最終話 黄昏ノ空蝉

 暗闇の中で、目の前にいる女の白い肌が、頼りない月光に照らされてなまめかしく浮き立っている。突然に、知らない場所へ連れ去られた恐怖さえなければ、きっと見惚みとれてしまうのだろう。女はそれほどまでに魅力があると、小町ともてはやされている自身でさえ、そう思った。

 ふふ……

 女が、不敵に微笑んだ。

「誰なの……?」

「もうすぐ、私は貴女になる。いいえ、私は私ね」

 ずいと女が前に出た。

 それはどういう意味なのか。ここはどこか。どうして私を連れ去ってきたのか。一体、何を問えばいいのかすらわからない。一つだけ、どんな思いよりも強いものがあるとすれば、家に帰りたいという切実な願いだ。

 早く帰して……

 女にとろけるような口づけを施されて、意識はそこで途切れた。口づけをされた女は、


  *


 江戸橋近くの木更津河岸も、夜の往来は乏しい。まだ春の到来には及ばないものの、凍てつくような寒さも失せたこの頃、粗末な屋台の暖かさに肩を並べているのは、仁助と兎之介だった。

「あんたとさしで飲む日が来るなんて思わなかったよ」

 その忌々しさを払拭ふっしょくするように、兎之介は酒をあおった。

「俺だってそう思っていたよ」

 兎之介に対しては、いつも怒っているという印象を抱いているだけに、普段なら軽口も叩けないところを、酒の勢いでは摩耗まもうするばかりである。

 思い返してみれば、兎之介は初めから印象が最悪であった。妹に対しても冷たいように感じられたが、彼の内心を知るようになって、微笑ましかったり、やはり怖かったりと、後者の感情はさておき好ましく思っている知人の一人となっていた。特に兎之介は、大店の若旦那という立場を鼻にかけたところもなく、気軽に屋台で酒を飲めるところもよい。

 そもそも武士と町人が、気安く接することのできる関係は、まれである。兎之介の仁助に対する態度は他の人から見ればはらはらするほどに、武士に対する非礼ともとらえられるが、お互いに、一向に気にしなかった。

「で、どうなんだ?」

「まだ渋ってやがる」

 仁助が聞いたのは、意中の人、つまり兎之介の妹であるうたとの縁組の進捗しんちょくについてである。

 江戸より遠く、佐原の地にて結ばれた二人は、いざ正式に縁組をとなると、様々な障害が生じた。

 まずは、身分である。仁助は武家の人間で、うたは町人。身分が違えば縁組もままならないのだが、かいくぐる手がった。町人であるうたが、武家の養子となって身分を同じくすることである。

 同心職である神山家はそれほど石高もなく、仁助の母沙世も願ったり叶ったりの成り行きであったので、うたとの縁組に反対するどころか、喜んでといったところであった。しかし身分違いだけはどうすることもできないので、ならばどこかにうたを養女としてくれるところはないかと、真っ先に浮かんだのが、同じく同心職の及川家である。

 及川家の当主、北町奉行所同心の貞之進は、亡き仁助の父平助とは竹馬の友で、今なお神山家とも親交があった。仁助と沙世が貞之進に、うたを養女にしてくれないかとお願いしたところ、あっさりと承知したのである。

 仁助の側では問題はなかったのだが……

「しばらく、待っていてほしい……頭から反対しているわけじゃないんだ」

 仁助とうたの縁組に難色を示したのは、うたの両親であった。

「武士の嫁になれば、うたが大変な思いをするんじゃないかって……でも、一番渋っているのは、他の家に養子に出すことみたいだ」

 及川家の養女になることは、うた自身も複雑な思いを抱いていた。

 及川家の人々がどうこうというのではなく、他家の人間になれば花鳥屋の人間ではなくなってしまうという事実に、好いた人との縁組のためとはいえ、すんなりとはいかないものだ。

