アーメンデウスーあなたと共にー

手塚エマ

帰島

 長崎県天草市の南にある崎津さきつ漁村は夏目柊なつめしゅうが帰島すると、祭りのように沸騰する。柊は小学校まで崎津にいた。

 だが、中学からは鹿児島のエリート校に進学した。だから今は寮で生活し、休日にふらっと戻ってくる。


 杉浦澪すぎうらみおは夏休みを受験の補習に費し、帰宅をするなり、母に玄関先で知らされた。


「柊君、帰ってきてるって。だから皆で家でご飯食べようっていってるの。お母さん、支度してるから。あんた、今から畑行ってナス採ってきて」

「はぁ?」


 澪と柊は同い歳。来年に高校進学を控えた受験生。それもあるのか、柊と澪の母は仲が良い。とはいえ小学校は全校生徒で十一人。だから血の繋がりはないけれど、島民は、ある意味全員親族でもあり友人でもある。

 澪は母に「早く早く」と、せっつかれ、渋々ながら家を出た。

 

 こっちだって休日返上の補習を受けて疲れている。

 なのに、なぜいつも当然のように、英雄でも迎えるように、柊の為の使い走りにされるのか。


 イラつきながら裏山の畑に向かう途中、山麓にへばりつくようにして建てられた崎津教会が見えてくる。

 その教会の正面ドアの開き、少年が中から一人で現れた。

 背は高いけれども少し猫背。頭が小さくて目鼻立ちも涼やかで端正だ。澪は立ち止まってしまっていた。見惚れたと言っていいだろう。立ち尽くす澪に向こうもすぐに気がついた。眩しそうに、訝しそうに目を細めている。


「……なんだ。杉浦?」

「うん……久しぶり」

「先月も帰ってきたじゃん」

「そうだっけ」

 

 澪は伏し目がちに返事をした。すると、路地を蹴る足音が近づいて、澪の前でぴたりと止んだ。


「どっか行くの?」

「うちの畑」

 

 澪は教会の背後にそびえたつ裏山を一瞥した。

 崎津教会はキリシタン弾圧の象徴の、踏み絵が島で行われた庄屋跡地に建てられた。尖塔に十字架を掲げたゴシック様式で、窓には極彩色のステンドグラス。

 役人が踏み絵を迫ったその場所に、祭壇が配置されているという。

 

 そんな聖地から現れた彼が神々しいまでに美しく、近寄りがたく感じられた。もじつく澪に先だって、柊が裏山に向かう教会脇の細道に入って行く。


「どうしたの? どこ行くの?」

「諏訪神社」

 

 いつも柊の答えは単語だけ。

 そういえば神社に続くこの道の途中に畑がある。柊はキリスト教徒だが、崎津では諏訪神社も祀っている。帰省したら参拝するのも、島民の習わしだ。

 仕方なく澪は柊に続いて山に入り、石畳の細道を登り出す。山の雑木林が林道に薄い影を落としていた。


「そっちは高校。どうすんの?」

 

 気まずいような沈黙を破り、先に口火を切ったのは柊だった。急勾配の道を昇る柊の息が乱れていた。


「天草の公立のどっかに入る。あんたはいいよね。中高一貫性だもん」

「卒業できればの話だけどな」


 前を向いたままなので、どんな顔をしているのかはわからない。

 けれど、どこか投げやりな口調だった。

 夏目の家は柊が小学校に入る前に移住してきたセレブ一家だ。柊の父は島の総合病院の外科医であり、母は教師。柊の家庭教師は優秀な両親だ。

 なのに卒業できないはずがない。

 澪は笑えない冗談かと疑った。


 だが、返事に詰まる澪のことなど既に眼中にないように、柊は道の脇にある露草つゆくさを摘み出した。

 土地の痩せた貧しい島では野草も工夫し、食べてきた。露草も茹でて、出汁と醤油でお浸しにする。島を出てから更に手の届かない存在になった柊が、島民の顔になっていた。


「……勉強、大変?」

 

 屈んだ柊の頭上から、恐る恐る問いかけた。


「まぁな。本土に出たら俺なんか、ただの井の中のかわずだよ」


 語気には自嘲が混じっていた。だから、もっとどう言えばいいのかわからない。そんなことないでしょと、一蹴できない声だった。


 エリートな柊の一家がこんな離島に転居したのも、両親ともに熱心なキリスト教徒だからだと、聞いていた。崎津は江戸幕府の役人の残忍な拷問にも屈せずに、信仰を貫いた殉教者を数多く生んだ島でもある。

