商用で出かける兎之介を見送ったうたの姿を、確かに花鳥屋の奉公人が見ていた。見送ったあと、うたは自室に戻ったのだと、誰もが思っていた。商いで開いている表口から出ていないのは確実だった。

 仁助と伝吉の前には、弱々しく話す、田左衛門がいる

「手前がおかじに呼びに行かせたときには、いなくなっておりました……」

 うたが忽然と姿を消した。

 兎之介を見送り、おかじがうたを呼びに行くまでは、わずか四半刻くらいしかなかったという。その間にうたは、花鳥屋からいなくなってしまったのだ。

 あわてた両親が番屋に駆け込み、それが伝吉に伝わって、仁助に伝わり、いま仁助と伝吉は、花鳥屋で詳細を聞いていた。

「確かにうたはしょんぼりしてたけど、黙って出ていくほど追い詰められてはいなかった」

 仁助との婚姻を反対されていたとはいえ、両親と喧嘩はしておらず、家出をする様子もなかったと、兎之介が青い顔で言った。

 以前、うたは家出をしたことがあったのだが、そのときは母と喧嘩をしてしまい、出て行ったという経緯いきさつがある。しかしそのときには、うたは兎之介にだけは居場所を教えていて、仮に家出をしているのなら自分にだけは教えるはずだと、兎之介は信じている。

 うたが家出をしていたときに身を寄せていた井楢屋や、深萩神社、神山家、木花屋、お針の塾、心当たりのある場所のどこにも、うたはいなかった。

「俺も、うたは自分からいなくなったわけではないと思う」

 両親と打ち解けてきた証として、外出をするとき、うたは母に行き先を必ず告げていた。考えられる状況から、うたが自発的にいなくなったのではないというのは、仁助も同感だ。

 そう考える最もな理由は、うたがいなくなってしまったその日が、十二年前、うたが行方不明となった日と同じ日であったからだ。

 また、神隠しにあってしまったのではないか……

 誰もが同じ不安をぎらせていた。

「お願いします……どうか、娘を探してください」

 すがるように仁助に頭を下げる田左衛門とおかじからは、仁助が二人を初めて見たときの、うたをぞんざいにするような感じはなかった。

 遅すぎたのかもしれない。当たり前のことができなかった。けれど、してきたことは消えないし、時間は戻らない。それでもなお愛しくて、無事を祈らずにはいられないのだ。

「うたは必ず、連れて帰ります」

 すぐにでも駆けだしてうたを探しに行きたいのを、仁助はぐっとこらえた。闇雲に八百八町と呼ばれる江戸を探すのは、得策ではない。

 うたはどのようにして、いなくなったのだろうか。

 表口から出ていないとすれば、裏口からいなくなったはずだ。うたが姿を消した時刻、花鳥屋の裏口近くには、家人や奉公人は誰もいなかった。もし誰かが連れ去ったのだとすれば、誰もいない隙をついてということになる。

 だが、簡単に連れ去ることができただろうか。

 複数人で、抵抗することもできないように連れ去ったか、もしくは……

(女なら、油断する)

 例えば若い女に裏口から声をかけられたとすれば、うたはまさか連れ去られるとは思わずに、近づいてしまったかもしれない。女一人で連れ去るのは容易ではないから、共犯者が奥に隠れていて、うたを攫って行ったとも考えられる。

 もしかしたら十二年前も、同じ手口だったのではないか。

 そして、十二年前と同じ日というのは、ただの偶然だろうか……

「伝吉は周辺の聞き込みをしてくれ。俺はもう一度、うたが行きそうな場所を探す」

「へい!」

 まだ、うたが連れ去られたと決まったわけではない。そうではないと祈りながら、すべての可能性を考えなければならないのだ。

 仁助が深川にある深萩神社に向かおうとしたときだった。仁助を呼び止めたのは番太である。うたを探している最中であるが、思わず足を止めたのは、どうにも嫌なことを聞かされるという勘が働いたからだった。そんな勘なら、足など止めなければよかったと、仁助は番太の言葉を聞いて後悔することになる。

「若い女の水死体が見つかったようです……!」

 番屋に着くまでに考えていたのは、うたではありませんようにという呪文だけだった。

 むしろをかぶせられた遺体が、番屋の中に横たわっている。白い素足だけが少しだけ、筵の隙間からのぞいていた。

「旦那……?」

 風の速さで番屋に来たのに、いざ着いてみれば、なかなか遺体を検めようとしない仁助に、番太は首を傾げた。

 仁助は、遺体を見るのを怖がっている。見習いならともかく、そんな同心がいては困ったものだと、見当違いなことを番太は考えていたが、仁助はそれに気づくほど、心の余裕はなかった。

