「届いたのは着物だけだ!うたは死んでいない……!」

 うたは十二年前と同じ日にいなくなるも、同じ日には帰ってこなかった。裏木戸に落ちていたのは、背中の部分がざっくりと斬られ、おびただしい量の血が付着したうたの着物であった。

 着物を届けたのは、うたをさらった何者かに間違いない。しかも、偶然では考えられない日付の一致から、犯人は十二年前の失踪事件にも関わっている。

 仮にうたが殺されていれば、死体を届ければいいものをそうしなかったのは、うたは死んだと家人に思い込ませたかったからだと、仁助は信じている。とても無事ではすまない斬り口を見ても、この目でうたの姿を見るまでは、生きていると、断じて疑わなかった。

 一刻も早くうたを探し出したい仁助の心中をよそに、即時、南町奉行所に集まれとの招集がかかり、しかも同心すべてが集められるという一大事に、駆けつけざるを得なかった。

「目付を通して内々にご沙汰があった。いま、大名屋敷を荒らす盗賊が跋扈ばっこしているらしい。被害にあった大名家は数知れず。この由々しき事態に、奉行所は南北の垣根を越えて、盗賊捕縛に専念することになった。いいか、何としてでも、盗賊を捕えるのだ!」

 筆頭同心の吹田が、鼻息を荒くしながらまくし立てた。

 大名屋敷を狙う盗賊ともなれば、巷でも有名になっていそうなものだが、武士は体面を気にするのが常で、被害が甚大になるまで公にならなかったのだ。公といっても、奉行所の中だけである。しかも他人に流布することはまかりならぬと吹田が念を押す始末であった。

 盗賊は、その名前すらもわかっていない。いつも幻のように逃げてしまうと、まるで雲をつかむような話だった。

 吹田は同心それぞれに、担当区域を割り当てた。

「神山は……を……」

「恐れながら……私は行方不明になった娘を追っていて、連れ去ったと思われる犯人はまだ見つかっておりません」

 盗賊は金品を盗むだけで、人を殺めたことはないという。ならば人命を優先するべきか、それとも盗賊を食い止めるべきか、同心として比べることが許されるのかはわからないが、仁助は心情として、盗賊の捜査などしている場合ではなかった。

 そもそも、広大な江戸という土地と比べて、町の治安を担う同心の数があまりにも少なかったのだ。

「事の重大さがわかっとるのか!些事さじは捨てて捜査にあたれ!」

 と、吹田に一喝されて、仁助には二の句を告げることも許されなかった。

 いま、うたを見放せば、一生会えなくなるかもしれない。時は無情に過ぎゆくのに、どうすることもできないのか……

「そんなにあの娘が大事ですか?」

 無力に立ち尽くしていた仁助に声をかけたのは、西崎兵馬であった。

 相変わらずの、腹の中では何を考えているかわからない様は、決して彼の前では油断できないと思わせるほどである。

「あのくらいの器量の娘なら、たくさんいるでしょう。代わりならすぐに見つかりますよ」

 犯人を追い詰めるとき以外は温厚な仁助だが、兵馬の言葉で怒り心頭となる。

 うたは充分に愛くるしいが、そう思ったのは、器量だけではない。代わりなど、誰一人としていないのだ。

「本気で言っているのか!」

 それが兵馬の本心であったならば、あまりにもおぞましい。代替だいたいで満たされる愛というものが、仁助には理解できなかった。

 兵馬は悪びれもせずに、答えた。

「言葉が過ぎたようですね」

「待て!」

 すぐにその場を去ろうとするのを、仁助が呼び止める。

「俺は、乙若屋の娘は西崎さんの許婚、須磨殿だと思っている。たとえ都合の悪いことだったとしても、真実を暴いてみせる」

 兵馬は何かを思考していたのか、少し時間が経った後で、低い声音を吐き出すように言った。

「……無駄なことですよ」

 埋もれてしまう前に、探り出さなくてはいけない。想像するよりも恐ろしい真実が、仁助を待ち構えていたのであった。

——代わりならすぐに見つかりますよ。

 その人の大切な存在が行方不明になっていて、とてもではないが、向けられる言葉ではない。兵馬に対する怒りは消えていないが、感情に任せて殴りかかるほど、心の制御ができないほどではなかった。

 兵馬はきっと、無意識に言葉にしてしまったのだろう。思い出せば嫌な気持ちになるのだから、早く忘れることだ。しかし、中々に頭の中から消えてくれなかった。

(代わり……)

 仁助は兵馬の言葉に、引っかかりを覚えていた。それはしゃくに障ったからというだけではなく、違う何かに……

(まさか……)

