「昨日の帰り、手厚くほうむられているのを見かけたんだ。母上とおとらも可愛がっていた猫だから、まだ言えなかった……」

 陽の沈まぬうちに帰路に就いていた仁助は、八丁堀に入ったところで人だかりができているのを見つけた。といっても老人が一人に子どもが三人いただけだが、子どもたちがしくしく泣いていたものだから、何かあったのかと尋ねてみれば、ぽんたという猫が死んでしまったので埋葬したのだと、老人が教えてくれたのだった。病気か老衰で亡くなったのだろうとも。

 ぽんたという名前は誰がつけたものか、野良猫でありながら八丁堀の人々からはぽんたと呼ばれていて、愛されていた猫である。

 沙世からときどきぽんたという野良猫が家に遊びに来てくれるのだと聞いたことがあるので、仁助も名前だけは知っていた。

 いつ沙世たちにぽんたが死んでしまったことを言おうか心の片隅で迷っていたのだが、まさか死んだぽんたが会いに来てくれるとは思いもよらないことである。

「ぽんたはどんな猫なんだ?」

「白黒の、ぶち猫です……」

 仁助にはもうぽんたの姿は見えない。昨日も埋葬された後で、姿は一度も見たことがなかった。

 だから純粋に、ぽんたを想像してみたくて聞いた仁助に、うたは沈んだ声で答えた。

 一瞬、可愛がっていた猫が死んで哀しんでいるのかと思ったが、すぐにそうではないと思い直す。

 うたにはまだ、ぽんたの姿が見えている。だからたとえ触れられずとも、死んでしまったという実感がないのだ。以前、うたの友人が亡くなったときに、うたはその友人の幽霊が見えていて、姿が完全に見えなくなってしまった後、つまり成仏した後で哀しみが押し寄せていた。

 つまりうたが沈んでいるのは別の理由である。

 彷徨さまよう霊の存在は、誰にも見えるというわけではない。むしろ見える者が稀有けうであるし、仁助も霊視の能力を持っている人物としてはうたしか知らない。だから、と言っては可哀想だが、うたは霊視の能力の所為せいで、実の両親からもうとまれている。

 仁助には見えなくて自分には見えてしまうという事実が、恐ろしいのだ。

「あの世に行く前に、可愛がってくれたうたに会いに来たんだろうな」

 仁助はそんな人間ではないとわかっていても、気味が悪いと思われるのではないかと不安になってしまう。そんなうたの心情を察して、しかし察したところで気の利いた言葉を言えないから、仁助は本音を打ち明けるしかなかった。

 思っていることを、素直に。何も恐れることはないと。

「そうなの?ぽんた」

 触れられなくても、うたは手を伸ばし続けていた。その手にぽんたがり寄っているのだろうか。うたが無邪気な声に戻っていることに安堵あんどして、仁助もまた立ち上がった。

 するとうたも立ち上がって、視線は離れた場所を追っている。ぽんたが移動したのか、うたはそのまま庭を回って正面玄関の方へと向かっていった。

 玄関の前まで着くとうたは止まって、

「こっちに来てって……」

「猫が話しているのか!?」

「いえ、そう言っている気がするだけで……」

 と、不思議そうな顔をしている仁助に言った。

 死んだ猫が会いに来て、うたをどこかに誘っている。何だか怖ろしくもあり、好奇心のくすぐられる出来事でもある。それにうたは今まで世間を知らなかった分、知らないことを知らうとする好奇心は、人一倍強い方だ。

「よし、ぽんたについて行ってみよう」

「でも家を留守にしては……」

「心配ない。そろそろ……」

 折よく姿を現した男は、正面からではなく裏木戸から入ってきた。

 おとらの亭主にして神山家の下働きをしている茂作である。誰の姿も見えないので正面まで回ってきたという茂作は、たんまりと野菜を抱えていた。

「うちの畑で採れましたんで、持ってきました。どうも水入らずのところをお邪魔しちまったみたいで……」

「あの……」

「いいところに来た。ちょっと二人で出かけてくるから、留守を頼む。いつもすまないな」

 うたが言い終わるよりも先に、仁助が言った。そろそろ茂作が顔を出す頃だろうと思っていたので、渡りに舟である。

「とんでもねぇです。ごゆっくり……」

 履物を変えて、うたは仁助にうながされるように外へと出た。

 ぽんたは二人の少し前を歩いている、らしい。

 うたは自分にしか見えないので気を張っているが、他のことが気になっていた。

「仁様、あの言い方では茂作さんに誤解されてしまいます」

「何がだ?」

「何がじゃありません。いいんですか、あとで困るのは仁様ですよ」

「俺は一向に構わん」

「まあ……」

 よくよく考えてみれば、茂作もまさか自分と仁助とでいい仲になっているなどとは想像しないはずだ。茂作の言葉も冗談。仁助にしても気にするほどでもないから構わないという意味だ。