 仁助と結ばれるには、いずれかの家の養子になるしかなく、貞之進は娘と思って大事にする、というだけではなくて、本当にそう思っていて、たとえ養子になっても花鳥屋との縁が切れてしまうわけではない、今まで通り親子兄妹でいていいのだと、うたの両親と兎之介に言ったものだった。

「そこまでして添い遂げたい相手かね」

「本人の前で言われても……」

 今は、待つしかない。親が子を想う気持ちを急き立てるなんて、野暮なことはしないつもりだ。

 近況報告が終われば、兎之介にうたを大事にしろとの誓約をさせられて、あとは何を話したか、酒が進むごとに忘れてしまって、ただただ楽しい時が過ぎたように感じていた。

 兎之介が駕籠かごに乗ったのを見届けた仁助は、町廻りで鍛えられた足で家路に就いたところで、荷車を押す二人の男が正面から来るのに気づいた。

(こんな夜更けに、なんだ……)

 多少酔ってはいても、根元にある同心としての心意気が、荷車と男たちに注目した。

「待て。中をあらためる」

 仁助の掛け声に、荷車は止まった。

 提灯をかざして見やれば、どうやら男たちは武士の出で立ちである。誰かに仕える下級武士といったところか、男たちは警戒をあらわにした。

 前にいる男が、後ろの男を振り仰ぐ。うなずきあった二人は、仁助を振り切って立ち去ろうとした。

「ま……」

 仁助が制止しようとした瞬間、何者かに腕をつかまれた。男たちは荷車を押していて、とても仁助の腕をつかめるわけがない。

 一体、誰が……?

 緊張の面持ちで見た先には、荷車に積んであるむしろの下から伸びた白い手が、たしかに腕をつかんでいた。

 仁助はばっと、すれ違いざまに筵をめくってみせる。

「……!」

 荷車には女が一人、横たわっていた。

 鼻をかすめる鉄錆の匂いは、肩から斜めに斬られている傷からただよっている。そのむごたらしい姿に、すっかり酔いは醒めていた。

 男たちが抜刀するよりも、仁助が十手を抜くほうが早かった。数では劣っているものの、先手を取って、仁助は一人をなぎ倒せた。それでも一対二では厳しいところを、予想だにしない仁助の出現に、冷静さを欠いているのか、男たちは素早く去っていった。

 仁助は舌打ちをして、男たちを追うのはあきらめる。腕をつかんだということは、大怪我を負った女はまだ生きている証左だ。

「おい!しっかりしろ!今すぐ医者に……」

 仁助はそこではっと気づいた。

 女の顔には見覚えがある。いつか西崎家で同心西崎兵馬の許嫁いいなずけと紹介された須磨であった。

「家に、帰りたい……」

 か細い声で、女が言葉をつむいだ。

「家……海野様のお屋敷か」

 須磨は時の老中、海野左衛門佐の養女である。なぜ老中の娘がこんな仕打ちをと頭を巡らしてみるも、答えが出るわけもなく、須磨の深手の傷が何より心配である。

 意外にも、須磨は首を振った。

「茅場町の……乙若屋」

 それが須磨の、真の出自なのか。しかし、乙若屋がどのような店かわからないにしろ、一介の町人が老中の養女になれるはずもない。

「わかった。辛抱するんだ」

 須磨の負った傷は相当で、色々な疑問が生まれるが、いまは須磨を助けることが先決だ。もはや生きていることがやっとという塩梅あんばいだ。家に帰りたいという切なる願いは、須磨の最後の願い。須磨が乙若屋に帰りたいと言うのならば、それを叶えてあげるのがするべきことだと、仁助は荷車に手をかけた。

