第3話 初めての日常

「こんにちは」

「こんにちは、慎一くん」

 ぼくは、時間よりも少し早めに着いたけど、彼女のが先に来ていて、いきなり出鼻を挫かれる。

当然、ぼくのが先に来ていて、後から着た彼女を笑顔で迎えるという、

ストーリーだったのに初っ端から挫折してしまう。それよりなにより、

彼女の私服姿に目を奪われてどこを見ていいかわからない。

 いつも学生服姿しか見たことがないぼくにとって、プライベートの私服姿は、眩しすぎる。

ピンクのスカートはヒラヒラして膝をギリギリ隠すくらいの短さだ。

流行のTシャツにおしゃれな白いジャケットを着て、長い髪を後ろにまとめた

ポニーテールなので隠れていた耳やうなじが見える。

足元はといえば、素足に可愛いサンダルである。

いつもと違う印象に見える。可愛かった彼女が、100倍可愛く見える。

 それに引き換え、ぼくの服装と言えば、クリーム色のチノパンとモスグリーンのシャツに薄手のジャンパー姿だ。

オマケにバーゲンで買ったスニーカーという、まったく不釣合いな格好である。

「あ、あの…… こんな格好でごめん」

 会うなりいきなりでた言葉がこれとは、情けないにも程がある。

「服装なんて自由だもん。気にしない、気にしない」

「でも、今日の美樹ちゃん、いつもと違うから、ビックリしちゃった」

「そうなの?」

「可愛いって意味だよ」

「ありがと。慎一くんから、そんなことを言ってもらえるとは思わなかったわ」

 彼女もぼくの鈍感は、わかっているらしい。

「それじゃ、行きましょうか」

「行くって、どこに行くの?」

「あたし、今まで慎一くんを見てて思ったことがあるの」

「ぼくを?」

「なんとなくだけど、慎一くんて、世間一般の流行とか、遊びとか、おもしろいこととか、全然興味ないというか遊ぶ時間がなかったせいかもしれないけど、

良くも悪くも世間知らずなところがあるから、今日は、一日かけて

いろんなことを教えてあげようと思ってるの。どうかしら。ダメ?」

「イヤ、全然いいよ。むしろ、お願いします」

 ぼくは、素直に頭を下げてお願いした。

「よろしい。それじゃ、今日は、一日、あたしに付いて来てね。心配しないで、予算は、安く済むから。あたしたちは、高校生だから、お金ないしね」

「一応、ウワンから、お小遣いもらってきたから、少しは何とかなるから」

「それも、ウワンちゃんの許可がいるの?」

「なんのかんの言って、ウワンは、厳しいから」

 ぼくは、苦笑いをするしかなかった。

「それじゃ、まずは、腹ごしらえからね」

「えっ! イヤ、それは、ちょっと……」

「別に、デカ盛りグルメとかじゃないから。軽食くらいならいいでしょ」

 そう言われて、かなりホッとした。最近のぼくの食事事情を知ってくれて彼女に心の中で手を合わせた。

まずは、駅前に評判のカフェがある。もちろん、そんなことは知らない。

 明るい店内で、おしゃれなカフェだった。来ているお客さんも、若い人が

多い。

特に女性に人気があるようで、男は、ぼくを入れても数人程度だ。

ぼくは、来たことがないので、どう振舞ったらいいのかわからない。

「いらっしゃいませ」

 きれいな女性の店員さんが水とメニューを置いていった。

緊張しながらお礼を言って、まずは、水を一口飲む。

かなり喉が渇いているらしい。

メニューを開いても、ぼくには、まったくわからない。

わかるのは、アイスコーヒーとか飲み物くらいだ。

