また、打ちのめされている。

 だめだ。兄なら絶対にそう言ってくれると確信していた。

 私がいなくなれば……と思ったのは建前に過ぎず、本当は兄に止めてほしかったのだ。

 自分の存在を肯定してほしかった。神隠しにあった私は誰?神隠し以前の記憶はあるけれど、別人になってしまったのだろうか。

 わからない……自分で自分がわからないなんて、そんな不確かな存在だと認めたくなかった。

 兄に大事にされている。それを存在証明としたかったのだ。

 なのに、兄は佐原に残ってもいいと言った。裏切られたとは思わない。泣きたくなるのは、自分の思い通りにならなくて駄々をこねる、子どもの無力さの証だ。

「万太郎がうたをお嫁にほしがっているって、文右衛門さんから聞いたんだ。うたは、あいつの嫁になりたいのか?」

 万太郎のことが嫌いなわけではない。でも、だからといって、嫁に行くのが嫌でもなければよくもないのだ。

 誰かの伴侶になることなんて、できないと思っていた。だから、自分にとっては過ぎた話なのもよくわかっている。

 好きな人と結ばれないのなら、江戸にいて大切な人たちに迷惑をかけるなら、佐原にいた方がいいのではと、思ってしまうのだ。

「……また悪い虫がついたって、腹が立った」

 巴屋からうたに縁談話があったことを、兎之介は藤壺屋文右衛門から相談されていた。うたはすでに江戸には決まった人がいるのかと尋ねられた兎之介は、冗談じゃねぇ、誰が妹をやるものかと素が出てしまい、こっぴどく口の悪さを叱られたのは、別の話……

「うたが心底あいつと一緒になりたいと思ってるなら、俺は止めない。お前の幸せを、俺に邪魔する権利はないんだ」

 どんなに可愛くても、いつかは離れ離れになる妹だ。

 縁談話がきて、目を背けていた事実に直面した。

 今だけは、今だけは、一緒にいてほしい。そんな我儘わがままは、あとどれくらい許されるのだろうか……

「……兄様」

「でも本心じゃなくて、誰かに気を遣ってるなら、俺は全力で阻止する」

 兄の気持ちを確かめようとした、存在証明としようとした自分は、かくも愚かだ。

「……私が側にいたら、兄様はお嫁さんをもらえない」

「まさか、この前のこと……」

 兎之介は自身のお見合いがご破算になった経緯については、うたに知られていないと思っていた。相手側がうたにまつわる噂を気にして、あれこれと聞いてきたことにかっとなった挙句、こんな乱暴者がいる家とは縁組ができないという結果になってしまった。

 どちらかといえばうたの所為せいではなく、兎之介の問題だが、何にせようたが自分の所為だと思い込んでいることが、哀れだ。どことなく元気がなかったのにも、に落ちた。

「いろいろ考えさせてすまなかった。お前は何も悪くない。人を傷つける方が、何倍も悪いんだ。傷つけられた方が我慢するのは、間違っている」

 それは自身に向けての言葉でもあった。

 今でこそ仲の良い兄妹だが、つい前まではろくに話もしない冷え切った兄妹であった。

 妹に向き合えずに、孤独にしてきたのは、他ならぬ己である。なのに妹は、そんな兄に気を遣って、自分を責めている。

「本当は、江戸にいたい……万太郎さんのことは嫌いじゃないの……でも、本当は……」

「わかってる。ずっと、俺の妹でいてくれ……」

 一生懸命に泣きじゃくりながら言葉をつむぐうたに、兎之介は優しい抱擁でさえぎった。

 妹の本心は、むかつくほどに承知している。

 たとえ離れても、兄妹という形は変わらずにいたい。うたも同じ気持ちでありますようにと、兎之介は切に願った。


 翌日、うたは万太郎に返事をするため、彼に誘われた料亭におもむいていた。

 いつか仁助たちも一緒に招かれた料亭と、同じところである。ただし今日は彼との二人きりだった。

 丁寧に断るから俺に任せろと言ってくれた兎之介に断って、うたは自分で万太郎に言うと決心していた。万太郎はまっすぐに自分と向き合ってくれた。だから自分も、人を介してではなく、己で決着をつけなければならないと思ったのである。