 ひらめいて、すぐさま向かったのは、昨日に水死体で見つかった娘の死体がある番屋だった。明日までに身元が明らかにならなければ、無縁仏として埋葬されることになっている。番屋には死体だけではなく、花鳥屋に届けられたうたの着物も保管してあった。

 仁助は死体をうつ伏せにして、うたの着物を目の前で広げてみせる。

「そういうことだったのか……だが、どうして……」

 死体の傷口と、うたの着物の斬られた痕が、ぴたりと重なるのであった。

 つまり、うたが負傷したのではなく、死体の娘がうたの着物を着ていて、斬られたことになる。ではなぜその着物が、花鳥屋に届けられたのか。

(うたは死んでいると思い込ませたかった……)

 元々、うたの身代わりとして殺されたのか、別の理由で殺され、折よくうたの身代わりになったのかは判然としないが、殺された娘がうたの身代わりとして、利用されたことは確かだ。

 死体は川に沈めたはずが、重しが取れ浮かび上がってしまった。うたと殺された娘は接点がないから、たとえ死体が見つかったとしても関わりを見破られることはないと踏んでいたのかもしれない。

 うたの失踪と、娘の事件は繋がっていたのだ。

(犯人は一体……)

 なぜうたを攫ったのか、身代わりにされた娘は何者なのか、主軸は見えなくても、わずかながら光明は射し始めた気がした。

「神山様」

 仁助が振り返ると、彼を訪ねて来た安形宿禰がいた。

 花鳥屋に血の付いたうたの着物が届けられたことを知っていた宿禰は、ずっと青い顔のまま過ごしていたが、仁助から先ほどの考察を聞き、うたが負傷していないとわかって、ひとまずは安堵あんどした。

「神子様のことでお耳に入れたきことが……」

 二人は番屋の一室をあてがってもらい、用意された渋い茶に手をつける暇もないまま、話し始めた。

「十二年前の、そして今の神子様の失踪事件には、織本様が関係しているのです」

「織本が……」

 織本は深萩神社の儀式のときに、須磨と姿を見せていた。そのときうたと対面しなかったが、波川屋の事件で、二人は知り合いとなる。出自不明の浪人で、剣の腕が立ち、何かとうたを気にかけていた、という認識くらいしか、仁助はもっていなかった。

「今からお話しすることは、突拍子もないことです。私もこの目で見たことはありません。この世に怨霊や妖怪が当たり前に跋扈ばっこしていたとされる昔、空蝉うつせみという術を使う者がいたとか……」

「それは……」

「己の魂を他人の身体に移して、その人の心までを乗っ取ってしまうという、恐ろしい術です。術者本人の魂を移す場合には他人を我がものとするのですが、この術は自らではなく、他人同士にも使うことができるのです。ある人の魂を、また違う人の身体に移す……」

「ちょっと待ってくれ……その空蝉とかいう術が実在するかはともかく、うたの失踪と何が関係しているんだ」

 勘のいい仁助は、その答えがわかりかけていた。けれども問わずにはいられない。そうではないと、否定してほしかったから。

 宿禰は仁助の心情を察してはいたが、事実を打ち明けるしか道はなかった。

「事の起こりである十二年前、空蝉を使う術者が神子様を攫い、神子様の身体に何者かの魂を入れた。目的は、何者かが神子様の身体を乗っ取るために……」

「でもうたは無事に帰ってきて、他人に乗っ取られてはいない」

 帰ってきたときに不思議な力が目覚めてしまった所為せいで、両親には取り替えられたと思われたうただが、うた本人であることには間違いないのだ。

「いまはまだ……なのでしょう」

「…………!」

「何者かが目覚めるのが十二年後の今だとすれば、そのために神子様が再び攫われたとすれば……」

「……嘘だ。ありえない……」

 宿禰のことが信じられないわけではない。うたと出会って、今までは信じられなかった超自然現象を肯定するようになった。だけど、信じたくないと願う日が来ようとは、想像すらしなかった。

「もし、目覚めたら……」

 うたはどうなってしまうのか。

 宿禰は静かに首を振った。

「私も古い文献を読んだだけで、すべては憶測にすぎません。ですが、織本様にお会いして、詳細は教えていただけなかったものの、空蝉の術を肯定したのです。乗っ取られた者がどうなるのかまでは……」

 すでにうたは、他の誰かに……


(強情な子……)

 須磨は空蝉の術を失敗したことがない。失敗などあり得ないのに、目覚めるはずのうた……本当に目覚めるのは違う者なのだが、一向に目覚めようとはしなかった。

 花鳥屋にいたうたをおびき寄せて攫ったのは、須磨である。捕らえられたうたは、一言も話そうとはせずに毅然きぜんとしていたのだが、五日が経って、深い眠りについてしまった。命が潰えたわけではない。が目覚めようとしているのだ。

