苦しい……当たり前だ。水の中に落ちたのだから。

 突き落とした人物の姿をまぶたの裏に焼きつけて、それからは衝撃に耐えるべく、ぎゅっと目を閉じていた。

 必死に手をもがくと、たくさんの何かに触れる。橋の上から見る分には見えなかっただけで、川の底にはうごめいていたのだろうか。

(違う……水の中じゃない)

 落ちた先には川があったはずなのに、水という水が、まるで感じられない。息が苦しいのは、自分で息を止めていたからだった。

 恐る恐る、目を開けてみる。

 今も落ち続けていた。川ではなく、椿の海に。

 目の前には、助けてくれるかのように、誰かの手が差し伸べられた。椿の花の群れにさえぎられて、その人の姿は見えない。でも、この皺だらけの手は知っている。

 うたも手を伸ばして、感触のしない懐かしい手に触れた。触れ合った瞬間、色鮮やかな記憶が頭に流れ込んできた。


 生まれたときから身体が弱かった。一年の大半は床の上で過ごし、およそ子どもらしい生活を送ることはなかった。

 友達はいつも一緒に寝てくれるお人形だけ。家族には大事にされていたが、彼女は外の世界を知らずに生きてきた。

 だから外の世界というものに興味を抱いていて、年頃になってからはすっかり健康体になった彼女は、好奇心のおもむくまま、佐原の町を巡ったものだった。

 あの子じゃ丈夫な子を産めないだろう。ずっと病身だったんだ。同じ体の弱い子を産むかもしれない。

 大店の藤壺屋の娘が年頃になっても縁談話がこなかったのは、このような確証のない噂の所為せいだった。

「いくら両親が丈夫だって、その子どもも丈夫だっていう法則なんてないだろ。病になるのは親の所為でも、自分の所為でもない。うのさんが気にすることはないんだよ」

 そう言ってくれたのは、彼女が佐原で一番好きな場所、椿神社で出会った青年だった。

 人知れず静かに、冬にはあでやかな椿が咲く、まばゆいばかりの世界だ。

 彼は貧しい百姓のせがれである。働いて金を貯めて、いつか自分の店を持ちたいと、彼女に夢を語っていた。あと何年かかるかわからないけど……その後に続く言葉を、決して彼は言わなかった。

 待っていてほしいと、彼女にいることができなかったのだ。

 数日に一度、神社で逢瀬おうせを重ねて、触れ合ったことなど一度もない。もしも、どちらかが手を握っていたならば、未来は変わっていたのかもしれない。

「江戸から、縁談話がきたの……」

 彼女の父が商用で江戸に行ったときに、運よく話がまとまったのだと彼女は彼に打ち明けた。

 同じ大店の呉服問屋。彼女が過去に病身であったことも気にせずに、迎えてくれるという、両親にとって願ってもない話だった。

「よかったじゃないか」

 もしかしたら彼も自分のことを……その考えが打ち砕かれた瞬間だった。

 縁談話を打ち明けたその日以来、彼は椿神社に現れなくなった。

 恥ずかしくて、情けなくて、彼女は彼に想いを伝えられないまま、二度と佐原の地を踏むことはなく生涯を終える。

 丈夫な一人息子と、二人の孫に恵まれた、穏やかな人生だった。


「大変だ!旦那様と若旦那様が、捕まってしまった……!」

 為松は血相を変えて、おときに報告した。

 巴屋京太郎と、その息子である万太郎が役人に連れて行かれたのは、普段ならば店を閉める時刻の暮れ六つ頃であった。

 京太郎は奉公人の門次と十作を殺害した罪で、万太郎は江戸から来ていたうたという少女を橋から突き落とし、殺害した罪で捕らえられたという。

「何で若旦那様まで……!あの子を突き落としたのは……」

「私にも何が何だかわからない……門次と十作を殺したまではよかったが、あの子まで殺すことはなかったんだ」

「仕方なかったのよ!だって、あの子がいたんじゃ、若旦那様は……」

「もう言うな。こうなれば巴屋は終わりだ。その前に逃げるぞ」

 それからの為松とおときの行動は早かった。

 持てるだけの店の金を懐に入れ、他の奉公人たちに気づかれないように、旅支度もそこそこにそっと店を後にする。折よくこの季節特有の早い宵闇が訪れ、人目をはばかるには最適である。