「明後日には帰ってしまうと聞いたから、どうしても待てなかった……気持ちを確かめたい」

 報われない恋の傷心で心は締めつけられている。

 たとえ江戸に帰ったところで、仁助と結ばれることはない。むしろ、彼を見れば辛くなるだけだ。

 だが、次に進むためには、仁助が他の誰かと祝言を挙げるまで、踏ん切りがつかないのだ。

 兄も、友人も、大切な人がいる江戸の中で、己自身を見つめたかった。

 うたは万太郎に言うべき言葉を、ゆっくりと慎重に、頭の中で整理する。この誠意が、隙を作った。

 万太郎はうたが思っているよりも、ずっとあせっている。はやる気持ちが、彼の誠実さを欠いてしまった。

 ずいとうたの前に進み出た万太郎は、小柄なうたの身体を逃がすまいと、強く抱きしめている。うたの思考が途切れるほどに、刹那の意外さだった。

「私のことを嫌がってはいないはず……今日もこうして来てくれた」

 そう、嫌いではない。けれど今日、彼の誘いを受けたのは、気持ちを伝えるためだ。

 早く本心を伝えなければ……

「私は……」

 まるでうたの返事を聞くまいとするように、万太郎は強引に後ろへと押し倒した。

 こんな冷酷さがあったのかと、自分で自分を疑うほどに、欲望に忠実になっている。

「……離して」

 嫌だ。離したら自分のものにならない。もうこうするしかないのだ。

 動揺しているうたは固まっている。……と、油断していた万太郎は彼の性格上、冷酷にはなり切れずにいて、次にどうしたものかと悩んでいるうちに、うたに思いっきり突き飛ばされた。

「待って……」

 万太郎が伸ばした手は、あと少しのところでうたに届かなかった。


「神山の旦那、大変だ……!」

 大した成果も出ない捜査を続けていた仁助は、環游のあわてた声を聞いて、また事件があったのかと振り返る。

「どうしたんだ」

「どうしたもこうしたも、うたさんに縁談話が……」

 わざわざそれを言うために、この男は走って来たのか。いら立つよりも、空虚な気持ちが押し寄せた。

「……そうか」

「……って、早く何としないと」

「俺には関係ない」

 うたは返事をしたのだろうか。考え出せばきりがないので、考えないようにしていたことだ。それよりも、事件に集中しなければならない。……といいつつ、ここ数日は飯の味すらよくわかっていない始末だ。

「そうやって意地を張るなら、事件に関係することは教えませんよ」

「なに……」

「せっかくうたさんが旦那のために調べてくれたのに……花椿の幽霊も見たと言ってましたっけ」

 本当に、いたのか……

 怪談話は実在していても、事件に利用されただけで、おせんの幽霊はもういないと思っていた。

 だが、いるとなれば、何かわかるかもしれない。

「どんな幽霊だったんだ」

「私は見えないからわかりませんよ。うたさんに聞いてください」

「…………」

 悩みの元凶であるうたに会いに行けば、心が乱される。もし会いに行って、万太郎との縁組が決まったと告げられたときには、どうなってしまうのだろうか。考えただけでも恐ろしい。

 だが、事件に関わり合いがあるかもしれないとなれば、私情は挟めない。

 仁助は重い足取りで、藤壺屋に向かうことにした。

 ああ、そういえば、事件に関わるなとうたに怒鳴っていたのだった……なのに教えてくれと、どの面下げて言えたものか。うたは怒って話してくれないのではないか。嫌われたら元も子もない。

 踏みしめる一歩一歩が、重くて仕方なかった。

 結局、こういうところだ。きっと万太郎にはうじうじとしたところもなくて、頼りがいがあるのだろう。

 また比べてしまう。

 溜息を吐けば、うたに会うこともできなくなりそうで、必死でとどめた。

 藤壺屋へ行くには、あの橋を渡らなければと前方に迫る橋を眺めていると、道の横にある店からすっと、人影が飛び出した。ちょうど一間くらいを隔てて仁助の前に現れたのは、うたである。

