時間が分からなかったのだけれど、確かに空はもう暗くなっていて、いまからまた数時間かけて帰るのは難儀そうだった。「はい。お言葉に甘えて」と僕もにっこり笑う。
「ベルもそうして欲しいと言っていてね」というリーツ大佐の言葉に、僕の心が少し浮ついたのは、仕方ないと思う。
リーツ大佐が部屋を出て行った後、「俺はなにも言ってない」と呟いたクロの頭に手を乗せ、「まあまあ、クロ」と僕は再びクロのベッドに寝転ぶ。リーツ大佐がきたから急いで起き上がったけれど、僕はいろいろなことに疲れて、いまにも寝そうだったのだ。
「嬉しそうだよな、ミヤギ。ベルのこと、教えてやろうか?」
クロがそう、意地が悪い目で僕を見る。僕は起き上がり、一言なにか言ってやろうとして、すぐに態度を改めた。「お願い」
――とりあえず、クロの言う「ベルのこと」というのが気になったのだ。
「ベルは俺の従姉なんだ。あんな風にしてるけど、昔は男みたいで、俺のこともすごく……いや、なんでもない。とにかく、あいつ、外見はあんなんだけど、ろくなやつじゃないよ」
「なに、ベルにいじめられてたの、クロ?」
クロが話す、ベルについての昔話に、僕は思わずふきだしてしまう。クロは口が滑ってしまっただけだったらしく、僕がそんなところを突っ込んだことに、気を悪くしたみたいだった。「いじめられてない! あいつが俺をからかうんだ!」
「ねえ、なにされたの。スカートでも着せられた?」と僕がおかしくてとんでもないことを言うと、クロは言葉を詰まらせて黙り込む。「おや」と僕は首を傾げた。「図星?」
「うるさい」とクロが目を逸らし、僕まで、つい昔を思い出して押し黙る。「なに?」とクロが訝しく僕を見た。僕は言う。「いや……」
「もしかして、ミヤギ」
「……こういうときだけ、なんで察しが良いのかなあ」
嬉々として目を輝かせたクロに、僕はため息を吐く。――墓穴!
「ミヤギ、ベルの情報と交換しよう。どんなスカート履かされたの? ねえ、いったい誰に?」
「寝るね。おやすみ」
「ずるいぞ!」と叫んだクロの声に無視を決め込み、僕はクロのベッドの布団に潜り込んで、かたく目を瞑った。
3
ベルは、夏休みの間だけ、ちょっとした事情があってクロの家に居候しているらしい。クロの従姉であって、十四歳、お姉さん気質のために女学園でも屈指の「プリンス」らしく、その話をクロが本人にすると、ベル本人は「王子じゃなくてお姫様だからね」と、怖い顔で「忠告」するらしい。
その話を、次の日の昼間に、裏庭のブランコを漕ぎながらベル本人にしたときの、本人の言い分はこうだ。「忠告じゃないわよ、そんなこわい言葉を使ったのね、クロワード。私はただ教えているだけなのよ、だって私って女の子なんだから、プリンスなんておかしいじゃない。私はそれなりに運動ができて、それなりに女の子にモテるだけよ」
「そういうところがプリンスなんじゃないか」とクロが唇をすぼめると、ベルが「おかしなことをいわないで」と頬を膨らませて、そこで話題は別のことへと移っていった。
「ベルが居候している事情って、なに?」
クロとベルの失敗談や、面白い話が落ち着いたところで僕がそう訊ねると、ベルは笑いすぎて目の淵に溜まった涙をぬぐいながら、「うん?」と小首を傾げた。それからちょっと考えて、「私ね、お父さんの仕事の関係で、よく引っ越すのよ。今回は外国になるからってことで、夏休みの間にクロや伯父さんたちと、ちゃんとお別れしてきなさいって言われたの」
伯父さんというのは、クロのお父さん――リーツ大佐のことだ。なるほど、と僕は相槌を打ってから、しばし考えて、「えっ? 外国にいっちゃうの、ベル!」とブランコから立ち上がった。ブランコが軋んだ音を立てて揺れる。「そうよ、ミヤギ君と仲良くなれたばかりで残念だけれど」とベルはクロそっくりに赤い唇をすぼめた。
「残念だったな、ミヤギ」とクロが悪戯っぽく笑う。あまりにショックで頭を抱えたかったけど、それを必死に抑えたのは、我ながら「すごい偉業」だった。
◇◇
「お坊ちゃま、お勉強の時間ですよ」と女中に呼ばれて、クロは渋々、勉強部屋に詰め込まれてしまい、僕はベルと二人きりの時間を過ごしていた。「女中さん、ありがとう!」と僕は心の中で何度も礼を言い、ベルが居候している部屋で会話を楽しんでいて、ベルのくだけた様子やちょっとした仕草に何度もどぎまぎしていた。
ここまでくると、情けないも通り越して、まあ良いかと思えてくるから不思議だ。ベルにこの胸中を知られたら、僕は間違いなく二階からでも屋根裏からでも――この屋敷は、屋根裏部屋があるらしいけれど、そこは女中部屋であるらしい――飛び降りるけれど。
「ミヤギ君とこんなに二人で話したって知られたら、きっとみんなが羨ましがるわ。怒られるかもしれないくらいよ」とベルが目を細め、僕は苦笑する。「そんなことないよ、僕のほうこそ、きっとハマに小突かれると思う」
「ハマ君って、ミヤギ君といつも一緒にいる、背の高い男子でしょう? ちょっと前に、クロワードを助けてくれた人」
ベルが歌うような声で質問して、僕はそれに頷く。そういえばそんなことも……、あれはクロと会ったばかりの、一学期が始まったその数日後ではなかっただろうかと、僕は思い返す。あのときから、クロは……。「クロワードは、あの通り生意気でしょう? どこの学園に入れたら一番良いのか、伯父さんはすごく悩んでたみたい。リデラにはミヤギ君がいるんだから、きっと大丈夫、面倒を見てくれる。だからクロワードはリデラに入学させましょうよって、私が言ったのよ。リデラ学園のミヤギ=ポートマンって、優秀な三ツ星のきれいな子だって、うちの学園でも有名だったから」
ベルから「きれい」だと言われてしまって、僕は頬を真っ赤に染めた。その僕の反応に、ベルは楽しそうに笑った。「ほんと、女の子みたい」というベルの言葉に、僕はますます耳まで赤くする。「女の子って言わないでよ」と僕が必死に言い返しても、恥ずかしさで言葉尻が震えてしまって、迫力もなにもあったものじゃない。
ベルの、僕への接し方は、女の子にするそれと同じように見える。もしかしたら、ベルには僕が本当に女の子に見えているのかも……とふと考えていたら、ベルにスカートを無理やり履かされたクロの昔話を散々に笑ったことを思い出した。あのとき僕はクロを揶揄ったけれど、もしかして今度は僕が餌食になるのでは……?