 と、うたが考えているとは知らずに、仁助の機嫌は良かった。

 ともかくぽんたを追った二人は、南へ、八丁堀河岸まで着いた。

 舟の行き来や荷揚げをする人やらがいて、活気のある場所である。仁助も八丁堀に住んでいる人間、何度も通ったことのある場所だが、仕事のない日にのんびりと訪ねたのは初めてだ。

「ぽんたは……」

「あそこでくつろいでいるみたいです」

 うたが指差したのは、岸に繋がれた無人の小舟だった。

「まさか乗れと言っているんじゃないだろうな」

「違うみたいです。疲れたから休憩しているような感じです」

 猫は気まぐれだというが、特にうたをつれてきた理由がなかったのではと、仁助は少しがっかりした。幽霊となった猫に誘われて出かけた先には、不可思議な出来事があるのではと期待していたからだ。そういったものはやはり草双紙の中の話だけかと、現実を突きつけられているようでもある。

 いや、猫の幽霊がいるだけで、充分に不思議な出来事に遭遇しているはずなのだ。どうやら幽霊がいることを当たり前に感じてしまうほど、感覚が摩耗まもうしているらしい。

 塩の匂いに混じって、昼餉のときと同じ匂いがした。

「せっかくここに来たんだ。天婦羅でも食おう」

 胡麻油の匂いの正体は、天婦羅の屋台だった。

 江戸の町に火は大敵である。そのため天婦羅の屋台などは川岸に多かった。

 うたもその気になって、屋台をのぞいてみる。

「好きなのを選べ」

「いいんですか?」

「いくら俺でも女に天婦羅を奢る甲斐性くらいはある。たらふく頼んでいいぞ」

 お世話になっているのは自分の方だと思いながら、うたは仁助の厚意に甘えることにした。しかしたらふくとは、もしや自分は大食いにでも思われているのではないかと、気がかりである。たしかに茶屋に行っては好きな甘味を食べて、出された料理はぺろりと食べてしまうが、大食いというほどでもない。

 恥ずかしくなったが、目の前で揚げられる天婦羅の誘惑には勝てず、うたは海老の天婦羅を二つ頼んだ。

「美味しい」

「うむ、やはり揚げたては格別だな」

 熱さと格闘しながら、衣で包まれた新鮮な身を頬張る。つい天婦羅に夢中になっていたが、思い出してうたがちらと小舟を見ると、まだそこにぽんたは尻尾を揺らしながら潮風を浴びていた。

 買い食いをしたと両親に言えば、はしたないとたしなめられるだろうが、うたは気にしなかった。

「この前、兄様に夜鷹そばに連れて行ってもらったんです」

 兎之介が商用で帰りが遅くなったときに、夜鷹そばを食べてきたとうたに話していた。それで夜鷹そばとは何ぞとうたが興味を持って、妹想いな兄が連れて行ってくれたのである。そのとき食べたそばにも天婦羅が乗っていたと、うたがうれしそうに仁助に語った。

 妹のことになると周りが見えなくなる兎之介だが、うたもうたで兎之介に甘えているのだと、仁助は微笑ましいやら嫉妬してしまいそうな心地になった。

「旦那方、うちのも食べておくんなさいよ」

 今度は別の屋台から声がかかって、つられてその屋台をのぞいてみる。

「こっちも美味しそう」

 ずらりと並んでいるのは、色とりどりの寿司である。ごくりと二人分の音が鳴って、確かめ合うまでもなく、二人は注文した。

「うたの好物がわかったのだから、あながち意味のない外出にはならなかったようだ」

 そう仁助が言ったのは、うたはまたしても海老を頼んだからである。いつ来れるかはわからないが、また屋台を訪れるのもいいと、秘かに仁助は画策していた。

「仁様、説得力はないですけど、私は大食いではありませんからね」

「わかってる。よく食べてすくすく成長してくれればそれでいい」

「それではまるで、私が子どもみたいではありませんか」

 仁助が揶揄からかうように笑えば、うたは軽くぶつまねをしてみせる。二人きりになったときの気まずさは何だったのか、仁助は常と変わらずうたと話せるようになっていた。

 はじめて出会ったときの、寂しそうなうたはどこにもいない。料理が美味しくて、海老が好物で、笑顔がすてきな少女がいる。放っておけないという感情だけが、変わっていなかった。

