僕らのスピカ
なづ
一学期
1
――この学園には、変わった校則がある。
「皆さんもご存じの通り、最上級生の皆さんには、新入生の面倒を一年間見てもらうことになりますが――」
その言葉で、僕はベッドから飛び起きた。それは昨日の全校集会で聞かされた言葉で、いまは時計が朝の七時を指している。
夢か……、と目をこすり、そのまま冷たい床に足をつける。薄い日よけのカーテンから、朝の光が漏れている。窓まで二歩歩いて、カーテンを引き、外を確かめた。
――リデラ学園の、昔の王子の離宮だったとかいう立派な石造りの建物が、西日を浴びて輝いている……。
「いやになるなあ」
いつもならすがすがしい気持ちになるその景色に、眉をひそめて呟いた。
洗面所にいきながらパジャマを脱いで、真っ白なシャツに腕を通す。その片襟に三つの星バッジを横並びに留め、洗面所についたら顔を洗って歯を磨く。茶髪の少し長い髪を整えて、邪魔にならないように太めのヘアバンドで留めてしまえば、あとは赤いカーディガンと茶色のジャケットを羽織っておしまい。
「……赤いカーディガン」
似合う? と大きな全身鏡に映っている自分に問うけれど、もちろん鏡の中の人物は不安そうな目をして、僕のいうことを鸚鵡返ししかしない。「似合うよ、ミヤギ=ポートマン。最高だ」
「馬鹿なのかな、僕は」
鏡の中の人物は、男性にしては女の子のような顔で、みょうちくりんな笑顔を見せる。両頬をつねって伸ばして、おなじような変顔をしても、くすりとも笑えそうにない。
飽きて、勉強机の上に放置されたままだったプリントを指で拾い上げる。そこに書かれた、リデラの名物校則についての詳しい説明に、僕は息をついた。そんなことより、僕が面倒を見るとかいう、肝心の人物についての履歴書なんかのほうが欲しいんだけど、と声に出したとしたら、きっとハマが「たしかに」と不愛想に呟くだろう。
「ミヤギ」
――噂をすれば……。
こんこん、とドアをノックして、僕がいま考えていた人物が顔をだす。
ハマ=オリバー。僕と同級生の、赤い髪を短く刈り上げた彼が扉の外に立っている。「入っても?」と彼が訊ねたから、僕は頷き部屋に入れた。ハマは勝手知った様子で僕の勉強机の椅子に座ると、そこに置きっぱなしになっていた温いオレンジジュースを手に取る。
「はい、コップ」
僕が使っていないコップを手渡すと、ハマは大きな欠伸をしながら、「ありがと」
オレンジジュースをコップに注ぐハマの姿を、スケッチできそうなくらいに隅々まで見てみる。襟元のふたつの星、赤いカーディガン、着崩されたシャツとジャケットは腕まくりされている。髪は坊主より少し伸びて、赤毛だということがわかるけど、僕よりやっぱりすごく短い。細い目、鷲鼻、薄い唇。……僕とはなにもかも正反対だな。もう見るのはよそう。「顔になにかついている?」
「ついてない。ハマは、最上級生の赤いカーディガン、似合ってるかなっていう」
「やめろ。似合ってないにも程があるって、自分でも思ってるんだ。……ミヤギはさすがに似合うな。やっぱり特待生は違う」
ハマが白い歯を見せたけど、僕はそっぽを向いた。「特待生ね」と口の中で呟いて、はあと深い息を吐く。「頭が痛くなるセリフ」
僕は、いままで、意地を張っているのかと思われるほどに、よくやってきたと思う。もともと勉強はすごく好きで、頑張ることは苦痛ではなかった。「ミヤギさんは本当にすごいね」と言われる心地よさも、僕が頑張る理由だった気がする。
勉強に打ち込まなければならない理由、といえば、僕はわりかし裕福な家の息子で、父さんや母さんからの期待もあったから……でも、やっぱり苦痛じゃなかったからが一番大きな理由だ。だからこそ努力したし、その分結果がでれば褒めてもらえる環境も、良かったんだと思う。
成績表はほぼAAA、唯一運動だけはどうしてもできなくてCだったけれど、それ以外で補って、気が付くと僕は特待生の星――三つ星のピンバッジを襟元につけることを、許されていた。
この学園はちょっと特殊で、ピンバッジの数で生徒の優劣を表している。一つ星は普通、二つ星は少し優秀、三つ星は――特待生。学費の免除に、寮での一人部屋を許される。
そしてリデラ学園が特殊なのは、バッジだけじゃなく、その名物の校則にもあった。「最上級生は、新入生の面倒を一年間見ること」。面倒を見る、というのは、そのままズバリ、「一年間同じ部屋で過ごして、新入生を立派な紳士に育てなさい」ということだ!