途端、血の気が引いた僕に、「なあに? 百面相」とベルは首を傾げる。「ううん……」と僕は首を横に振ってから、「ねえ、ベル。ベルは昔、クロをいじ……揶揄っていたの?」
「へ?」と目を丸くして、ベルは稍々考えたあと、「何の話?」
「いや、クロが、昔ベルに、その……スカートを履かされたって、言ってたんだ」
僕が言うと、ベルはさっぱり笑った。「ああ! スカートの話かあ。クロワード、まだ根に持っているんだ」
「一回だけだよ。あの子が一歳くらいのときにね、あんまり女の子みたいだったから……多分、クロワードだって、記憶としては残ってないんじゃないかな。写真見せて、これ、クロワードだよって言ったら、真っ赤になって、知らない! って怒っちゃったんだよね。それだけ」
その話に、僕は口を滑らせる。「あ、なんだ、僕とおなじ」
「へ?」と、当然ベルは驚いた顔をする。僕は今度は再び真っ赤になって、「なんでもない!」と顔の前で両手を思い切りぶんぶんと振った。「ミヤギ君も、そういう思い出があるの?」
「……僕も、似たり寄ったりだけど……」
そう渋々言って、目を逸らした僕に、ベルが顔を寄せ、「ね、どういうこと?」とその先をねだる。「う」と僕は唸り声をあげ、「……僕、姉さんが二人いるんだけど、その姉さんがよく、ドレスだとか、女の子のふりふりの服だとかを僕に着せて、遊んでたんだ。女の子みたいって言って。別になんでもない話だけど……五歳くらいまでかな……」
青い澄んだ目を真ん丸にして、ベルが「へえ、本当にクロワードとおなじみたい」と言って微笑んだ。その話は恥ずかしい黒歴史だから、僕も記憶を封印していたんだけれど……当時は別に嫌ではなかったし、今だってどうでもいいけれど、これをフロージー辺りに知られたら、こてんぱんに言われるに決まっているのだ!
「ねえ、でも私、ミヤギ君はきっと、すごくハンサムになると思うわ」
ベルのとんでもない発言に、僕は「えっ?」と耳を疑う。そんなこと、初めて言われた。僕がハンサムに? 女の子らしくなるでしょうね、なら何度も言われたけれど。
「中性的ですごく綺麗な男性になると思う。女の子といるみたいでいろいろ話しすぎちゃったけどね」
顔をくしゃくしゃにしたベルに、僕は「あ……ありがとう」というだけが精いっぱいだった。
◇◇
「酷いんだ、イライザの奴。わかんないって言ってるのに、ずっと袖を引っ張ってきてさ……」
クロが、あの夏だけリーツ大佐が呼んでいたのだという家庭教師――イライザという名前らしい――への悪口をごまんと言っている間、僕はずっと、リデラの寮室でぼんやり空を見ていた。
「ミヤギ?」とクロが僕の名を呼んだ気がする。僕の部屋で漫画を読んでいたハマが顔を上げもせずに、「ほっとけよ、クロワード。ミヤギは恋煩いだ」
ハマの声が耳に入ってきて、僕は視線だけをハマに一瞬送り、すぐにまた空を見上げてしまう。「今頃、もう外国かな……」と、僕の口からこぼれたのは、ずっと考えていた言葉だ。
クロがその僕の言葉をききつけて、「ベルのこと?」とその名を口に出す。僕はクロを見もせずに、知らず知らずのうちに頷いていたらしい。
セリカはそんな僕に笑い声を立てたてて、「クロワードもひどいよ。ベルのこと、僕に名前も教えてくれなかった!」とクロに恨み言を吐いていた。
そんなセリカに、クロが負けじと返す。「だって、そんなこと言えないだろ!」
「どうして言えないんだ?」とクロに問い返したハマは、「まあ、気持ちはわかるっちゃわかるかもなあ。クロワードは恥ずかしかったんだよ、セリカ」
「恥ずかしい?」と鈍感なセリカが小首を傾げたときに、やっと僕は三人のほうを見た。僕とクロの寮室にお菓子と漫画本を広げている三人は、それから先もベルの話に花を咲かせている。
「結局、ミヤギはベルが好きだったんだな」
ハマの言葉をきいて、僕はその言葉を恥ずかしいと思うよりも先に、またひどく人寂しくなって、「そうかな……」とあいまいな返事をしてしまった。「そうかな、そうかも」と思ったのは、僕の心の内だけにとどめておこう、とこっそり心に決める。それがきっと、僕の初恋で、一夏の思い出というやつだったのだろう。
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