こんな喫茶店のような場所は、ほとんどと言っていいくらい、来たことがない。

 ぼくが困っている様子を見た彼女がいった。

「甘いものは、大丈夫なんでしょ」

「好きだよ」

「それじゃ、ホットケーキとか、ケーキとか、どうかな?」

「うん。お任せします」

 ぼくは、ペコリと頭をテーブルに付ける。ということで、彼女にメニュー選びを任せた。

「こーゆーとこ、初めてでしょ」

「うん」

「たまには、こーゆーお店にも来てみるといいよ」

「美樹ちゃんは、来たことあるの?」

「たまにね。ママとだけど」

「親と仲がいいんだね」

「普通だと思うけど…… あっ、ごめん。ヘンなこと言って」

 ぼくが片親で、しかも、親父はアメリカに行きっ放しで、一人暮らしな境遇のことを気にしているらしい。

「慎一くんは、大人になったら、どんな仕事をしたいとか、夢とかあるの?」

 そんなことを聞かれたこともなければ、考えたこともない。

「今は、まだ、特に考えてないかな」

「あたしは、早く結婚して、子供を生んで、家族を作りたいの。もちろん、仕事もしたいけど、それより家庭を作りたい」

「美樹ちゃんの家族みたいな?」

「ザックリ言えば、そうかな」

「いい夢だね」

 ぼくが言うと、彼女もニッコリ笑った。そこに、頼んだものが運ばれてきた。

ぼくは、ショートケーキとオレンジジュースのセットで、彼女は、フルーツ

ケーキセットのクリームソーダだった。

もちろん、ショートケーキくらいは知ってるし、小さいころに食べたことは

あるが、その記憶ははるか昔だ。

ぼくは、少しの間、その宝石のようにきれいなケーキを見詰めていた。

「どうしたの、食べないの?」

「イヤ、なんか、すごくきれいで、食べるのがもったいない」

「慎一くんて、ロマンチストなのね」

 そういうわけじゃない。こんなの見たことないから、どう食べたらいいのか

わからないだけで実際、食べるのがもったいないくらい、きれいに見えただけ

なのだ。でも、格好悪いから、言わない。

 彼女が食べるのを見てから、ぼくも一口食べてみた。

「おいしい」

 思わず声に出た。正直な感想なのだ。ぼくは、今まで、こんなおいしいものは食べたことがない。

いつも食べているのは、なんでもいいから口に入れるものだ。

ウワンの言うとおり、エサとしかいえない。

だから、こんなに甘くて、おいしいものを少しずつ食べるなんて初めてだった。

「慎一くんて、何でもおいしそうに食べるのね」

「そうかな…… 実際、おいしいから」

 そう言って、ゆっくり味わうように口に運んだ。

オレンジジュースも程よい甘さで、上品な味だ。飲んだことはあるけど、

味わって飲んだことはない。

「これも食べてみる?」

 彼女は、食べかけのフルーツケーキを差し出した。

見ると、そっちは、まるで宝石箱のように、鮮やかなフルーツがきれいに飾ってある。それこそ、食べるのがもったいない。

「食べてみなよ。半分こしよう」

 そう言って、ぼくの食べかけのショートケーキと取りかえっこした。

「こっちも甘くておいしいわね。ホイップクリームがなんともいえないね」

 彼女は、そう言って、クリームを飲める。

ぼくも、ケーキに盛り付けられたフルーツを一口食べる。

 なんて上品なフルーツなんだ。イチゴも、オレンジも、リンゴも、パインも、どれもおいしい。

それと、目の前に可愛い彼女がいる。幸せな時間だ。

ぼくは、全身でそう感じた。

体の中の動物たちも、感じているだろうか。ぼくは、そんなことを考えていた。

 