「あ、ぽんたが動きました!」

 再び歩き出したぽんたを追って、まるで張り込みみたいだと思いながらたどり着いたのは、鉄砲洲稲荷神社であった。

 鉄砲洲稲荷神社の創建は平安の御代にまでさかのぼる。場所は八丁堀河岸の東の突き当り、亀島川を結ぶ高橋を西に折れて南に架かる稲荷橋の先にあった。この神社で有名なのが富士塚である。

 旅に出なくても富士山を信仰できるように、江戸の町各所に作られたのが富士塚であり、いかに庶民の間で富士信仰が盛んだったかがうかがえる。富士塚があるのと同時に、いわゆる富士講も数多あまたに存在していた。

「富士山に案内してくれるとは、粋な猫じゃないか」

 しかしぽんたは富士塚ではなく、境内の隅の草むらへと向かっているようだ。

「ぽんた、こんなところに……」

 宝があればそれこそ草双紙の物語だ。などと仁助は暢気のんきに考えている。

「仁様、ここに何かがあるみたいです」

 膝の高さほどまで伸びた草を、うたは指差した。もしかしたら本当に宝が……なんて、あるわけがない。仁助はあまり期待しないようにしてうたと草をかき分けた。

「あ……かんざし?」

 うたが地面から拾い上げたのは、赤い実をつけた玉簪である。少し汚れてはいるが、作られて真新しい物のようだ。

「どうしてそれがここに……」

「え、仁様が買った簪なんですか?」

「俺じゃなくて母上が……」

 十日ほど前であったか、町廻りから帰ってきた仁助に、沙世がその簪を持って「似合うかしら?」と聞いたのであった。「似合うんじゃないですか」とろくに見もせずに答えれば、その簪はうたにあげるために買ったものだと言ったのである。だからうたに似合うかと、沙世は聞きたかったのだ。

 だが、次の日に簪は姿を消してしまったのだ。

 盗人の仕業にしては簪一本だけ盗むのは不自然であるし、簪を盗むような人間も神山家にはいない。自分がどこかへ失くしてしまったのだろうと、うたに簪をあげることを楽しみにしていた沙世は落ち込んでいたのだが……

「そうか、お前が隠したんだな」

 仁助は見えない相手に苦笑する。

 いたずらで隠した簪を返すことなく死んでしまったぽんたが、死後に返しに来た。それにしては随分と気楽な道のりであったと、やはりそこは猫だからなのだろうか。

「ごめんなさい。きれいな簪だからつい持ってみたかったって、ぽんたが鳴いています」

「ええい、盗みを働くとは不届き千万……と言いたいところだが、返したのだから目をつむってやろう」

「よかったわね、ぽんた。おとがめなしよ」

 どこからか、なーという猫の泣き声が聞こえた気がした。それは風の音を聞き間違えたのか、恐れ入りましたというぽんたの声か……

 仁助はうたから簪を取ると、袖で汚れを落とした。そして隣で屈んでいるうたの頭に、そっと挿してあげた。

「よく、似合っている」

 微笑んだうたは、すぐに恥ずかし気にうつむいた。

 叶うなら、その赤みがさした小さい顔に、触れたかった。否、叶わない夢ではない。手を伸ばせば触れられる距離。躊躇ためらうのは、嫌われてしまうことが何よりも怖いから。でも今でなければ、もうこんな機会は巡ってこないかもしれない。時間が経てば経つほど、静かな時間は失われてゆく。

(俺は、どうしたいのだ……)