 須磨を気遣いながら、それでも道を急いだ仁助は、まず番屋で乙若屋の所在を訪ねた。

「まさか、お京さんかい……!」

 番太は須磨を見て、驚いたように言った。

 違う。この娘はお京という名ではないと訂正する暇もなく、仁助と番太は乙若屋にたどり着いた。

 慌ただしく尋ねる仁助たちの前に現れたのは、どこか覇気のない夫婦だった。

「お京さんが帰ってきましたよ!」

 息も絶え絶えの須磨に、生気の宿った夫婦がお京と叫びながら、自らの体に抱きしめた。

「お京だ……お京……!」

 身にまとう着物も、髪型も武家の娘そのものなのに、乙若屋の夫婦は須磨をお京と言い張っている。

「そんなはずは……」

 他人の空似にしては、そっくりすぎる容貌だ。ならばお京は名を変えて、老中の養女になったというのだろうか。

 最後の力を振り絞るかのようにまぶたを開けて、やがて須磨は息を止めた。最後に須磨が捉えたのは、乙若屋の夫婦だった。

 あとで番太から聞いた話によると、乙若屋にはお京という一人娘がいたのだが、二年前に行方不明になっているそうだ。仁助が連れてきた須磨は、お京に間違いないという。


 翌日、仁助は奉行所で兵馬の姿を見つけるとすぐに、彼に駆け寄って問い詰めた。

「許嫁殿は息災ですか?」

 どうして急にそんなことを尋ねるのかという不快感も、後ろめたいことを抱えているような狼狽ろうばいも、兵馬は見せなかった。

「ええ。それが何か?」

 兵馬の腹の中など見たことはない。果たして見ることができる日など、来るのだろうか。

「昨夜、乙若屋の娘が殺されたのはご存じか」

「貴方は何が言いたいんです」

 兵馬に誘導尋問など無理だった。ならばもう、破れかぶれだ。

「乙若屋の娘、お京は西崎さんの許嫁に瓜二つだった。いや、あれは本人に間違いない。俺は一度、須磨殿に会っている」

「つまり私にはそのからくりがわかっているはずだと」

 腹の中を読まれたのは、仁助のほうだった。

「神山さん、世の中には自分そっくりの人間が三人はいるそうです。しかし出会ったら死んでしまうとか……もしかしたら乙若屋の娘は須磨に会ってしまい、死んでしまったのかもしれませんね」

「何を……」

「貴方ならこんな話でも信じるでしょう」

 これ以上尋ねても、兵馬は何も答えてはくれないだろう。一度引き下がるしかないと、仁助は兵馬の冷たい視線を受けるしかなかった。

 何者かに殺された娘は、確かに須磨だった。だが、乙若屋の夫婦も番太も、須磨がお京であると言っている。番太はともかく、両親までもが言うからには、本当にお京であると思っているし、確信さえしている。

 あまりにも不気味な事件だ。

「旦那、調べてきましたぜ」

 奉行所を出るとすでに伝吉が待ち構えていた。昨夜のうちに事件のことを伝吉に知らせていて、伝吉は朝一で調べてくると承知していた。

「乙若屋ってのは夫婦で足袋たび問屋を商ってるそうで。一人娘のお京がいたんですが、二年前に突然……」

「行方不明になっていたのか」

「へい。旦那は、殺された娘は西崎兵馬の許嫁だと?」

 お京の傷は、右肩から斜めに深々と、おそらく刀で袈裟懸けさがけに背中を斬られていた。その見事な斬り口からは、町人の犯行とは思えない。

「この目で見たんだ。間違いない」

「確かに、旦那が荷車を目撃した場所は、老中の屋敷とは近いですが……」

 同心職である兵馬の許嫁が、実は老中の娘とは、前代未聞の事実である。

 しかし娘とはいえ、須磨は養女だ。

「乙若屋のお京をさらって養女にしたとして、目的がわからない」

 仮に、兵馬がお京を妻にしたいという理由なら、わざわざ老中の養女に仕立て上げる手順は踏まないはずだ。お京が須磨に成り代わったとして、その理由に検討もつかないのだ。

「相手は老中……波川屋のときより厄介ですぜ」

 一度、権力に対抗したことのある仁助は、そのときは事なきを得たが、生半可な覚悟では挑めないことを、身をもって知っている。覚悟があったとしてどうにもならないことも。

 降りかかる不幸は、我が身だけではない。大切な人さえも滅ぼしてしまうのだ。


 身形みなりを整えた兎之介の顔は、まだ辛そうに歪んでいる。昨夜の酔いが、まだ醒めていなかった。

「兄さま、大丈夫?」

 妹をとられてしまうことが悔しくて、ついつい酒をあおる兎之介は、それくらいにしておけと何度、仁助に止められていたことか。次の日に商用で出かけなくてはならないことを忘れていたわけではないが、仁助といるとむかむかして仕方なかったのである。