 軽い食事をすると、彼女に案内されて、次に向かったのは、地下一階の

ゲームセンターだった。ぼくには、未知の世界だ。たくさんの若い人たちが、

ゲームに夢中だった。ぼくは、どれも初めて見ることなので、目移りして、

どこを見ていいのかわからない。

「慎一くんは、こんなとこ、初めてでしょ」

「うん」

 ぼくは、素直に頷いた。

「あたしもたまに来る程度で、ゲームは余り上手じゃないけど、結構楽しいわよ」

 そう言うと、彼女は、お金をコインに両替して、ゲームを物色する。

ぼくは、情けないことに、初心者なので、彼女の後を歩くことしか出来ない。

「まずは、記念に、プリクラ撮ろうよ」

 プリクラってなんだ? そんなことも知らないぼくだった。

何しろ無縁の世界だけに、すべてが初体験だった。彼女は、手馴れた手つきで、機械の中に入る。

「ここがカメラで、ここを見てね。合図するから、ちゃんと笑うのよ」

 そう言って、コインを投入する。画面にぼくたちの顔が映る。

鏡以外で自分の顔を見たことないので、自分の顔を見て、なんて不細工

なんだろうと凹んでくる。

それに引き換え、彼女は、画面で見ても可愛い。

「いくわよ、笑って、ポーズして」

 画面がカウントダウンする。ぼくは、カメラを見詰めるだけだった。

シャッター音が聞こえる。画面に映ったぼくの顔は、引きつっていた。

「もっと、リラックスして。もう一回ね」

 そう言って、スイッチを押す。カウントダウンが始まる。

ぼくは、無理に作り笑いを浮かべた。

今度は、少しはましだけど、まだ、顔が笑ってない。

「前よりはいいけど、もっと笑って。最後だからね」

 そう言って、スイッチを押す。カウントダウンが始まる。

3,2,1、そして、シャッター音が鳴る。ところが、その寸前、彼女は、ぼくの右のほっぺたにキスをしたのだ。

ビックリするぼくと同時に、シャッターが切れた。

 画面に映った画像は、彼女がぼくにキスをしながらカメラ目線で笑っている。

ぼくは、驚いて眼を開いて口を開けていた。

「うん、これがいいわ。これに決めよう」

 呆然としているぼくを尻目に、彼女は慣れた手つきで、画面にペンで文字を

書く。

「よし、出来た。これ、いいでしょ」

 ぼくは、ただ無言で頷いている。画面を見ると、映っているぼくの顔が

真っ赤になっていた。

数分後、印刷されて出てきたプリクラは、彼女にキスされているツーショット

だった。そして、そこには、ピンクの文字で、ハートマークとか、しんいちくんとみきちゃんという丸文字だった。

「ハイ、これ。半分ずつね。これ、シールになってるから、なんかに貼ってね」

 そう言って、渡されたプリクラを手にしたまま、ぼくは、心から感激した。

それと同時に、なにか熱いものが胸の中に湧き上がってきた。なんで、ドキドキしているのか、異性に鈍感で世間知らずなぼくには、わからなかったのだ。

 機械から出ると、彼女に手を引かれて、次に向かったのは、UFOキャッチャーだった。

「見本見せるから、見ててね」

 そう言って、彼女は、コインを入れてレバーを操作する。

大きなガラスケースの中には、小さな可愛いぬいぐるみがたくさん入っている。

それをクレーンを操作して取るわけだけど、はっきり言って、ものすごく難し

そうだ。

「そこ、もうちょっと右かな」

 彼女は、ブツブツいいながら微妙にクレーンを動かす。

「よし、いけ」

 クレーンが一つの縫いぐるみを持ち上げた。

「がんばれ」

 しかし、もう少しのところで、縫いぐるみが落ちる。

「ああぁ~ もうちょっとだったのにぁ……」