 夜目に慣れてきた為松は、川辺に無人の小舟があるのに気づいた。おときをうながしてそこに向かうため、橋の上を通り、ちょうど真ん中までさしかかったときだった。

「今すぐ逃げたんじゃ、怪しまれるんじゃないか?」

 為松たちの背後から聞こえた声だった。

 驚いて二人が振り返った先には、十手を構えている仁助と、うたがいた。

「何でお前が……死んだんじゃ……」

 まるでうたが幽霊であるかのように、二人は震えあがっている。

「この人が私を突き落としました」

 うたが指差したのは、為松だった。

「門次と十作殺しのねたも上がってるんだ」

「神妙にしやがれぃ!」

 代官所の役人を引き連れて、ぞろぞろと二人の行く手をはばんだ伝吉が叫んだ。

 為松とおときは、橋の上で挟まれる形となった。

生憎あいにくと、お前が二人の殺害を自供したとき、俺たちは巴屋にいて、しかと聞いてるんだぜ」

 もう逃げられないとわかっていても、為松は仁助たちの方に突進する。

 十手術を心得ている同心にとって、素人を捕えるのは容易たやすい。ましてや冷静な判断を欠いて、周りが見えなくなっている散漫な相手こそ、あっけなく捕らえることができた。おときも後ろから追ってきた伝吉に、捕縄ほじょうをかけられた。


 うたが殺されたという報も、京太郎親子を捕えたのも、為松を捕えるための嘘だった。

 仁助が予想した通り、京太郎たちが捕まったと知るや、為松は動いた。

「お前の目的は、巴屋の乗っ取りだった」

 はじめに乗っ取りをくわだてていたのは、門次と十作であった。二人の動きを察知した為松は、何と十作に自分と組まないかと、話を持ちかけたのである。

 かねてより、自分もこの店の財産をねらっていたと打ち明け、素行の悪い門次と組むよりも、京太郎からの信任の厚い、外面の良かった為松と組んだ方がいいと、十作は一にも二にも乗ったという。

 番頭三人で組めばどこかでぼろが出るかもしれない。しかもうまく店を乗っ取ったときに取り分が減ると十作をそそのして、門次殺しを計画した。

「そこで目をつけたのが、京太郎の江戸行きだ」

 京太郎の供をするのは十作と決まっていたのだが、病を理由に門次へと変わっている。しかしこれは、門次に江戸へ行かせるための、十作の仮病だった。

「京太郎は門次と十作を不審に思っていたが、江戸へ連れて行こうとしたのはその二人……お前を連れて行ったんじゃ、二人が佐原に残っちまうから、京太郎は絶対にそうはさせなかった。佐原には大切な愛息子がいるのに、自分の留守中に二人を佐原に残すことはしたくなかったんだろうよ。だから京太郎は、疑いもしていなかったお前を、万太郎を守らせる目的と十作の監視で残した」

 どれだけ京太郎が息子のことを大事にしているかを知っていた為松は、門次と十作のどちらかを江戸に行かせて、どちらかを佐原に残すことを読んでいた。

 そこで十作と結託し、門次に江戸へ行かせることで、殺害しようとしたのだ。

 京太郎と門次が江戸に向かった後で、十作も江戸に向かっていた。江戸で門次に会い、ここで京太郎を不慮の事件に見せかけて殺害してしまおうと言ったのだ。もともと十作と店の乗っ取りを画策していた門次は、佐原から来た十作の姿に驚いたものの、決行するなら今しかないとその気になってしまった。

「京太郎の道中脇差を凶器にしようと言ったのは浅はかだが、すぐに捨ててしまえば大丈夫だとか、十作は門次にうまいことを言ったんだろうな。何よりお前の計画じゃ、凶器は道中脇差じゃなきゃいけなかった」

