第123話 エリシアの最初の指令

 判明したことは二つ。

 少女はたぶん、記憶の大半を無くしている。

 覚えているとしたらマーリンという名前くらい。


 魔剣が教えてくれた情報はこれだけ。

 エリシアが猫なで声で拝み倒しても追加で聞き出せなかった。


 グレイは魔剣の手入れをしつつ、少女の目覚めを待った。

 隣ではエリシアがネロのメイド服をっている。


「冒険みたいで楽しかったのです。師匠と一緒に初めての場所へ行けて幸せです」

「ああ、俺もだ」


 エリシアと一緒の時間は楽しい。

 近くにいると良い香りがして、日によって香りに違いがあり、今日はどんな香りがするのだろうか、とつい気にしてしまう。


 真剣そうなエリシアの横顔も魅力的だ。

 そんな事を思っていると衣擦れの音が聞こえた。


 少女が目を覚ましたらしい。

 くしゅ、くしゅ、くしゅ、と可愛いくしゃみが三発聞こえる。

 あんな暗闇に全裸でいたら、そりゃ風邪も引くだろう。


「大丈夫ですか?」


 エリシアが優しく声をかけると、少女は目をゴシゴシして「ふぇ?」とマヌケな声を出した。

 眠りについて目が覚めたら知らない人間が立っていた。

 そんな感覚だろう。


「おはようございます。どこか痛いところはありませんか?」


 その次の行動はグレイたちを驚かせた。

 少女はエリシアから逃げようとしてベッドから落ちたのである。

 床に尻をついたまま猛スピードで後退して、棚に思いっきり衝突してしまう。


 エリシアは大きくジャンプすると、バシン! と棚に片手をついた。

 もう片方の手で落ちかけの花瓶を支えた。


「はわわわわわっ……」


 少女は壊れそうなくらい震えている。

 何がそんなに怖いのか疑問に思ったグレイは、とある仮説に思い至った。


「もしかして、エリィの腰の剣が怖いのではないだろうか」

「あ、なるほど」


 腰の剣をソファに置いたエリシアは、代わりにお菓子の皿を持ってきて、少女の前に差し出した。

 すると怯えまくりの表情が一変する。


 お菓子はチョコチップを練り込んだクッキーだ。

 大判のクッキーを受け取った少女は、たっぷりと匂いを嗅いで、食べ物であることを確かめた後、白い歯を突き立てた。


 小動物みたいにモグモグする。

 お腹が空いていたらしい。


 二口目を食べようとした少女は、歯を突き立てた状態のまま、糸が切れた人形みたいにフリーズする。


「師匠! 大変です!」

「どうした?」

「この子、泣いてます!」


 グレイは魔剣グラムを置いて立ち上がった。

 エリシアの肩越しにのぞき込むと、少女のあごから雫が落ちて、寝衣に黒いシミを残すところだった。


 驚いたことに少女はオッドアイだった。

 右目が淡いグリーンで、左目がマリーゴールドの組み合わせ。

 昔からオッドアイの持ち主は珍しいとされており、秘めている魔力量が大きい傾向にある。


 内側に天使と悪魔を宿している。

 そんな言い伝えもあるくらい。


「私、何か悪いことやっちゃいましたかね⁉︎ もしかしてクッキーがマズかったですか⁉︎ 私が焼いたやつなのですが……」

「いや、違うと思うぞ」


 答えは少女が教えてくれた。


「美味しいです」


 声は震えているが、エリシアを見つめる目は真剣だ。


「泣いちゃうくらい美味しいです」


 ポジティブな方の涙だった。

 表情をほころばせたエリシアは自分もクッキーを一口かじる。

 我ながら悪くない出来なのです、と微笑む。


 少女が咳き込んだので、エリシアは大慌てで水のグラスを持ってきた。

 少女は寝起きで力が入らないのか、グラスを絨毯じゅうたんに落としてしまう。


「大変!」


 エリシアは少女を抱き上げた。


「体が濡れませんでしたか⁉︎」


 心配したのはグラスでもなく絨毯でもなく少女の方。


 この人は悪い人じゃなさそう、と安心したのだろう。

 少女は頬っぺたに朱を注ぎながら頷く。


「よかった〜」


 エリシアは思いっきりハグして、すぅ〜っと髪の匂いを嗅いでいる。

 激しいスキンシップの嵐に少女はタジタジといった様子。


「可愛いですね! 生きているお人形さんみたいです! ますます気に入ったのです!」

「く……苦しいのです!」

「あ、ごめんなさい」


 エリシアはその場にしゃがみ込む。


「私の名前はエリシアです。遺跡の奥であなたを発見しました。よって、あなたは今日から私の召使いなのです」

「召使い……ですか⁉︎」

「ウソウソ、冗談ですよ。私たちは家族なのです」


 少女は口をぽか〜んと開ける。

 会ったばかりの人間から家族といわれたら戸惑うのが普通だろう。


「あなたの名前は何ですか?」

「えっ……私の名前……」


 少女は視線を泳がせた。

 記憶の深いところへアクセスするみたいに側頭部に触れている。


「え〜と……私の名前は……」

「焦らなくていいですよ」

「名前は……名前は……名前は……」


 分かりません。

 また涙目になってしまう。


「じゃあ、これは分かりますか?」

「お皿です」

「これは?」

「花瓶です」

「これは?」

「絨毯です」


 一般的な知識はあるらしい。

 ふむ、とエリシアは考え込む。

 少女がわざと無知なフリをしている様子はない。


 エリシアは自分の髪を一房つまんで、羽根みたいに動かし、少女の耳裏をくすぐった。

 それから首筋、鼻の下といった敏感ポイントを優しく刺激していく。


「きゃ……くすぐったいです」

「ほらね。あなたは笑うと可愛いです。だから私の前ではたくさん笑ってください」

「可愛い……ですか」


 肯定する代わりに頭をナデナデする。


「あなたの名前はマーリンです。おそらく本当の名前でしょう。記憶がないようなので、困惑しているでしょうが、しばらくは私の指示に従ってもらいます」

「ですか……私は一体、何をすればいいでしょう」


 エリシアの最初の指令。

 たくさんクッキーを食べて、枯れ木みたいにガリガリの体を太らせることだった。

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