 初めて見たゲームなのに、なんかワクワクドキドキする。不思議な感覚だ。

「どう、慎一くんもやってみない?」

「イヤ、でも、ぼくは、初めてだから、下手だよ」

「いいのよ。ゲームは、楽しむもんだから」

 そう言うと、ぼくは、彼女からゲームのやり方を教わって、初めての

UFOキャッチャーをやってみた。

「そうそう、もうちょっと奥。そこよ」

 ぼくは、最後のスイッチを押した。クレーンがぬいぐるみに向かって大きく

広がり、それをキャッチする。

そのまま落とし穴まで移動する。が、その寸前でぬいぐるみが落ちた。

「惜しかったね」

「なんか、悔しい」

 ぼくは、ポツンと独り言のように呟く。

「もう一回やってみる?」

「うん」

 なんだか、素直にやりたくなった。その後、何度もトライするが、

ぬいぐるみは取れなかった。

「ダメだ。やっぱり、無理だよ」

「それじゃ、これが最後ね」

 そう言って、彼女は、コインを投入する。

ぼくもこれが最後と気合を入れる。ぼくは、慎重にレバーを動かす。

「もう少し右かな?」

「もうチョイね」

「ここでいいかな?」

「うん、今度こそ、いけると思う」

 ぼくは、彼女の祈りも込めて、最後のスイッチを押す。

クレーンが動き出す。ぬいぐるみを掴んだ。それを持ち上げながらクレーンが

落とし穴まで静かに移動する。

「行け」

「行け」

 二人の言葉が重なる。そして、見事にぬいぐるみは、落とし穴に落ちて

いった。

「ヤッターっ!」

 ぼくたちは、自然と笑みを浮かべて、ハイタッチする。

そして、中から取り出したのは、アニメのキャラクターの可愛い犬だった。

「やったね」

「初めてにしては、上手だったよ」

 ぼくは、手にしたぬいぐるみを彼女に渡した。

「ハイ、これ」

「あたしに?」

「だって、一人じゃ取れなかったし、美樹ちゃんがいたから取れたんだもん。

だから、プレゼント」

「ありがと。これ、大事にするね」

 そう言って、彼女は、可愛く笑うと、ぬいぐるみを大事そうに抱えた。

なんだか、一つの達成感のようなものを感じて、ぼくは、清々しい気分に

なった。

初めてのことって、なんでこんなに楽しいんだろう…… ぼくは、そう思った。

でも、そんな気分て、きっと、彼女がいなかったら、いつまでも経験することはなかっただろう。


「さて、この後、どこに行こうか?」

 彼女がいうと、ぼくは、ウワンが出先に言ったことを思い出した。

「実は、ウワンにさ、せっかく、美樹ちゃんと出かけるなら、少しは、おしゃれな服を買って来いって、言われたんだ。 

でも、ぼくは、全然わからなくて、その……」

「わかった。あたしが、見立ててあげる」

「でも、予算が……」

「ちなみに、いくらくらい持ってるの?」

「一万円くらいかな。でも、さっき、ゲームとか、ケーキを食べて使っちゃったから」

「まかせて。学生でも買える服を売ってる安いお店も知ってるから」

 何しろ、自分の服を買うなんて、何年ぶりだろう。服のセンスもなければ、

興味もなかった。

当然、おしゃれなんて気にすることもなかった。だから、いざ、服を買って来いと言われても何を買ったらいいのか、どんな服を買ったらいいのかも

分からない。まったく、世間知らずというのはぼくのようなことを言うんだろうと、我ながら実感して、情けなくなる。

もしかして、ぼくは、彼女がいないと、何も出来ないんじゃないかと思った。

 先を歩く彼女の後を追う、情けない自分だった。せっかくのデートなのに、

男のぼくが彼女をリードできない。