「何度考えても、とんでもない校則だと思うんだよね……」
「でも、それをわかって俺たちはここに入れられたわけだし、なんだかんだ、俺たちも新入生のときには先輩にお世話になったからな」
校舎を歩きながらぼやいた僕に、ハマが冷静に言う。僕は「うっ」と唸り、「そうなんだけど……ハマは不安じゃないの?」
「不安?」
ハマが問い返す。僕は頬を膨らませ、「だってさ、人を育てるって、僕たちみたいな子どもができることじゃないでしょう」
「たしかにな。でも、できないって言っていても仕方ない」
「それはそうだけど……」と呟いて、深いため息を吐く。ハマのそういうさっぱり考えられるところは、本当にすごいよ。僕とは正反対だ……僕もそういう風に考えられたらと思うのだけれど、こればかりはどうしようもない。僕は一旦考え出すと、どうも、難しく考えすぎてしまうというか……。
「おい、ミヤギが絵を見てため息ついてるぞ」
考え事をしていた僕に、軽率な声が割り込んできた。ハマと一緒にそちらを見ると、そこには思った通り、ぶりぶり太ったフロージーが、汗をかきながらこちらに向かってきている。「絵?」と思ってよくよく周囲を見ると、たしかに僕の横に綺麗な女の人の絵画が飾られていた。はあ、と再び太いため息が口から洩れる。
「女みたいな恰好してるから、絵にため息なんかつくんだよ、ミヤギ」
「その想像力にはびっくりするよ、君は本当にすごいね」
「すごい?」と眉を跳ねたフロージーは、本当に意地の悪い顔をしている、といつも思う。彼はなんというか、しゃべり方と言い、態度と言い、性格の悪さが雰囲気にすごく出ているのだ。
「なにか文句があるなら、髪を切れ、ミヤギ=ポートマン」
フロージーの言葉に、僕は首を傾げる。「髪がなにか関係あるの? 切っても良いけど……面倒くさいだけだし」
「ミヤギに髪を切らせたら町中の女子に言われるぞ、フロージー」
ハマがそういって僕の背を軽く押し、僕と一緒にフロージーの横を通り抜ける。フロージーはふんと鼻を鳴らし、「性別はどちらなんだ? ミヤギ」
「本当に命知らず」とハマが呟き、頭を掻く。僕はといえば、「僕の髪と、女の子に何の関係が……」
「町中のアイドルなのに、自覚がないんだもんな」
「女の子みたいな顔してるって、噂になってるだけだよ」
僕がそうこぼすと、ハマは、「なんだ、わかっていたのか」
「女の子の顔って言われる気持ち、わかる、ハマ?」
「……」
僕が怒ったように眉根を寄せて言うと、ハマはこちらを数秒じっと見た後、「ご愁傷さま」と言って軽く手を上げ、僕を置いてさっさと教室に入ってしまった。
◇◇
講堂には、向かいから見て右から左に、星の数の順で、新入生たちが並べられている。
一つ星は全体の半分、そこからさらに三分の二ほどを二つ星が占めて、三つ星は残りの少数だ。そのなかでも先頭に立つ、黒いリボンの新入生を、僕はなんとなく見つめていた。クロワード=リーツ、と名札に書かれている彼は、僕の横に立つハマを睨むように見ている。
