十三月のメーデー

淡島かりす

episode1.魔法使いどもの日常

1.休暇が欲しい

 悲鳴なのか叫びなのかあるいは怒号なのか。涙混じりのそれを黙って聞いていた男は、短い溜息をついた。

 城のバルコニーから見上げる空は高く、青く澄み切っている。耳を澄ませば、ここで働くメイドたちが歌を歌いながら洗濯物を干しているのが聞こえてくる。こういう日は、王立図書館で大好きな歴史小説を二、三冊借りて読みふけるのが極上の幸せというものだろう。生まれ育ったラカノン王国の成り立ちについて学ぶのも良い。あるいは、部屋の掃除をするのも良いかもしれない。常に整理整頓されている部屋だが、本棚や机には埃が溜まっている。それらを清潔な布で拭い去り、換気のために開けた窓から流れ込む風を享受する。想像するだけで男は幸福な気持ちになれた。

 しかしその夢想は、悲鳴によってかき消される。男は一瞬無視しようか悩んだが、そうしたところでバルコニーが図書館に変わるわけでもないし、城のメイドが自分の部屋を掃除してくれるわけでもない。そう考えた結果、仕方なく現実を見ることにした。


「は、早く! 早く助けろ!」


 髭面の中年男は、バルコニーの手すりにしがみついて喚いている。肥えた腹が手すりの隙間に挟まって、動くたびに空気の爆ぜるような音がする。喚くか、あるいは足を無意味に動かすのを辞めれば良いのだが、突然バルコニーの外に放り出された人間にそれを求めるのは酷だろう。

 男は風によって少し乱れた、癖のない短い銀髪を指で直す。その髪色は下手をすれば二十四歳という年齢を十も二十も上書きしそうなものだったが、若さゆえの艶と、そして優しい顔立ちのお陰で、却って無二の特徴となっている。

 少し太い眉の下にある緑色の双眸は大きく、白い肌には良く目立つ。男はその目に相手を映しこみ、大きくも小さくもないが血行はよい唇を開いた。


「審査官殿、どうしましたか?」

「ど、どうもこうもあるか! 急に強い風が私の体を、つ、突き飛ばしたのだ!」

「それは災難でしたね」


 冷静に返した男に、バルコニーからぶら下がっている相手は目を吊り上げた。


「ま、まさかお前か!?」

「酷いことを言わないでください。俺は、審査官がお忙しくて処理を忘れているであろう書類の件を聞きにきただけです。そんな濡れ衣を着せるようならば、帰らせていただきます」

「す、すまない! 待ってくれ!」


 本当に踵を返した男の背を、悲痛な懇願と腹の肉の音が追う。


「無礼は謝る! だから頼む、引き上げてくれ!」

「本当ですか? 助けた後にまた濡れ衣着せたりしないでしょうね」

「しない。しません。しませんから!」


 肥満の悲しき運命か、あるいは状況によるものか、手すりを握りしめる手は汗をかき始めている。

 男はバルコニーに近づくと、汗ばんだ手首を握った。相手の顔が瞬時に明るくなる。男は優しく微笑み返しながら、しかしすぐには引き上げなかった。


「ところで、書類についてなのですが」

「しょ、書類? そんなものは後で見る。いいから早く引き上げてくれ」

「後だと困ります。もうずっと前からお願いをしていて」

「だ、だから後で見ると」


 男は相手の腕を、関節を傷めないように持ってから引っ張り上げる。しかし、バルコニーに足がかかる状態になっただけで乗り越えるには至らない。しかも腹の肉が邪魔をして、足は片方しか乗っていなかった。


「今見ていただけますか」

「ここで!?」

「だって、審査官殿は俺にあらぬ罪を着せますし、助けた後で「そんな書類は知らない」って言われたら困るじゃないですか」

「そ、そんなことはしない。約束する。君が私を引き上げてくれたら、すぐに書くとも」

「この後、軍法会議があるのでは」

「だ、だ、だからその後に」


 男はその返答が気に入らないとばかりに、掴んでいた手から力を抜く。至近距離で大きな悲鳴が上がった。


「何をするんだ!」

「いや、すぐに書いていただけないのであれば他の方に頼もうかと」


 男はそう言いながら、良心の呵責と一人静かに対峙していた。

 このような脅しは、男が好むものではない。幼い頃から厳格な父親に愛情を持って育てられ、魔道学院で優秀な成績を収め、魔法使いとしての最高峰とも称される「王の杖」に配属されたのが数年前のこと。少なくともその時点では男は非常に品行方正な若者であったし、何か自分に不都合なことが起きたとしても、己の至らなさに涙するような人間だった。こうして、書類へのサイン欲しさに審査官を脅すなんてことは夢にも思わなかっただろう。

 それがどうしてこうなってしまったかと言えば、ありきたりではあるが「環境」と「友人関係」である。まるで中等科の生徒が親から窘められるような内容であるが、人間いくつになっても基本行動は同じだと男は思っていた。


「書く。今すぐ書く! だから助けてくれ、ラディ!」

「わかりました。それでは」


 ラディと呼ばれた男は、先ほどよりも少し柔和な笑みを浮かべると、空いている手で書類とペンを突き出した。その書類には「ラディッシュ・アグアス・ヴィタ・ロックウェル」と、些か長い名前が几帳面な文字で書かれていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る