 どうか、どうか、うたではありませんように……

 恐れているのは、最愛の人の死だ。

 仁助はやっと、筵に手をかけた。もう何回目かの呪文を心の中で唱えて、一息に筵をめくった。

「……!」

 もう一人、水死体が見つかったという報を聞いて番屋に駆けつけたのは、北町奉行所同心の、及川貞之進である。

「仁助……!」

 遺体を前に、仁助は尻餅をついたような格好でいる。その後ろ姿から、及川は最悪を想定してしまった。

「これは……」

「お、及川さん……」

 後ろから支えてくれる及川に、仁助が力なく答える。

 死体は……

「うたじゃ、ない……」

 歳こそ同じくらいだが、うたとはまったくの別人であった。

 髪は水に流されるうちに乱れ、襦袢じゅばん一枚しか着ていない姿をした女の顔は、うたではない。

「しっかりしろ!お前は同心なんだぞ!」

 及川はすでに、うたが行方不明になっていることを聞いていたのだが、及川は水死体で発見された女に別の可能性を見出して、番屋に来ていた。

 小間物屋を営む三笠屋の娘が行方不明になっており、及川はその娘の捜索を請け負っていたのだ。つまるところ、水死体は三笠屋の娘ではないかと確認しに来たのだが、目の前で冷たくなっている女は、うたでも、三笠屋の娘でもなかった。

 女の背中にはざっくりと、致命傷になったであろう刀傷がある。他殺体とわかれば同心の出番だが、

「仁助はうたの捜索に専念しろ。こっちは俺が何とかする。早く、あの子の花嫁姿を見せてくれ」

 と、及川が気を回した。

「はい……!絶対に、見つけてみせます!」

 

 どこを探しても、うたはいない。刻一刻と過ぎる中で、それぞれは実体のない神に祈った。

(うーちゃん……)

 世間に嘘吐きと呼ばれても、うたは信じてくれた。不幸の中から助けてくれた彼女は、なぜ、いなくなってしまったのだろう。

(まさかこんな形で、嬢ちゃんの絵を描くとは……)

 己が描いた探し人の看板を見るたびに、不安は募るばかりだ。気がついたら手を合わせて、見えない神に祈っている。

(無事に帰ってきて……)

 料理をして、花を活けて……楽し気に笑う、うたと過ごすのは、沙世の好きな時間だった。うたのことが心配でたまらない。自分がこんなにも不安に押しつぶされているのだから、仁助の気持ちは、いかばかりか。いつかそうなればいいと願い、もうすぐ皆の想いが叶うはずだったのに……

 深萩神社で必死に祈る沙世の姿を、宿禰は見守っていた。

「おねぇちゃん、帰ってくる?」

 幼い一太にも、うたの失踪は衝撃だった。宿禰はかたわらにいる一太に、安心させるような笑みを落とした。

「必ず、帰ってきますよ」

 その後、宿禰が向かったのは、やっと突き止めた織本の住処すみかだった。

 前々から秘かに織本を怪しんでいて、確たる証拠もなしにであったから、仁助たちの手をわずらわせることはできないと、一人で調べたのがあだとなり、突き止めるのが遅くなってしまったのだ。

 宿禰は、うたの失踪には織本が関わっていると踏んでいる。あれだけうたのことを気にかけていた織本が、うたの失踪を境にぱったりと姿を見せなくなって、その考えはより確信に近づいていた。

 織本が住んでいるのは、深川の外れにある、およそ人気のない古びた小さい一軒家だった。宿禰が訪ねたとき、ちょうど出かけるところであったのか、織本は腰の物を携えている最中であった。

「神子様はどこにいるのですか」

 宿禰の来訪にも、問いにも、織本は動揺のそぶりを見せなかった。しかし内心をさとられたくないのか、宿禰には背を向けている。

「……俺は知らない」

「貴方は嘘を吐いている。貴女にとって、神子様は大事な方なのでしょう。何も知らなかったとして、落ち着いていられるはずがない。……正しくは、神子様を通して、他の誰かを見ている。……違いますか?」

 振り返った織本の目には、殺気がただよっている。

 瞬時に刀のつかに手をかけたが、白刃のきらめきをさらそうとはしなかった。宿禰は負けじと応じた。

「神子様には特別な力がある。ただし、神子様は知人の霊しか見えない」

「……それがどうした?」

「もしかしたら神子様の力は、本人が目覚めた力ではなく、誰かの力なのではないかと思ったのです。一度だけ、神子様は知人ではない霊を見たときがありました」

 うたと織本が出会った波川屋でうたが見たのは、波川屋の主人に苦しめられた、うたの知らない人々の霊であった。

「偶然ではなく、貴方が影響していたとすれば……と、貴方の魂が共鳴していた……」

 それ以上、宿禰の言葉を聞きたくないと言わんばかりに、織本は刃の先を宿禰の喉元に突きつけた。

「殺されたいのか……」

 恐怖よりも先に出たのは……

空蝉うつせみ……」

 という言葉だった。死を覚悟したが、織本は静かに刀を降ろした。

「やはり、そうだったのですね……」


 文政二年如月きさらぎ十五日早朝。行方不明だったうたが帰ってきた日から、ちょうど十二年が経った日のことである。

 いなくなった日も十二年前と同じならば、帰ってくる日も同じではないかと考えた、花鳥屋の家人が裏木戸をのぞいてみると、そこには血の付いたうたの着物が落ちていた。

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