「ハマ、彼と知り合い?」
「まさか。でもそうかもしれない」
「かもしれない?」と僕は問い返す。するとハマはにやりと笑って、「だってさ、あんなに俺のこと睨んでる」
「たしかに……」
先生の指示に従って、僕らは彼らの横に、先生に呼ばれた順に並んでいく。僕はハマを睨んでいたクロワードの隣で、「あれ、この子なんだ」と少し――そのとき、すこしだけ不安を感じた。
クロワードは本当に綺麗な子で、理知そうな眉はぴんとその尻を跳ねて、口は小さくて唇は厚く、鼻が本当に小さいけど、でもちゃんと鼻筋が通って、絵画の天使みたいだった。
見すぎたのだろうか、僕の視線を感じたらしいクロワードが真っ黒な瞳でこちらを見て、「女みたいな顔」
「な……!」
大きな声を上げてしまって、慌てて口を噤む。「ミヤギ=ポートマン! しずかに!」
先生に怒られてしまって、僕は肩を落とした。こんなことで怒られるなんて……!
「クロワード、よろしくね。僕はミヤギ、ミヤギ=ポートマン」
「声も女みたい」
気を取り直して、握手しようと手を伸ばした僕に、追撃をクロワードは投げつける。頭の中で、クロワードに爆弾を投げつけられて負傷する僕のイメージが浮かんだ。
「……よろしくね? クロ」
「猫みたいに呼ぶな」
ふん、と鼻を鳴らし、クロワードはそっぽを向く。よし、決定だ。彼のことは、これから絶対に「クロ」と呼び続けよう。
顔合わせの集会が終わり、僕はクロと並んで廊下を歩いていた。なにを言っても違う方を向いてこちらに顔も合わせようとしない相手に、僕もだんだん焦れてくるのは仕方がないと思う。「クロ、クロのお父さんは相手の顔を見て話すことを教えてくれなかったのかな?」
僕が猫なで声でそういうと、クロは途端、きっとこちらを睨みつけた。「おっ」と僕は確かな手ごたえににんまり笑う。クロは唇を尖らせて、「俺の父様は立派な大佐だよ」
「大佐? ということは、軍人さんなんだね」
「俺はお前みたいな、なよなよして、運動ができないやつ、大嫌い」
「なんで運動ができないって……!」
顔色を変えた僕に、「本当にできないの?」とクロがきょとんと訊く。かまをかけられた! と気づいたときには、もう遅い。「教えてやろうか」
「君よりはできるよ!」
「本当? じゃあ、追いついて!」
「――は?」と僕が唖然と口を開けるのよりはやく、クロはそういってすごい速さで走り出した。ここは廊下だし、上履きは滑るし……! じゃなくて! クロが走り出したときの瞬発力ときたら……!
「まてっ、クロ! 廊下は走っちゃ……!」
慌てて追いつこうと走り出しても、クロの足の速さは一級品だったらしい。一瞬で曲がり角を曲がって、ぶつかりそうになったほかの生徒たちも華麗に避けてしまう。僕はといえば避けるたびふらついて、「ミヤギ、大丈夫か?」「なにごと?」と心配される始末だ。
――息が上がる!
