胸に秘めたるその色は

弥生奈々子

胸に秘めたるその色は

 僕こと、大村大和は自他ともに認める濫読家であった。後世に語り継がれる傑作から、タイトルを挙げるだけで読書人から、総叩きをくらうような低俗な小説にも満たない文字列まで、日本語で為された文章という形ならば無差別に飲み込んでいた。親愛なる妹から言わせてみれば、僕のような読書スタイルは邪道でしかないらしく、「いいですかお兄ちゃん、本を沢山読むべきだなんて、世の教育者は高説宣いますが、厳選して読むべきだと私は思うんですよ。本を読む――読書という行為は、言ってしまえば自身の価値観を改造する行為なわけです。読めば読むほど価値観は混じり合って濁ってしまい、最終的にお兄ちゃんは自分を持たない悲しい怪物となってしまいますよ」とお叱りを受けたこともあるが、僕はこの読み方を変えるつもりはない。

 そんな僕を、周囲は『本の虫』や『読書家』などと称するが実のところ、そんな出来た人間ではない。僕は小説を途中で投げ出してしまうといった癖があるのだ。昔はこんな悪癖なかったのだが、知り合いに勧められたダイジェスト版でないレ・ミゼラブル全訳を途中で投げ出してから、どうも書物を最後まで読み通すことが出来なくなったのだ。因みに、当時の感想は「ジャン・バルジャンは結局いつ登場するんだよ」であった。

 例に漏れず今まさに僕は二十ページ余りで、推理小説を投げ出しそうになっていた。推理小説は推理小説でも、謎とか論理とかの枝葉末節を重んじる、照れることなく、悪びれることなく自らを『本格』と標榜する際限なく不遜極まる類のそれであった。しかし今回、集中が二十ページ余りで途切れたのが、全面的に僕が悪いかと問われると首を縦に振ることは難しい。肯定しかねる。と言うのも、僕の真後ろでは親族が集まるどんちゃん騒ぎが行われているからだ。そんな状況下で小説に没入しろというのはあまりにも酷な話であろう。

 ともすれば、別の謎が浮かび上がってくる。謎が謎を呼ぶなんて評すれば、先ほど読むのを諦めた推理小説のようで何とも皮肉な話だが、どうして僕が、読書に興じているか。そこに行きつくはずだ。しかしそれは謎なんかではない。とても簡単で、ありがちな理由である。それは……。

「こんにちは、お兄さん」

背後から声をかけられ、脳内で行われる独り言が一時中断される。おかしいな、僕には仲のいい親族なんていないはずなんだけれど。悲しき疑問符を胸に、声の主を見やると、その正体は少女であった。小学校低学年くらいだろうか。烏の濡れ羽を思わせる、美しい髪を三つ編みにして、ちんまりというのが正しい感じのたたずまいである。しかし、か弱いといった感想を一切持たない意志の強そうな瞳と、明らかにサイズが合っていない男物の真っ黒なコートが印象的であった。彼女が着用すると裾が床につきかねない。

「何してるんですか。親戚が一堂に会するご機嫌な宴会だと言うのに、小説なんか読んで。休み時間とか机に突っ伏すタイプの人間でしょ」

 図星であった。眠れないのに目を閉じたりなんかして。周囲の騒いでる生徒とは違うんですとばかりに、孤立を決め込んで。だけど、どこか、喧噪に憧れて。

 僕はそんな人間だ。

「大方、お酒が飲めない下戸下戸ガエルだからお父さんたちに混ざれず、台所に行けばお母さんに邪魔者扱いされて、周囲は楽しげに会話交わしてるところ、お兄さんは会話を躱すように読書に縋り付いたんでしょう?」

 やれやれと目の前の少女は嘆息する。大正解であった。先ほどまで読んでいた、推理小説の探偵より、よほど彼女の方が探偵然としていた。でもまあ、下戸だからみんなと馴染めないのか、みんなと馴染めないから下戸なのかそこは定かではない。卵が先か鶏が先かみたいな話か。