そんな自分は、つくづくダメな男だなと思う。

「ここよ。あたしもときどき来てるのよ。ここは、女性物が多いけど、男物も

いいのがあるから、選んであげる」

「ありがとう。美樹ちゃんは、頼りになるよ」

「なにを言ってるのよ。慎一くんのが、あたしなんかより、ずっとすごいのよ。もっと自信を持って」

 そう言って、ぼくの肩をポンと叩く。それが、なんかうれしかった。

彼女は、いろいろと服を見ている。だけど、ぼくには、なにがなんだか

わからない。ファッション誌も見たことないし、今、流行の服も知らない。

「この辺がいいんじゃないかしら。慎一くんにも似合うし。ちょっと試着してみて」

 ぼくは、言われるままに、何着かの服を持って、試着室に入った。

こんなところに入るのも初めてだ。カーテンを閉められると、狭い空間の中で、全身が映る大きな姿見の鏡だけだ。

ぼくは、慌てて着替えた。そして、カーテンを開ける。

「う~ん、そっちも着てみて」

 彼女に言われて、再びカーテンを閉めて着替える。それを何度かやってみた。

たぶん男は、こんなことは、面倒臭いんだろう。でも、初めての経験のぼくは、実は楽しかった。

鏡に映った自分は、洋服を変えるだけで、別人みたいに見えたのだ。

 そして、何度かファッションショーのように服を着替えて、彼女が選んだ服がこれだ。

ブルーのストライプのシャツと白いズボンで、ポケットにデザインがされているものだった。

「よく似合うわ。慎一くんは、爽やか系だもんね。体のサイズも合ってるし、

これなら、ウワンちゃんも納得するんじゃないかな?」

「ありがとう。それじゃ、買ってくる」

 ぼくは、一反、着替えて会計を済ませた。値段は、シャツとズボンで、3980円という学生にはうれしい低価格だ。

「お待たせ」

 ぼくが服を入れた袋を持って戻ってくると、ぼくの腕を取って、

連れて行かれたのは、男子トイレだった。

「せっかく、買ったんだもん。それに着替えてきてよ」

「ここで、着替えるの?」

「あたしは、中まで入れないでしょ」

 それはそうだ。ぼくは、袋を持ってトイレの個室に入ると、中で着替えを

済ませた。

しばらくして、トイレから出てくると、彼女は、ぼくを足の先から頭の上まで、じっくり見上げて前から後ろに回ったりして、観察している。

「うん、合格」

 彼女は、そう言って、ぼくの背中を叩いた。なんだか、テストで百点を

取るよりうれしかった。

もっとも、百点なんて取ったことはないけど……

 

 その後も、お店をあちこち見ながら歩いた。

ホントにデートをしている気分だ。

ぼくたちは、一番大きな自由通路を歩いていた。その時、事件が起きた。

 ぼくたちの後ろから、女性の声が聞こえた。

「誰か、捕まえて。ひったくりよ」

 叫ぶような声だった。思わず振り向くと、倒れている女性の姿が見えた。

そのぼくの前を、知らない男が走り去って行った。確かに、なにかバッグの

ようなものを小脇に抱えていた。

「慎一くん、出番よ」

 彼女が言った。最初は、なにがぼくの出番なのか瞬時にはわからなかった。

しかし、彼女は、ぼくが着ていた服が入った袋を取り上げると、こう続けた。

「慎一くん、追って。あの男、追えるでしょ」

 そうか、そう言うことか。あのひったくり男を捕まえろということか。

そんなの簡単だ。ぼくは、大きく頷いた。ここには、人がたくさんいるので、

空を飛ぶわけにはいかない。

ここは、チーターの足を使えば、追いつけるだろう。

 だが、一瞬、それを躊躇った。変身していいのだろうか?