「ミヤギさん! 廊下は走らない!」
「すみません、先生、クロ……クロワードを捕まえてくださいっ」
厳しいことで有名な女性の体育教師に捕まって、僕は彼女に頭を下げクロの小さな姿を指さす。彼は足を止めてこちらを見ていて、体育の教師が一歩、クロのほうへ踏み出すと、再びあの瞬発力ですばやく駆け去った。
「あれは、ぜひ我が部に入れたくなるわね」
先生がほれぼれと呟き、僕らは顔を見合わせてため息をついた。はじけるように先生は笑い出す。「すごいわね、あの歳であの足の速さ。将来が明るいわ」
「本当に、うらやましいです」
そう言ってにっこり笑っては見せたけれど、僕は内心、これから一年の未来が暗すぎて、まいってしまいそうだった。
2
僕がリデラ学園に入った理由は、本当にくだらないことだから、あまり人に話したことがない。でも、一度だけハマに話したとき、ハマは「まあわかるよ」と言っていた気がする。まあわかる、であって、そこから先は「男のロマンだよな」としか言わなかったけれど。
――僕がリデラ学園に入った理由は、星のバッジに憧れていたからだ。
……本当に、フロージー辺りにバレてしまうのが怖いのだけれど、当時六歳だった子供からすれば、集めることを趣味にしているほど好きな――僕は昔から、お洒落なバッジをコレクションするのが好きだった――、その学園に入らなければ貰えないものがあると聞けば、そこに入りたい! と思うことは普通のことだと思う。今となっては不純な動機すぎて、ハマに話したことすら、本気で不思議だと思うほどに恥ずかしいけれど。
だから、僕の寝室に入ったクロがなんと言うのだろう、と不安に思っていた僕にとって、その彼の反応は本当に予想外だったのだ。
クロのベッドは僕のベッドの横に並べてあるから、寝室を隠し続けることなど、どだい無理な話だ。いままで僕は、特待生だから、と、一人部屋をあてがってもらっていたのだけれど、最上級生のあの校則で、新入生のクロと同じ部屋で暮らすことを義務づけられたのだった。
だから二人部屋になり、寝室も同じになって、もちろん、学年が上がりこの部屋に越してきたときから、それは分かり切っていることだったのだけれど、それでもコレクションしたバッジたちと別れて寝るのはなんだか寂しくて、僕は寝室を例年通り、コレクションで固めてしまっていたのだ。第一、こんなに性格に難のありそうな新入生だとは、こちらも思ってなかったんだし……。ただの言い訳だけれど……。
「――すげえ!」
クロは寝室にはいり、僕のベッドの周辺を見て、開口一番にそう大声をあげた。本当に感嘆した声で、僕は一瞬、なにを言われたのか分からなかった。それくらい、寝室の周りのコレクションは、僕にとって誇らしいからこそ貶されたくなくて怖かったのだ。
僕のベッドの付近に置かれた勉学用の本を入れるはずの本棚に、透明なボックスを詰んで、そこにたくさんのバッジを並べていたのだ。それは、あのハマにさえ、「すげえな」とちょっと呆れたように言われたといういわくつきのものだった。
「これ、全部あんたの? めちゃくちゃかっこいい!」
「え、……え?」
「なあ、これって全部店で買えるやつなの? 違うよな」
そう訊ねるクロの目がきらきらと輝いていて、僕はそこに、僕と同じものを見つけた気がした。
僕はバッジのコレクションを屈みこんで眺めるクロに夢心地で近づいて、おずおずとそれはこういうバッジで、これはこういうので、と説明した。するとクロは本当に興味深そうにきいてくれて、だんだん僕も、この子はそんなに悪い奴じゃないのかもしれないと思うようになっていた。
……だから、それは本当に、ただの気まぐれだった。「クロ、一番欲しいのはどれ? どれでもひとつ、あげるよ」
「えっ?」
