第五話



 無明むみょうは霊泉を離れ、森を抜けた瞬間、あれ? と首を傾げる。駆けていた足を止め、くるりと森の方を振り返った。


「これ、どこで拾ったんだっけ?」


 いつの間にか右手に握りしめていた高価そうな横笛をまじまじと眺め、次に左手に持っている竹筒を見つめた。

 

 確か、霊泉の水を汲みに来たはず。水はちゃんと汲んでいて、竹筒は振るとたぷたぷと音がした。


「ん? 俺、なんで濡れてるんだっけ? 雨、は、降ってないし」


 水浴びをした覚えもなかった。


「もしかして、妖にでも惑わされたのかな?」


 霊泉の前までの記憶しかどうしても思い出せず、一体なにをやらかしたのだろうと不安になる。しかし、握りしめている横笛を捨てる気にはなれなかった。その先についている赤い紐が目に入る。


 自分の髪紐と同じ色のその飾り紐が、とても鮮やかで映えて見える。


「まあ、いっか。怪我はしていないみたいだし」


 楽観的な考えで、そのまま走り出す。不思議な体験をしたな、くらいの感覚で無明むみょうは特に気にしないようにした。


 邸に着くと、藍歌らんかがすでに戻ってきており、濡れている衣を見て大いに心配された。


 しかし、何も覚えていない無明むみょうは、適当に理由を作って安心させるしかなかった。


「暑かったから我慢できなくて、霊泉で水浴びをしてきたんだっ」


 もっともらしい理由を答えたが、最終的にはひとりで森に行ったことに対してさらに心配されてしまった。


 その夜、持ち帰った横笛をくるくると回して色んな方向から眺めていた。見たところ、ものすごく立派な竹でできた高価な宝具だと解る。


 少しだけ吹いてみれば、霊力がそこから溢れ、周りに散らかっていた紙たちが部屋中に舞い上がり、さらに部屋が散らかってしまった。


「すごい。これなら霊力が弱くても、使い方次第でなんとかできるかも」


 目を輝かせて、笛を掲げる。そして立ち上がると、藍歌らんかの部屋へと大きな足音をたてて、慌ただしく駆けて行く。


「母上! 俺に笛を教えて!」


 突然入って来て、大声で楽しそうに言い放った無明むみょうに、藍歌らんかは目を丸くする。


「急にどうしたの? 笛は自分には向いてないからいいって、前に言っていたのに」


「今は笛を吹きたい気分なの! 上手に吹けるようになれば、母上の琴と一緒に合わせられるでしょ?」


 またもっともらしい理由を付けて、無明むみょう藍歌らんかの膝の上に座ってお願いをする。


 ふふっと嬉しそうに笑って、藍歌らんかはわかったわと頷いた。興味を持てば追及したがる性格を理解しているので、やりたいことはやらせてあげるようにしていた。


 手に持っている横笛は、以前あげたものではなく、宝具のようだった。それをどこで手に入れたのか、無明むみょうは何も言わなかった。外に出ていたほんの少しの間に、一体何があったのか。


 普段なら楽し気に話してくれるのに、何も話さない。なぜ、と疑問に思うが、あえて訊くことはなかった。



****



 そして、八年後。春の終わり。渓谷。


「でもまあ、いいよ。困らせるつもりはなかったし、逢えて嬉しかったから」


 ひらりと地面に足を付いて、鬼は抱きかかえていた腕を放し、無明むみょうの乱れた衣を丁寧に直す。


 そしてそのまま無明むみょう以外視界に入れずに、じっとまっすぐに見つめてくる。


「いつでも呼んでくれてかまわない。あなたは俺の主だから、あなたが命じればなんでもするよ? 文字通りなんでも、ね」


 正面に立ち腰を屈めて右手を取ると、その指に優しく口づけをして、上目遣いで鬼は瞬きを一度だけした。


「俺の名は、—————。これはあなただけに捧げる名だよ。忘れないで?」


 あなたのことを、ずっと見ていた。

 見守っていたことは内緒。


 あの縁側での約束は終わりを告げ、この瞬間から、遠い昔に果たせなかった約束を果たす。


 誰も知らない場所で、ひとりで消えてしまわないように。


 もう二度と、失わないように。

 



〜番外編 約束の縁側〜 了


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る