「うた……」

 逃げるように店から出てきたうたは、必死だったのだろう、仁助がいることには気づかなかったようで、呼ばれて驚いた様子だ。

 きゅっと口を引き結んだうたの目から、涙がしたたったのを仁助はとらえた。

 うたに近づこうとした直後、

「来ないで……」

 するどい声が、仁助をその場に止めた。

 うたは一目散に去ってゆく。仁助は慌てて後を追った。

 一体、うたに何があったというのか。しかもうたは、自分を拒絶している。拒絶される理由には思い当たることが多すぎるが、追いかけるのを止めなかった。

 繁華な通りはすでに過ぎて、周りには田畑が目立つようになった。川沿いを走ってきたが、人気のない土手には、枯草ばかりが目立っている。

 佐原の地理には詳しくないだろうに、うたは人がいない場所まで逃げてきた。限界まできたところで、その場にへたり込む。再び仁助が声をかければ、まさか追っては来ないと踏んでいたのか、うたがまた逃げようとした。が、体力が限界で動けないでいる。

 うたに追いつくこともできた。しかし町中の人目につくところではうたに悪いと、ここまでついてきたのだ。

「来ないでって、言ったのに……」

「放っておけるか」

「仁様には関係ない」

 突っぱねられた言葉は、環游に自身がつぶやいた言葉でもある。

 鏡に映る自分を見ているように思えるのは、うたもまた意地を張っているだけではないのかという自惚うぬぼれからだった。

 うたは背を向けたまま、振り返ろうとはしない。仁助はうたのすぐ近くまで来て、屈んだ。

 はっきりとさせよう。うたは微塵みじんも想ってくれてはいないのか。たとえそうであったとしても、自分は想っていることを。

「俺はつまらない意地を張っていたんだ。うたが誰かのものになると思ったら、むかむかしてきて……お嫁に行くなの一言が言えなかった」

 まだ頬が濡れているうたは、そのまま振り向いた。

「え、どういう……」

「ここまで言って、まだわかならいのか。俺は……」

 事件に関わることを調べていると打ち明けたとき、たしなめられたのとは違う、いつもの優しい仁助の声音だった。

 だから、怖くなかった。

 抱きしめられて、慰められたこともある。でも、こんなに近くに彼がいて、触れているのは、はじめてだ。

 振ってきた柔らかい感触が、目を閉じてしまうほどにうっとりとする。しかし、うたが仁助の想いにひたれるのも、少しの間だけだった。

 ねっとりとしたものが歯と歯の合間を割って、絡んでくる。

 従順にしてくれていると仁助からは思えたのだが、うたは頭が沸騰しそうになり、ただ何もできずにいるだけだ。

 名残惜しく吸って離したのだって、眩暈めまいを起こしそうなくらいに、脳を痙攣けいれんさせる。

「これが、俺の気持ちだ。……うた?」

 耳の裏まで真っ赤になったうたは、顔に手を当てて耐えている。

 入ってきた仁助の息も、唾液も、ごくりと飲み干してしまいそうで、息すらまともにできない。だが、苦しくなるのが落ちで、盛大に息を吐いたり吸ったりしているのを、仁助が心配して背中をさすった。