 ただ触れたいという目的ではないことは確かだ。触れたいと思うその根源こそ、迷い情けない理由である。

「うた」

 呼ばれて顔を上げたうたの頬に、手を……しかしすんでのところで、うたが弾かれたように振り返った。

 拒否された、のではなく、うたはぽんたと口にして富士塚の方へと走ってゆく。

 拍子抜けする仁助をよそにうたの姿は遠ざかる。仁助はあわててうたの後を追った。

 そびえる富士塚は天高く、富士を登る人々の姿が見える。うたはふもとで立ち止まっていた。

「ぽんたが富士山を登って……すごい、あんなに軽々と……」

 軽々と岩を超える猫の姿を思い描いた。いただきに立った猫はさらに上を目指す。天を駆け上がる猫は、この世から姿を消していった。

 もしもうたの見えていた世界と同じ世界を想像できたのならば、少しでもうたの気持ちが理解できただろうか。

「さようなら、ぽんた……」

 うたの流した一筋の涙も消えるまで、仁助は黙って側にいた。


 二人が神山家に戻ると、沙世とおとらの姿があった。

 なくしたはずの簪を挿しているうたを見て驚いた沙世であったが、ぽんたに案内されて見つかったことを聞いて、次第に目をうるませていた。

「二人がぽんたに案内された場所は、私が旦那様と時おり訪れた場所なのよ」

 好きなだけ屋台の天婦羅やら寿司を頼む沙世に、

『そんなによく食えるな』

 と言って、彼は驚いていた。

 それは沙世が彼と祝言を挙げる前、はじめて二人きりで出かけた日のことである。

 親同士の決めた縁組であった。でも形だけではなく、律儀な彼は一人の女として沙世を愛そうと決めた。穏やかでのんびり過ぎる沙世は、ありのままの姿を彼に見せた。暢気のんきさにあきれられたこともあるけれど、仲の良い夫婦となったのである。

『すまん。出かけるのもままならない』

 次はいつ出かけようか、とは御用繁多の同心の彼は沙世に約束できなかった。自分の妻になればつまらない一生となることをびたのだが……

『こうして一緒に富士山にも来れたのですもの。充分ですわ』

 八丁堀河岸の次は鉄砲洲稲荷神社の富士塚へ。二人は飽きることなく同じ場所を巡ったものだった。

 ずっと変わらなかった想いは彼が亡くなった今も、沙世の中にあって離れていない。

「旦那様がいなくなってもこんな気持ちになるなんて、うれしい……」

 かつて自分たちが歩んだ場所を、仁助とうたが歩く。繰り返した想い出が近くに感じられて、沙世は昔に戻っていた。

「うたちゃん、ありがとう。ぽんたにもお礼を言わないとね」

 ぽんたの姿が見えたからこそたどれた想い出である。疎まれることが多い能力を褒めてくれる、沙世の真心をうたは感じた。

 緩やかな空気は、威勢のいい声で破られた。

「旦那!家の前にいた怪しい奴をひっ捕らえやしたぜ」

 威勢のいい声で庭に姿を現したのは、御用聞きの伝吉である。伝吉に引っ張られているのは……

「兄様、何をしているんですか」

 また仕事を放って自分のもとに来てしまったのかと、うたは兎之介を見る。

「こそこそしているところを他の奴に見られてみろ。ここは八丁堀なんだ。お縄になっちまうぜ」

「うるせぇ、離せ……俺はうたの帰りが遅いから心配になって……」

 沙世の前では神妙になってみせるも、隠しきれていない兎之介である。

「私が長くうたちゃんのことを引き止めちゃったの。ごめんなさいね」

「いえ、無事ならいいんです……今日は旦那の姿まであるんで、妹がまたたぶらかされてるんじゃねぇかと心配になっちまったもんですから」

「俺がいつうたを誑かした」

「そりゃあもう、会うたんびに……」

 言葉遣いに気をつけているようだが、仁助をにらむ顔は恐い。

「兄様の言うことは気にしなくていいです」

 うたが仁助の味方をしたものだから、兎之介の気が立つばかり。一触即発を前に、伝吉が抱えていた包みを差し出した。

「うちのばっちゃが作った干し芋です。どうぞ召し上がってくだせぇ」

「おばあ様によおくお礼を言っておいてちょうだいね」

「いつも旦那方にはお世話になってるんで。うたとあんたの分もあるから、帰って仲良く食えよ」

 伝吉からありがたく干し芋を受け取って、彼と共にうたと兎之介は帰路に就こうとした。

 うたが昼餉を作ったことを聞かされた兎之介は……

「俺にも作ってくれよ」

 とうたに懇願する。

「兄様は無理して食べてる。いつも最後まで残すから……」

「もったいなくて食えねぇんだ。作ってもらっても腐らせるなよ」

「うるせぇ!」

 仁助が気安く軽口を叩けば、兎之介の敵視が思いっきり伝わってきた。

 最後は騒々しく、仁助の休日は終わろうとしている。うたたちがいなくなった後で、沙世が仁助に言った。

「仁助、うたちゃんはいつうちに来てくれるの?」

 その問いにはまだ答えられずに、本人よりも兄の許しを得ることの方が難関だと、息を吐く仁助であった。

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