言い出したのは僕なのに、僕はその自分の言葉がなんだか上から目線だったような、行き過ぎた発言だった気がして、「いや」とか「あ」とか言って、すぐに撤回しようとした。でもクロは、これっぽっちも引いたりせず、嬉しそうに、「本当か!? じゃあ、これが良い!」
クロが指さしたのは、軍人を模した一等品だった。これは軍人さんのパレードのときに配られたレアなもので、どこのお店を探しても売っているものではなく、あったとしてもすごいプレミアが――いや、それはまあ、良いか……。
「うん、良いよ。僕からの、親睦の証」
「しんぼく……?」
「ああ、うん……仲良くしようね、っていうこと」
僕がそうかみ砕いて教えると、クロはやや間を置いたあと、目を逸らしてゆっくり頷いた。まあいいかな、と僕も思う。僕はコレクションのボックスからそのバッジを取り出して、クロに手渡した。クロは輝く瞳でそれを見つめていて、「すげえ」「かっこいい」と呪文のように唱えている。「……父様みたい」
「父様?」
「なんだよ。軍人なんだねって、お前が言っただろう。俺の父様は立派な大佐で、すげえ強くてたくましくって、俺もそんな風になりたいんだ」
クロが紡ぐお父様の話は、たったそれだけだったけれど、僕にはクロがどれだけお父様を慕っているのかすごく伝わってきた。なんでなんだろう、クロの話しぶりは拙いもので、言葉も少なくて、武勇伝を熱烈に語っているわけでもなんでもないのに。
「クロのお父様の写真とか、ないの?」
「……ない」
クロはなぜか顔を赤らめて、そう不機嫌に頬を膨らませる。僕は首を傾げて少し考えて、もしかしてクロはお父様の写真を大事に持ってきているのではないだろうかと思った。なんだか、そのクロの恥ずかしそうな反応が、僕がコレクションをなんだかんだベッド周りに飾ってしまったときの心境と似通っている気がしたのだ。
――でも、それがあんな結果になるなんて、一体だれが予想しただろう。
「ミヤギ、新入生のクロワードにバッジをあげたんだって?」
意地悪なフロージーの、揶揄う気が満々な声が聴こえて、僕は反射的に顔をあげた。フロージーは声のとおりのにやけ面で、「もので釣ろうとするなんて、ミヤギもずいぶん下等なんだな」
「どういう意味?」
僕自身きいたことがないと思うほど、低い声が喉から出る。
フロージーにバレたくなかったこととはちょっとずれているし、本来なら怒るようなことでもないのだろうけれど、僕にとって、フロージーのその皮肉は到底許せるものではなかったのだ。なんで、いつものフロージーの言葉に、……こんなに腹が立つのだろう!
フロージーは眉をぴくりと動かしたけれど、それは恐怖などではなく、面白いものを見つけて、それが思った通りの反応をしたという嫌な表情だった。
フロージーが言葉を続ける。「下等の意味がわからない? カトウセイブツっていうだろ」
「……ほかにいうことは? フロージー」
僕が音を立てて席を立つのと同時、いやそれより先に、ハマが椅子を蹴って立ち上がっていたらしく、怒りに身を任せようとしている僕の肩を、ハマが強くつかんだ。「ミヤギ」
「やめとけ。特待生がそういうこと、するもんじゃない」
「そうだよなあ、ハマ! 特待生がそんな顔するもんじゃないって!」
「こういうのは――」とハマが僕を押して前に出る。瞬間、僕は「わあっ」と声を上げた。フロージーが大きな音を立てて吹っ飛んだ――ハマがフロージーをぶったのだ!
声を詰まらせながら、僕はやっとのことでハマの名を呼ぶ。「は、ハマっ……!」
「――やったな、ハマ=オリバー!」
フロージーがそう叫んで、重たい体重を乗せハマを吹っ飛ばす。がしゃんがしゃんと周囲の机やら椅子やらも倒れてしまい、やんやと囃し立てる級友たちと非難を浴びせる級友たちが野次馬をしているのにも、僕はめまいが起きそうだった。
――止めないと! でも、どうやって!?