「大丈夫だ」

 見栄を張るのは、妹の前だからである。まだ完全ではないが、そこまで支障はないのは本当で、妹との別れは名残惜しいが、そろそろ出ようと見送る妹を見やれば、浮かない顔のうたがいた。

 最近、うたの気持ちが沈んでいる理由わけは、神山家への嫁入りを、両親に反対されているからだ。

 兎之介とて可愛い可愛い妹を嫁に出したくはないが、うたの幸せを考えれば、ぐっとこらえるしかないと決めている。

「近いうちに、いま評判の薄雲うすぐも一座でも行ってみないか?」

「いいの?」

 江戸は猿若町に、芝居小屋である薄雲一座があり、連日客足が絶えないというちまたの噂であった。

 曲芸を交えた芝居が評判で、特に高台からしなやかに飛び降りる芸が人気であった。うたも一度は見に行きたいと思っていたところで、兎之介からの提案はうれしいに他ならない。

「お前がお嫁に行ったら、一緒に芝居なんて見れなくなるからな」

 うたの顔がさらにうれいを帯びるのを見て、兎之介は自身の発言を後悔したが、後悔することはわかっていた。たとえ親交は絶えずとも、失うものもある。ずっと側にいることは叶わないと思い知らされてきたのは、兎之介だけではなく、うたもまた同じである。言葉にした方が、楽になれるのだ。

「兄さま、早く帰ってきてね」

「ああ。夕餉ゆうげの前には帰ってくるよ」

 うたが兎之介を見送ったあと、花鳥屋の主人夫婦は息も詰まりそうなほど静かに、居間でくつろいでいた。

 会話のない夫婦ではないのだが、口を開けば二人が思い悩んでいる娘の縁談について話してしまい、最後にはどうしたものかで終わってしまうので、意味のない堂々巡りがいつの間にかなくなっただけである。

 一人で考える時間が増えれば、思い描くのはうたの小さい頃の姿ばかり。二人からすれば、うたは急に成長してしまった感覚である。

 うたがどのように成長してきたのかが、まるでわからないのだ。

 行方不明になって帰ってきてから、うたは我が子ではないと信じていた。十二年もの年月を、愛情の一欠片も注がなかった。なのに、最近になって生き生きとし始めたうたに、可愛いだとか、そんな当たり前の感情が芽生えるようになっていた。

 いまさら離れるのが嫌だなんて、とても言えない。考えるべきは……

「もう、許してあげよう」

 先に口を開いたのは、田左衛門だった。

「あなた……」

「神山様に嫁ぐことが、あの子の幸せだ。なに、及川様が言っていたように、親子の縁が切れるわけではない。今度は精一杯、あの子を可愛がってあげよう」

 うたの最善を考えたとき、すでに答えは出ていたのだ。ただ、受け入れたくなかった。

 うなずきながら涙を流すおかじを、田左衛門はなだめた。

「及川様にお願いして、嫁入り道具と衣装だけはうちで揃えてもらうようにしよう。ほら、うたを呼んできておくれ」

 涙の収まったおかじがうたの部屋に行くと、そこにうたはいなかった。

「うた……?」


 仁助は昨夜、須磨かお京か、謎の女が荷車で運ばれているのを見かけた場所まで来ていた。何か手掛かりが見つけられないかと来てみれば、特にこれといった収穫も得られない。それでも何かないかと粘り強く探索していたところで、血相を変えた伝吉が走ってきた。

「て……てぇへんだ……!」

 伝吉の様子からは、重大なことがあったのを物語っていた。息も苦しいだろうに、伝吉は必死に言葉をつむごうとしている。

「どうした……!」

「うたが……いなくなっちまった……!」

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