「……仁様は、私と同じ気持ちなんですか?」

「よかった……てっきり万太郎のことを好きになったんだと……」

 仁助はやっと、生きた心地がした。

 彼のほっとしている様子を見て、うたも身体から悪い成分が抜けた気持ちになった。

「違います。私はずっとずっと、仁様のことが好きでした。今日は万太郎さんに、話を断ろうと思って……」

「ずっとずっと……」

「ひゃっ……!」

 すらりと出てしまった言葉に、うたはまた真っ赤になった。

 壊してしまいそうなほどの力で抱きしめたくなるのをこらえて、仁助が言った。

「俺もだ。愛おしいよ」

 仁助は、うたが顔に当てている手をそっと取って、にぎりしめた。

「寂しい思いをたくさんさせることになる。でも俺はうたがほしい。俺の、妻になってください」

 うたの大きい瞳が揺れながら、細められた。

「はい」


 見慣れない長閑のどかな風景は、やがて賑やかさを増していった。

 すれ違っていた気持ちが一つになれば、元に戻るのも早いもので、穏やかな雰囲気で二人は町に戻っていたのだが、うたは暗い表情に戻ってしまった。

「花椿の怪談ですけど……」

 仁助に怒られたというのに、りずに調べていたことが後ろ暗いが、調べてわかったことを伝えたかったうたは、雰囲気を壊すのを覚悟で言った。

 しかし高揚しているめでたい仁助の頭では、なぜうたが暗くなっているのかを察するまでに時間がかかった。

 あっと、あれは万太郎と仲良くしているうたに嫉妬していて機嫌が悪かったのだと、怖いものなしの仁助は正直に打ち明ける。

 うたはまあと言って、笑っただけだった。

 いらぬおびえと知ったうたは、花椿の怪談についてを仁助に伝えることができた。

「もしや、犯人が……」

 うたから聞いた事実に、瞬時に同心の顔になった仁助は、十手持ちと褒めてあげたい。

「私が見た幽霊がおせんさんなら、とても人を呪い殺すような方には見えませんでした」

 椿神社でときどき他人の記憶を見てしまったうたは、それがおせんの記憶と仮定して、わかったことがある。

 誰かを待っていたが来てくれない恨めしさは、万太郎に告白されたと打ち明けたときの仁助の、好きな人につき離された気持ちに似ていたのだ。うたはそのとき、仁助を憎んではいなかった。好きだからこそ、苦しかったのだ。

「うたのおかげで、事件の真相が見えてきた」

 うれしそうに微笑むうたは、いつもよりも大人びて見えた。


(大丈夫。うたがお嫁に行くのは当分先のことだ)

 うたの邪魔はしないと言った言葉に嘘はない。しかし、そのときを思えば寂しくなる。

 万が一、そう、万が一の話だが、仁助の嫁になることになっても、仁助のことだ。ぐずぐずしてあと五年は話が進まないだろうと、兎之介は安堵あんどしていた。

 それにしても、万太郎に会いに行ったうたの帰りが遅い。

 話がこじれているのか。まさか、無理やりにでも嫁にさせられようとしているのか。

(しまった……)

 いいと言われても、ついて行くべきだったのだ。うたの身に何かがあったら……

 藤壺屋を飛び出した兎之介は、嫌なものを見てしまった。

 不安は一瞬でかき消えたのだが、仁助と仲良さそうに話しながらやってくる、うたが見えるではないか。

(まったく……暢気のんきな野郎だ)

 うたが危うく万太郎の嫁になろうとしていたというのに、危機意識もあったものではない。この暢気さが、うたの嫁入りを遅らせてくれるなら、とやかく言うのはやめよう。

 仁助とうたも、兎之介に気づいた。

義兄あに上」

(ん……?いまこの男は何て言ったんだ)

 気の所為せいだ。うたが仁助の嫁になるかもしれないと考えていたからいけないんだ。まだそうなると決まったわけではないのに。

「兄様。私、仁様のお嫁さんになります」

「近いうちに必ず、筋を通して花鳥屋にお願いに行くのでよろしく。すまんが今はじっくり話している暇がないから、また……」

 一とき後の藤壺屋では……

「今度は兎之介が塞ぎ込んでいるのか?」

「佐原の水は合わないのかしら……」

 文右衛門と蕗が心配そうに、顔を見合わせるのであった。


(兄様、かなり落ち込んでいる……)

 兎之介なりによろこんではくれたようだが、落ち込みようが激しい。手料理でも作れば、少しは気持ちが晴れるかと、うたが部屋を出たときだった。

「うたさん……!」

 裏口から入って来たのか、巴屋の番頭の為松がいた。

 万太郎に何かがあったのではという、うたの予想は当たってしまった。

「若旦那が思い詰めて、橋から飛び降りようとしているんです!早く止めてください!」

 うたは誰にも告げずに、為松の後について行った。為松の様子からは一刻を争う事態と感じられたし、飛び降りようとしている原因が自分ではないかという罪悪感もあった。

「こっちです」

 町の端まで走ってきたようだ。為松の指差す橋は、無人だった。

 すでに飛び降りてしまったのか……

 うたは藁にもすがる思いで、橋から下を見下ろした。

 瞬間、うたの身体は急降下する。背中を押される感触がして振り向いたとき、相手の顔が見えた。

 どぼんと威勢のいい音が、佐原の町の片隅に響いた。

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