「フロージー=フレア! ハマ=オリバー!」
大きな声が、クラス中に響く。それは騒ぎをききつけてやってきた体躯の良い男の先生で、彼は喧嘩のなかに堂々と入っていき、一番暴れるフロージーを抑えつけ、尻もちをついて鼻血を拭っているハマをぎろりと睨んだ。フロージーに狙いを定めたその先生が、「こい!」とフロージーを連れて職員室に行ってしまったあとに、ハマがにんまり笑う。「フロージーは運が悪いのに、ああいうことを言うんだよな……」
「ハマ、大丈夫?」
「だいじょーぶ。それよかお前も、あんな血相変えたら、ますます馬鹿にされるだけだぞ。ろくに喧嘩もできないくせにさ」
そう言ってハマが笑うから、僕はなにも言えなかった。
3
「ミヤギ、大変だ! クロワードとフロージーが喧嘩してる!」
「へっ?」
次の日、僕は慌ただしく級友の一人にそう呼び出され、クロとフロージーがいるというところに走った。僕は足が遅いから、こういうとき、すごく焦れてしまう。はやくいかないと! と思うのは勿論なのに、足がもつれてしまうのだ。「クロっ……」
「――返せよ!」
僕が数度目の息切れを起こしたとき、やっと現場についたらしく、クロのそんな声が聴こえてきた。
深い川が流れる橋の上、学校のすぐ裏手のところで、クロとフロージーがもめあっている。
その短い言葉で、僕はなにが起きているのか察してしまった――フロージーは体格に見合わず僕らのクラスでは背が低いほうだけれど、それより倍くらい背が低いクロは、フロージーの伸ばした手の先で光るなにかに向かって、ぴょんぴょん必死で飛び跳ねている。僕は叫んだ。「フロージー!」
「ミヤギ。遅いじゃないか」
「なにしてるの! それを返せよ!」
僕がフロージーに向かっていくより早く、フロージーはにやりと笑って、それを振りかぶって橋の下に投げ捨てた。――投げ捨てたのだ!
「おまえっ……!」
自分が疲れ切っているのも忘れて――いや、疲れてなくてもきっと同じだったけれど――僕はハマよろしくフロージーに殴りかかる。でもフロージーはハマのときのようには簡単に殴られてくれずに、僕の手を難なく掴んだ。
クロの判断は、未熟ななりに早かった。彼は服を素早く脱いで、川に果敢にも飛び込んでしまった。僕の遅い足では止めることすらままならず、そのそばでフロージーが下品に大声で笑っている。「飛び込んだぞ、あのバカ!」
僕はとても混乱してしまっていて、わけもわからずフロージー向かって叫んだ。「フロージー、離して! クロがっ!」
「離してってなんだよ、お前から向かってきただろ――」
フロージーが言い終わる前に、突然ハマが飛び出してきて、フロージーの手から僕の腕を放してくれた。ハマはどうやら――これは後できいたこと――「ミヤギ一人じゃフロージーには敵わないから」と心配した級友たちに騒ぎを知らされて、全速力で走ってきたらしい。
僕はハマが出てきたことに驚くよりも、混乱している頭で、欄干に慌てて寄って、そこから身を乗り出す。その欄干は背が高く、ここにひょいと跳び乗って華麗に飛び込んでみせたクロの身体能力に驚くのと、こんな高いところから、と身を案じるのとで忙しくって、なにから整理していいのかわからない。ハマはそんな僕の腕を引いて、「ミヤギ、どけ」
「ハマ、クロが」
「お前はここで待ってろよ。絶対動くなよ!」
そうハマに強く言われて、僕は状況を理解するより先に体を竦めた。「ハマ?」と僕が訊ねる横で、ハマも欄干をさっさと登り、ジャケットとカーディガンを脱いだだけの状態で川に飛び込んだ。フロージーが呟く。「うわ、傑作だな」
「新聞に載るんじゃないか?」
「フロージー! 誰かを呼ばないと……」
