「万太郎さんは気配りも上手ですし、優しくて穏やか。顔よし、性格よしの大店の若旦那。それを鼻にかけるところもありませんから、隣にいてくらっとこない女性はいませんよ」

 ここ数日、万太郎と過ごしていた環游の言葉に、伝吉は納得もしたしあせりもした。

 何があったのかはわからないが、うたが差し入れの弁当を持ってきてくれたときからの、仁助の落ち込みようがひどかった。役目は役目できちんとこなしているが、はたから見ても、気持ちが塞いでいるように伝吉は感じていた。きっと横やりを入れてきた万太郎が絡んでいるのだろうと、環游に彼に対する率直な意見を聞きに来たのだが、評価はすこぶる高かったのだ。

「まさか、うたもくらっとしてるのか?」

「うたさんは他の子とは違いますから」

 一瞬、安堵あんどした伝吉だったが、環游の次の言葉に息をんだ。

「でも、そのうちくらっとしてしまうかもしれませんよ」

 大人しそうに見えて、万太郎のうたへの態度は露骨だった。お目付け役の環游がぞんざいにされたことはないが、万太郎の目にはうたばかりが映っている。

 冷えるといけないからと言って、すんなりうたの手を温めてしまうような人だ。いやらしい感じはなかったとはいえ、おおよそ、万太郎でなければ許されない行為である。が、さすがにうたは、ことのきばかりは戸惑った様子を見せていた。環游が助け舟のように自身の手も、二人の手の上に重ねて、変な時間ができてしまったこともあった……

「どこで聞いても、評判良しの坊ちゃんだからなぁ……」

 事件の捜査で巴屋についてを聞きまわっていた伝吉は、万太郎が誰からも評判の良いのを知っている。岡惚れしている女も多く、縁談話も絶えないとは世間の噂だった。

「嫌味もないですからね」

「いるだけで嫌味じゃねぇか」

「それは伝吉さんがひねているんですよ」


 何てまっすぐな目なのだろう。それに比べて自分は、戸惑い、委縮している。

 うれしいという気持ちよりも、どうしてという気持ちの方が大きい。

 居たたまれなくなって、うたは石段から離れた。逃げるつもりはないから、万太郎には背中を向けて答える。

「私は、誰とも添い遂げることはできないんです」

 万太郎は、霊視の能力があることを知らないのだ。知っていたら、一緒になろうなどとは言わないはず。

 でも、本当にそうだろうか……

 江戸には気味が悪い、呪われた子だとさげすむ人もいれば、気にも留めない人もいる。

 たった数日過ごしただけの万太郎はそのどちらなのか、判別はできないが、きっと後者なのではないかと思ってしまうのは、希望的観測だろうか。

「なぜ……?」

 うたは両親に言われてきた言葉を、思い出そうとはしなかった。

 けれど、脳裏には強制的に、意思に反してある夫婦の姿が描かれた。

『あの子は病気だから……』

『近場ではお嫁にいけないだろう……』

(違う……父様と母様じゃない)

 うたも病気ということにされて、長らく部屋の中に閉じ込められていたが、頭の中に流れてきた光景は、会ったことも見たこともない他人の夫婦の会話だった。

 ふすまの陰からそっと見てしまったような角度で見ているのは、誰の記憶なのだろう……

「好いた人がいるんですか……?」

 万太郎の声で、現実に引き戻された。

(好いた人……)

 考えたこともない。だって、自分には縁のない話だと思っていたから。

 人を好きになるのがどんな気持ちかなんて……

 どうして今、黒羽織を着た彼を思い出してしまうのか、わからない……

「貴女が他に好いた人がいるならあきらめる。でも、そうでないのなら、私は絶対に諦めない」


「万太郎ってやつは、贅沢にも相手に押されると引いちまうたちみたいで、今までに何人も女を振ってるらしいんですよ。まあ、今までは万太郎に意中の相手がいねぇからめなかったようなものを、好きな女にはぐいぐいいくときたもんだ。だから、早くうたを江戸に帰らせた方がいいですぜ」

 聞き込みから帰ってきた伝吉の報告に、仁助は溜息を吐いた。

「誰が万太郎の恋愛傾向を調べて来いと言ったんだ」

 事件にはまったく関係のないことだ。

 ただでさえ万太郎の名前を聞くだけでむかむかするというのに、伝吉の考えていることに腹が立ちそうになる。

「俺は事件のこともちゃんと調べてきましたよ。でも、これといって何もでてこないんで……」

 巴屋の京太郎の評判は上々だった。あくどい商売もしないし、人柄も良い。出来の良い息子が弱みということくらいの情報しか、わからないのだ。

 店を休業している巴屋に不審な動きはない。よからぬことを企んでいたという門次と十作についても、特に噂の一つもありはしなかった。

 このままでは、事件の真相をつかむことができないまま、江戸へ帰ることになる。しかも、なぜこんなに条件がそろっていて、京太郎を捕まえなかったのだと、非難される未来も見えてしまう。

(本当に京太郎が犯人なのか……)

 だが、江戸に行ったのは京太郎で、道中脇差を持っていたのも京太郎だ。

 犯人は、花椿の怪談のたたりに見せかけたかったのだろうか。

 以前にも、幽霊に見せかけた殺人事件があったが、今回も幽霊の仕業に仕立てようと画策した……いや、それにしてはお粗末すぎる。怪奇現象が巻き起こしたという雰囲気が、薄いのだ。

(丸三日、会っていないな……)