きっと、人の目にはぼくの走る姿は見えないだろう。

でも、変身したら、せっかく買ったズボンが破けてしまう。

買ったばかりだし、彼女に選んだもらった大事なものだ。

「よし」

 ぼくは、一度しゃがむと、顔を前に向けて目でひったくり男を追う。

ぼくの目は、トンボの細胞で出来てる。どこに逃げようと見つけ出すことが

できる。

隠れても、ニオイで見つけ出せる。ぼくの鼻には犬の細胞がある。

 そんなことを思いながら、ぼくは、膝の上までズボンを捲り上げた。

みっともない姿だけど、破いてしまうよりは、ましだろう。

しわになったら、アイロンをかけなきゃと思いながら立ち上がった。

そして、ゆっくりと足を踏み出しながら、精神を足に集中する。

 走り出した足が次第に速くなる。人の肉眼では捉えることができない。

ぼくの足は、チーターに変身していた。豹柄の黄色に黒い斑点が浮き出ている。

足を左右に踏み出しているだけなのに、両脇のお店の風景が流れてはっきり

見えない。

すれ違う人々の顔も確認できない。それくらい早かった。

 角を曲がろうとしている男をトンボの目で確認すると、そこを曲がる。

そして、男の襟首を掴んだ。ぼくと男は、そのままの勢いで床に転がった。

 放り出されたバッグを片手で拾うと、むき出しの足で男の背中を踏んづけた。

もちろん、男は動けない。チーターの足で踏まれたら、人間なら身動きできる

はずがない。

 やがて、騒ぎに気付いた警備員が数人やってきた。

ぼくは、精神の集中を解いた。警備員が来たころは、ぼくの足は、普通の人間の足に戻っている。

「すみません。ありがとうございました」

「これ、バッグです。返してあげて下さい」

 そう言って、バッグを警備員に渡すと、ぼくは、その場を逃げるように

離れた。

「あの、ちょっと、お名前を……」

 ぼくは、警備員の言うのを無視して、人込みの中に混じって彼女を探す。

彼女は、すぐに見つかった。ぼくの後を追ってきたらしい。バッグを奪われた

女性もいっしょだった。

「慎一くん、お疲れ様」

 ぼくは、恥ずかしくなって、顔が赤くなった。

「ほら、裾を直さないと、しわになるよ」

 ぼくは、慌ててズボンの裾を直す。

女性のバッグは、無事に警備員から戻ってきた。

お礼を言う女性に照れながら、ぼくたちは、自由通路を歩き始めた。

「ねぇ、屋上に行こうか」

 彼女の後について屋上に行くと、そこは、小さな遊園地があった。

と言っても、ジェットコースターのようなものはない。

あるのは、小さなメリーゴーランドと、一周するのに10分もかからないだろう

観覧車に回るコーヒーカップだけだ。他には、ゲームや露店がいくつかあるだけだった。

 ぼくたちは、ソフトクリームをなめながら、ベンチに隣り合って座った。

こんなことをするのも、ぼくは、幼稚園くらいのとき以来だった。

当たり前のソフトクリームが、特別な懐かしい味に感じた。

「慎一くん、さっきは、ごめんね。ビックリしたでしょ」

 彼女がいきなり言い出すので、何のことかと思った。

「ほら、さっき、ゲームセンターのプリクラで……」

 そう言って、彼女は、俯いていくらか頬がピンク色に染まって見えた。

キスのことか…… 確かに、ビックリした。いくら異性に鈍感なぼくでも、

それくらいはわかる。

むしろ、思い出すと、ぼくのが恥ずかしくなる。

「イヤ、大丈夫。初めてだったから、ちょっとビックリしただけだから」

「初めてなのは、あたしも同じ。自分でも、いきなり男の子にあんなことしたの、ビックリしたくらいで……」

「いいよ。いい記念になったし。てゆーか、今日は、初めてのことだらけで、

記念日で一杯だよ」

 ぼくは、そう言って、空を見上げた。空は、どこまでも澄み切った

青空だった。

「ホント、慎一くんて優しいから、なんだか、あたし負けそうだわ」

「そんなことないよ。ぼくのこと、いろいろ考えてくれて、美樹ちゃんのが

ずっと優しいよ」

「だから、あたし、慎一くんのファンになったんだよ。さっきも、カッコよかったわ」

 なんだか照れくさい。溶けてくるソフトクリームは、きっと天気のせいじゃ

ないのかもしれない。

「ねぇ、アレに乗ってみない」

 ぼくたちは、回るコーヒーカップに乗った。

二人で笑いながら、ハンドルをグルグル回して、子供のようにはしゃいだ。

 射的ゲームで、指人形に命中したときは、二人で大声で笑った、

最後に観覧車に乗ってみる。たった約10分という短い時間でも、ぼくには、

ものすごく長く感じた。窓から外を見ると、少しずつ陽が傾き始めてきた。

 観覧車の中は、二人きりだ。なにか、話さなきゃと思うが、言葉が見つからない。

「ねぇ、あたし、慎一くんのこと、もっと知りたい。あたしのことも知ってほしい」

