五
辺り一面に立ち込める濃霧の
不安に
ふと、隣を見やる。誰かがいるような気がした。でもそれは勘違いだったようで、辺りには人一人としていない。
誰かがここで、手を
無性に、泣きたくなる。
誰が温めてくれたのか、思い出せないのだ。
それはきっと、忘れたくないことだったはずなのに……
目の前に、小さい女の子の姿が浮かび上がった。
貴女は誰……?どうして自分はそんなことを彼女に問おうとしたのだろう。
覚えている。神子の想いが込められた存在も、焦がれている彼のことも。
「人は愛する者のためには愚かになる」
みこ様……そう叫んだはずなのに、声にはならなかった。視界も白く
「そなたは忘れるな」
うたは一瞬で目を覚ました。今度は暗闇の世界が広がっていたが、生々しい感触から、夢から覚めたのだと理解する。
目の前には見慣れない天井が見えた。がばりと布団から身を起こしたが、急に
(帰らなきゃ……)
「まさかお上の御用を務めてから、盗人の真似事をするなんざ、思いもしませんでしたぜ」
風の音すら聞こえない
金品を盗むのが目的でないとはいえ、二人が盗人の扮装をしているのは、
「これも貴重な経験かもな」
「まったく、これからってときに……」
と仁助は言ったが、内心ではうたを助けたい
「旦那、あれは……」
海野家の屋敷の塀には、仁助たちよりも先に、何者かの影があった。
「賊だ!」
にわかに屋敷の中が騒がしくなった。
黒衣に包まれた人影が一人、金目の物を物色しているのを用人が見つけ、抜刀したのを皮切りに、身軽な動きで逃げる二人を追いかけ、激しい物音やらがひしめいている。
「随分つまらないことをしてくれるじゃない……」
落ち着いた態度でこぼす須磨の目は、冷たかった。
その頃うたは、騒ぎの音を聞きながら、鍵のかかった扉を懸命に叩いていた。内側の鍵は開けられても、外にかかる別の鍵が、扉を開けさせてはくれない。
次第に、扉を叩くうたの力が弱まってゆく。うたは薄れゆく意識の中で、ここに来る前の記憶を思い出していた。
花鳥屋で外出する兄を見送った後、部屋に戻る途中で、自分を呼び止める声が聞こえた。声のする方へ行くと、裏木戸の向こうに女が立っていた。
(そうだ……あの人に手招きされて……)
面立ちの整った女だった。その顔に見覚えはなかったけれど、前にも一度、会った気がした。
遠い記憶が呼び戻すように、連れ去られるとも知らず、女の元に行ってしまった。
(帰らなきゃ……)
きっと、大切な人が待っている。
扉はびくともしない。早くここから出なければ、自分が自分でなくなってしまうのではないか。
(私は……)
何者なのだろうと、ずっと悩んでいた。両親の言う通り、取り替えられた子なのかもしれない。家族が不幸になってしまうならば、自分なんかいなければいいと、本気で思ったこともあった。
好きで霊が見えるようになったわけではない。この能力をありがたいと思ったことはない。なのに、家族は自分を
霊が見えると知っても普通に接してくれたのは、彼がはじめてだった。今では、会いたいと、忘れたくないと思えるのは、彼だけではない。
うたは無意識に、一太が忍ばせた呼子笛を
海野家の前には、続々と南町奉行所の役人が駆けつけた。盗賊が海野家に入っていくのを見たと、伝吉が奉行所に知らせたためである。南北力を合わせてと
一か八か、海野家に忍び込もうとしていた仁助であったが、予想だにしていない盗賊が海野家に侵入し、騒ぎに乗じて屋敷に忍び込みやすくなったのだから、盗賊様様である。
「逃げたぞ!」
黒い影が一つ、塀に踊り出して、
「あっちは俺に任せて、旦那はうたを!」
と、伝吉に背中を押され、仁助は屋敷に侵入した。
盗賊が潜り込んだ屋敷の中は、喧騒は去ったものの、まだ平素の落ち着きをとり戻してはいない。門の前には家臣が張りついていて、家人たちは屋敷の中の一所に集まっている。
うたが囚われているであろう部屋は、屋敷の一番奥に存在していて、いま侵入するのは
屋敷の図面は頭に叩き込んだ。周囲に気を配りながらも一直線に、部屋へと向かう。うたと、叫びたかったが、さすがに大声を上げれば、誰かに気づかれてしまうのでできなかった。
仁助はやっと、最奥の部屋にたどり着いた。
一太の言っていた通り、鍵のかかった部屋である。扉を開けようとするも、やはり鍵がなくてはだめなようだ。
「うた!いるのか!」
