3-12 禍を転じて福と為す?


 屋形船が大きく揺れ、バシャッと水飛沫が前方に上がった。それが水面に戻っていくのと同時に、水飛沫で遮られていた無明むみょうの視界が戻り、水面がすぐそこにあることに初めて気付く。


 白笶びゃくやは思わず、船から身体半分落ちそうになっていた無明むみょうを後ろから抱きしめて、そのまま背中から倒れ込んだ。


「いてて······だ、大丈夫ですかっ!?」


 大きな揺れで尻もちをついて倒れた船頭が顔を上げると、前方の方でふたりが仰向けに重なって倒れていた。


「あまり身を乗り出すと危ない」


「もっと早く言ってくれると······嬉しかった、かな?」


 白笶びゃくやを下敷きにしたまま、仰向けで無明むみょうは苦笑いを浮かべる。


 水飛沫で髪の毛と衣がびっしょりと濡れてしまい、その濡れた衣の下敷きになっている白笶びゃくやにも浸っている。


(ちょっ······これ、見て見ぬふりをするのが正解? それとも突っ込むやつ?)


 状況的には水に濡れているので、落ちそうになったのを公子が助けたという図で間違いないだろう。


 船頭はひと呼吸おき、から手を離してふたりの方へ向かおうとしたその時だった。


「すみません! 皆さん無事ですか!?」


 ほぼ同時に、小舟の船頭の中年の男が青い顔でこちらに声をかけてくる。屋台船の青年はふたりが無事なのを確認し、それからぶつかったと思われる先端部分に行き、覗き込む。


 特にどこか損傷している様子もなく、小舟の船頭に、こっちは問題なさそうだと伝える。


「本当にすみません。後でなにか問題があれば、この先にあるよう家に言ってくれると助かります」


「わかった。この先も水路が狭いから、気を付けて進んでくれ」


 本当にすまない、と何度も頭を下げ、小舟はゆっくりと遠ざかって行った。それを見送って、再び倒れたままのふたりへ視線を向ける。


 船頭の青年は無明むみょうに手を貸して身体を起こすと、下敷きになっていた白笶びゃくやが解放された。


「ごめんなさい、ありがとう船頭さん」


「いえ、お怪我はありませんか? 公子様も、背中、大丈夫です?」


 白笶びゃくやは何事もなかったかのようにむくりと身体を起こし、先に立ち上がっていた無明むみょうに視線を移す。


 船頭の青年に「問題ない」と返事をし、無明むみょうの前に立つと、濡れた顔を自分の衣の袖で拭った。前髪から滴る水滴が気になり、指で軽く横に梳き、また袖で拭う。


「大丈夫だよ? 今日は暖かいから、このくらいならすぐに乾くと思う」


 へへっといつものように笑って、無明むみょうは一歩後ろに下がり、くるりと回った。濡れているが黒い衣のため、あまり目立たない。


「いえいえ、風邪をひかれては困ります。どこか茶屋にでも寄りましょうか?この近くだと唐梅楼とうばいろうっていう茶屋が有名ですよ」


「では、頼む」


 よろこんで!と船頭の青年は再び後方へ戻り、急いで船を漕ぎだす。


 ふたりはとりあえず濡れてしまった前方から離れ、右の方の席に並んで座った。口では大丈夫と言ったが、少しすると冷たい衣に身が震える。


 それに気付いた白笶びゃくやが、ごく自然に羽織っていた薄青の衣を脱ぎ、そのまま無明むみょうの肩に掛けた。


「ふふ。ありがとう。でも今度は白笶びゃくやが風邪をひいちゃうよ」


 先程まで纏われていた衣は人肌並みに温かく、思わず笑みが零れる。


「私は今まで一度も風邪をひいたことがない」


 真面目な顔でそんなことをいう白笶びゃくやに、そんなわけはないだろうと突っ込むことはせず、その不器用な優しさに言葉をかけるのを躊躇う。


 無明むみょうは珍しく無言になり、右横に座る白笶びゃくやの温もりに甘える。


 なんだか良い雰囲気になっているふたりを邪魔しないように、船頭の青年は船を漕ぐことに集中することにした。


(禍を転じて福となす的な展開じゃないか!?)


 早く茶屋に運んであげたい気持ちと、もっと見ていたい気持ちが交差するが、真面目な船頭はなんとか前者を優先することに成功する。


 桟橋に船をつけると、船頭はふたりの背中を見えなくなるまで見送り、次の客を迎えるために再び運河へと船を漕いでいく。


 賑やかな市井しせいの中に、青年のご機嫌な鼻歌が響いていた。



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