「おやおや、卵と鶏のどちらが先かなんて語るまでもないでしょう。鶏は最後トリなんですから」

 少女は自慢げに慎ましい胸を張る。

「そんなわけで私登場です。続き柄もわからぬ謎の幼女がお兄さんと遊んで差し上げましょう」

 じゃじゃーん、と自分で効果音を付けて顔をピースで挟んだポーズを取る。どことなく、『シェー』を思わせるポーズであるが、令和を生きる子の少女は知らないんだろうな。どうやら相手をするしかないらしい。僕は肩を竦めつつ、彼女と向き合った。記憶の引き出しをどれだけ漁ったところで、目の前の少女に覚えがなかった。交流はなくとも、年末年始と盆には実家に帰っているから、知らないはずはないのだが。僕が不思議そうに小首を傾げていると、少女は自ら名乗りを上げる。

「お金を貰うとコロリと転ぶロリ、河合楼理です。よろしくお願いします。否、よロリくお願いします。なんつって」

微妙な空気が流れて数秒、楼理ちゃんがコホンと咳払いをして、僕のことをジトっとした目で睨んでくる。この気まずさはお前のせいだからなんとかしろと言わんばかりだ。他の子たちと遊んできたらいいのに……。

「そうは言っても、彼らは弱者のなれ合いにご執心のようです。先刻までは、格ゲーで最強を決めるなんて息巻いていたのに、私がちょっとしゃがみ状態で待ってたら遊んでくれなくなっちゃいました」

 えげつないことしてるなこの娘。子供というのは残酷なものですね、と楼理ちゃんはぼやく。その表情に一切陰りがないことを見るに、自分に落ち度はないと思っているのだろう。本当に心が強い。ということは、僕が次の格ゲー相手に選ばれたということだろうか。あまり自信がないのだが。というかシンプルに凶悪な戦術を駆使するこの娘と対戦したくない。普通に台パンしてしまう。

「ご安心ください。格ゲーはしませんよ。だいたい、実家に帰ってまでテレビゲームに興じるなど、味気がありません。ナンセンスと言ってもいいですね。郷に入っては郷に従えなんて先人の言葉もあることですし、綾取りで遊びましょう。ちゃんと赤い糸にしておきましたよ。嬉しいでしょう」

 からかう口調で楼理ちゃんは僕に糸を手渡す。生憎僕には少女趣味がないので、赤い糸だからと言って喜んだりはしない。しかし、綾取りとは古風な遊戯を選んだものだ。僕が子供の頃は既に廃れてしまっており、今回が初綾取りになる。ここは楼理ちゃんにご教授願うとしよう。

「え? 私も普通に初めてですけど。まあ何事も最初が一番楽しいものです。お兄さんが好きな小説だって、新人と死人の本が一番面白いじゃないですか」

 サラっと、凄まじい偏見を語るなこの娘は。しかし、最初が一番楽しいと言うのは中々核心を突いた言葉のように思う。ここは彼女の口車に乗ってみるのも悪くないだろう。


「飽きました。別の遊びをしましょう」

 共同作業を始めて数秒後、彼女は僕にそう告げた。僕たちの手の中では、糸が絡まり合って、もうよくわからなくなっている。ものの数秒でよくここまでの惨状になるものだ。この糸を解くのに数時間は要しそうだ。彼女が飽きるまでもなく、綾取りはどのみち終わっていたことだろう。目の前の少女は、もう綾取りに一切の興味を失ったようで、次の遊戯を考えているのか、難しげな顔を浮かべている。その時、僕の脳内で悪魔が囁いた。悪魔に従い僕は、ある提案をした。

「どうしたんですか、いきなり張り切って。いい歳してみっともない。しかしかくれんぼ……悪くない提案です。築数十年、木造、インターネット回線すら通っていない家ですけれど、さすがは田舎というべきか、広さだけは間違いありません。じゃあお兄さんが鬼でいいですね。今から鬼いさんです。しっかり一分数えてください」