声はもう出ない。どうか彼が、気づいてくれますように……
「くそ……!」
大きな物音は立てたくなかったが、仁助は持っていた刀で、錠前を壊した。
すぐそこに、うたがいる。
仁助は
「うた……!」
扉の前に倒れ込んでいるのは、紛れもなくうただった。
確かに二人は目が合った。色々な感情がせめぎ合っていたが、手を伸ばして、ただ助けることを、助けを乞うことに全力を注ぐ。
あと少しで、触れ合えるはずだった。
「……!」
急に白い煙が立ち込めて、思わず仁助はむせてしまう。微かな物音が聞こえていたが、確かめようにも、目を開くことさえままならない。
煙が薄くなり、視界が開けるようになったときには、うたの姿がなかった。
後ろを見やれば、遠くに動く人影が見えた。
うたは何者かに——黒衣を
深萩神社の一室は、重い空気に包まれている。
あと少しだった。あと少しで、うたを奪還できたはずだった。
うたは助けを求めていた。なのに、あんなに近くにいたのに、助けることできなかった無力さに、仁助は押しつぶされそうになる。
「神山様が悪いのではありません。理由はわかりませんが、盗賊は意味もなしに神子様を攫ったのではなく、元から、神子様が目的だったのではないでしょうか」
海野家の屋敷から逃げたと思われた盗賊が、うたを攫って行った。
しかし盗賊は、屋敷を去ったあと、駆けつけた役人たちに追われていたはずで、その中には伝吉もいた。
「面目ねぇことに、途中で見失っちまいましたが、とても屋敷に戻れるわけもねぇんで……」
北町奉行所の役人が総出で盗賊を追ったのにもかかわらず、盗賊には逃げられてしまった。海野家の方には被害がないようで、盗まれた物もなく、
後からうたを連れ去った盗賊を追った仁助も、すぐにその姿を見失っている。
「ということは、盗賊は二人いたのでは……」
「宮司さんの推量通り、うたを攫うのが目的だったとすりゃ、俺たちが追った盗賊は、役人を引き付けるための
常ならば仁助も推量できるところを、彼は事件の概要を考えられないでいる。
手法がどうであれ、うたはまた、何者かに連れ去られた。今度は盗賊が連れ去ったということ以外に、何の手がかりもないのだ。
「こうしちゃいられねぇ……!」
矢も
「待てよ、うたがどこにいるのかもわからねぇんだ」
「何もしねぇよりましだろ!」
伝吉の制止を振り切って障子戸を開ければ、ちょうど来たところのいつ子とぶつかりそうになった。
いつ子はびっくりした声を上げたが、すぐに切り替えて、ある紙を皆の前に掲げる。
「これ見て!薄雲一座の次回公演なんだけど……」
薄雲一座とは、うたと兎之介が見に行くのを約束していた、猿若町で人気の芝居小屋であった。
どうやらいつ子の持ってきた紙は、薄雲一座の次回公演についての宣伝らしい。
「こんなときに何考えてやがる!」
「うーちゃんに関係があることなの!ほら、ここに……」
いつ子の指差すところには、次回公演の内容が書かれていた。
『アワノウタをうたう巫女』
神々しく儀式でアワノウタをうたった神子の姿を、皆は瞬時に思い描いた。
「須磨の術が失敗しているってことは?」
目鼻立ちのすっきりした青年が尋ねたのは、
「俺もそう考えたが、うたは霊視の能力を身につけている」
「そういや
二人が見下ろす先には、布団に横たわったうたの姿がある。うたは一度、目覚めたはずだった。しかし、青年が連れ去ったときには再び眠ってしまったようで、今日に至るも目覚めてはいない。
「次に目覚めたときには……」
「……そんなに会いたいのか?」
「この十二年、ずっと待っていたんだ」
「…………」
青年には理解できない感情だった。でも、もし自分が同じ立場になったときにも理解できないのだろうかと、ふと考えてみる。やはり同じ立場にならなければ、わからない答えだった。
「ん……」
「「…………!」」
うたが微かに
二人は
果たしてうたは、何者なのだろう。
「誰……?」
青年は自分に問われている言葉だと思った。しかし、面識のあるはずの織本のことも、不思議そうに見ている。
うたでも、違う誰かでも、あり得ない反応だった。
「あんた、何者だ……?」
青年に問い返されて、うたは戸惑う表情で答えた。
「……わからない。何も、思い出せない」
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