僕はやっと状況を理解しだしていて、慌てて近くの公衆電話に走り、電話ボックスに入ってレスキューにかけた。頭は混乱しているけれど、なんとかすこし冷静になりだしていて、僕はいまどうなっているかを電話で伝えた後、すぐに駆け付けてくれたレスキューの人たち、クロを追いかけるように泳ぐハマ、集まってきた野次馬や、一生懸命なにかを探すクロが助けられるさまをこわごわと見ていた。
――こんなに、自分のしたことを後悔したことって、きっと他にない。
「クロ、ごめん」
でも、クロも、ハマですら、僕を責めることはなかった。
それどころか、僕にはまったく非がないみたいな顔で、クロがびしょぬれのまま、僕の謝罪にきょとんとしている。タオルを巻かれている格好で、クロはくしゃみを一つすると、鼻をぐずぐず鳴らして、「なに?」
「なにって……僕があんなバッジを君にあげなければ」
「バッジ、なかった。ごめん」
「そうじゃなくて……!」
――フロージーが川に投げ捨てたのは、僕がクロに親睦の証だなんて格好つけて渡した軍人のバッジだったのだ。
僕が、あんなものをあげなければ、フロージーがこんなことをすることもなかったのだ。クロやハマがあんな危ない真似をすることもなかった。僕が……。
「それ、お前の一番悪いところだぞ」
僕の傍に座り込んでいたハマが不機嫌そうに呟く。僕は泣きそうな顔で振り向いて、「え?」
「お前はまったく悪くないだろ。フロージーがあんなことしたのは、たぶん、俺が昨日ぶったからだと思う。本当にやなやつだよ、あいつ。なにもこんなチビまで巻き込まなくても」
「誰がチビだよ、のっぽ」
「そんな口が利けるなら、まあ大丈夫か」
そういって、ハマがにんまり笑う。クロはぷいと顔を背けて、「……しんぼくのあかし、なくしちゃってごめん、……ミヤギ」
「いいよ。そんなの……」
本当に落ち込んだ様子でクロが珍しく謝るから、僕もなんだかますます悲しくなった。
そんな状況下だったから、クロがこっそり僕を名前で呼んだことにさえ、僕はそのとき気付けなかったのだ。
◇◇
「新聞に載ってるぞ、ハマ」
「なんて書いてある?」
「お手柄リデラ学園生だって。七歳の飛び込み自殺を華麗に助ける……」
「飛び込み自殺か」とハマが友達と笑っている横で、僕も苦笑している。クロはあのあと、学園の理事長や警察官にこってり絞られたのだけれど、今回は運よく逃げ出していたフロージーはお咎めなしだった。
そのあとフロージーが鼻にかすり傷を作っていて、教室にいる間中ずっとハマを睨んでいたから、きっとハマがなにか、フロージーに報復したんだろうとは思うのだけれど。
それをハマに訊ねたときの、ハマの答えはこうだ。「足を引っかけてたんだよ。俺はなにもしてない」
僕はこう呟いた記憶がある。「本当かなあ……」
「そういえば、あのとき、もしかして初めて名前を呼ばれたんじゃないか? ミヤギ」
「何の話?」
ハマが新聞から顔をあげて、笑いながら言った言葉に、僕は首を傾げる。すると「察しが悪いな」とハマが、「クロワードだよ。お前の話だと、ずっと名前を呼ばなかったって言ってたのに、あのときちゃんとミヤギって呼んでただろ」
「……あれ? 本当だ。そういえば、あれからだったような」
「なんだ、そのにやけ面」
ハマが揶揄うように歯を出して笑う。僕は左頬を隠すように手を当てて、「これは仕方ないよ……」
――なんだかんだ、クロと僕の距離が近付いてはいるのかな、と。
あんな奴と近づいてもな、と思う反面、クロが悪いところばかりの人物でもないことに気が付き始めていた僕は、なぜかちょっとだけ、クロが僕の名を覚えていたこと、それを呼んでくれたことが、嬉しい気がしていた。
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