 楼理ちゃんは嬉しそうに僕の提案に乗ってくれた。少し、罪悪感がわかないでもない。しかし振り回されっぱなしの僕としては少し、やり返したかった。全く、我ながら大人げない。僕は十秒数えた辺りで目を開ける。そう、僕の計画とは楼理ちゃんを探しに行かないというものだった。僕は彼女を探さない。彼女はそんなことに気付くことなく、隠れ続けるに違いない。これであの生意気な少女に少しばかり痛い目を見せられたら万々歳であろう。そんなことを考えていると突然視界に影が差した。振り返ると、楼理ちゃんが仁王立ちしていた。心なしか表情は怒気を含んでいる。どうして彼女がここにいるのだろうか。

「どうして私がここにいるか不思議がっているようですね」

 彼女はエスパーなのだろうか。

「私のことを裏切ったお兄さんには痛い目を見てもらわなければなりません」

 楼理ちゃんはすうと息を吸い込む。彼女の魂胆に勘付き、制止しようと動いたときにはもう手遅れであった。

「お母さーん、お兄さんが私のお胸触ったー! 私の健康的なあばらをギロの演奏みたいにまさぐってきたー!」

 声高らかに少女はそう叫ぶ。あのガキやりやがった。これでは僕の株が大暴落だ。元々低いのに。ノンストップ安である。

「おやおやお兄さん。どうしましたか。今更後悔してももう遅いですよ」

 少女はニヤニヤとした表情で僕を見る。パニックになっていると、台所の方から近づいてくる足音に気付いた。楼理ちゃんのお母さんだろう。終わった……。僕の輝かしくもない人生に遂に終止符が打たれた。楼理ちゃんのお母さんは足早に僕の方へと鬼の形相でやってきて……ないな。何なら気まずそうに愛想笑いをして台所へと戻っていった。

「信じられません。見ましたか。実の娘が性被害を涙ながらに訴えたというのに、あの反応ですよ……ひょっほ、いはいでひゅっへ。ゆるひへ」

 僕は楼理ちゃんの頬を引っ張った。お仕置きのつもりだったが、餅のように柔らかい。これは癖になりそうだ。

「やめてくださいよ。如何なる時でも体罰はいけないとされているんですよ。令和のコンプライアンスでは」

 楼理ちゃんは口をとがらせて主張する。反省の色が一切見えない。『バカは死んでも治らない』なんて言うけれど、その物言いをした人間の気持ちがわからないでもない。

「バカは死んでも治らないという言葉は、中々辛辣にうつりますけれど、バカという単語はインドネシア語で永遠という意味があることを鑑みると、中々ウィットにとんだ言葉ですよね」

「僕の怒りを豆知識に変換するな。少しは反省の色を見せろ」

「狭いですねえ。視野も心も。こんな可愛い幼女に説教だなんて、世間知らずで恥知らずです。冗談に決まってるじゃないですか。そう色を成さないでください。無色透明であってほしいものです。大学生なんて肩書だけで無職同然なんですから」

「こいつ……」

 僕と楼理ちゃんが言い争いをしていると、一人の子供が服の裾を引っ張ってきた。どうしたのだろうか。ふと見るとその子供の後方で数人の子供達も何か言いたげな表情でこちらをみていた。

「ちょっとちょっと、お兄さんは人と関わるのが苦手なんですから、私が伝えてさしあげますよ」

 楼理ちゃんは僕を押しのけて子供達の輪に入る。何を話しているのかよく聞こえないが、おおよそ遊びの誘いだろう。これで僕はお役御免か。なんだかんだ良い暇つぶしになった。そう考えていると楼理ちゃんはとてとてと僕の方に駆け寄り、膝の上へとちょこんと座る。

「みなさーん、お兄さんは多忙を極める身のため、有象無象の方々とは遊べないようでーす」

 楼理ちゃんは声を上げてそう告げる。ちょっと待ってほしい。僕は別に多忙など極めていないのだが。この子は何を言っているのだろうか。

「まあまあ、別に嘘は言ってないじゃないですか。お兄さんは私の相手に忙しいんですから」

 そう嘯く彼女の頬は、少し赤く染まっていた。

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