 門次は十作に言われるまま、宿に置いてあった道中脇差を持ってきたのだが、仲間だと油断していた十作に殺されてしまった。

「そう、京太郎の道中脇差を凶器に使ったのも、佐原の人間しか知らない花椿の怪談を椿で連想させたのも、京太郎を下手人に仕立て上げるつもりだったからだ」

 十作は佐原で病にせっていると、誰もが思っている。しかも為松が見舞いに行くことで、十作が佐原にいたという虚構を作り上げた。

「利用するだけ利用して、お前は十作とつるむつもりなんざなかった」

 もとより、十作は門次殺しで利用するために、仲間の振りをしたのである。

 次に為松が考えたのは、利用し終えた十作の殺害だった。

「門次殺しの凶器はお前の筋書き通り、俺たちが道中脇差じゃねぇかと疑っていた。店の中から門次の血痕が付着した道中脇差が見つかれば、役人は京太郎が犯人だと決めつけると、十作に言ったんだろうが……」

 凶器の道中脇差は、十作が隠し持っていた。

 江戸から役人が来て、京太郎を取り調べている。しかも道中脇差に目をつけている。ここで凶器を店の中に忍ばせようと、十作に店まで道中脇差を持ってくるように言づけた。

「そして道中脇差を持ってきた十作を、お前が殺したんだ」

 十作を見舞うことになっていた為松は、裏庭で十作と秘かに会い、受け取った道中脇差で十作を殺害した。油断していたであろう十作は、殺されたときに声も上げられなかったのだろう。

「京太郎の道中脇差で十作が殺害されれば、これも京太郎が犯人と決めつけてくれると踏んだが、俺たちは一向に京太郎を捕えようとしない」

 為松としてはじれったかったはずだ。

「京太郎が捕まれば、残された万太郎が店を継ぐ。万太郎に気があった女中のおときまでを利用して、おときに万太郎を懐柔させ、店を我が物にしようとしたのが、計画のすべてだ。万が一、店が取り潰しになっても、今日のように金を持って逃げればいいと、最悪まで想定していたのかは知らんが、おときがうたの殺害を懇願してきたのは、計画外だった」

 自分のものにしようとしていた万太郎が、江戸から来たうたという少女に惚れてしまい、京太郎が息子を思って縁組まで持ちかけてしまった。

 つまり、おときはうたが邪魔だった。

 あまり乗り気ではなかったが、うたが企ての障害になっているのは事実で、うたを橋まで誘い出し、突き落とした。

「いつまで経っても浮かんでこないから、てっきり死んだとばかり……でも、どうして私の計画がわかったんだ……!」

 主人の京太郎ですら、為松を疑っていなかった。

「念には念を入れて、花椿の怪談を連想させる殺人を計画したのが悪かったな。あの怪談話は、そんな恐ろしいもんじゃねぇのを知って、全部わかったんだ」

 椿神社の文献には、男に捨てられた女の幽霊を鎮めるために建立こんりゅうされたとは、一言も書かれていなかったそうだ。

 たしかに花椿の怪談というものは存在したが、夜な夜なおせんという女の子の幽霊が現れ、道行く人に自宅までの帰り道を聞くのだという。おせんは、幼くしてかどわかしにあって殺された、可哀想な少女である。問いに答えられなくても悪さをするでもない幽霊は、いつしか消えてしまったのか、そもそもが作り話だったのか、今となってはわからないが、とうの昔に忘れ去られていた怪談話だった。だが、椿神社がおせんの魂を鎮めるために建立されたとは、文献に記されていたことである。

「男をたたる幽霊に変革させたのは、もちろん計画のために作り上げたお前の法螺ほら話だ。花椿の怪談は最近になってよく聞くようになった話で、怪談を知ってる者から、誰から聞いたのだと噂を辿たどっていけば、全部巴屋からだったぜ」

 椿神社を管理していたのは、とある商人だったが故人となったため、今は名主が管理していた。その管理していた商人は、万太郎の祖父と昵懇じっこんで、万太郎は朧気に祖父から花椿の怪談にまつわる神社があると聞いたのを覚えていたそうだ。

 為松は観念した様子で大人しく縛に就き、事件は幕を閉じた。


 真冬の川の中に落とされたはずのうたは、一滴も水を浴びずに、川辺に横たわっていた。

 ゆっくりと目を開けると、祖母が心配そうに見ていた。

「おばあさま!」

 勢いよく起き上がったうたは、真っ先に頭を触る。

 よかった。祖母からもらったくしは流されずにちゃんとある。

(おばあさまが助けてくれたんだ)