 仁助は無性に、うたに会いたくなった。会っていなかった期間、それは不定期に訪れていた感情だが、怒鳴ってしまった手前、顔を合わせたくないという気持ちもあった。

 うたに嫌われたのではないかと思うと、怖かった。

 今まで三日以上も会っていなかったことはざらにあったのに、この気持ちはあせりだ。

 あれこれと考えてしまい、役目に支障をきたし始めている。ならばいっそのこと腹を決めて会った方がいいのではと、仁助は一人、藤壺屋に足を向けていた。

 その道程で、川べりに座り込んで、小舟の行き交う風景をじっと眺めているうたを見つけた。近くまで歩み寄っても、うたは仁助がいることに気づかない。普段は、うたは大人しいがぼんやりしているところはないので、どうしたのかと仁助は声をかける。

 うたはぼんやりしているのではなかった。仁助に気づいても驚いたような、戸惑ったような、反応は些細ささいだが、中では感情が激しくせめぎ合っているような様子が、見て取れた。

「この前は声を荒げてすまなかった」

 大人げなかったと思う。気にかけてくれるうたに感謝こそすれ、怒るようなことではなかった。

 てっきりあのときの自分の態度におびえてしまっていると踏んだのだが、うたは首を振るだけで、表情は曇ったままだ。まだ尾を引いているのだろうか……

「仁様……」

 消え入りそうな声だった。

 何かあったのかと気を揉んだのも束の間、うたの次の言葉に指先から凍りついた。

「万太郎さんに、一緒になってほしいって言われました」

 激しい憤りはなかった。一瞬のうちに身体を駆け巡った血に気づかなかっただけか。

 訪れたのは、ひどいほどの落ち着きようだ。

「よかったじゃねぇか。誰に聞いても評判良しの男だ。きっと……」

 もしも、もしもの話だ。

 ある事件をきっかけに知り合った少女は、親交を重ねるうちに、特別な感情を抱いてくれた。

 だったら、同じなのに。

 でも、うたがそうであったならば、自分に万太郎のことを打ち明けようとはしないはずだ。しかも話を断ったのでもない。

 戸惑いを打ち明けただけに過ぎないのだ。

 「幸せになれる」

 押し殺す感情が、胸を穿うがつ。最後の言葉だけが未練にのどをつかえて、けれど未練までもは離れてくれない。

 不浄役人と呼ばれているろくも多くない武士が、頼りない自分が、どう対抗できようか。うたは万太郎と一緒になれば、幸せになれる。比べるまでもなく明らかな事実に、打ちのめされるままに。

 意地でも本心を言わなかったのは、己に対する情けなさと、彼女の最善を思ったからだった。


 うたは藤壺屋まで、どのように辿たどり着いたのかを覚えていない。

 心の海は、野分のわきが訪れる直前のように、不安なざわめきと音を立てている。

——よかったじゃねぇか。

 仁助にその言葉を言われたときから、生きている心地さえしなくなっていた。

 こんなにも打ちのめされている。息をするのも苦しい。哀しくて、仕方ない。

 部屋で一人になったとき、とめどなく涙が滴り落ちた。

ひどい、酷い……酷い……!)

 仁助に対して、恨めしい気持ちを抱くなんて思いもしなかった。

 でも、仁助のことを嫌いになってはいない。なのに恨めしい気持ちが、言葉が、渦巻いてしまう。

(……嫌だって、言ってほしかった)

 万太郎に告白されたとき、どうしてよいかわからなくなった。

 人を恋い慕う気持ちを知らなくて、否、本当は自分の中にあったのだ。

(私……仁様のことを……)

 言ってはならないという、天啓てんけいの声は聞こえていたが、仁助に打ち明けたい気持ちを制御できず、けれど期待していた言葉をかけてくれなくて、勝手に哀しくなっているのだ。

 自分の好きな人が、自分を好きでいてほしい。その人の気持ちを確かめたくて、告白されたのだと打ち明ける。いかないでくれと、止めてほしくて。

 仁助はむしろ応援してくれた。つまり、好意は抱かれていなかったのだ。

 優しくて、霊視の能力のことも何も気にせずにいてくれる仁助が好きと気づいたのと、仁助は同じ好きを持っていないことに気づくのが同時だったのは、身勝手な自分への罰だったのだろうか……


「うた、大丈夫か?やっぱり医者に診てもらった方が……」

 気分が悪いから部屋で休んでいると言っていたうたを心配して、藤壺屋での商いの手伝いを終えた兎之介が、様子を見に来た。

 うたの体調がすぐれないのは、熱が出たわけではなく、心の問題である。実は失恋して傷心しているとは、とても言えない。

「ねぇ、兄様」

 ひとしきり泣いたあと、うたは色々と考え込んでいた。

 江戸に帰れば、また兄の重荷になってしまう。兄が伴侶を迎えられないのは自分の所為せいだ。

 気味の悪い、呪われた妹のいる家に、誰が嫁ぎたいだろうか。

 兄だけではない。父も母も、厄介な妹がいなくなれば、気楽に暮らせるし、世間体を気にする必要もなくなる。親切にしてくれる仁助たちだって、知らないところで自分と関わっていることに陰口を言われているかもしれない。もし陰口を言われているのを知ってしまったとしても、大切にしてくれるからこそ、申し訳ない。

 自分がいなくなれば、すべて丸く収まる。

 だから、兄に聞いてみた。

「私は佐原に残ってもいい……?」

 兎之介は思わず開いてしまった口を、固く閉じる。

 めずらしくも冷静に、怒りも冷たさもない真剣な目で、うたを見た。

「いいよ」

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