 柊の家族が移民ではなく島民として迎え入れられ、馴染んでいるのも島民と信仰の糸で深く繋がれているからだ。


 だからこそ、家族の中から『転び者』を出すこと自体が許されない。信仰を捨てて棄教ききょうする『転び』という名の生きる道。

 挫折は柊の一家に与えられない選択肢。

 やがて柊は摘んだ露草を、澪が持つ蔓籠つるの中に押し込んだ。


「食べたいんなら自分で持って帰りなよ」

「お参りするのに邪魔だから」

 

 柊の相変わらずの俺様ぶりに、いつになく澪は安堵した。

 澪は軽く文句を言いながら道を逸れ、家の畑に踏み入った。枯れた土地を開墾し、添え木を施し、丹精して育てる夏野菜の畑から、ナスだけ収穫していると、せせら笑いが聞こえてきた。


「やっぱ、お前。ナス好きなんだな。鈴虫か」

「はぁ? なに、それ」

「そのうちリンリン鳴くんじゃね?」

 

 肩越しに振り向くなり、怒る澪を愛でるように破顔している柊がいた。

 確かにナスは大好きだ。だけど今日は頼まれたから来ただけだ。澪は咄嗟にトマトをもぎ取り、ぶん投げた。

 

 なんだ、やっぱり嫌なヤツ。

 心配なんかしてやって、損したような気になった。

 投げつけたそれすら素早くかわし、笑いながら柊は去る。何事もなかったように遠ざかる柊の背中を見ていると、胸の中がざわめいた。かわされて木の幹に当たり、山道に落ちた大きなトマトが真っ赤になって潰れていた。

 この島は。

 この島は、尊ばれている殉教者達の何倍もの棄教者ききょうしゃを、密かに作った島なのだ。



 程なくその夜、澪の家の広間には卓が数台連ねられ、料理が所狭しと並べられた。夏目一家も島中の住人も来訪順に座卓に向かっている。柊も再会した友人と自撮りをするなど楽しげだ。

 澪は、ほぼ全島民が卓に着くと、三十センチある長い箸を配布した。

 この箸で摘んだ料理を向かいに座る人の口に入れ、お返しに食べさせて貰う伝統が天草にはある。情けは人の為ならずという、仏の教えが起源らしい。

 最後の空席に澪が座る。斜め向かいに柊がいる。


 大人達の乾杯が済めば、刺身や揚物を箸で摘み、卓の向かいに座る相手に互いに食べさせるのだ。賑やかに。そんな中、澪の叔父が唐突に、


「柊。高校出たら東京行くんか? うちの島から初めて東大生が出るんか」

 

 と、言い出した。澪は内心ドキッとした。

 

 進級も危ぶまれるほど大変なのかもしれないのに、東大に受かることまで当然みたいに言わないで。澪は話題を逸らすため、腹立たしい叔父の口に佃煮を箸で突っ込んでやろうとしたのだが、柊にそれを止められた。


「澪」

 

 一瞬、誰かと思うような声だった。

見れば、柊が長箸で持った焼きナスを捧げている。気にするな。澪。大丈夫だから。食えよと促す柊の目が、憤る澪をなだめている。途端に大人も子供もどよめいた。

 男女で食べ させ合うのは夫婦か身内だ。それが暗黙の了解になっている。だから澪も驚いた。冷やかすような声もした。澪が躊躇ちゅうちょしている間中あいだじゅう、焼きナスにかけた醤油が卓に滴った。

 結局、同席者から携帯で動画を撮られつつ、澪は箸の下に顔をくぐらせナスを食う。恥ずかしくて嬉しくて、耳まで熱くなっている。


 だけど、お返しが待っている。

 澪は露草のお浸しを箸で持ち、柊の口に近づけた。箸が震え、落としそうになる前に、柊もパクリと食いついた。

 と同時に、堅いつぼみがほころぶように、柊の顔が和らいだ。澪は夢見心地になりながら、不思議と涙が出そうになる。


 二年前。

 私は島を出ていくあなたを止められずにいた。もっと高みを目指している、あなたの足は引っ張れない。だから私は諦めた。

 だけど、数百年前。

 幕府に迫られ、島の庄屋でやむにやまれず聖画を踏んだ村の信者が、島の神社に駆け込んで、泣いて赦しを求めてきた。神社の社殿しゃでんにひれ伏して、アーメンデウスと唱えたと。

 それでも、どの神も責めないの。


 だから、柊。

 疲れた時には帰って来て。それなら言えるの。帰って来て。

 あなたは自分を許せないかもしれないけれど、あなたが偉業を成し遂げなくても愛しているのよ。それを信じて欲しいのよ。

 デウスも仏も神様も、あなたの痛みと苦しみは、言われなくても知っている。






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