 触れたいけれど、触れられない。でも、見えないはずなのに、見えている。

 助けてくれた手も、覚えている。

「うた、ありがとうね。心残りは消えたわ。最後に、貴女に伝えたいことがあるの」

 これが、本当に最後だ。

 もう二度と、声も聞こえなければ、姿も見えない。いまこうして祖母と向かい合っていることこそが、奇跡なのだ。

「もし私がもう少し生きていたとしても、私はうたのことを変わらず愛していたわ。うたはずっと、可愛い私の孫だもの」

 行方不明になって帰ってきた娘を、実の両親でさえうとんじた。

 でも、祖母はその中で味方でいてくれたと、信じられる。

「大好きな人と結ばれて、本当によかった。幸せになってね」

「うん……おばあさまも、よかった。ありがとう。」

 別れのとき、身体をひるがした祖母が若返るのを、涙でにじむ目に見えた。

 いつか椿神社で見た、恋する乙女の姿だった。

「朝吉さん、行きましょう」

「今度は一緒だ」

 運命が別たれたはずの二人は、死後の旅路を共にする。

 二人の乗った小舟は段々と遠くなってゆく。二人の行き先を照らす光が強く差し込み、うたは目を閉じた。

 佐原の川辺で横たわっていたうたは、すぐに保護されて命を取りとめたのだった。


 水郷の町には、嫁入り舟というものがある。これは婚礼の儀式だ。

 花嫁が小舟に乗って小川を行きながら、花婿の元に向かい嫁ぐのである。

 たくさんの町の人々に見守られて、小舟はゆったりと進んでゆく。うたもうっとりと、花嫁に見入っていた。

「あの花嫁さんみたいに、うたさんも小舟に乗って、私のもとに来てくれたらいいと願ってしまったんです」

 事件解決の翌日、今日は嫁入り舟が見れると蕗に教えられて、環游とともに万太郎を誘って見に来たのであった。

「人の気持ちはどうしようもできないことは、わかっていたつもりだった。でも、あせっていた私は、無理矢理にして貴女を傷つけてしまった……」

 まだ罪悪感の抜け切れていない万太郎は、正直な気持ちで謝るも、悲痛な表情である。

「万太郎さんのおかげで、私は本当の気持ちに気づいたんです。びっくりしたけれど、怒っていません」

 わだかまりが残ったまま、万太郎と別れてしまうのが嫌だった。彼の気持ちとは同じではなかったけれど、彼の為人ひととなりは好きなのだ。

「私の祖父は昔、好いた方がいたけれど、想いを伝えられないまま終わってしまったと、祖父から聞いていたんです。だから私は、後悔しないように伝えようって……焦ってしまっては、元も子もないですが」

 うたはひらめくものがあって、勢いよく万太郎に尋ねた。

「おじいさまのお名前は?」

「え……朝吉、ですが……」

 祖母の心残りだったその人の名である。

 あとは無我夢中で、昨夜の出来事を万太郎に話していた。

 信じてもらえないかもと思ったが、万太郎は真剣に耳をかたむけて、最期はに落ちたように優しい顔をした。

「祖父はずっと想い人のことが忘れられなくて、生涯誰とも添い遂げなかったんです」

「じゃあ、万太郎さんは……」

「父は養子なんです。だから実の祖父じゃない。でもおじいさまは、本当の孫のように私を可愛がってくれた」

 懐かしい思い出に、万太郎は目を細めた。

 想い人と別れたのは、朝吉が店を興す前の出来事で、身分違いの恋だった。まだ店を持つことができるかもわからない自分に、想い人を幸せにすることが、果たしてできるだろうか。大店の家に嫁いだ方が、彼女の幸せなのではないかと、とうとう想いを伝えなかったという。

「おじいさまたちが結ばれたのなら、私たちが結ばれる必要もないですね」

 潔い万太郎の決意は、忘れることはないのだろう。いつの日か、祖母の温かい思い出とともに、よみがるときが巡ってくるはずだ。

「環游さん、いい絵は描けそうですか?」

「そりゃあもう。たったいま、いい絵が浮かんだんですよ」

 後日、巴屋に届けられた環游の絵には、嫁入り舟の様子が描かれていたのだが、花嫁を待つ花婿が、万太郎の祖父にそっくりだったらしい。環游が祖父の特徴をあれこれと聞いてきた理由が、万太郎にはわかったそうだ。花嫁は、誰に似ているのだろう。

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