「うん。何でも聞いて。でも、あんまりいい話じゃないと思うけど」

「それでもいいの。慎一くんだけつらい思いをするのは、見ていられないから、あたしも少しは、役に立ちたい」

「そんなことないよ。今は、別につらくないから」

「でも、学校で見る慎一くんは、いつも淋しそうに見えるわ」

 それを言われると、返す言葉が見つからない。

「もっと、みんなと話をしたり、遊んだりしてみない?」

「でも、ぼくは、夕飯の準備があるし、今まで、誰とも話したことないから」

「だったら、あたしが、間に入るとかするから」

「いいって。ぼくのことは気にしないでよ。ぼくは、一人でも大丈夫だし、

たまに美樹ちゃんとこうして会ったり出来ればそれだけで充分楽しいし。今日は、ホントに、楽しかった。美樹ちゃん、ありがとう」

 ぼくは、そう言って、素直にお礼を言って、頭を下げた。

それに対して、彼女は、ぼくの手を取って強く握ると、こう言った。

「どうして慎一くんは、そんなに強いの? あたしだったら、一人ぼっちなんて耐えられないよ。もっと、友だちを作ったり、クラスの人と仲良くなったりしなくていいの?」

「いいんだ。ぼくは、いつかわからないけど、いつか必ず、消えるか、死ぬかもしれないから」

「なんで…… なんでよ。そんなのイヤだよ」

「ぼくが変身人間である以上、それが運命だと思っているから」

「そんなの淋しいよ。悲しいよ」

 ぼくは、彼女の顔を見られなかった。嗚咽を押し殺しているからだ。

肩が小さく震えている。

握ったぼくの手に、彼女の温かいなにかが一粒こぼれた。

「だけどね、ぼくは、簡単には、死んだりしないよ。だって、ぼくの体には、

10個の命があるんだから。きっと、ぼくの体の秘密がばれたら、世の中、ひっくり返るだろうね。そのときは、どこまでも逃げるつもりだよ」

「慎一くん…… あたし、あなたのこと、好きになってもいい?」

 もうすぐ、観覧車が下に着く頃に、彼女は涙を流しながら言った。

「ありがとう。ぼくも美樹ちゃんのこと好きだよ。でも、ぼくは、変身人間

だから」

「あたしは、例え変身しても、慎一くんは、慎一くんだと思ってるから。

ずっと、思ってるから。だから、あたしはそんな慎一くんの傍にいたいの」

「美樹ちゃん。気持ちだけ、もらっておくよ。変身人間なんて、好きになっちゃ、ダメだと思う」

「そんなことない。たまたま好きになったのが、慎一くんだったってだけだもん」

 そんな時、観覧車がゴトンと揺れて、下に着いて、係りの人がドアを開けた。

ぼくたちは、話の途中で降りることになった。

 それから、ぼくたちは、無言のまま歩いた。ショッピングセンターを出ると、そろそろ夕方になってきた。空がオレンジ色に染まってきていた。

「それじゃ、ぼくは、夕飯の買い物に行って帰るから。今日は、ホントにありがとう」

「慎一くん……」

「送っていくよ。今日は、歩いてだけどね」

 ぼくは、そう言って、彼女のマンションまで、先に立って歩いた。

きっと、彼女の前を歩いたのは、今日は、これが初めてかも知れない。

彼女は、下を向いたまま、ゆっくり歩いてくる。でも、マンションは、すぐそこだ。

「それじゃ、ここで。今日は、楽しかった。ホントにいろいろありがとう。

プリクラ、大事にする。服も選んでくれてありがとう」

「慎一くん……」

 泣きそうな彼女を励ますように、ぼくは、言った。

「そんな悲しい顔をしないでよ。ぼくは、いつも笑顔の美樹ちゃんが好きなんだもん。ぼくがいつもがんばれるのは、美樹ちゃんがいるからなんだよ。だから、笑ってよ」

「うん」

 彼女は、小さく言うと、涙を拭いて無理に笑った。

「ときどきは、夕食を作りに行ってもいい?」

「いいよ。むしろ、こっちからお願いしたいくらいだよ」

「たまには、あたしとデートもしてくれる?」

「いいの?」

「うん。だって、あたしは、慎一くんのファンだもん。慎一くんのこと、好きなんだもん」

 そうはっきり言われると、ぼくの方がうれしくなる。

すると、彼女は、右手を差し出した。ぼくも手を出して、彼女の手を握った。

「また、明日ね」

「うん、さよなら」

「バイバイ、慎一くん」

 そう言って、彼女は、手を振りながら、何度も振り返り、マンションの中に

消えていった。

ぼくは、彼女を見送ると、暗くなりかけている空を見上げて笑った。

きっと、こんなに自然と笑えたのは、変身人間になってから、

初めてだったろう。

 帰宅する足取りが、こんなに軽く感じたのも初めてだった。

おかげで、スーパーに買い物に行くのを忘れて、帰宅してからウワンに

怒られてしまった。

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