 だが、うたは眠りについたまま、何者も目覚めない。

たばかったのか……!」

 須磨の前で怒りを露わにしているのは、織本だった。

「少し目覚めるのが遅れているだけよ」

 の目覚めを誰よりも心待ちにしているのは、織本である。しかし、十二年前からずっと待っていた彼女が目覚めず、須磨を疑っていた。

「信じないのなら、それでいい」

 須磨にとっては、うたがうたであろうと、であろうと、どうでもよい。これは織本の願いなのだ。

 やはりあきらめられない織本は、心を落ち着かせるのを努めた。

「いつ、目覚めるんだ」

「そうね……遅くとも、数日のうちにというところかしら」


 老中、海野左衛門佐の屋敷を見張っている伝吉に、仁助はそっと背後から話しかけた。

「どうだ?」

「旦那、盗賊の方はいいんですかい?」

「及川さんが上手くやってくれている。それより、動きは……」

「それがつい今しがた、織本が屋敷に入りました。でも何で野郎が……」

「さっそく動きを見せたようだな。奴はうたの失踪に一枚かんでいる」

「え……!」

 仁助は宿禰から聞いたあらましを、ざっと話した。伝吉が海野の屋敷を見張っていたのは、乙若屋の娘、お京が殺害された事件を追ってであるが、実は色々な事件が複雑に絡み合っていたのだ。

「じゃあ、うたはこの中にいるかもしれねぇんですね。忍び込もうにも老中の屋敷なんざ……」

「そこは安心を」

「私たちが潜入します!」

 暗い影の中ではきはきと答えたのは、行商人の身形みなりで現れたいつ子と環游であった。

「てめぇら、いつの間に……」

「詳しいことはよくわからないけど、うーちゃんがこの中にいるかもしれないんでしょ」

「俺たちが貸本屋のふりをして探ってきます」

 行商人の格好をしているのは、そういう算段であったらしい。

 うたが失踪してから、二人はたびたび行商人に化けてうたを探していたのだが、深刻な顔で走ってゆく仁助を見かけて、後をつけてきたのだった。渡りに舟となった状況だが、仁助としては町方ではない二人に、潜入捜査などさせることはできない。

「危険な目に合うかもしれないんだ。お前たちは帰って……」

「うーちゃんだって、私のために命懸けで波川屋に乗り込んでくれたのよ!だから私も、命懸けで助けたいの!」

「佐原に連れて行ってもらった礼も、まだしていないんですよね。このまま手をこまねいているよりいいでしょう」

 と、二人に押し切られる形で、やむなく二人の潜入が決まったのであった。

(あれ、重い……?)

 環游は背負い直した行李こうりが、先ほどよりも重くなっている気がした。が、気のせいだろうといつ子と共に、老中の屋敷へと向かったのであった。

「大丈夫ですかね……」

「いざというときは、俺たちも踏み込む」

 何かのときにはすぐに吹くようにと、二人にはそれぞれ、呼子笛を渡していた。

 二人もその笛を頼りに、いざ参る。貸本屋に扮装していて、女中たちを目当てに声をかければ、難なく潜入は成功した。

 左衛門佐は登城しているらしく、手の空いた女中たち全員が離れに集まって、書物を見ることになった。

 このとき環游は気がつかなかったが、行李を降ろした隙に、行李の中に潜り込んでいた一太が抜け出して、屋敷の中に潜入していたのだった。

 老中の屋敷は広く、同じような部屋がいくつもあって、一太は途方に暮れた。

 奥へ、奥へ……一太はそこで、鍵のかかった部屋を見つけた。外側の鍵は外れているが開かないということは、鍵は内側にもかかっているらしい。

 この中に、うたがいるかもしれない。一太は夢中でうたの名前を呼んだ。

「……誰だ?」

 返ってきたのは、うたの声ではなかった。しまったと本能で感じたが、足はその場に縫い付けられたように動かない。

 がちゃりと、錠前が外れる音がした。

 一太が安心したのは、それが見知った人物だったからだ。

「お前……」

 深萩神社によく来てくれる織本だった。どうして織本がここにいるのかという疑問の前に、一太は織本の先に、布団の上に横たわるうたの姿を見つけた。

 駆け寄って、近くで名前を呼んでみたが、うたはぐっすりと眠っていて、起きてはくれなかった。

「おねぇちゃんは、病気なの……?」

「少し、眠っているだけだ」

 皆、そして一太も、うたを探している。だが、うたは起きていないので、連れて帰ることはできそうにない。そこで一太は、行李の中で見つけた笛を、そっとうたの手ににぎらせた。

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