11
息をゆっくり吸ってゆっくり吐くと、ちょっとだけ気がまぎれた。環さんはすぐ戻るって言ってたけど、「すぐ」ってどれくらいだろう? 今は時計も見られないから、時間がどれくらい経ったのかがわからない。
しかたがないから耳をすましてみた。病室の外、廊下を歩く足音が聞こえる。最近じっと集中していると、足音をちょっとずつ聞き分けられるようになってきた。足早なひとも、ゆっくり歩くひともいる。履いている靴もちがう。それから、この病室に向かって歩いてきているひとが、何となくわかるようになった。
廊下の音を聞いていると、そういう足音がひとつ、エレベーターがある方向から近づいてくる。こっちに来ている。環さん、用事が終わったのかな――でもそのとき、その足音は環さんじゃないってことに気づいた。かなり目立つはずの白杖の音がしないし、靴もちがうみたいだ。
看護師さんかな? でももっと軽い感じの足音だ。どんどんこっちに近づいてくる。環さんでも、看護師さんでもないひとが、わたしのいる病室にやってくる。
心臓のドキドキが大きくなって、てのひらにじわっと汗をかくのがわかる。
なにが近づいているのか、もう大体わかっている。わたしがここにいるってだれにも気づかれないように、じっと息を殺してみた。どうしよう、隠れようかな? でも隠れるところなんかないし、目が見えないのに動くとかえってあぶない。
緊張して息がくるしい。どうしよう、まだ環さんが戻ってきてないのに。
病室の前で、ぴたっと足音が止まる。一瞬おいてドアが開いた。
いやな匂いがする。
「まりちゃん! けが、どうなった? 大丈夫?」
足音と匂いといっしょに、女の子の声が――あおいちゃんの声が近づいてきた。思わず「あおいちゃん」って言いたくなって、でも口を閉じたままがまんした。
「目、見えないんだって? でも、私の声はわかるよね。葵だよ、町田葵」
あおいちゃんの声はどんどん近くなる。
もしもわたしの目が見えたら、今はたぶん、ベッドの近くにあおいちゃんが立っているのが見えるはずだ。団地の部屋でひとりぼっちになっていたときは、あおいちゃんにあんなに会いたかったはずなのに、今は全然そんな気分にならない。
怖かった。あおいちゃんの声をして、たぶんあおいちゃんの姿で、わたしのすぐ近くに立っているものがすごく怖い。
「ねぇまりちゃん」
ほっぺたに息がかかった。
「まりちゃん、私。わかるよね? まりちゃんの友達だもん。わかるよねぇ」
ちがうよって言いたくなったけど、やっぱり我慢した。あおいちゃんじゃない。しゃべり方がちがうし、話しかけられただけで肌がざわざわする。
「まりちゃん、聞こえてるんでしょ。ねぇ、小早川まりあちゃん。そうしろってだれに言われたの?」
ベッドが少しへこんだ。あおいちゃんが両手をついたんだと思う。あおいちゃんの声が、わたしの顔の正面から聞こえてくる。
「ああ残念だ、あんたの目を見られなくって残念。それに変なものがじゃましてる。ねぇまりちゃん、私、まりちゃんの大事なものを返しに来たんだけどな。これ何とかしてくれないと私、痛くって困るの。ねぇ。ねぇ、ねぇ」
わたしはじっとだまっていた。言われたとおり無視しなきゃ。きっとこのまま待っていれば、環さんがもどってくる。それまでがんばっていれば、環さんがなんとかしてくれるはず。
環さんにもし、何ごとも起きていないのなら。
突然、顔を手ではさまれた。のどの奥から思わず「ひっ」って小さな声が出て、あわてて飲み込んだ。相手に聞こえたかどうかはわからない。聞こえなかったようにって祈るしかない。
「ねぇ、これ、まりちゃんの大事な妹でしょ。返しにきたんだよ」
あおいちゃんの声が、わたしの顔のすぐそばでささやいた。
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